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2002年09月07日
■見落とされている「右脳開発」の落とし穴
「右脳開発」を勧める本を、最近ではあちこちで見かけるようになってきた。
要するに、学校教育などに象徴される理論重視の発想が見直され、もっと感性豊かな、想像力あふれる人間が求められているということだろう。
よく知られているように、同じ脳でも右半分(右脳)は感覚的に、左半分(左脳)は論理的に、物事を認識・把握していると言われている。タイプ論で言えば、長嶋茂雄は右脳人間、王貞治は左脳人間の象徴のように思われている。
しかし、左脳人間である(?)王氏が、単に理論ばかり重視する「頭でっかち」の人物だとしたら、そもそもプロ野球選手としてあれだけの記録は残せなかったはずである。いわゆる左脳タイプであったとしても、社会で活躍する人はいくらでもいる。逆に右脳人間がみな、長嶋氏のように成功できるとも限らないだろう。
要するに筆者は、「右脳開発」などと称されるものを、あまり信用していない。従来の発想の範疇にある、きわめて一面的な能力開発にすぎないと思っている。
まず、考えてみてほしい。左脳偏重がよくないから、右脳開発。それはただ単に、左に偏っていたものが、右に傾いただけの話ではないか? もちろん偏っていること自体アンバランスであるから、ゆり戻しは必要である。しかし、右を重視するあまり右脳偏重になってしまったら、それもまたアンバランスなのである。
バランスとは、じつは頭(脳)でコントロールできるものではない。
綱渡りをする芸人が「頭でっかち」だったら、恐怖に支配されるばかりで、決して名人になれはしない。彼らは身体でバランスを取っている。そしてその身体の中心は脳のような上部にはなく、構造上、もっと下にあるはずである。
筆者が武道で言うところのハラ(肚)を重視しているのは、それが肉体上の重心に位置し、行為の起点になっているからだ。人はハラという中心を得ることではじめて、右にも左にも偏らないバランス感覚の妙味を理解する。逆に言えば、ハラがわからないかぎり、自分が偏っていることすら、なかなか実感はできないのである。
筆者は、こうした視点に立って、この5月「サムライ〜世界の常識を覆す日本人アスリートの身体感覚」(幻冬舎)という本を発表した。そしてこの9月には、続編にあたる「脳を超えてハラで生きる」(地湧社)の出版が決まっている。
これらの著作を世に出すことでハラという概念がより多くの人に認知され、当り前の「用語」として定着していけば……と思っているわけだが、社会全体が脳ばかりを重視している以上、まだまだいくつもの障壁は存在する。
たとえば、右脳タイプと呼ばれる人は、たしかにすぐれた感性は持っているかもしれないし、性格的にも俗に言う「ボケキャラ」として周囲の人に愛されているかもしれない。彼らは窮屈で、肩肘はった生き方を嫌い、自由を愛している。
しかし悪く言えば、無責任で、ここ一番の決断力に欠けてもいるだろう。何が何でもこれをやり遂げるんだという意思も、どこか希薄な面がある。
もちろん、左脳タイプの人間がいいかというと、彼らは責任感はあるかもしれないが、それは理屈のなかで作られた、社会に押し付けられたものである場合が多い。会社人間と呼ばれる人のなかには、筆者が知るかぎりでも、本当の意味での決断力に欠けた、「決まり」や「前例」から抜け出せない人がたくさんいる。
もうおわかりだろう。右であろうが左であろうが、脳だけを開発しようとしているかぎり、一番肝心な意思決定の能力は養えないのである。
つまり、ハラが座らない。だからどれだけ才能があろうと、愛すべきキャラクターであろうと、本当に人に信頼される存在にはなれはしない。それどころか、ここ一番の時弱さが露呈してしまい、現実逃避や事なかれ主義に陥るか、才能を発揮する以前に行動ができないか……、いずれにしても「使えない」のである。
ハラという場には、肉体でいうと前方に生殖器が、後方には仙骨と尾骨がある。
詳しくは前述の著書を参照してほしいが、生殖器は人の生命力(バイタリティー)の源泉であり、「元気」や「やる気」を生み出すもとになっている。そして仙骨という骨は、文字通り身体の中心にあり、尾骨という動物でいうところのしっぽがキャッチした情報を、全身に送る発信元のような役割を担っている。
どちらにしても、我々が生物の時代から受け継いできた、最もコアな能力である。
脳が発達する過程で忘れられていった、数十億年にも及ぶ生物としての「生きよう」「進もう」「やろう」という、どうしようもなく強烈な意思。右脳をいくら開発しても、この意思までにはさかのぼれない。ということは、残念ながら中途半端なのである。身体を置いてきぼりにしているという点で、左脳偏重と変わらない。
ハラを磨いていけば、右脳のようにふわふわと「感じる」だけでなく、自分の直観がもっとダイレクトに、瞬時にキャッチできるようになる。
その直観は、左脳より右脳のほうが感知しやすいものであるため、なかにはハラ感覚を右脳感覚と混同している人もいるかもしれないが、その大きな違いは、これまで述べたとおり、意思の有無に関わっている。凡百のクリエイターから抜け出すためには、この意思を磨くすべを身につけるべきであり、それこそが何にも代え難い、人がまず身につけるべき「価値」なのである。才能などなくともこれさえあれば、自分らしく生きていける。普通に生きていくなかで、クリエイトする感覚がわかってくる。
本当に確実なものを手にしたいのなら、右や左にブレないことだ。つねにどちらかに揺れ動く自分自身の脳の働きに、まず気づくべきだろう。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年09月07日 20:43