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2003年03月14日

■人はみな「あの世」を信じている。

 K-1と並んで人気のある「プライド」という格闘技イベントを主宰する会社の社長が、ことし1月、突然自殺し、周囲を驚かせた。
 つい数時間前には記者会見を行い、この3月に開かれる「プライド25」のカード発表やその先々を含めた構想を語ったばかり。事業は順調に展開されており、特別に不安材料を抱えていたという話はない。それが、都内のホテルで突然の首吊り自殺。原因は、報道によると不倫相手との別れ話のもつれであったというが、死を決意するというほどの兆候は周囲の人間にもまったく感じられなかったようだ。
 繰り返すがまさに突然。真の原因は謎に包まれたまま。本人が何も語らずにこの世を去ってしまった以上、解明されることももうないかもしれない。

 ……と、こうした自殺報道に接して、読者はどのように感じるだろうか?
 人それぞれ、心のうちには様々な思いがある。だから「なんであの人が」という人が突然死を選んだり、事件を起したりしても、ヘンに驚くことはない。逆に、人に対して何らかのレッテルを貼っていた自分に目を向けるべきだとも言える。
 しかし、筆者に言わせれば、彼のように突然自殺を遂げてしまうような人は、要するに「あの世などない」と思っていた人たち、に他ならない。
 あるいは、死ということについて必要以上に考えた経験がなかったのかもしれないが、であるにしても、もし死生観について問われたなら、彼らは「死んだらおしまい。だから今を精一杯生きるしかない」などと答えるかもしれない。

 しかし、考えてみて欲しい。
 死んだらおしまいということは、すべてが無になるということである。
 これは超がつくほどに過激思想なのだが、口にする人に限ってそれを自覚していない。彼らの論理に従うならば、死んだら自分が無になるだけでなく、すべてが無になる。自分の認識する世界のすべて、この宇宙の一切合際が無くなってしまう。彼らは、それだけのことを言っている自分に、何も気づいていないお気楽な人たちなのである。

 自分が無になったところで、世界が無になるわけがない。自分が生まれる前からこの世の中は続いていたし、死んだ後も続いていくはずじゃないか。

 なかにはそうした反論をする人もいるかもしれないが、筆者は彼らに「ああ、だからあなたは「あの世」を信じているわけですね」と答えることにしている。
 いいだろうか? 「あの世」を信じているから、そのようなことが言えるのである。
 というより、これも考えてみてほしい。「自分が存在しなくなった世界」のことを、どうやって認識するというのだろうか?
 感じる主体が無となる以上、無いのと同じではないか。あると考えるのは、自分が存在する(死後も存続し続ける)という前提があっての話である。

 「死んだらおしまい」と言う人も、「自分が死んだ後の世界」は想像している。この社会も、日本も、地球も、まわりの人々も無くならないと思っている。
 これがドエライ矛盾であることに気がついてほしい。
 「死んだらおしまい」なら「死んだ後の世界」も存在しない。終わりなのである。すべてが、終わり。そこまで理解してその言葉を使っているのなら、ある意味大したものだが、たいがいの人はもっとずっと軽い気持ちでしか使っていない。

 だから深く考えもせずに自殺ができてしまう。故人に対する批判を快く思わない人もいるが、筆者は「あの世を信じている」ので必要以上に気配りはしない。それよりもヘンにタブーにしてしまい、覆い隠してしまうほうが問題だと思っている。
 さらに、こんなことも考えてみてほしい。
 なんだかんだと言っても、多くの人は自殺をしない。
 それはそれほど絶望していないからだと言う人もいるかもしれないが、絶望している人でも、希望がまったく見えない人でも、必ずしも命を絶つわけではない。

 なぜか? 理由はいろいろあるだろうが、「残された人」のことを考えるからだ。
 自分が突然死んでしまったら、残された家族はどうなるのか? 当然そう考える。
 死体の始末から始まって、どこかに身投げでもするなら捜索する人も出てくる。借金をしていたら、それは保証人のもとに請求がいく。仕事を投げ出したのなら、しわ寄せはやはり、「残された人」のもとに降りかかっていく。お寺や葬儀会社の人は「儲かる」かもしれないが、だからといって「嬉しい」とは思うまい。

 ……こう考えていくと、少々辛いことがあっても頑張らねばと普通は思う。だからみな死なない。死んだからといって「解決」できるとも思わない。
 このように発想する人が、要するに、「あの世」を信じている人たち、なのである。
 おわかりだろうか? 「あの世」を信じていないのなら、いや、実際に存在しないのなら、人がこのように思うことじたい、ありえない。

 少しでも失敗したと思ったら、すぐに死んでもいい。怖いとか痛いとかいう恐怖感が躊躇させているにしても、現実を生きていればそれ以上に辛く、痛いことがあるはずだ。本当に死んで無になるというのなら、この世界の仕組がそのようにセットされているのだとしたら、いま以上に自殺者が出てもいいのではないか?
 突き詰めていけば、社会は存続しなくなる。種は滅びてしまうわけだが、現実にはこうして歴史は続いている。みな簡単には死なない。生きよう、頑張ろうと思う。
 それどころか、晩年になろうが、あと1年の命であろうが、どんな状況に置かれようが、人は学ぼうとする。学ぶ意欲を失わない。

 単純に言えば、心のなかでは「続き」があると感じているからだ。その感覚もないのに学ぼうというのなら、それは究極の物好きではないのか?? 人も生物である。ただ趣味や道楽のために生きようとは思わない。もっと本能的な部分で「メリット」を感じなければ、苦労などしない存在なのである。
 
 これは言い換えるなら、世の中はそれほど人の都合通りにできていない、ということ。
 絶望したからと投げ出して自殺したところで、すべてが無になるわけではない。
 というより、自分を受けたものを「返す場」から逃げ出してしまったのだ。返すアテのなくなった借金を背負い続けたまま、彼らは「あの世」をさまよい続けなければならない。そんな人にとっては、そこは明らかに「地獄」になる。

 逆にきちんと筋を通し、与えられた生を使い切り、きれいさっぱり亡くなった人は、貧乏であろうと、人に認められてなかろうと、心は身軽だ。
 彼らにとっての「あの世」は、一つのことを成し遂げた充実感や達成感に満ちている。それはむろん安らぎの場所、つまり、「天国」である。
 なにも摩訶不思議なことを信じなくとも、当り前のことを当り前に受け止め、生きていれば、人は無闇に死んだりはしようと思わない。人を傷つけて平気でもいられない。変わっていかねばと思うし、希望も持つ。夢も抱く。

 「科学」という名の宗教が「あの世」を否定したことで、こうした当り前の感覚も心の奥に押し込められてしまったのではないか?
 科学ももちろん必要だが、科学的な論証とは異なる、ここまで筆者がだどったようなアプローチでこの世界を見つめ、受け止める感性も必要。
 いわゆる「精神世界」の実像も、そのときハッキリ浮かび上がってくる。
 どちらにせよ、「この世」で生きることが中心なのである。きちんと地に足をつけ、生きていくことを自覚できたとき、人は「あの世」を同時に感じている。
 「この世」と「あの世」がコインの裏表となったとき、はじめて道が見えてくる。
 それは、あるか無いかという類の問題ではないのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2003年03月14日 12:49

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