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2004年01月01日
■「不幸」に陥ってしまう原因は……。
テレビを見ていたら、タレントの向井亜紀さんが3度目でついに代理母出産に成功したというニュースが飛び込んできた。双児の男の子らしく御主人の高田延彦氏と記者会見していた模様が報道されていたが、筆者が見聞きした限り、多くは賛否両論と言いながら、好意的(あるいは肯定的)。「こうしたケースは子宝に恵まれない人にとっては一つの選択手段しも知れませんね」といったコメントをあちこちで耳にした。
これは以前このページでも書いたことだが、生命操作までして子供を手に入れるというのは、明らかに「不自然」なことである。
しかし、自然とは何かを多くの人は理解できていないから、「個人の価値観の問題」に議論がすり替わってしまう。「誰にも迷惑かけてないのだからいいんじゃないですか」と、本質から外れた無責任な発言が飛び出してしまう。
もっともこんな話をしていくと、「あなたは子供ができない人の苦しみを本当に理解しているのですか?」と、不妊症で苦しむ人を引き合いに出しながら、筆者を批判する人もいるかもしれない。
しかし人は、不妊症にかぎらず、「たえず何かを持っていない」存在なのである。
持っていないことが不幸なのか? 不幸であるというなら、その人は永遠に幸福にはなれない。すべてを持つ(完全に満たされる)ことなど現実にありえないからだ。だから多くの人は、そんな完全などという言葉は視野に入れず、「少しでも何かを持っている状態がより幸福な状態である」と中途半端な認識で何かを得ようとする。得たものにしがみつき、失わないように守ってばかりの不自由な人生を送っている。
もう一度質問しますが、あなたはお金がたくさんあるから幸福なのですか? 人に認められるから(愛されるから)幸福ですか? 家を持っているから、健康だから、才能があるから、頭がいいから、……だから幸福なのですか?
たしかに上記の一つ一つは「あったほうが幸せ」に感じるものばかりかもしれない。しかしそれは、「なければ不幸」ということとはイコールではない。結論を言えば、なくても幸せな人は幸せなのである。そして、不幸な人は不幸。
このことがわからない人は、たとえば障害者を見て、「あの人は片腕がないから不幸だ」と感じているのかもしれない。しかし現実には、片腕がない人のなかでも、ないということを通して、両腕のある人よりも深く深く自分自身や人生について問いかけるきっかけが得られた人もいる。そこで一つの諒解が得られた人は、腕がない自分だったからこそわかったのだと、すべてを受け入れられる。大事なのはこの点なのである。
人が勝手に不幸だ不運だと決めつけようが、受け止める人の理解がその意味や価値を決めている。障害があるから不幸だと、それがもっともな道理、動かない現実のように捉えている人は、自己嫌悪や恨みばかり抱え込んで、そこから先へは進めない。1億人に同情されても絶対に満足は生まれない。溜飲は下がらない。
いわゆる障害者と言われる人だけが障害者ではなく、この世の中の99%は(100%と言い切ってもいいかもしれないが)障害を抱えているのである。自分が不幸と感じることは、人と比べた結果ではない。
不幸はイコール悪ではなく、自分自身を変えたり、成長させたりするための原動力にもなる。そのようにして力を得た人は、自分を不幸と思わない。思っているのだとしたら、その人は才能で自分の欠落を穴埋めしているだけの状態を成功と定義しているにすぎない。この点に気づいてほしい。
何かを持っているからではない。なかろうがあろうが、できようができまいが、いまこの状態のままで、欠損や障害があるままで、それがその人の完成された「あるがまま」「素」なのである。完成されているからこそ変化もし、成長もする。変化も成長もこの完全のなかに内包されている。完全なのだから。
簡単な話なのである。幸福になるということは。この簡単がわからないままに、多くの人は「幸福になるために」必死で何かを得ようとする。
子供が生まれないということも、生まれないという現実を通して、その人だけの絶対の世界を見つめるフィルターが与えられているということなのである。そこに不幸という結論を勝手につけてそのどん底を味わっているのだとしたら、それこそが不幸であるということだ。
子供は生まれるべくして生まれる。物事は得られるべくして得られる。勝手に湧いてくるものではないし、機械的に操作して「出来上がる」ものではない(それを出来上がるようにしてしまえば、ますます自然が見えなくなる。自分の最も大事な感覚が麻痺してしまう)。
向井さんも「持つことをやめる」という一番簡単な選択があったはずだが(それに気づくための子宮癌であったと筆者はごく自然に捉えるが)、それに気づくのではなく、自分の心の欠落を埋めることで幸せになろうという方向にどんどん進んでいるようだ。
しかし勘違いしないでほしいのは、人生はそれすらも人に何かを気づかせるきっかけとして、彼女自身の存在をも包み込んでいる。「不自然」あったとしてもだから「間違っている」のではなく、不自然すらもすっぽり飲み込んでいるのが自然の本質なのである。
何事も失敗だ成功だと、正しい間違っていると裁判の真似事などするのではなく、自分のしたことは善も悪もすべて飲み込んで、自分を変える材料にしてしまうことだ。間違っているから悪なのではない。自己嫌悪に陥る必要も、罪悪感にさいなまれる必要もどこにもない。ただ気づいていくことだ。そして理解していくことだ。
今の時点で実績や経験があろうがなかろうが、自分は自分でオーケーなのである。その根本的な諒解が得られるからこそ、その先の自分にとっての課題が見えてくる。運命を乗り越えると宿命が見えてくるというのは、このことに他ならない。
宿命(絶対に変わらないもの)が見えてきた人は、自分だけの決断や判断で「よい」と思うことができる。頭で心がけようとしなくても、「自分が好き」でいられる。これって凄いことだと思いませんか? 成長や能力の開発はここから先の話なのである。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年01月01日 00:58