« ■「有意義な人生」という名の脅迫観念。 | メイン | ■アタマは大人、ハラは子供で。 »
2002年12月23日
■小泉流“丸投げ”はなぜ無責任なのか?
最近“丸投げ”という言葉が、頻繁にマスコミを賑わしている。
もとは建築業界の用語であったようだが、あまりいい意味ではない。たとえば、工事を請け負った某社が、そのままそれを下請けに任せてしまう。もちろん仕事を譲るわけではない。経費をピンハネし、中間搾取で儲けを得る。一方、下請け側は安い賃金で仕事をしなければならないので、帳尻合わせに手抜きをしたりもする。
「働かざる者食うべからず」という言葉があるが、現実には、その「働らかざる者」のところに最も金が入ってくる。そうした業界に蔓延していた「負」の仕組にようやくメスが入り、あれやこれやと取り沙汰されているわけである。
もちろん取り沙汰される頻度が増えれば、言葉そのものも一人歩きをはじめる。
いまこの言葉を最も痛烈に浴びせられているのは、おそらく小泉純一郎総理だろう。氏は国民の多くに、「景気のいい、歯切れのいい言葉は使うが、肝心のところは丸投げして、自分では泥を被らない人」というふうに思われている。
たとえば、デフレへの危機感の募る金融政策に関しては、自らが起用した竹中平蔵経済財政・金融相にそっくりと“丸投げ”。10月末に氏主導で何とか「総合デフレ対策」がまとめられたものの、肝心の小泉氏の積極的な後押しがなかったからか、対策というには程遠い「無難な」内容のものに薄まってしまったようだ。
また、新日本製鐵会長である今井敬委員長と作家・猪瀬直樹ら5人の委員の間で大いにモメた道路4公団民営化問題に関しても、やはり“丸投げ”。自らが調整に乗り出すことなく、最終的には道路族代表の今井氏が委員長を辞任するという形で決着した。
筆者は、こうした“丸投げ”自体を必ずしも悪いとは思っていない。
傍観者の姿勢を取った小泉氏に対しても、だから無責任だとは決めつけない。というより、丸投げがイコール無責任だと捉えている人は、逆に言えばもっと自分の意見を口にし、それによってリーダーシップを取ってほしいと思っているのだろう。
しかし、考えてみてほしい。積極的に発言すればリーダーシップが取れるのか?
部下の仕事にあれこれ口を挟み、介入する上司がみな、素晴しいリーダーであるだろうか? もしかしたらただの過保護かもしれないし、単純に煙たがられているだけかもしれない。そんな人間になれば首相が勤まるとは誰も思っていないだろう。
結局、丸投げを「悪」と結びつけるのは、建築業界の中での用語にすぎない。
表面的なイメージが似ているからといって、対象を社会にまで結びつけてしまえば、本質が見失われてしまう場合がある。その意味では、誰が用いはじめたか知らないが、これは、表面をなぞっただけの「誤訳」にすぎないと言ってもいい。
とはいえ、小泉氏自身、残念ながら立派な政治家であると思われてはいない。「無責任」と思われても仕方ない、ある種のイメージが付きまとっている。
イメージというと非常に曖昧だが、それが本人の醸し出している「何か」である以上、おいそれと覆えせない説得力がある。本人がいくらそうでないと力説し、行動しても、よほどの変化がない限り、そのイメージは覆えらないのである。
では、それとは何か? 筆者の読者ならすでに気づいているかもしれないが……、ここで“丸投げ”という言葉の本質をもう一度問い直してみよう。
“丸投げ”。すなわち、相手に自分の身柄をそっくり預けてしまうこと。もちろん、そこに条件もつけない。丸々すべてを投げ出してしまうということ。
そう考えれば、これは仏教などで言う「全託」という言葉とイコールになってしまう。
作家の故・司馬遼太郎氏は、それを「薩摩武士」に特有の美意識や処世術と結びつけ、日本が近代化に成功したのは、この薩摩流の“丸投げ”を政府レベルで実践できたからだという意味の発言をしている。
すなわち、薩摩人の優秀さとは、自らが優秀になることではなく、優秀な人間を見つける眼を養い、彼を抜擢し、自分はその責任を一切引き受ける。
要するに彼らにとっての優秀さとは、「器の大きさ」に他ならず、逆にこの器だけあれば天下の賢者が自分のもとに集まってくる。彼らの才能を発揮できる場を与え、全体として大きな仕事が成せれば、それが優秀さの証なのである。
このようにして見れば、そうした薩摩武士の象徴とされた西郷隆盛など、小泉氏とは比較にならない、全身全霊“丸投げ”の人であることが感じ取れるはずだ。
同じ“丸投げ”でも、相手に伝わる何かが決定的に異なっている。
その何かとは、そう、筆者の言う「ハラ」の違いなのである。そんなものはわからないという人でも、小泉氏を歴史に残る素晴しいリーダーだとは思っていない。それを“丸投げ”しているからだと説明しても、日本の歴代の政治家は、西郷に限らず、みな程度の差こそあれ、この“丸投げ”を実践している。
西郷の事実上のライバルだった最後の将軍・徳川慶喜も、「大政奉還」という世界史的にも類例のない“丸投げ”をしている。両者の戦いについては、当サイトででも取り上げる予定だが、簡単に言えば“丸投げ”合戦だったのである(→こちらを参照)。
みな無意識に感じ取っているハラの感覚をしっかりと言語化できないから、ゼネコンの負の側面と結びつけて、“丸投げ”本来の意味を見失ってしまう。だから有効な批判や、ではどうするかという対案も示せない……。
目に見えない「曖昧なもの」を、言語によって実体あるものへ浮かび上がらせる。そこに社会の閉塞を打ち破る大きな鍵が隠されている。
投稿者 長沼敬憲 : 2002年12月23日 21:02