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2004年11月18日
■ぼくの考える「メディア論」(1)
メディアの本質について、意外と見逃されている事実がたくさんあります。
この「たくさん」をキャッチできると、誰もが有効な情報発信をできるようになります。運営(経営)規模の大小にかかわらず、情報の質において「読者=共感者」を獲得できる。時代はいま、そのような方向に推移しています。
まず情報とは何か、わかりやすくひもとくと……「事実報道」と「二次報道」に分けられます。「事実報道」とは文字通り、事実を伝えるという情報発信の一番初めに発生する「報道」です。たとえば、日本シリーズの第1戦はどちらのチームが勝ったか、勝利投手は? 試合経過は? ……というのが「事実報道」において求められる情報内容です。ここには、基本的に「見解の相違」はありません。
当たり前じゃないかと言われそうですが、そうでもないのです。
日本人はあまりピンと来ないかもしれませんが、国によってはまだこの「事実報道」が十分にできてないところが数多くあります。
その典型が北朝鮮の報道でしょう。あそこまで極端でなくとも、中国や韓国でも一部の「事実報道」が国の政策によって歪曲されている面があるようです。また、国によっては経済的な問題から、報道機関そのものが十分に整備できないところもあるでしょう。
もちろん日本でも、意図的にこの「事実報道」を歪め、情報操作をするケースはありえます。次の「二次報道」とも絡んでくるものだからです。
言い換えるならば、「事実報道」が歪んでしまうと、「二次報道」にも弊害が出てくるということ。
しかし、あっさり言ってしまえば「事実報道」は「誰にでもできる情報伝達」でもあります。「日本シリーズでどこが優勝したか」、これは記者でなくても、スタンドに足を運べば確認できる。テレビの中継でもわかるものだからです(厳密に言えば、テレビの「事実報道」によって情報を得ているわけですが)。
もちろん、誰にでもできると言っても、現場によっては(戦場や極地、スクープなど)「行くことに価値がある」場合もあります。
しかしそうした記者の努力も含め、テレビ、新聞、雑誌、インターネット…、現在の日本では誰もが「事実報道」をほぼ平等に得られる環境にあるわけです。情報をまさに「湯水のごとく」得られるのは、世界的に見ても、非常に「恵まれている」状態なのです。
である以上、日本において「報道の質」が問われるのは、多くの場合、「二次報道」の内容に関してであるとわかるでしょう。
これまで報道というと、「現場主義」という言葉もあるように、「事実報道」の伝達というイメージが強かったと思います。しかし現場に行ったからといって「真実」がわかる(伝えられる)わけでは、必ずしもないのです。
「事実と真実は違う」という言葉がありますが、ここでいう「真実」は「二次報道」のことを指しています。「日本シリーズでどこが勝った」というのはねじ曲げようのない「事実」ですが、その「事実」に対しどう感じたかは、その情報に接したすべての人が体験できるものであるからです。
どう感じたか……つまりは解釈であり、主観になります。これが事実に対する真実の部分です。この「真実」をどう伝えるかは、個々の感性、センスによっています。当然のことながら、その人の人生観が反映されています。人生観のやり取りこそが、コミュニケーションの本質と言えるのす。
従来のメディアでは、先に話したように、この「事実報道」と「二次報道」の位置づけが非常に曖昧でした。「事実報道」を発信していることに特権意識を持っていたのかもしれません。記者が自分の仕事にプライドを持つことは当然ですが、「二次報道」に関しては、「感じる」という点で誰もが同じ土俵の上にいます。
確かにインターネットのような環境が整備されていなかった過去においては、「事実報道」を継続的に発信できる大手資本のメディアが、同時に「二次報道」も発信し、それらすべてが「事実」であるかのように世論が形成されてきました。
しかし、「事実と真実は違う」のです。わかりますか?
事実報道が整備された土壌(日本)では、真実は誰もが好きな形で発信できます。そうした「自由な場」のなかで価値が創造されます。
逆に言うならば、「公共の場」の間口が一時代前とは比べ物にならないくらいに広がったということです。それは情報を発信する個人の責任が、これまで以上に増してきたということ。情報の伝わり方が、口コミや噂のレベルも含めて、今後おそらくどんどんと「速く」なっていきます。淘汰も速く進みます。
情報の受け取り手の多くが、「事実報道」と「二次報道」の違いに気づくようになると、これを混同してきた報道機関のアイデンティティは大きく揺らぐことになるかもしれません。その兆しはすでに感じている人も多いはずです。
我々一人一人の生活を豊かにするために必要なものは、「事実に基づいた真実」です。もちろんどんな真実でもいいわけではなく、その質も求められます。
「たった一つの真実」が客観的にあるわけではありません。あくまでその人にとっての真実、それを真実と思う人の真実です。要はその真実の「普遍性」「妥当性」が、コミュニケーションの場で求められているのです。
こと日本では、「自分の豊かさ」が「他人の豊かさ」にもつながる発想を、いま多くの人が望みはじめています。こうした意味での「本物志向」の人々が、一歩一歩、新しいメディアの形態を志向し、創造するようになるはずです。
それが「普遍性」「妥当性」として認知されるような状況も生まれるかもしれません。
「総合」をうたうThunder-r-Revolutionの活動も、こうした新しいメディアの一つの「場」として、自分の発想を豊かにし、ラクにし、周囲との「和」を生み出すために有効な「二次報道」を追求し、発信していくつもりです。
*当サイトの発足にあたって以上のような「メディア論」をまとめてみました。まだメディアについては言及しきれていないので、続編も考えています。
投稿者 長沼敬憲 : 2004年11月18日 00:08