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2002年09月29日

■柳美里氏「石に泳ぐ魚」出版差し止めは、是か非か?

 作家・柳美里氏のデビュー作「石に泳ぐ魚」が、主人公のモデルとなった在日韓国人女性の訴えにより、9月24日、出版差し止めが決定した。
 報道などによると、この小説は94年に「新潮」誌に発表されたもので、主人公の顔面に腫瘍がある点や出身大学、家族関係などが、原告のそれと著しく類似しており、「無断で小説化されて、プライバシーや名誉が侵害され、精神的苦痛を受けた」として、単行本の出版差し止めのほか、130万円の賠償支払が命じられたのである。

 これに対し柳氏は同日、都内で会見を開き、「痛恨の極み。作家個人の問題を超え、日本における文芸作品の可能性はもとより、表現の自由を著しく制限するものと言わざるを得ず、慚愧(ざんき)に堪えない」と発言。「小説を書くために人を傷つけてはいいとは思ってない」と前置きしつつも、問題となった小説が「プライバシーを侵害するものではないと思っている」とも、語っている。
 筆者は問題となった作品を読んではいないわけだが……、柳氏は自らの内面的な創作欲に従って書き上げただけで、なにも原告のプライバシーを暴くことを目的にしていた(個人的恨みなどがあった)わけではなかったようだ。
 もちろんそうだとしても、原告は傷ついた。裁判を起こしたほどだから、それは相当なものだっただろう。作品に希望や励ましが込められていたとしても、おそらく自分の心に他者がズカズカと入り込んできた不快感はあったはずだ。
 とここで、果たして小説に実在のモデルを用いることは人権侵害に当たるのか否か……といった問題が浮かび上がってくるわけだが、読者はどう感じるだろうか?
 いろいろな識者が見解を述べているが、どうもピンと来るものが少ない。
 筆者に言わせれば、表現の自由とはべつに法によって定められたものでも、守られるものでもない。本人が表現したいと欲するからするのであって、そこに権利云々の話を持ち込んでしまえば、「では権利が保証されていたから書いたのか(されてなかったら書かなかった、書けなかったのか)」という話になってしまう。
 権利があろうとなかろうと、書かずにはいられないから書いた。その強い意思に編集者の心も動かされ、雑誌への掲載が実現した。
 本来ただそれだけのことであったはずではないのか? 
 である以上、結果としてモデルとなった女性が深く傷ついたとしても、信頼関係を築こうとする前に、自分の創作欲を優先したのだから仕方ない。きびしい言い方をすれば他人の心に鈍感だった、配慮が足りなかった結果であり、これは作家だから発生する問題ではない。「表現の自由」などという大げさな言葉を持ち出さなくとも、自分の行為を「悪」であると認めればもっと早く「解決」に向かったはずなのである。
 自分の行為を「悪」であると認める。
 こう言うと、筆者が柳氏を一方的に批判しているかのように受け止めた人もいるかもしれないが、しかし人は「善」ばかりで生きているわけではない。
 時には何かに衝き動かされるようにして「悪」を働く。ケンカをして人を傷つけることもある。ヘタをすれば殺してしまう場合もある。しかしそうした「悪」をプラスの方向へと向ければ、優秀な格闘家になれるかもしれない。
 小説家も腕力を用いないだけで、格闘家と似たような存在である。
 ただ、格闘技はルールの上で殴り合っているから試合が終わればノーサードだが、小説はどちらかというとストリートファイトに近い。一般市民だからと言ってすべて無抵抗とはかぎらない。人には心がある。それを忘れたらしっぺ返しが必ず来る。そこで私は作家であると主張しても、怒り出す人は当然出てくるのである。
 そもそも、小説であろうと格闘技であろうと、そのような行為に手を染めなくとも、楽しく自由に生きている人はいくらでもいる。
 そうした人に比べれば表現者とは、根本的に「業が深い」のである。
 その業と向き合うために作品を作る。あらゆることよりそれを優先させたいという衝動に駆られている。自分がそういう人間だと自覚できていれば、いちいち権利がどうだという話はしない。時代が時代なら(あるいは国によっては)投獄されるような憂き目に遭うかもしれないが、だからと言って筆が鈍っては自分は自分でなくなってしまう。そういう危機感にすら苛まれるのが、この種の人たちの宿命なのである。
 その意味で言うなら、柳氏の発言は少々観念的だと言えるのではないか?
 モデルの女性に「謝る」必要があるかどうかはともかく、筆者ならば少なくとも「彼女の言っていることはもっともなこと。その点では配慮が足りなかった。しかし私は書かずにはいられないから書いた。はじめから批判は覚悟していた」といったことを語っただろう。「悪」であったとしても、すべてが有害とは限らない。一人の人間を傷つけたとしても、百万の人間を救うことも十分ありえる。
 百万の人間を選んだ以上、一人を傷つけた事実を最低限認めることだ。
 善悪で物事を捉えてしまえば、作品そのものも小さくなる。柳氏の行為が法律で正当だと認められたところで、作品の価値が上がるわけではないのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2002年09月29日 20:41

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