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2004年10月15日

■歴史の本質は「ボリューム」ではかる

 歴史というものを日常の中で意識するにはどうしたらいいか? それにどんな意味があるのか? ……ということについて、今回はちょっとヒントになる話を。たとえば、後世の人が我々の時代を語る時、歴史上の人物として誰を取り上げるだろうか? まずそんな想像をしてみてほしい。まあ、「平成」の時代はまだ続いているので、ここでは「昭和」と限定しておこう。様々な意見はあるだろうが、作家の明石散人氏は著書(「日本「宗教」鑑定」)のなかで昭和天皇、田中角栄、池田大作の名前を挙げてる。どうだろうか?
「千年後」に思いを馳せて、「現代」を振り返ってみてほしい。

 聖徳太子、後醍醐天皇、空海、日蓮、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この人達って誰もが現実にこの目で見たいと思う歴史上の人物でしょう。
 でも、歴代天皇の中で先帝陛下(*昭和天皇のこと)は最大ですよ。総理大臣で最高なのは田中角栄、宗教家は池田大作氏ですよ。
 僕たちは三つの奇跡をみんな見ているんです。歴史をちゃんと認識していれば、昭和が如何に凄い時代であったかは簡単に判るはずなんです。

 ……いろいろな意味で誤解を受けやすい表現だが、筆者が見る限り、明石氏は特定のイデオロギーにとりつかれたり、こだわっている人ではない。むしろそうしたタイプの陥りやすいおかしな先入観をほどくスタンスで、様々な作品を発表している。筆者の考えを話す前に、もう少し氏の発言のエッセンスになる部分を引用しておこう。

 空海、最澄の時(*平安時代)の時だって何万人という僧侶がいたんだろうけど、あの二人がいたおかげで、慈覚大師以外は全部吹き飛んじゃった。良弁(*奈良時代)のときだって沢山の僧侶がいたんでしょうけど、誰も歴史に残りません。……

 慈覚大師、良弁すら知らない人は多いと思うが、言いたいことはわかるだろう。無数の毀誉褒貶のつきまとう田中角栄や池田大作については、次のように語っている。

 国会議員は這いつくばって土下座してやっと当選するんです。見知らぬ人を、自分の魅力だけで、雨や雪が降っているのにただで投票所まで運ばせるのは大変なことです。どうしても来てくれない時には、お金まで配っているんです。そこへいくと、池田さんは違います。自分はふんぞり返ってね、物も人も全て選り取り見取りです。黙っていてもお金まで持ってくるんですよ。それが一千万人近くもいるんです。どうしてこれが凄い人と評価できないのか不思議ですよ。

 ……彼の言いたいのは、歴史にはボリュームが存在するということ。個人に照らし合わせるなら、人物としての固有のエネルギーと言い換えてもいい。その人の業績や思想に対する評価は時代によって変わりうるが、ボリュームは不変。筆者の身体論であらわすなら、それは「器の大きさ」ということになる。身体感覚による人物評は不変(つまり、誰にとっても妥当性のある、共通の評価というものを引き出すことができる)……この点を理解していない人が非常に多いように筆者は思う。

 きわめて単純なことだが、好き嫌いで人を評価しては、本質が見えなくなる。もちろん好き嫌いがあるのはいい。しかしそこから離れ、凄いものは凄い、と理解する感覚がまずなければ、結局感情だけで行動することになる。皮肉な話だが、そういう人が逆に「熱心な信者」になったり、熱にうかされたように「雨や雪が降っているのにただで投票所まで」行ったりもする。そのように「大衆」を動かしてしまうエネルギーが人物を作り出し、動かし、歴史は作られる。イデオロギーや主義主張、あるいは政策などによって作られるのではなく、そうしたものすら生み出したその人の「ボリューム」が、歴史の源泉であるわけだ。

 こうした目で見た時、確かに昭和天皇、田中角栄、池田大作の名前は「昭和史」に欠かせない……筆者もそう思う。異義はない。好き嫌いの感覚でいえば大きく評価が別れるのかもしれないし、嫌いの側から言えば、「歴史に名が残る」ことに抵抗を覚える感情もあるだろう(筆者はそうでもないが)。しかし、好き嫌いは飲み屋交わすレベルのごく私的な会話だ。ジャイアンツが好き、タイガースが好きというレベルで熱く語り合うのは楽しいことだが、当然のことならがそれだけでは見えてこないものがある。

 つまり、「俺はトラ吉」とわかって話していれば問題はないが、厄介なのはそれに気づいていない場合。筆者に言わせれば、主義主張と称するものの多くは、その根底に「好き嫌い」が横たわっている。しかし、主張する当人は自分が好き嫌いよりもう少し高級なレベルで話していると思っている。実際は感情だから、相手の主張が異なると「感情的」になるし、場合によっては、何らかの力を駆使してそれを押しつぶそうとする。そういう行動自体、じつは歴史の中で人の「器」を押し上げるエネルギーにもなっているわけだが……。

 ちなにに筆者は、「昭和」と言った場合、上記の3人に加えて、出口王仁三郎と田岡一雄の名前も思い浮かべる。出口王仁三郎はいわば「池田大作以前」の昭和宗教史の要のような人物であり、田岡一雄は戦後社会を揺るがせた山口組の3代目組長。表の歴史にはほとんど浮かび上がらないが、生前のボリューム(器)の大きさは、前記3人に匹敵するものがあるように思える。彼らを「悪」と捉える視点そのものが、おそらく今後の歴史の中で修正されていくだろう。なぜなら善悪で人を論じる感覚そのものが、好き嫌いの感情に起因しているからだ。好き嫌いを外して歴史を見た時、善悪の観念を超えた「ありのまま」が浮かび上がる。

 筆者はこの「ありのまま」に耐えられる強さを持った人間が好きだし、好き嫌いの感情をそこに置くことで、自分の感情も満たしながら、同時にニュートラルな感覚を養っている。ここに挙げた人物がある意味でみな埋もれているのは、「昭和」がまだ完全に歴史になりきっていないからだろう。しかし、そうであっても、自分にその気があればいまここで理解をし、感じることができる。こうしているいまも歴史の渦中にあるという「後世の視点」を、まさにいま持つことができれば、物の見方もずいぶん自由になるはずだ。
 多くの人たちにとって、「好き嫌い」の克服は確かに容易ではないだろうが、この感情から抜け出せた時、人間の「大きさ」というものが実感できるようになる。頭ではなく、身体で物を捉えられるようになる。

投稿者 長沼敬憲 : 2004年10月15日 00:12

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