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2002年08月06日

■「住基ネット」は何が危険なのか?

 8月5日、全国民に11ケタの住民コードをつけ、氏名、住所、生年月日、性別など個人情報をコンピューターで一元管理するという、「住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)」がスタートした。
 もとは個人情報を守るための「個人情報保護法案」とセットになって施行されるものであったようだが、この法案の可決がままならないまま、見切り発車されたようだ。マスコミの論調を見渡しても、個人プライバシーの流出を危惧する声、管理する行政への不信感が噴出している。反対を表明する地方自治体もかなり紹介されている。

 一番の問題は、管理する側の行政が国民にまったく信頼されていないということだろう。逆に言えば、この一点に尽きるのではないか、と筆者は思う。
 なぜなら、IT化がここまで進んできている以上、これまで以上に明確な形で情報管理することは必要だからだ。住民コードは国民につける背番号だと反発する声もあるが、それを言ってしまったら、電話番号も口座番号も、あるいは健康保険にもパスポートにも、すべて番号がついている。番号がなくては生活自体が成り立たない。野球選手もサッカー選手も背番号をつけているのだから、それ自体は悪でも何でもない。
 番号を強調して、それを支配者の陰謀のように語るのは、政府のすることをすべて悪だと捉えたがる人たちの、一種の過剰反応だと、筆者は思う。
 こうした問題を考える大前提として、政府なり行政なり、秩序を管理する機関は、誰がどう政権を取ったとしても必要なものだ。それをただ単に個人の自由を侵害するな、権利を守れと言ったところで、現実味は感じられない。
 もちろん、先にも触れたように現政府が国民にまったく信頼されていない以上、こうした声が湧き起こることは、当然のことでもある。筆者もべつに政府を擁護しているわけではない。ただ、自分がそちらの側の立場になったとき(実際にはありえないと思うが)、当然、仕事を能率よく、円滑に進めていくことを考える。
 その延長上には、今回のような住基ネットの発想も出てくるかもしれない。
 それに反対するというのなら、ただ反対するだけでなく、自分が彼らの立場であったとき、ではどんな方策を取るのか、キチンと考えてみることだ。かつての社会党がなぜ零落したかというと、反対はしてもそうした心構えがまったくできていなかったからではないのか? 社会党は市民政党をうたってきたと記憶するが、筆者に言わせれば、市民もまったく無責任だとしばしば思う。結局、似たり寄ったりではないのか?
 筆者は、個人情報が漏れることに対し、じつは必要以上にナーバスになっていない。
 出かける時にはカギをかけるべきだし、諸々最低限の注意は払っているつもりだが、そんなことよりも、みながプライバシー、プライバシーとまるで口にしながら、結局心を閉ざしているだけの現実のほうが、よっぱど「危険」であると思う。
 個人情報なんて、多少はバレてもいいのではないか。権利がどうこうと言っているが、要するに他人を怖がっているだけではないのか?
 その怖がる意識が無用な憶測や誤解を生み出し、さらに他者との壁をつくりあげる。その壁をどうすることもできない人間が、同じ人間の作った法案に反対したところで、なんら説得力はないし、現実が変わるとも思えない。
 住基ネットにしても、もう少し議論すべきだとか、個人の希望で選択できるようにすべきだ、あるいは、情報の一元化が危険だといった声もあるが、どんな手法を取ったところで結局情報は漏れる。よりよいシステムを整備することを目指す一方で、その点についてもみなが認識し、それをふまえた生き方を模索していくべきだろう。
 本当は壁がないところに、壁を作ったのは誰なのか? 線を引いたのは誰なのか?
 そんな作ったものを守るくらいなら、それをほどき、利用するならしてみろと言えるくらいの気持ちを持てるようになったとき、理性的な情報管理の術も見えてくるのである。反対のための反対から、まずは抜け出すべきだろう。

投稿者 長沼敬憲 : 2002年08月06日 20:46

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