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2002年12月31日
■アタマは大人、ハラは子供で。
年末、かつて衝撃的な話題を呼んだドラマ「高校教師」が再放送されていた。
年明けに違うキャストでリバイバルされるらしく、その前振りとしてオリジナルのほうがアンコールされたようだ。筆者自身、同作の放送当時('93年)は特別に興味が湧かず、ついには一度も見なかったわけだが、ひょんなことからこのアンコールを見て、ようやくこのドラマのテーマが理解できた気がした。
確かに名作だ。高校教師と生徒が恋に陥るというセンセーショナルな筋立てではあるが、おそらく脚本の野島伸司氏は物凄く単純なことを言おうとしていた。その単純さが単純にできないという社会の閉塞も、同時にうまく描かれている。
その単純さとは、人はもっと素直に生きてもいいのだ、ということ。
好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。人はそれを主張する人を「子供だ」というが、その「子供」を抑圧してしまえばその分人は不自由になる。
たとえば、高校教師が生徒に恋をするのも、同様の視点で批判され、タブー視されている。彼女(あるいは彼)らは人生経験も浅く、人を見る目も十分に育っていない、そんな「子供」を「大人」が一時の感情でもてあそんでしまえば、人生が台なしになってしまう……、とまあ、そんな「常識」がまかり通っている。
しかし現実を言えば、肉体年齢と精神年齢はイコールではない。
自分の中の「子供」を抑圧してきた人は、その子供がうまく使いこないせない以上、えてして精神年齢に幼さを宿している。逆にその子供を大切にし、きちんと自分らしく生きていられたなら、10代であろうが精神年齢は高い。その精神年齢の高い女子高生が、同時代の男子に興味が湧かず、年上に憧れたとしても、それはまったく自然なのである。ということで、ドラマのような設定にもリアリティが生まれてくる。
とはいえ筆者は、「自分に正直」ということばかりを主張し、それが権利であるがごとく振る舞っている人を、じつはあまり好きではない。
我々は現実問題として、年とともに「大人」になっていく。「大人」になることで「子供」の自分が失われてしまう現実を仕方ないとは思わないが、かといって、「大人」の自分を捨ててしまうことが、自分らしさを取り戻すことではないのである。
長年社会の歯車のように猛烈に働いてきた人が、何かのきっかけで宗教に目覚め、それまでの生き方を全否定し、隠者のような生き方を始めるようなケースもある。オウム真理教のように犯罪と結びつかないまでも、彼らは「大人」の自分を否定し、「大人」の自分として努力してきたことを、社会の退廃と重ね合せ批判する。
気持ちはわからないでもないが、それはただ右が左に傾いただけで、結局、傾いていることに変わりはないではないか? つまり、不動の中心が得られたわけではない。そんな状態を肯定したところで、あとはうまくいかない現実を社会のせいにするしかなくなる。不自由な現実は、状況が変わっただけで続いていくのである。
こうして見ていいけば、我々はもっと全面的に「うまくいくにはどうしたらいいか?」ということを、考え直さねばならない時期に来ている。
「高校教師」の主人公のふたりも、自分自身の与えられた枠(肩書きや立場)の中で、自らの気持ちを問い、抜け出す道を探っていた。ドラマを見ていない人もいるだろうからあらすじには触れないが、人は誰も現実からは逃れられない。あくまでも現実の中で、自分たちの「やりたいこと」を実現していかなければならないわけである。
ここで筆者は多くの人に、素直さとはハラを据えることだと、伝えたいと思う。
筆者は子供のような人間だから、好きなことは好きだといい、嫌いなことは嫌いだという。子供の頃よりもずっと子供であると思うし、逆に子供の頃は老人で、だんだん年とともに若返ってきているような気もしている。
しかし、自分の気持ちをはっきり公言した以上は、責任も取らなければならなくなる。
いくら「子供の心」を持っていようが、そこで二の足を踏んでしまうから、「おまえは子供だ」と言われるのである。そのときあなたは、自分の一番大事な聖域が冒されていうことを知らないとならない。プライドと呼ばれるものは、唯一、この状況でのみ使うことが許されている。大事なものを汚されないためには、行動するしかない。行動することで、「どうだ」というものを見せるしかないのである。
素直になるということは、多くの人にとって最も困難なことだろう。
身体論で言えば「ハラの自分」と出会うことに他ならないが、それはただ自分の感情を爆発させたり、自分勝手になることではない。
ハラの自分には、本能と直観というふたつの機能が宿っている。身体の部位で言えば、前者は生殖器の機能と、後者は尾骨(正確には仙骨と尾骨の一帯)と深く結びついている(詳細を知りたい人は、筆者の著作を読んでみてほしい)。
しかし多くの人は、後者の尾骨=しっぽの感覚を、どこかに置き去りにしてしまっている。動物的な直観、すなわち人間の感覚に照らし合わせるなら、本心(本当の気持ち)と呼ばれるもの、好きなものを好きだと、嫌いなものを嫌いだと直覚する機能。ここが働かなければ、素直さを形にすることは原理的にも出来はしない。これは心がけなどでどうにかなるものではなく、もっとシビアなものなのである。
素直さを自分勝手と勘違いしている人は、まず、「ハラの自分」の中から直観の機能が抜け落ちてしまっているのだと理解したほうがいい。
直観が抜け落ちてしまえば、ハラに残るのは本能だけである。自分の直観で「好き・嫌い」を選ぶことが出来れば、本能はそれに従ってエネルギーを発揮しようとする。本能は生殖能力ばかりでなく、人のバイタリティそのものであるから、本心で生きる人というのは、少なからず行動的になれる。躊躇しないで先へ先へ進んでいける。
しかし、直観がなければ、判断は頭(脳)でしなくてはならない。
果たして人を好きになることを、あなたは頭で判断できるだろうか? 理性で本能を抑圧していたら、子供の自分が死んでしまい、自分の気持ちは見えなくなる。不安や孤独に精神は支配され、人間という存在が馬鹿げたもののように思えてくるのである。
直観と本能の使い分けがうまくできてくれば、ハラに眠っていた「子供の自分」が健全な形で甦ってくる。自分らしさを発揮できるようになる。
そうなったとき、はじめて頭を使うことを考えればよい。
先にも言ったように、筆者は「大人」の自分を否定しているわけではない。「子供」の自分の思いを形にしていくには、「大人」の分別が問われてくる。みな、この使い方の順序が逆になっている。はじめに分別を働かせてしまって、結果として、自分の思いを見失っていく。だから「うまくいかない」のである。
「高校教師」の主人公(特に教師のほう)は、この「うまくいかない」現実の中で、最後の最後で、自分の「子供」を見つけ出し、わずかではあるが「ハラ」の感覚を感じ取ることができたようだ。そのためにかなり大きな代償を払ったわけだが(ドラマを見た人ならおわかりだろうが)、それでも生きる術は得られたのである。
みな、そこまで行けないところで、「大人の分別」ばかりを発達させてしまっている自分に気づいてほしい。そして、その現実に危機感を抱いてほしい。
アタマは大人、ハラは子供。しかし、その順序を間違えずに、行動していく。
多くの人はハラが欠落しているのだから、まずはハラを見つけることからはじめてみる。「常識」に唾したり、嫌悪するだけではなく、もっとしたたかに、その状況を逆に利用する形で、自分のハラを磨いていくのである。
2002年もあと数時間で終えるようです。筆者は2003年というより、10年ほど先を見据えながら、着実に着実に、種蒔きをしています。
あなたはどんな自分になりたいですか? できるできないではなしに、どんな望みを自分が持っているのか……、それをただ子供の心で問うことが一年のはじまりです。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年12月31日 21:00