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2003年05月02日

■「履きやすい靴」と「履きにくい靴」。

 今回は(いつもそうかもしれないが?)発想の転換の話をしよう。

 筆者の住まいにほど近い、東京・中野の商店街の一角に、おそらく日本中探してもこれ以上ないという、最高の履き心地の靴を製造・販売している職人の店がある。
 武術家の甲野善紀氏がその著作のなかで推薦していた「マシモシューズ」のことだが、筆者自身、処女作「サムライ」を執筆する過程で興味を覚え、話だけでも聞いてみようと店を訪れたところ、店主(間下庄一氏)の感覚のするどさに驚かされ、その場で決断して4万円もしたシューズを買ってしまった経緯がある。

 ドイツなどから靴を取り寄せ、それをベースに客の足に合ったものに加工し提供しているというが(筆者の買った靴よりもっと安価なものもある)、筆者の足を触った氏は、開口一番、「君、肉をあまり食べないだろう」と一言。その他にも、短時間のうちに筆者の身体の癖をいくつか見抜かれ、アドバイスもいただき、この人の作る靴ならという気にさせられたのだから本当に筋金が入っている。

 実際筆者は、その靴を買う前後から、歩くということに関心を深めつつあったわけだが(いまそれも含めハラやしっぽを活用した歩き方、生き方の本を出版する準備を進めている)、マシモシューズは村崎流(*村崎は当時のペンネーム)のウオーキング術を確立させる過程においても、この上ないサポーター、援護射撃をしてくれたわけである。

 筆者の提唱するウオーキングは、それほど難易度の高いものではない。
 ただ、現代人の多くが錆びつかせ、喪失させてしまっている「足腰」の感覚を養うために、あるいは元気や活力を呼び戻すために(これらは相関関係にある。つまり、いま日本人に元気がないのは、足腰の衰えと大いに関係がある)、「こうした歩き方があるんですよ」といういくつかのチェックポイントを伝えている。具体的には、この歩き方を身につけることで、次の効果が挙げられるだろう。

 一、長時間歩いても筋肉痛にならない(だから、歩くのが楽しくなる)。
 二、歩くほどに細胞が活性化し、元気になれる。
 三、歩くことで自分の体調管理ができるようになる。

 詳しくはいずれ出版する本のなかで紹介していくつもりだが、こうした効果をより確実にモノにするためには、当然のことながら履いている靴の質も問われてくる。
 そもそも筆者のウオーキングを習う以前に、外反母趾やら膝痛、腰痛やら靴にまつわる持病を抱えている人も少なくないだろう。そうした人はまず、靴も含め自分にとって心地の良いモノを身につける、そうした習慣を養う必要がある。

 逆に言えば、見てくれや流行にばかり目を向けてきたツケ、あるいは自分の身体そのものに無関心だったツケが、症状という形となって現われたことに気づかなければ、いくら歩き方を学んでも本質は何も変わらない。間下氏の靴は、そんな問題を抱えた人に真っ先にオススメしたい靴であると言えるわけである。

 と、ここで発想の転換の話である。
 筆者は氏の靴を履くことで、確かに先に挙げたような効果が体感できた。取材で4〜5時間歩き詰めになっても全然疲れないのだから、昔の自分が知ったらビックリするはずだが、しかしあるとき、ふと次のような疑問も湧いた。
 
 では筆者の身体感覚は、結局、靴次第なのか?
 靴を替えたら失われてしまう程度のものなのか?

 こうした疑問を感じるようになった前後、その思いとシンクロするように、自分の信頼するある人から「自分がラクなのもいいが、あなたの立場上、人にどう見られるかももっと意識すべきではないのか?」という指摘をいただいた。

 つまり、人に凄い、格好いい(女性の場合は奇麗)と思われるには、ときに身体的な苦痛をも受け入れて、痩せ我慢しなければならない時がある。
 思えば筆者は、就職していた時代も(雑誌編集の仕事をしていたこともあり)、スーツをほとんど着たことがなかった。夏の暑いさかりに上下のスーツを着用するサラリーマンの風習は異常であるとさえ思い、どこかで軽蔑していたものだ。

 しかし、いまは必ずしもそうは思わない。そうした負担が相手への礼儀にもなりえるということが、今さらながらわかってきたからである。
 とはいえ、痩せ我慢して格好つけて、それでいつもフラフラになっていても仕方ないだろう。肝心の仕事に障りがあったら元も子もない。

 ……そんなことをあれこれ思っていた最中、筆者に助言してくれた先の人の勧めで、自分の価値観とは異なる「見た目重視」の靴の購入をすることとなった。
 しかし履いてみて、まるで鎖にでもつながれたような……といったら大げさに聞こえるかもしれないが、あまりの窮屈さにビックリ。この靴で本当に毎日過ごさねばならないのだろうかと、買った当初は暗澹とした気分に陥ってしまった(逆に言えば、一般の人はそれくらい不自由な靴を当り前と思って履いているわけである)。

 もちろん、自分自身の身体感覚を試す(加えて、その質をさらに向上させる)ためにも、これは必要であると理解はした上での投資である。
 しかし、痛い。あまりに痛い。1時間も歩き続けると、腰から太腿、足先にかけて痺れ始め、帰宅後もそれは無くならない。痛みを引きずったまま、次の日も歩く。痺れはさらに悪化。腰も痛くなってくる。次第に歩くこと自体が億劫になってきた。「改革には痛みが伴う」とはどこかの国の首相の言葉だが、自分の日々の活動がいかに間下氏の靴に助けられていたかを実感せざるをえない状況に陥ってしまった。

 とはいえ、本当に鎖につながれているわけではなく、また、これまで少なからず足腰を鍛え、人に話ができるくらいの身体感覚は得てきたのだから、市販されている普通のメーカーの靴にこうも悩まされるのはおかしな話だという思いもあった。
 対応力と言い換えてもいい。自分にとって自由で快適なスタイルを確立していくことで、逆に不快で不自由なものに対応できなくなってしまったら、その対応力の面で常人以下になってしまうのだとしたら、やはりそれも不自由ではないのか?

 逆に言えば、この履きにくい靴を履きこなせようになれば(メーカーは明かさないが本当に信じられないくらいの履きにくさ!)、どんな靴でも対応できる。再び氏の靴を履く機会があれば、今まで以上に快適で自由なウオーキングが可能なはず。
 
 筆者が履きにくい靴に苦しみながら、それでも事態を楽観視していたのは、身体そのものに疲労感が蓄積されたわけではなかったこと。足に関しても、確かに痛みやコリは覚えたが、靴ずれのような症状は一切なかったこと。
 要するに自分の身につけてきた歩き方自体は、さほど問題がないようだ。
 それは実感できた。加えて足の痛みを子細に観察していくと、両脚全体が痛くなるわけではなく、痛みの出やすい箇所が幾つかあることが発見できた。要するにそこが自分のウイークポイントであり、しかもその箇所が左右異なっているということは、両脚のバランスがまだまだ確立されていないということを意味している。

 靴を購入してまだ2週間ほど。ようやく80%くらいには足も痛みも回復し、履きにくかろうが、履きやすい靴のときとさして変わらない感覚で歩けるようになってきた。
 というより、結果として足の感覚が従来より強化され、全体のバランス自体、ずいぶん高まったことが感じられる。快適な環境が知らず知らずのうちに自分の身体を甘やかせていたという現実にも、否応なく気づかされているところだ。

 さて、この一文を読んで、結局、間下氏の靴を買ったほうがいいのか悪いのか、わからなくなった人もいることだろう。
 しかしわからないという人なら、間違いなく買ったほうがいい。そして、まずは何が快適か、心地よいか、その基準を身体に刻み込んで欲しい。もちろん、靴の買い換えはその一手段であり、買えばすべてが解決されるわけではない。

 もっと根本的に言うなら、やはり身体感覚を磨くということ。
 それはただ肉体的な気持ち良さを求めたり、逆に肉体を酷使して鍛え上げても、必ずしも身につくものではない。そうではなく、まず身体の構造を理解し、その中心にあるハラにまで意識の重心を降ろす。脳が自分の中心であるという頭でっかちの現実から抜け出す。虚弱体質の人はハラの位置に、高速で回転するコマを思い描く。

 まずはこうした基礎を作らなければ、ほぼ例外なく年齢とともに身体は衰えていく。成人病やその他様々な病気にかかる確率もどんどん増していく。
 筆者はいま、自分の培った元気を土台にして、自分自身がもっと自在に活動できる能力を身につけようとしている。自分自身の「構造改革」を断行し、成果を挙げていくことで、誰もが共有できる価値観を世に提示できたらと思っている。

 一見すると些細なことのようだが、靴ひとつ取り替えるだけでも、その背後には筆者なりの目的意識があるということ。試しみが存在するということ。
 些細なことができなければ、先へ進めない現実が確かに存在するのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2003年05月02日 12:37

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