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2002年10月21日
■「現場主義」はなぜメディアを硬直化させるのか?
筆者が定期的にチェックしているサイトの中に、「田中宇(さかい)の国際ニュース解説〜世界はどう動いているのか」という、非常に面白いページがある。
主宰者の田中宇氏は、元共同通信の記者。しかし、「硬直化したマスコミ」の取材法に疑問を感じ、やがてマイクロソフト社の「MSNジャーナル」編集記者を経たのち、ネット情報を有効活用した「国際ニュース解説者」として独立する。
先日、氏のホームページを覗いていたところ、そのあたりの経緯を記したインタビュー記事が紹介されていた。今回の話の主題に入る前に、まずその中からいくつか、筆者が興味深いと感じた箇所を拾い出してみよう。
マスコミも今でこそ叩かれるようになったじゃないですか、マスコミと言えばしょうもないことを書くとみんな思っている、みたいな。実際にマスコミの中にいても同じことを感じているんですね。僕がいたころからすでにマスコミは硬直化していて、面白ければ面白い原稿ほど通らないような感じでした。
こういう風に書いてもいいんだという点では、欧米のマスメディアの書き方は参考になりました。反対に日本のマスメディアの場合、現場に行っているくせに「私は現場に行ってこう思った」というのは書いてはいけないんですね。……客観報道じゃなきゃいけない。記事に主観を入れてはいけない、というんです。日本のマスコミ全部が“客観”の意味を取り違えていると思うんですけどね。
……ジャーナリストというのは現場で自分の目で見たことを報道する。現場にいって報道するのことこそがジャーナリズムだ、と言うことが日本のマスコミの普遍的な価値観なんです。そういうことを言ってるのは日本だけで、間違っているんことなんですが。だから何も事前に調べもしないで現場に行って、現場の人にインタビューして原稿を書くから本質が見えない記事になるんです。
(HOTWIRED JAPANより)
……筆者は過去に雑誌編集の仕事などもしてきたが、報道記者のようにたえず「現場」に足を運んでいたわけではない。だから最後のコメントなどは、半分「ホントかな?」と思ってしまったわけだが、氏は一本の記事を書くための下調べに「30時間はかけている」というから、それを基準にしたら「何も調べもしないで」ということになるのだろう(その情報ソースを、氏は世界中のサイトから得ているわけである)。
この「下調べ」の実態については上記のインタビューに直接当たってほしいが、筆者自身、メディアの偏った「現場主義」にはかねがね疑問を抱いてきた。それが非常に硬直化し、多くの情報を見逃している現実も目のあたりにしている。
たとえば私事で恐縮だが、筆者は2冊目の著書「脳を超えてハラで生きる」の出版にあたって、販元の了解を得た上で自らが自作のプロモートを担当し、1か月弱ほどかけて国内の主だったマスメディアにアポイントを取っている。
アポイントの意図は明快だ。とにかくメディアに携わる多くの人に、自分の本を読んでもらいたい。そのためには、ただ本を送るだけではダメ。ほぼ9割方、読まれる前に捨てられてしまう。自分の本をゴミにしないためには担当者に直接会って、5分でも10分でもいいから作品の内容や出版した意図について話をすることだ。
筆者は自分の作品にも活動にも、すべて自信を持っている。自分の提供する情報には、すべて価値があると思っている。だから、この仕事を続けている。
仮に筆者がどんな人間であるとしても、真贋の判断は無機的に送られてくる情報だけはほとんど感じ取れない。記者はそういう情報が信頼できないから「現場」に走るのではないか? その記者が「一人一人に会っていたら、仕事ができなくなるからお会いできない」と平気で言う。自分の日常のすべてが「現場」であるにもかかわらず、ある特定の事件や事故、イベントなどがある場所を「現場」だと思っているわけである。
筆者はいたずらに、自分の不満ばかりを書き綴っているわけではない。
ただ今回の筆者のようなプロモーション自体、ふつう作家はしていないようだ。筆者自身、編集者の仕事をしていたころ、販売や広告の仕事にはほとんど関われなかった。土日もないくらいに働いていたが、なかなか自分のしていることの実体がつかめなかった。
すべてがすべて細分化されているから、みな「全体」がつかめない。
そんな人がいくら現場に出ようが、限定された視野からしか物は見えない。だから硬直化する。筆者がフリーランスとなり、独自の仕方で「取材」するようになったのは、筆者自身がそうした現実を体験し、そこに居続けることに危惧を感じたからだ。
先の田中氏の場合、ネットというバーチャルな情報源を極限まで駆使し、机に座った段階で「全体」が見えるところまで準備をしている。そしてその上で取材にも行く。
一方筆者の場合、氏に比べたらまだまだ「駆け出し」にすぎないかもしれないが、自分の感覚そのものを磨く手段を考案し、それを高めることで、いつ何時、どこにいても必要な情報がキャッチできるような「状態」を作っている。
だから筆者は従来のような形でほとんど取材をすることなく、2冊の本を書いてしまった。それを「真実味がない」(場合によっては「うさん臭い」)と感じた人もいるようだが、以上のようなスタンスで半ば意図的にやったことであるから、その点を理解してほしい。取材したことに必要以上に価値を感じる従来の感覚自体を、まず疑うべきなのである。
「毎日何百冊も山のように本が届く。とてもじゃないがすべては読めない」と言っていた記者の方も、それを理由に外部からのコンタクトを遮断するのはやめたほうがいいだろう。この仕事は煩些で無駄なことが多く、9割くらいはどうでもいい行為を強いられるものなのである。自分に日々の仕事を守ろうとするあまり、残りの1割との出会いも捨ててしまったら、それこそ無駄な情報しか提供はできない。
筆者だったら献本してきた著者や版元に「次から送らないでください。送っても読みません。宣伝をしたい場合は直接当社にお越しください」と(もっと丁重な言い回しで)手紙を書く。いまの仕事の仕方を少し変えるだけでも、よりリアルな「現場」を作り出すことができる。繰り返すが、日常のすべてが「現場」なのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年10月21日 20:33