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2004年09月26日

■「時間」とは何かを理解すると……。

 歴史について書いていると、しばしば「時間とは面白いな…」という思いが湧いてくる。そしてこれが意外と理解されていないから、歴史の持つ複雑怪奇な面白さも捉えきれないんだなと感じたりする。
 我々が生きている時間というのは、当たり前だが500年前、1000年前、1万年前と同じではない。もちろん天体の運行がそうそう変わるわけではないので、平安時代の人が時計を持っていたとしても同じようには動く。しかし感じ方が違う。だから平安時代の400年と20世紀の100年を長さだけでは比べられない。時間には密度と言うものがあるからだ。

 たとえば我々の時代は、一応太平洋戦争の終結(1945年)が一つの起点になっている。戦争に負けたことで生活スタイル、政治体制が一新したからだが、冷静に見ると、それからまだ60年経っていないわけである。昔で言うと60年は干支の1サイクルで、だから60歳になると還暦と言って「暦に還る」と表現され、赤ん坊と同じちゃんちゃんこを着せられる。
 まだ還暦にもなっていないわけだ。時代としてはまだまだ一定の評価を下したり、定義付けることが難しいこともわかるはずだ。まあ、逆に言えば、そろそろ「時代を振り返る」ことも可能な段階になってきたと言えるわけだが……。
 
 しかし60年と意識すると、ある意味で、我々の時代の「短さ」というものを感じてしまうだろう。筆者は小学校の時歴史年表を見て、「鎌倉時代は短いな」とふと思ったことがある。とりあえず「いい国つくろう……」で1192年を起点にすると、滅亡が1333年だから、正味141年。しかし現代と比べたらどうか。2080年を過ぎないと鎌倉時代とは同じにならない。気が遠くなる……。

 とはいえ、先の話を繰り返すならば、その140年は鎌倉時代と同じ時間感覚では展開されていない。こんなふうにインターネットで情報伝達できる時代の1年というのは、鎌倉武士の何年に匹敵するのだろう? たとえば格闘技でも秒殺などと言うが、1分くらいで終わってしまう試合がある。しかし密度が濃ければ「いい試合だったね」と言われる。歴史が面白いのは、この密度の濃淡が時代によって様々であるからだ。密度が濃ければいいというわけではない。縄文時代の1万年は、その意味では密度が薄いが、それは時間的な長さばかりでなく、人々の意識もまたゆっくり移ろっていたと想像できるからだ。いまという時代の観念を捨てなければ肉迫はできない。

 このいまという時代はとにかく展開が早い。しかし個人の意識も同じように早いのかというと、そこには差もある。それは個々に想像力があるからだ。歴史を知ることに意味があるとすれば、一直線の歴史年表では表現しきれない「意識の様々な状態」を、想像力によって疑似体験できることにある。つまり、いまの時間感覚がすべてではない。縄文時代を知るということは、縄文人の時間感覚を想像し、追体験するということだ。この感覚がわかってくると、知識としての歴史から、感覚として取り込む歴史へと、吸収の仕方が変わっていく。もちろんそれは現実の生活へも反映される。

 以前にも書いたが(「日常感覚」)、昨今の年金制度をめぐる議論の馬鹿馬鹿しさなどは、この時間に対する観念が「まるでわかっていない」ことに起因している。時間というものは、様々に変化するのである。長くもなるし、短くもなる。つまりは当てにならない。過去の30年の尺度で未来の30年を想定し、その30年後の自分のために今からお金を積み立てるなどという机上の空論を、国民の多くが支持できないのも当然だ。「年金制度の必要性」を訴える政治家も官僚も、おそらく2030年には生きてはいまい。生きていたとしても、その時の社会制度まで予言できたうえで発言しているのか? 根本的な無知がそこには横たわっている。

 鎌倉時代の話が出たから、そこで例を出すと、あの時代には徳政令という「制度」があった。過去にさかのぼって累積した借金をすべて棒引きにするというもので、過去のシステムの負荷を自主精算しきれなくなった時、強制的にリセットしてしまおうと発想したものだ。これを幾度か繰り返したのち、その制令の母体である鎌倉幕府は信用を失い滅亡した。
 このようなリセットは、天災や戦争も含め様々な形でやってくる。そこで人々の時間感覚も一度ゼロになる。時間はずーっと続かないのである。進んだと思ったら止まったり、下がったりもする。ノロノロが急に光速にも変わる。
 平安時代の400年で成し遂げたものを、40年でできた時代もあるかもしれない。いまはどんな時代だろうか? とにかく時間が早いだけではなく、密度も濃いのが特徴だ。我々の1年は、すでに我々が10年前に感じていた1年とも違っている。政治も無責任と言われたくなければ、「いま」という時間のなかで自己完結できる発想を持つことだ。

 ラーメン屋で「いま」500円払うから、「いま」ラーメンが食べられる。これが自己完結だ。後腐れがない。我々が普段当たり前にやっていることだ。何年計画かで進めていくことでも、理屈は同じだ。自己完結の積み重ねにより、数年先の成果が出るのだと捉えてみる。ラーメン屋が500円の積み重ねで店を大きくするのと同じ感覚だ。
 「いま」を犠牲にして、無視して、「未来」ばかりを語る人は、歴史に裏切られる可能性も想起しておいたほうがいい。本人がいかように夢を見ようが、頑張ろうが、「徳政令」ですべてが御破算になることがある。

 それは政治の話だけでなく、個人の生き方のなかでも起こりうる。しかし、「いま」を積み重ねた結果が「未来」であると理解できていれば、じつはつねにリセットされながら進んでいくので、失敗やトラブルはあっても「御破算」はないのだが(理解が残る)、なかなかそんなふうな感覚でみんな生きてはいないのかもしれない。ちょっと難しいだろうか?

 時間は当てにならないのに、当てがあるように思って(それが絶対の基準であるように錯覚して)、機械的に同じ早さで進んでいくように思っているから、歴史に翻弄されてしまう。人生計画は立てても当てにはならないのと同じように。
 歴史は複雑怪奇だと冒頭に書いたのは、時間の本質が天文や物理ではなく、人の心(意識)に起因したものだからいかようにも変化し、極論すればその人の都合で流れていくということだ。早いなとか短いな、とか……。

 待ち合わせの時の不思議な時間の長さを、歴史にも当てはめ、人生そのものにも当てはめると、生きるということがもっと肉感を伴った、まさに生きたものであると感じられるようになる。「退屈な毎日」はなくなる。歴史をもっと「全体」で捉えられるようになる。カレンダーとか時計とか、予定表などの役割も、おそらく違ったものになるはずだ。

*「時間」については歴史コラムの冒頭でも取り上げています。

投稿者 長沼敬憲 : 2004年09月26日 00:35

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