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2003年03月23日

■筆者がなぜ「米軍イラク攻撃」に「反対しない」か?

 3月20日(米東部時間19日)、アメリカ軍のイラク攻撃(空爆)がついに始まった。
 国連決議を得られないままの、アメリカ(ブッシュ大統領)の横暴とも言える、はた目にも大義名分の見えにくい、宣戦布告。
 対米追従と言われる日本は、大方の予想通り、アメリカの攻撃を支持。戦争放棄を憲法でうたっているはずの国がなぜ、という質問に対しては「大量の破壊兵器をイラクが破棄しない以上、アメリカの武力行使に正当性がある」という見解。小泉首相は「アメリカは支持するが戦争はしません。戦後の復興に協力する」と、ムシがいいとしか思えない中途半端な発言を、会見の場で堂々と語っていた。

 一方、こうした政府レベルでの戦争遂行に対して、世界規模で反戦デモが起っているのも、今回の戦争の特徴の一つだろう。日本でもタレントや文化人、ミュージシャンといった面々が、メディアを使って戦争反対や疑問を投げかけている。またテレビでも連日のように様々な特集が組まれ、その筋の専門家たちが見解を述べている。

 しかし、戦争のメカニズムそのものについて言及している例は少ない。だから状況分析自体は的確であっても、その先の絵が見えてこない。タレントたちも含め、本当の意味での当事者意識を持っていない。当事者意識とは運動に参加したり、現地に飛び込んで人間の盾になったりすることでは必ずしもないわけだが……、ではそれはいったいどういうことか? 本質を突いた発言はとんと聞こえてこないわけである。

 そもそも国のトップが戦争を始めるときというのは、国民の目を外に反らそうとするとき(つまり内政面やトップがスキャンダルなどを抱えているとき)か、国際経済を支配する財閥層(ユダヤ人など)の働きかけがあったとき(つまり、戦争を起すことで彼らにとっての軍需景気を欲しているとき)に限っている。

 純粋に正義の戦争というものはないし、世論に支持された場合でも、その世論自体が巧妙にコントロールされ、何か仕掛けがある場合が大半だろう。
 たとえば、日本の真珠湾攻撃をアメリカ(大統領)が事前に知っていながら、国民感情を戦争に向かわせるためにあえて無防備にさせたという話。

 9・11の対米多発テロにしても、同様にアメリカの権力層は攻撃を事前に知っていたという指摘も、一部のメディア(テレビも含む)などで指摘されている。国内経済の悪化などから国民の目を反らすためイスラム原理主義者を煽り、ああした事件を起させた。そのような「冷酷な人間」がこの世界を影で牛耳っているかもしれないのである。

 つまり重要なのは、この世界は表と裏の両面で成り立っているという事実を知ること。
 しかも、「氷山の一角」という言葉があるように、裏(目に見えない要素)のほうが圧倒的に影響力が大きい。というより、自分自身に照らし合わせればわかるだろうが、人はまず行動する前に思う。計画を練る。水面下で交渉する。表に現われたものというのは、思った段階、計画していた段階の、まさに「氷山の一角」にすぎない。

 物事の善意を信じる人というのは、たいていの場合、この裏が見えていない。善意を信じるのは構わないが、人はもっといろいろなことを考えている。
 もちろん、裏=悪意である(人間の本性は悪である)と言っているわけではない。
 なかにはさもしたり顔で、「アイツ儲けているから、裏では相当悪いことやっているんだろう」などと言う人がいるが、この種の人は、自分が善意を信じる人とさして変わらない、まさに裏表の関係にすぎないことを、まず知るべきだろう。

 悪を見ることが裏を知ることでは、必ずしもないのである。
 もっと言ってしまえば、善悪の観念そのものから抜け出し、物事の全体(裏も表も含めた全部)を、まさに全体的に感じ取る必要がある。その感覚を持ち合わせていれば、単純に戦争反対すればいいというわけでもないことも、同時に見えてくるものなのである。だから筆者は、戦争に反対はしない。賛成もしない。といって、どっちつかずでもない。意見を持っていないわけでも、座して見ているだけでもない。

 わけがわからないと言われそうなので、いくつか例え話をしていこう。
 たとえば戦争とは何かと言った場合、その原点には憎しみの感情が存在している。
 何らかの原因で相手に憎しみを抱くから、その相手をやっつけてやりたい(殴りたい、攻撃したい、殺したい、復讐したい……)と、思う。
 しかし当然のことながら、相手に復讐すれば、今度はその相手が憎しみを持つ。
 どちらかが100パーセント間違っているというケースはそうそうありえないから、負けた側も言い分を持つ。いまは屈服してもいつかはと思う。それが代々受け継がれれば民族紛争になる。宗教がそこに絡めば、さらに事態は複雑化する。

 こうして見れば、これは国どうしの戦争に限った話でないことも見えてくるだろう。
 憎しみをぶつける対象がスポーツという場合もある。世界中の人たちがサッカーにあれだけ熱狂するのは、そこに戦争の要素があるからだ。憎しみを持った相手へ報復できたときの快感。たとえそれが人を殺すという行為に発展しなくとも、構造はまったく変わらない。闘争心の矛先が何かのキッカケでずれてしまえば、競技は簡単に戦争に変わってしまう。人の本能にはそうした要素も内臓されているのである。

 だから、サッカーは熱狂的に支持するが、戦争は反対という人は、言っていることが矛盾している。いくらデモをしようが言葉と行為が裏腹だから、何の効力も発揮されない。却ってそうした運動が政治的に利用される場合すらある。
 これは、サッカーファン(あるいはスポーツファン、格闘技ファン……、もちろん競技者も含む)を、批判しているわけではない。
 あるいは、人間の闘争心そのものを否定してしまっているわけでもない。

 現実問題として、闘争心はある。あるものをキリスト教の原罪思想のように否定したところで、残念ながらそれはなくならない。自制し、禁欲したところで、そんなものは何かの拍子で禁を犯してしまえば、呆気なく崩れ去ってしまう。
 あるものは、まずあると認める。肯定する。受け入れる。その上で自分に問うてみる。自分が正しいかどうかではなく、自由なのか、快適なのか。こうした発想が持てるようになってくると、闘争心の核にある向上心を感じ取れるようになる。
 多くの人は闘争心と向上心を混同している。筆者はそう捉えているのである。
 
 たとえば、格闘家は心に何らかの憎しみがなければ、決してリングには上がれない。
 機械ではないのだから、純粋に競技としてやることなどできない。その人の抱えている心の不満や欝屈、過去の傷などを、戦うという行為にぶつけている。その点では、彼も日々、戦闘に参加している。戦争を否定すれば自己否定につながる。

 しかし、戦うことで発散はできても、実は内なる問題そのものは解消できないという事実がある。むしろ戦うことで欝屈は増幅され、その修羅場から抜け出せないほうが、むしろ多い。華麗な戦績を残したとしても心は地獄という人もいるだろう。
 もちろん、戦いにはそうした負の側面ばかりあるわけではない。戦いが芸にまで昇華されたとき、それが明らかに人の心を打つという側面もある。日本人はむしろそこに美を見い出し、武士道(もののふの道)などと呼びならわしてきた。

 武道家なども、最後はあまり戦いに興味を持たなくなる。リングに上がる(試合に臨む)ことよりも、自分の芸を極めようという方向に進む。
 若い頃は好戦的で、卑怯な戦いすらした宮本武蔵ですら、30代以降の戦いの記録はほとんどない。あれは武蔵の体力が衰えたからだと揶揄する人もいるが、彼が本当の意味での武道家であったとしたら、その強さに年齢は関係しない。年とともにますます強くなってしまったから、戦いに興味が失せていったと捉えられるのである。

 筆者に言わせれば、戦いを欲する人というのは(闘争心のある人というのは)、そうした衝動が湧いてくる自分自身に、たいていの場合、目を向けていない。
 むしろそこから目を反らし、外敵を作り、そのありあまる憎しみのエネルギーを発散させようとする。これは格闘家やスポーツマンに限らず、多くの人が普段やっている、当り前の行動心理ではないのか? あなたはそうやって仕事をしていないか? だれかを愛したり、守ろうとしていないか? そうした面をなおざりにしたまま、自分のことを棚に上げたまま、戦争という一現象に反対しているのではないか?

 戦争をひたすら仕掛けようとするブッシュ大統領も、それに追随する小泉首相も、目に映る現象は自分自身の鏡であると、まず我々は理解する必要がある。
 そして世界の現状を変えたいと思うのなら、まずそういう自分が本当に変われるのか問うてみることだ。それができるようになれば、戦争反対など表明しなくとも、生き方そのものが戦いを求めなくなる。もちろん、戦いを求めなくなっても、人には向上心が内蔵されているから、腑抜けになったりなどはしない。自分のエネルギーがもっと自由に、素直に発散されるようになるから、ずっと元気になっていける。

 筆者が身体論に注目し、その視点から政治や社会現象まで解き明かそうとするのは、最終的に、この世界の問題というのは自分自身(の身体)に帰一すると思うからだ。
 その身体を置き去りにしたまま、そこに目を向けないまま、勝った負けたと繰り返す人生は、筆者から見ればあまり刺激的とは思えない。面白くもない。
 もっと刺激的で愉快なものが、目の前の現実に広がっている。それを知りたい、欲しいと望む人だけが、この世界を実質的に変えていける人なのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2003年03月23日 12:44

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