« ■「履きやすい靴」と「履きにくい靴」。 | メイン | ■「不幸」に陥ってしまう原因は……。 »
2003年06月05日
■新型肺炎「SARS」発生から見えてくるもの。
今年に入り、中国や香港、台湾など東アジアを中心に、新型肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)が猛威を奮っている。
6月4日現在で感染者は約8400人、そのうち死者は770人。最近では感染者の増加がやや沈静化したとの報道もあるが、それは多分に国レベルの封じ込め策が好を奏したため。ワクチン(特効薬)が開発されたからでも、人の身体に免疫ができたからでもない。だから「1人の患者が大量感染につながる」懸念は依然続いている。
今回は、この免疫ということに関して、少々シビアな話をしていこう。
ここで言う免疫とは、自分自身で病気を払いのける力のこと。だから医療機関なども、感染しそうな場所になるべく行かないことや清潔にすることに加え、しっかりした食生活や睡眠などでこの力(免疫力)を高めることを呼びかけている。
しかし、いくら栄養のある食事を取ろうが、十分睡眠を取ろうが、だから免疫力が高まるのかというと、そうとも言えるものではないという事実がある。
体質という言葉があるように、ロクに食事など取らなくとも丈夫な人もいる。
タバコを毎日吸ってもガンにならない人。1日2〜3時間の睡眠だけで大量の仕事をこなし、しかも長生きな人。酒を浴びるほど飲んでも却って元気な人。
いや、もっと言ってしまおう。ある意味当り前のことではあるが、感染者の多い中国でも台湾でも、じつは全員がSARSにかかっているわけではない。かからない人はかからない。逆にかかる人は、どんなに気をつけていてもかかってしまう。
SARSに限らず、そもそも病気の本質はそういうものであると理解できなければ、ただ単に、自分や自分の家族などに災厄が降りかかるかどうかという心配だけの話になってしまう。注意すれば何とかなる、確率が減るというだけでは、(一見正論に聞こえるが)じつは本質からどんどんと遠ざかってしまうのである。
もっともこんな言い方をすると、「要するに無力感に陥っているのか? 諦めているのか?」と、運命主義者?の烙印が貼られてしまうかもしれない。
しかし筆者は、そのような無力感を語っているわけではない。体質とは文字通り「体の質」であり、肉体自体の性能より、むしろそれに付随する感覚(身体感覚)を磨かないと意味がないと、これまでの著作のなかでも繰り返し述べてきた。
たとえば、いくら大柄でも身体感覚が劣っていれば、「鈍い」と言われる。痩せていても身軽ではない人。筋骨隆々でももろい人など、いくらでもいる。
みな体質を変えるというと、体重や筋肉の量を増減させるなど、目に見える肉体ばかり操ろうとするが、それで感覚=体質が変わるという保証はない。この当り前すぎる事実が理解できないから、健康のためと称してジョギングを始めたりする。カロリー計算をしたり、フィットネスジムに通ったり努力の量ばかり増そうとする。
しかし現実には、そうした努力を積み重ねても、病気になる人はなる。
たとえば、ガンにかかる人というのは、ガンにかかってしまうような(体の細胞の一部がガン化してしまうような)生活パターンを身に宿している。
そのパターンに気づき、それ自体を変えようという意識のないままいたずらに鍛えても、気休めや自己満足にすぎない。見た目の変化だけで変わったつもりになっていたとしても、どこかに別の負担がかかっている場合が多いのである。だから、また別の形で症状が現われる。一つの病気が治っても別の病気に襲われる。
まだピンと来ない人もいるだろうから、こんな譬えをしてみよう。
たとえば現代教育では長所を伸ばすことが大事と言われているが、多くの人はそう言いながら、実際には「苦手なことから逃げてる」のではないだろうか?
つまり、ただ嫌なことを避けている。得意なことを伸ばすのではなく、得意なことしかできない人間に(それすらも中途半端な人間に?)、結局のところなってしまっている。それではいくら改善策を打ち出そうが、事態は何も変わらない。
嫌なことを避けてばかりいれば、やがては不自由になってしまう。
病気にしても、その症状になるのはなるだけの理由があるからであり、先にも話したように、そこにはその人の負の生活パターンが多分に反映されている。
あなたは自分のことを口うるさく注意する人を、煙たく思うだろうか?
そう思うのは仕方ないにしても、もし遠ざけてしまったら、自分の回りはイエスマンばかりになってしまう。それでは、負のパターンからは抜け出せない。ラクかもしれないが、いざと言うとき身動きが取れず、却って大きな災厄に見舞われてしまう。
ワクチンが開発されればSARSが収まると思っている人は、(事実、収まるかもしれないが)、それを生み出した原因には目が向かないまま、同じ生活パターンを繰り返すことになる。だからやがてまた症状は現われ、そのワクチンは効かなくなる。
医学が発達していなかった昔は、一度疫病が広がると人口の半分くらいがあっという間に失われた。生物学的に見れば、そのように淘汰が行われた。
しかし現代では、死ぬべき人も死ねず、克服されない負のパターンはひたすら蓄積されていき、どんどんと身体(社会)の内面に潜在していく。
おわかりだろうか? 一見すると治ったようでも、何も治っていないのである。
SARSが蔓延することよりも、SARSがいまの状態のまま沈静化するほうが却って怖いと、筆者は思っている。そしてその現実は、確実に進展している。
生物は環境の変化に対し必ず何らかの病気にかかり、それを克服できない個体や種は滅び、できたものがこうして進化を許されてきた。要するにそれこそが免疫力であり、それは命懸けの戦いとセットになって生み出される。
そう考えれば、その時々の身体の症状に振り回され、治った・治らないで一喜一憂する自分とはいったい何者なのか、という現実も見えてくるだろう。
そこから一歩離れ、いまの病気が現われた背景を自分自身の癖と重ね合せてみる。自分の質を変えていくには何が必要か、そのことを第一に問うてみる。
生きる力を身につけていくには、ご都合主義ではいけないのである。
漫然と生活していて、病気にかかったら医者に何とかしてもらおうと発想する人は、カルト宗教にはまる信者を笑えない。病気の対策などというものより、自分自身が生きる、生き抜くというシビアな現実に立って、それに直面するということ。
表面的に帳尻を合わせることに、解決という言葉を安易に使わないことだ(もう少し踏み込んだ話は、いずれ本に著わすつもりでいる)。
筆者には予感がある。科学や医学が発達することで、生活も身体も表面上は大いに改善され、快適さがもたらされたが、それは生きる上で発生する負の要素を内側に押し込み続けることで維持されている性質のものに他ならない。
本当には何も解決されていないまま、人間の作り上げてきた地球スケールのシステムの中でひたすら負が蓄積されている。これが噴き出したとき、果たしてどれほどの人が「病気」を克服できるだろうか? 「免疫」を作り出せるだろうか?
言い換えるなら、この危機をも乗り超えられるような「免疫」は、人にどれほどの進化をもたらすのか、……正直、想像を絶してしまう。そうした生物的な変革がさほど遠くない未来に展開される可能性を、否定できる人はどれほどいるだろうか?
筆者の展開する身体論は、突き詰めればそんな状況すら想定した「質」を持っている。カギを握っているのは「しっぽ」であると、ここで予告しておこう。
投稿者 長沼敬憲 : 2003年06月05日 12:31