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2002年08月17日

■「代理母出産」と「持ってないという幸せ」

 「代理母出産」のため渡米したタレントの向井亜紀さんの発言が話題になっている。
 彼女は一昨年(2000年)の11月、妊娠の確認で訪れた病院で子宮ガンが発覚。結果として、そのとき身ごもっていた胎児の生命と引き替えに病巣をすべて摘出、自ら死を免れるという、非常に過酷な体験を味わっている。
 もちろん、子宮を全摘出してしまった以上、もう子供は産めない。
 出産願望の強かった向井さんは、すでにその時の記者会見の場で、「代理母出産」の可能性について言及している。簡単には諦め切れないということだろう。その後社会復帰し、司会業などで活躍していたが、この8月、ついにアクションを起こした。アメリカに渡り、ついにこの可能性にチャレンジしたのである。

 「代理母出産」とは、簡単に言えば、子供の産めない夫婦の体外受精卵を、第三者の身体(子宮)に移し、出産させるというもの。
 日本では、まだ議論の渦中にあり公に認められていない。代理母が産まれてきた子供に情愛を感じてしまえば、依頼夫婦との間にトラブルが起こることもありうる。産まれた子供の気持ちも複雑になりかねないし、自分の身体をビジネスの道具にする「代理母」が現われ、不妊に悩む夫婦を利用するケースも出てくるかもしれない。
 いずれにしても、不自然な行為であることに変わりはない。その意味ではモラルに反していることにもなるわけだが、もちろん、こうした話のいちいちを向井さんが知らないわけではないだろう。知った上で、それでも子供がほしい、「夫(プロレスラー高田延彦氏)の優秀な遺伝子を残したい」という思いが捨てられない……、そんな彼女が悩んだ末に出した結論が、今回のアメリカ行きだったわけである。
 すでに報道されているように、結果的にこのチャレンジは失敗に終わってしまった。
 本人のホームページなどにも逐一報告されているが、渡米後、病気でほとんど数少なくなっていた卵子を採取することには成功したものの、肝心の体外受精は失敗。代理母に受精卵を移植する以前に、チャンスは断たれてしまったようだ。代理母の励ましにより、今後も可能性を模索していくとのことだが、もちろん成功するという確証はない。そして、仮に待望の第一子を授かることができたとしても、そこから先、子育てなどを通して、さまざまな問題に直面することが考えられるだろう。
 テレビなどを見ていると、事実関係についてはきちんと伝えているものの、評価についてははっきりした見解が出せないでいるようだ。
 子供を産みたがらない夫婦が増えているなか、不妊症などに悩む夫婦の問題もよく取り沙汰されているが、女性の「産みたい」という願望は、ある種本能的なものだから、「産みたくない」と思うよりはずっと自然だという側面がある。いくら価値観の違いを説いたところで、「産みたい」と思う夫婦の間には(とくに産む側の女性には)、それでは到底承服できない感情がひそんでいるわけである。
 前置きが長くなってしまったが、筆者はそんな悩みを持つ人たちに対し、ただ単純に励ましたり、応援することを、少々疑問に感じている。
 といって、あたりさわりのないコメントで済ますことも傍観者の発想にすぎない。今は直接関係がなくても、身近にそうした人が現われた場合、そんな態度では済まされなくなる。やはり「答え」が必要なのである。それは、自分ならこうします、という意味での「答え」なのだが、あなたならどう答えるだろうか? やっぱり自分も不妊治療を受けます、代理母出産のため渡米します、と言うだろうか?
 筆者はたえず、「持っていないという幸せ」について考えている。
 人はできることよりも、できないことのほうが圧倒的に多い。もちろん、得られるものより、得られないことのほうが多いのも同様。だから、多くの人はおのれの限界を感じたり、不幸せに思ったり、この世界を恨んだりする。
 でも、何かを得られなければ幸せになれないのか、と感じたことはないだろうか? 逆に何かが得られたから、幸せになれたのだろうか?
 だとしたら、幸せはものすごく相対的なものだ。そして、持っているものを失ってしまえば、それは去ってしまう。もちろん、大事なものを失えば人は傷つく。喪失感もあるだろう。そう感じる気持ちを無くしてしまえと言っているわけではない。
 たとえば、競争をすればトップもいればビリもいる。どっちつかずもいる。
 しかし、すべての人がトップになりたいと思っているわけではないし、なれたとしても幸せであるかはわからない。幸せな人は、じつははじめから幸せなのである。あるいは、どこかでそのコツに気がついて、それで生きられるようになった人である。彼らは、誤解を恐れずに言えば諦めがいい。手を抜いたり、一生懸命を嫌っているわけではなく、できないという現実も、自分という存在の個性であると受け止められる。
 たとえば、生まれながらにして、同性しか愛せないホモセクシュアルの人もいる。
 生物的に見ればものすごく不自然な存在だが、無理に女性を愛そうとしたら、もっと不自然になる。だから最後は、その現実を受け入れようとする。結局、それが自分にとっての自然なのだという発見をする。自然とは不自然も含めて自然なのである。それだけの奥深さがあるからこそ、この世界の多様性が成り立っている。
 つまり、子供が産めないのも不自然だが、それでも産もうとするのは、筆者からすればホモセクシャルが女性を愛そうとする不自然さに近い。
 ある幸せのイメージがあって、それに自分が当てはまらなければ幸せになれない、自由になれない……、そんな「囚われ」がどこかにあるのかもしれない。自分の人生は誰とも比べられないたったひとつのものであり、何かを足して完成されるものではない。足せばプラスになるにしても、それはマイナスがプラスに転じるものではない。その発想でいるかぎり、何かが得られてもつねに不足感がつきまとっていく。
 向井さんも夫も高田氏も、つねに前向きに、目標を持って生きようとする人だろう。
 それは決して悪いことではないが、目標を持つことが心の空白を埋めるものでしかないのだったら、目標を持つことすら一度やめてみることだ。何かを得ようとしなくても、人はすでにその時点で「自分らしさ」を持っている。意識のベクトルを180度回転させると、「子供の産めない自分」も、その人の大事な個性になる。
 「諦める」ということは、仏教の言葉では「理解する」という意味にあたるそうだ。
 つまり「諦める」とは「明める」、明かにする、ということ。ただ単に手に入れられなかったことを我慢したり、挫折感をおぼえるという類のものではない。他でもない自分がそういう人間なのだと理解し、それをそのまま受け入れること。受け入れることによって、本当の意味での「明るさ」が得られるのである。
 さまざまなアドバイスよりも、これがラクになり、新たなやる気の出てくる、おそらく唯一の処方箋であると、筆者は思っている。
 あえて人生を意義深くしなくとも、はじめから人生は人生なのである。思い詰めた状態から抜け出すと、「当り前」が見えてくるのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2002年08月17日 20:45

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