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2002年07月03日
■韓国飛躍の要因は、「封建主義」にあり。
ワールドカップが幕を閉じた。特にサッカーファンとも言えない筆者も、ご多分にもれずかなりの頻度で試合の中継を見、いろいろなインスピレーションを得ることができた。
まず思ったのが、日本人はやっぱり外国人が好きなんだな、ということ。
排他的などと言われることもあるが、それは島国という地理的な環境から勝手に連想されているだけのイメージにすぎない。逆に島国であるからこそ、外の世界に憧れを持つ。賢者が海の向こうからやってくるという発想は、ほとんど神話の時代からある。そうした異人に対する素直さは、日本人の美徳のひとつと考えてもいい。
その意味では日本人というのは、意外なほど結束力の「弱い」民族でもある。
集団になった時のパワーはすごい、それが負に働けば戦争まで引き起こしてしまうなどと語る人もいるが、ひとたびおのれの非を悟れば、まるで嘘のように行いを改めることができる。相手に悪いと言われた時、「そうか自分が悪かったのか」とまず思ってしまう感性は、じつは国際的に見たら非常に特異なケースなのである。
さてこの脳天気なほどの素直さは、イングランド人よりも熱心にベッカムを応援したり、カメルーンが去ったあと思わず涙をこぼした中津江村のおばあちゃんがいたり、サッカーに普段ろくに関心がないのにブラジル×ドイツの決勝が60%を超す驚異的な視聴率を記録したり、そうしたほほえましい現実を生み出す一方で、日本代表のあと一歩先へ進めなかった「物足りなさ」の結果にも明らかに繋がっているだろう。
日本人にハングリー精神がない、というのは本当の話である。
物事を素直に受け止められる感性があれば、少々イヤなことがあってもそれをモチベーションにして戦ってやろうという気概は生まれにくい。個人としてそうした境遇の人はいても、その比率は圧倒的に少ない。基本的にのんきで楽天的な人が多いのである。そこには戦いに勝つことよりも、それを表現し、時に勝敗を超えた何かに昇華させてしまうことを「道」と呼び、尊んできた歴史が厳然として存在している。
というわけで、そんな国民性にも関わらず、シビアな勝ち負けを競う世界でよくもまあ、世界のベスト16にまで勝ち進めたものだというのが筆者の正直な感想。しかも、その特性を失わぬまま、この先もっと強くなってさえいけるとも思っている。そういう妙なカルチャーショックを世界に与える可能性を秘めているのである。
このあたりはいつも話していることなので、ここでは簡単に説明しよう。
読者は何か新しく習い事をはじめるとき、どんなことを心掛けるだろうか? ここまでの話をふまえるまでもなく、当然「素直さ」という言葉が浮かんでくるはず。
しかし、伸び悩む多くの人にとってはこれがいちばん難しい。自分はこういう人間なのだというプライド、我を持ってしまっているからだ。それが仮に実体のない、些末なものであったとしても(ある意味些末だからこそ?)、ひとたび否定されてしまうと、自分そのものが否定されてしまうような恐怖感に陥ってしまう。
そんなことは日本人だって同じだろう、と反論する人もいるだろう。
しかし、個々に異様に頑固な人はいるとしても、国民性、民族性という点から見た場合、先にも触れたように異常にこだわりが少ない。たとえば宗教を例に取ればわかるだろうが、ヨーロッパ人の多くはキリスト教、アラブ人の多くはイスラム教の世界観が骨の髄まで染み込んでいて、なかなかその枠から自由になれない。
イスラエルとパレスチナの紛争はその先端の現象に他ならないが、日本人ならとっくの昔に融和しているであろうことが、彼らにとっては最悪の難問なのである。
というわけで、この素直さの感覚を内に宿している限り、日本人はたえず成長を続けていくことができる。ではなぜ今の社会がこんなに混乱してるのか、景気だって全然先行きが見えないじゃないか、とこれまた別の反論が聞こえてきそうだ。
しかし筆者に言わせれば、新しいものを学んでいる時期は、過去の能力は往々にして失われてしまうものなのである。新しいものとは、むろん欧米人の感覚であり、もともと日本人が不得手だった論理性や緻密な計画性といった能力に他ならない。
その未知の力を本当に習得しようと思ったら、すべてを捨てるくらいの覚悟が必要。
でも、普通はなかなかそんな覚悟はできない。我を失う恐怖心を内在させたまま、自分の都合のいいところだけ拝借して、それで学んだと思ってしまう。しかし長い目で見れば、そうした人(国)はやがて衰亡する。どうしようもなく行き詰まる。
今の日本が、果たしてそうした衰亡や行き詰まりの渦中にいるのかどうか。
そうだと言うなら、なぜサッカーの代表やメジャーリーグで活躍するような選手が多々輩出されるのか? 彼らだけが突然変異で、特別な現象なのだと捉えるほうが理に合わない。彼らは活躍しやすい場所で、先取り的に頭角を表わしているわけである。
長々書いてしまったが、そうした意味ではベスト4に入った韓国という国には、この先日本以上に大きな課題が残されている、と言えるかもしれない。
別にこれは、彼らの今回の成果を低く評価しているというわけではない。
ただ、彼らは古き良きアジアの面影を日本以上に色濃く残した中で、この国際社会を生きている。それはすなわち、封建主義や儒教の面影。西洋でいう宗教にあたる倫理的な枠組みが、彼らの行為を規定し、それが強さだけでなく弱さにも繋がっている。
彼らから見れば、同じ儒教の影響を受けながら、日本などは相当にいい加減な、節操のない国に映るだろう。いい加減=野蛮というイメージも持たれてきた。
しかしこのいい加減さがなかったために、韓国(朝鮮)は近代化の波に乗り遅れた。しかもこのように言えば、いや、それは日本が侵略したからだとかすぐさま反論が返ってくるだろう。そうだとするなら、残念ながら素直さに欠けている。言われた瞬間に原因を他者(外部)に求める感性は、結果として成長を妨げてしまう。
すべてが自由だと言われたとき、人は少なからず混乱し、堕落するものなのである。
しかしその経験を経ねば、本当の自主性、主体性は芽生えない。言論・表現の自由と人は簡単に言うが、その権利は一度弱さを直視しない限り、なかなか体感は難しい。韓国はまだ言論も表現もある部分が国にコントロールされている。善も悪も入り混じった情報の渦の中でもまれるには、もう少し時間がかかるだろう。
ともあれ、サッカーが今の世界の縮図というなら、世界は当面(半永久的に?)紛争や戦争が続くだろうということだ。それもシビアな現実のひとつ。
日本はその国際情勢の中でまだまだ真の影響力を手にしていないが、その次元を目指すというのなら、勝ち負けの先にある世界にもっと視野を向けることだ。
ワールドカップを終えた直後の中田は、決してネガティブな意味ではなく、「これからはサッカーを楽しみたい」と語った。戦い(武)は昇華されると、芸に変わる。芸とは遊戯であり、遊戯とは言うまでもなくゲームのことである。頂点を目指すことを口にしなかった彼の感性が、今後の日本の方向性を何気なく暗示している。
楽しむという境地に入れたとき、人はもっと強くなれる。そうなれば勝ち負けに必要以上にこだわる感覚も、ひとつの曲がり角を迎えることになるだろう。そのとき日本とブラジルの決勝が、ワールドカップで見られるかもしれない。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年07月03日 20:47