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2005年05月07日

■「視聴率=数字」に代わる基準はあるか?

 三谷幸喜の脚本、香取慎吾の主演で話題を呼んだ2004年の大河ドラマ、「新選組!」のDVDがよく売れているそうだ。
 テレビでの視聴率は平均17.4%(ビデオリサーチ調べ/関東地区)と決して高くなかったが、番組のクオリティーは必ずしも数字とは一致しない。

 放送当時、あのコピーライター糸井重里氏が運営しているサイト(「ほぼ日刊イトイ新聞」)で、毎週、各回ごとの番組評がフリートーク形式で特集されていたが、その反響は高く、マニアとは言えない幅広い年齢層からかなり熱のこもった支持が寄せられていた。

 歴史が好きで、大河ドラマを割合多く見てきた筆者から見ても、特にドラマの中盤以降、近藤勇(香取慎吾)が新選組の局長に就任し、やがて幕府の瓦解とともに内部崩壊していく過程は、心理ドラマとしても秀逸の一語。
 歴史的に見ればミクロな存在に過ぎない隊士一人一人の「こころ」や「意思」が、かなりリアリスティックに描かれていた。事実関係として難があったとしても、フィクションを通して描ける真実があるということだ。

 さて、この十年くらい、日本の社会でも目に見える形で様々な価値観の変化が起きている。
 NHKがらみで象徴的な話をすれば、大河ドラマも朝の連続テレビ小説(朝ドラ)も、全盛時の半分くらいの視聴率に落ちてしまっている。「紅白歌合戦」の人気低落も、誰の目に見ても明らかだ。
 熱心なドラマファンにすれば、これは番組の質そのものが低下したからだという指摘があるだろう。確かに大河ドラマも、朝ドラもここ数年、単純にドラマとして見ても「駄作」が多くなったように思う。

 しかしその一方で、「新選組!」のような秀作と言っていい作品も登場した。朝ドラでは現在放送中の「ファイト」は、ここ数年では飛び抜けて内容がいい。視聴率はここ数年の低迷のあおりを食らってかなり低く、それが上昇していくかどうかもわからないが、内容に対する評価は、このままいけば「新選組!」同様、佳境に入るにつれて高まっていくと思う。要は大河も朝ドラも、NHKという看板だけでは勝負できなくなってきているということだ。

 同じような現象がいま、どこでも起きている。テレビに関して言えば、かつてのように視聴率が絶対的な基準という感じではない。こと民放は、視聴率→広告収入という大前提があるが、インターネットの普及も含めたこの多メディアの時代に、この常識が通用しなくなる時代がそろそろと近づいている。営業の形態そのものの練り直しが水面下で進められているのが現状ではないだろうか?

 時代を俯瞰するために、他にもいくつか例を挙げていってみよう。
 この間、ネットでニュースを検索していたら、「和田アキ子の新曲がまったく売れていない」という趣旨の記事があった。この記事(「週刊ゲンダイ」)によると、「昨年8月にリリースした『愚かな女たち』が、発売から8カ月経っているにもかかわらず、売り上げ枚数は「全国でたったの470枚」(4月22日現在、オリコン調べ)」なのだそうだ。要は、「ヒット曲が全然出ていないのに、なぜ彼女が毎年紅白に出れるのか?」という言い方で、芸能界に長きにわたって君臨?する彼女の「横暴ぶり」を批判したい趣旨のようだが、これが事実としても、筆者の感想はまったくちがう。

 この記事では触れられていないが、「紅白」の選考はNHKがまったく独断で決めるものではなく、世論調査=視聴者の声が基準の一つになっている(むろん、これ以外にも様々な「基準」があるのは当然のこと)。ヒット曲を出していようがいまいが、支持が大きければ出場を打診されるのである。
 筆者もここ数年は、大晦日には格闘技を見ている一人だが、こうした「紅白」の“幅広い選考基準”には、興味深い可能性が秘められていると感じている。すなわち歌手とはどんな存在なのか? ヒット曲を出せば「一人前」なのか? 人気者と言ってしまっていいのか? ……そうではないということだ。

 もっと大事なものは、存在感ということ。
 存在感があれば和田アキ子のようにヒット曲がなくても選ばれる。逆に存在感がなくなれば、どんなに大物でも選考基準から外れてしまう。
 数字を超えた基準によって、驚異的な数字を生み出してきた「紅白」。その数字そのものが低迷しているのは、数字によって評価されるシステムがゆらぎ、価値基準が曖昧になってきた世相が大きく関係している。

 ここまで見てきてわかるように、内容や存在感といった個々の感覚や印象に属するものが、数字に変わりうる基準として存在している。
 むしろ、数字が唯一の基準のように一人歩きしたのは、日本の歴史を振り返っても、戦後のこの50〜60年ほどの期間に過ぎないのかもしれない。なぜなら情報化社会と呼ばれる以前の社会では、事実が十分に(明確に)伝わらない分、個々の感性の鋭さや豊かさが求められたであろうからだ。

 もちろん、現代においては、まだまだ数字的なものは大きな力を持っている。
 たとえば、サプリメントなどにしても信頼できる科学的データがどれだけ出されているかが、安心材料の一つである。しかし、その一方で多くの利用者は、そんなデータよりも自分自身の体感が最も重要であるということも知っている。体感、実感……ここでも重要視されるのは感覚だ。

 では、この感覚が数字に変わる基準として、スタンダードなものになる時代はやってくるのか? やってきたとして、それはどんな社会なのか?
 一つ言えることは、数字は国や世界レベルでの統一的な基準にもなりうるが、感覚にはそこまでの「権威」はないということ。言い換えれば、権威がない分だけの多様性がある。多様性、カオス……これはよく言われる「個人主義の時代」などといったフレーズとは一線を画する。感覚は多様性がありながら、人類共通の「身体」がベースになっている以上、排他的なものではないからだ。自分が特に好きでないものでも、等価のものとして受け入れることは十分に可能だ。

 こうした感覚の求められる時代というのは、過去で言えば室町末期、戦国時代のような時代と考えればいい。少なくともこの先数十年は、この世のあらゆる権威というものが信頼されず、どんどんと力を失っていく可能性がある。
 権威に頼っていた人は寄る辺を失うことになるが、逆に言えば、本人の意思で価値が選び取れる時代になる。そして、その個々の影響力は小規模なものになっていく。小規模な形でも採算の取れる方式が、今以上に一般化するようになる。数字の時代ではたえず大きなものが求められるが、感覚の時代はなにより質が求められるのである。

 その意味では、本物志向の時代という表現はかなり当たっている。
 これは、大きな組織を率いている人、人の上に立つ人、何だかんだと数字のアップが求められる立場にいる人にとっては試練の時代だ。数字が上がれば業績は上がるが、質が低下する可能性も危惧せねばならなくなる。一方、インディペンデントの立場で苦労していた人にとっては、逆に追い風になる。無理に大きくなろうという欲望は持たなくても、自分の満足できるクオリティーとそれを支持する人たちのサポートによって、現代は十分な豊かさが表現できうるはずだ。

 このカラクリが見えていたら、選択の幅そのものが広がり、多様化する。進学や就職に対する価値観も少しずつ変わっていくかもしれない。教育も変わらざるをえないだろう。もちろんそれは未来にありうべき可能性の一つであって、現実にはそうそう急に変わらるとも思えないが、本当に賢い人たちは素知らぬ顔で感覚を磨くためのノウハウを手に入れていく。
 これから先、何か決定的な差がつくとしたら、つまりはそこなのである。

投稿者 長沼敬憲 : 2005年05月07日 22:49

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