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2002年05月05日

■「メディア規制3法案」は、本当に危険か?

 物書きの端くれでありながら、いま巷で問題になっている「メディア規制法案」について、筆者はあまり大きな関心を持ってはいない。
 なぜ、関心が湧かないのか? ふと気になって問うてみると、いろいろなことが見えてきた。今回はそれについて書き綴ってみることにしよう。

 「メディア規制法案」。正確には、「個人情報保護法案」「 人権擁護法案」「青少年有害社会環境対策基本法案」の3法案(いずれも通称)を指しており、これらが採択されてしまうと、当然、メディアの取材にある一定の制限が加わる。
 いわく、国民の「知る権利」は疎外され、戦後の日本が育んできた言論や表現の自由が奪われる。政治家のスキャンダルも暴けない、張り込みとストーカー行為が同一視されてしまう。……などなど、「戦前の日本に逆戻りしてしまうのではないか?」と言ったような危惧の声がジャーナリストや文化人などの間からさかんに発信されている。

 よく知られているところでは、真山勇一(日本テレビ)、筑紫哲也(TBS)、安藤優子(フジテレビ)、鳥越俊太郎(テレビ朝日)、田原総一朗ら、民放各局で活躍するキャスター、司会者の面々が、共同会見の場で「断固反対」を表明。
 作家では、井上ひさし氏、猪瀬直樹氏、そして城山三郎氏ら。
 こうして見ると、錚々たる顔触れだ。現代の日本の言論界の中心にいると有力者のほとんどが、おしなべて反対していると言ってもいい。
 参考までに、そうした反対派のひとり、桜井よし子氏の発言を雑誌に寄稿された原稿の中から紹介してみよう。氏は人権保護法案を例に取り、次のようにつづっている。

「たとえば、薬害エイズ事件の被告人である帝京大元副学長の安部英氏は、私も参加した番組の取材依頼に対して自ら電話に出ながら、エイズの件だと知ると、自分は安部氏の「下にいる者」だと偽りの言葉を述べて逃げた。その後にかけた取材依頼の電話には無回答を通した。……だからこそ私は、早朝から安部氏自宅前に“張り込んだ”。……自宅から出てきた安部氏は、それでも問いには答えなかった。
 こうした一連の取材を通して、私は薬害エイズ事件の不当な実態と当事者らの姿を報じた。だが、今回の法案が成立すれば、私の取材活動のほとんどは、違法行為となり、私は罰せられる。守られるのは疑惑の中にあって“物言わぬ”人々だ。責任者として語るべき義務があっても、この法案に基づけば、語らなくてもすむことになる」(「週刊ダイヤモンド」より)

 たしかにそうだろう。人権保護法案は、法務省の外局として設置された人権委員会が調査をし、不当な人権侵害を救済するとうたわれているが、これによって法案作成に携わった当の政治家や官僚たちが、刑罰を免れる状況も生まれうる。反対派に言わせれば、結局それが彼らの目的なのだろうと言うことになる。

 しかし、その一方で、このような法案が生み出されても仕方ないくらいに、今のメディアは乱れている、有効に機能していないという指摘もできるだろう。
 筆者は反対派の人たちのすべての考えを把握しているわけではないが、その「乱れたメディア」の中枢にいる彼らの中から、「では、どうしたらいいのか?」、反対する以上の「答え」が聞こえてこない状況に、まず疑問を覚えてしまう。

 ハッキリ言えば、反対するくらいなら誰でもできるのである。
 それどころか、一歩間違えば、自分たちの報道のいい加減さ、曖昧さを「言論の自由」の名のもとに覆い隠し、よく言われる「情報の垂れ流し」を正当化してしまうことにもなる。そもそも、真実を追及する人ほど、じつはテレビや新聞を信頼していないという現実を、彼ら自身、少なからず感じているのではないか? 情報の最先端でいるようでいて、じつは自分が「最後端」にいるのではないかという不安も。
 批判する側もされる側も、何やら似た者同士に思えてしまうのである。

 では、前置きはこのくらいにして、筆者の考えを以下につづってみることにしよう。
 筆者は、法案に賛成も反対もしていない。いや、政治家や官僚が本当の意味で個人のプライバシーや人権、青少年の育成のためにこの法案が必要であり、取材者の権利を不当に侵害するものでないと言うのならば、「賛成」してもいい。額面通り、彼らが彼らの職責において行動し、発言しているのだと受け取ることもやぶさかでない。

 要するに、そこに邪な考えがひそんでいたとしても、知ったことではないということだ。
 筆者は、いずれにしても、自分の仕事を続けていく。それは、民主主義の世の中であろうが、ファシズムの世の中であろうが、中世であろうが、近代であろうが、22世紀であろうが……、変えようがないし、実際、変わりもしない。

 もちろん過ちを犯したなら、キチンと認識して、謝罪することも必要だ。
 それが法に触れるのだとしたら、罰せられることも仕方ない。反対派の人たちも言っているように、取材と人権侵害の境界はスレスレなのである。それは善でもあり、悪でもある。「ストーカーまがいの取材」を悪と決めつけるのも問題だが、かといって、彼らのように(無意識のうちに?)に善の側に立っているような発言も、一種のご都合主義と言えないか? ただ単に「被害を被りたくない」だけではないのか?

 法で規制されていようが、なかろうが、自分が必要だと感じたら、するしかない。
 それで不当に罰せられたとしても、自分のしたことに自信があれば、それ自体が問題提起の材料になる。ジャーナリストが政治家の保身を批判し、なれあいに憤りを覚えるのなら、そこでそうではない「体を張った」主張をすればいい。
 
 こうして見ていけば、多くの人が自分たちの作った「法」によって縛られ、絡めとられている現実が浮かび上がってこないだろうか?
 法はあくまでもお約束のルールであって、人の本質に関わってくる決まり事ではありえない。我々は何かをするとき、まずはじめに自分自身の良心に問う。六法全書などは読まないし、憲法やメディア規制法案を知らなくとも、あるいは制度のまったく違う国で暮らしていても、心の中で必ず自問自答しているはずである。

 そこで違和感をおぼえたら、その行為に「待った」がかかるかもしれない。
 それが規制の本質なのである。「そんなものは曖昧だ」「法に照らし合わせなければ、善悪は判別できない」というのなら、自分の感覚はいつまで経っても磨けない。価値観はどこまでも細分化されていき、他者との共感は芽生えない。法という理屈に対して、「反対」という理屈だけで対抗していたら、また次々と法が生まれるだろう。

 いまは過去の時代にないほど、多くの人たちの意識が成熟しはじめている。
 さまざまな苦難を経ることで、「不当な投獄」「過度な弾圧」はしにくい状況が生まれている。逃げ腰にならず、自分の意見を貫く姿勢さえあれば、それを支えようという人たちは必ず現われる。いま若者たちが「シラケている」などと言われているもの、裏を返せば、シラけてしまう現実が存在しているからではないか。

 ただ権利、権利と主張するだけでなく、シラケた彼らが目を覚まし、注目せざるをえないような状況を作り出すことが先決だろう。反対を表明した方々は、失礼ながら、そこまでのビジョンをお持ちだろうか? あるというなら、それを伝え、認知させることこそが、いまメディアに課せられたいちばんの責任ではないだろうか?
 ないというのなら、それを探し、明確にすることからはじめるべきなのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2002年05月05日 20:50

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