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2002年11月05日
■「直観」の本質は、「第二印象」にあり。
筆者は、これまで様々な作品の中で触れてきたように、直観(インスピレーション)を脳から発するものとして捉えてはいない。
動物でいう「しっぽ」でまずキャッチし、その上で神経を伝って脳に送られ、認識されるものとして理解している。しっぽは退化してしまったと考えられているが、脳にばかり意識が偏ってしまっているから、しっぽからの情報がキャッチできない。生き抜くために本来最も重要な直観が曖昧模糊と化してしまっているのである。
筆者から見れば、みな頭を使って損得の計算ばかりしている。
もちろん不要とまでは言わないが、計算の合うことばかり(自分の頭で理解できることばかり)経験したところで、自分の気持ちは見えなくなり、発想も硬直化する。そして、やがてはどこかで行き詰まってしまう。本当の「得」を得たいと思うのなら、当り前の話だが、損と思われることでもやらねばならないことがある。その判断の基準となるのが、直観=しっぽの感覚に他ならないわけである。
最近、こうした点に関連し、多くの人が日々陥っているあるパターンに、これまで以上にハッキリと気づけるようになった。
しっぽの重要性については、現在出版化に向けて準備を進めている「君には“しっぽ”は生えている!」(*未発表)の中ですでに詳しく綴っているが、今回は応用編として、その罠とも言えるパターンについて話を進めていきたいと思う。
しっぽが使えない人というのは、じつはその分様々な「思い込み」に支配されている。
たとえば、「直観とはパッとひらめき、本質を理解することだ」と漠然と信じている人は多いだろう。しかしこれは、半分正解で半分は誤解である。
なぜなら人は、しっぽだけでなく、当然、脳も使っている。他の動物に比べれば情報処理の仕方が非常に「高度」であり、しっぽと脳は相互に関係し合うことで、人に様々な判断、選択をもたらしている。そうした構造である以上、誤解もまた必然なのである。
誤解も必然という視点に立てば、「パッとひらめくものが直観だ」という捉え方もまた、脳が生み出したひとつの固定観念にすぎないことが見えてくる。そしてその固定観念が、逆に自分の直観を感知できない原因になっているのである。
何のことなのかピンと来ない人も多いと思われるので、いくつか例を挙げていこう。
たとえば読者は、面識のない人と電話で話したとき、漠然と誰かの顔を思い浮かべていないだろうか? 声音や口調、肩書きなどから、自分の経験の中で似通った顔の人を想像する。もちろんそれは思い込みに過ぎない。実際に会ってみれば、その想像とは当然のことながら違っている。一致するケースなどほとんどありえない。
これは電話に限らず、実際、面前で会っている人に対しても同じ感覚が働く。
自分の作り上げた過去のイメージで、とりあえずのレッテルを貼っている。かなり気をつけていても、そのレッテルは幾重にも貼られている。つまり第一印象を直観だと思い込んでしまったら、このレッテル貼りがむしろ強化されてしまう。
中にはこうしたレッテル貼りから脱して、物事を「ありのまま」に認識することも可能だと説く人もいるかもしれない。しかし、「レッテルの全部剥がされた状態」というものを前提にしてしまえば、それもまた観念にすぎなくなる。堂々巡りになってしまう。
ありのままというのは、レッテルを貼って人を見ている状態も含め、すべてが自分のしていることだと、文字通りありのままに感じる感覚に他ならない。簡単に言えば、自分のレッテル貼り=誤解に気づく必要はあるにせよ、そうした行為自体は日々ありうることとして、当り前のように受け入れる、ということだ。
ところが、第一印象を直観の本質であると「誤解」している人は、第一印象に裏切られても、もっと直観を磨いて、今度は裏切られないようにしようと発想してしまう。そしてまた裏切られる。そのうち、「第一印象など当てにならない」と言いはじめて(それは当たっているわけだが)、直観そのものも軽視するようになってしまう。
繰り返すが、我々は脳だけを使っているわけでもなく、また、しっぽだけを使っているわけでもない。本当にしっぽが使えている人は、脳の働きもまた理解し、脳が生み出す思い込みもまた「想像力の産物」として有効活用している。
自分が誰に対してどんなイメージを抱く傾向にあるのか、その反応のパターンも感知できれば、第一印象には踊らされない。逆に、「自分の感じ方」を通して自分の性格や個性を把握するだけの余裕も持つことができる。相手にレッテルを貼っている自分にただ気づくだけでなく、そうした「偏見に満ちた自分」を受け入れ、ありのまま、無条件に認める感覚とでも言えばいいだろうか? じつはそうした素直さを養うことで、脳の呪縛もほどかれ、結果、直観が働きやすくなっていくのである。
要は、安易に物事を信じ込まないということだ。信じ込むことを直観だと思わない。
むしろ、第一印象などより、「第二印象」を重視する。イヤな奴だ、苦手な奴だと思っても、その感覚に惑わされず、ぐっと踏み留まってみる。じつはその踏み留まろうという行為のほうが、直観に基づいている。脳の作り出したパターンに反することは不快なことだが、その不快さを感じたとき、直観の本質が見えてくる。
多くの人が直観を置き去りにし(しっぽを錆びつかせ)、単純な好き嫌いに惑わされ、支配されている現実が見えてこないだろうか?
スグに反応してしまう(決めつけてしまう)ことで、みな自分の本心を見失ってしまっている。そして勝手に不安がっている。そんな「心の曇った」状態で世界を見渡しても、本当にしびれるような刺激などどこにも転がっていない。刺激が欲しいというのなら、まずはたくさんの「第二印象」を拾い集めるべきなのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年11月05日 21:09