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2005年05月22日

■高岡英夫「身体意識を鍛える」を読んでみた(下)

 前回に引き続き、高岡英夫氏の唱える「身体意識」についての話。

 人の身体は、物質として捉えられる肉体だけでなく、目には見えない意識が合わさることで、初めて活動が可能になる。
 当たり前といえば当たり前なのだが、たとえばスポーツの世界を見ても、目に見える肉体の器官ばかりを鍛え、肝心の意識の重要性となると、メンタルトレーニングのような「自己暗示」的なものしか思い浮かばない人が、いまだ少なくない。

 しかし、意識というのは、そのように頭で「思う」ことで生み出されるものばかりではない。「思う」、つまりは脳が働く以前から形成されている、生物を生物たらしめている固有の感覚と考えたらいい。
 筆者の言葉で表すなら、それは脳によって作り出されるものではないということ。
 また、神経の働きと関与はしていても、そのものではない。
 なぜなら意識には広がりがあるからだ。肉体という枠を飛び越えて、自然にもつながっているし、他者との交流の媒介にもなる。
 高岡氏はそうした意識の働きを、前回も書いたように下記の「7つの身体意識」として分類している。

 センター 下丹田 中丹田 リバース ベスト 裏転子 レーザー

 たとえばセンターとは、「全身を天地方向に貫いている一直線状の意識」で、正中線、軸、体軸など、スポーツや芸道の世界でも、伝統的に様々な呼び名がある。このセンターが形成されることで、

「膝や腰が曲がったり、力んで立つことがなくなり、頭のてっぺんをヒモで引っ張られるように、ラクに立つことができるのです」

 また、肉体面だけでなく、

「センターは精神面でも大きな影響を与えます。イチローやウッズを見てください。……あれだけのプレッシャーの中でも、淡々として動揺しません。そして、非常にシャープな受け答えをし、行動には芯が一本通っています」

 これは一例だが、7つの身体意識を養うことで、このような心身両面での快適さ、機動性、安定性といったものが養えるというわけである。

 と、ここまでは、前回のいわば復習。
 筆者自身、高岡氏の著書などを通して、自分自身の身体の精妙な働きの一端をより具体的に感知することができたと感じている。本格的に学んでいけば、氏が言うような意味での、人生の達人になることも可能なのかもしれない。
 それはとても素晴らしいことだろう。革命的と言ってもいいかもしれないし、人の無限の可能性が、文字通り、開かれていくに違いない。
 しかし、筆者の想起する“人生の達人”とは、イメージが少々違っていることも事実だ。今回は、この点について触れておくことにしよう。

 7つの身体意識……実際にはもっと無数の身体意識が定義づけられているようだが、このように人の「身体」を総合的に鍛え、高めていくことには、現実問題、一つの落とし穴があると、筆者は思っている。

 たとえば、部分の総和が全体にはならないという言葉があるが、テストでいつも50点くらいしか取れない人から見れば、100点を取れる人も、95点の人も、90点の人も、多少の程度の違いはあっても「雲の上の人」であるだろう。
 しかし、現実には99点と100点の間には、踏み越えられない決定的な壁が存在する。
 数字の持っている価値、概念が違うと言い換えてもいい。

 一つ一つの身体意識を磨いて、50点の状態を60点、70点……と上げていく。これはすばらしいことだ。しかし、そうやって点数を積み重ねていった上で、最後に100点の状態があるのかというと、そういうものではない。
 50点しか取れない人は、高い点数の人と比べて、自分のことを凡人と思っているのかもしれないが、50点だから凡人ということではない。
 彼らは、点数を積み重ねていった一番トップのところに100点という価値というものを置いている。そして、この100点がイコール達人の定義と重なっている。そうではないだろうか?

 じつはそうした発想をしていることが、凡人の証し、と言うこともできる。
 言い換えるなら、100点というものの定義を変えてしまえば、その瞬間に、あなたは50点のままで「達人」にることができる。
 50点であるという状態が、すでにそのままで何の問題もなく100点なのだということ。
 しかし、能力を少しずつ身につけていくことで、その分自由になれる、達人になれると思っている人は(これもまた間違いではないのだが)、なかなかこの理屈がわからない。
 たとえば才能がある人ならば、おそらく高岡氏と出会わなくとも、7つの(あるいはそれ以上の)身体意識を身につけていき、常人にはもう追いつけないような高いレベルに達してしまうこともありえるだろう。
 繰り返すが、50点レベルの人間から見れば、もう90点であろうが、99点であろうが、「ほとんど100点と言っていいレベル=達人」に見えてしまう。
 しかし、どれほどの素晴らしい才能に恵まれていようが、このやり方では99点から上はない。100点にたどり着くには、文字通りの発想の転換をし、まったく違うアプローチが求められてくる。

 ここが人生の面白いところだ。身体意識が(いわゆる一般の人が想起する)達人のように優れていなくても、100点が理解できている人もいる。
 自分は何点でもいい、何者にもなりたくない、このままでいい。
 このように言うと、向上心もやる気もない、適当に生きているだけの人間、と思う人もいるかもしれない。
 しかし、こういう自分になることで、人は余計な力が抜け、逆に自分の好きなことを自分のペースでやれるようになる。世間はそういう人間のことを能力がある、才能があると言ったりもする。
 高岡氏自身、そういう人なのかもしれないし、彼のメソッドを学んでいる人の中にも、この感覚を身につけられた人はいるかもしれない。
 しかし、それは7つの身体意識を身につけた結果得られたものなのかというと、果たしてそうだろうか?
 筆者自身、7つの身体意識などおそらくロクに身についてはいないが、いまの「中途半端な自分」にとても満足している。変わりたい、変わっていきたいという自分の中の感情も含め、全部コミで「別にいい」と思える自分がいる。
 この先というものは別にないし、その意味では目標と呼べるものは何もない。

 こうした筆者の感覚からすると、大事なのはこの感覚が得られるかどうかであって、身体意識を鍛えることは二の次、ということにもなる。
 あるいは身体意識を磨いていくことで、結果としてこの感覚が得られると考えている人もいるかもしれない。
 もちろん、そうしたケースもあるだろう。しかしそれはある種、偶発的な結果論であって、最初の段階で設定された目的ではなかったはずだ。
 なぜなら、高岡氏の著書によると、大事な要素が最低限絞っても、7つもある。「100点を得る」ということが目的であったとしたら、どうしても焦点はぼけてしまう。

 人が何かを学んだり、鍛えたりするのには、様々な動機がある。
 だから、こんな考え方をせずに、素直な気持ちで身体意識を磨いていけば、もちろんより快適な、自由度の高い人生は送れるはずだし、繰り返すが、それは素晴らしいことだ。高岡氏の活動にしても、もっと世間に認知されたらいいと思う。
 しかし、まったく違うアプローチで自分の身体と向き合ってきた筆者には、また違った世界が見えているということだ。

 簡単に言ってしまえば、大事なことはただ一つだけでいいということ。
 守らなければならないことも、磨かなければならないことも、すべては一つ。それも身体に染みついてしまえば、特に磨いたりする必要もない。
 もちろん、人生を生きていいく上では、7つの身体意識ではないが、身につけなければならない(身につけたほうがいい)能力というものはいくらでもある。
 一つが身についたから、頭が良くなるわけでも、成功するわけでも、お金持ちになるわけでも、そして、幸せになるわけでもない。

 その意味においては人生はまったく甘くはないし、学ぶということにおいては真摯な気持ち、謙虚な気持ちがなければ、どこかで行き詰まってしまう。
 しかし、行き詰まろうが、不幸になろうが(あるいは逆にうまくいこうが、幸せになろうが)、「そんなことは関係ない」と思える感覚。
 筆者の中では、この感覚が人にとって最も価値のあるものだという認識がある。
 だから、この認識をベースにした身体論というものを(物を書くという仕事をしている手前?)わかりやすく伝えようとあれこれ画策している。

 筆者に言わせれば、人が心底望んでいるものは、そんなに大それたものではないということだ。
 他のところでも繰り返していることだが、生物のレベルですでに初めから持っている、生物である自分をそのまま受け入れている感覚、とでも言えばいいだろうか。
 理屈抜きに、当たり前に、疑問も覚えずに自分を受け入れている感覚。
 この感覚が欠落したままでは、じつのところを何を得ても何かが足りないと不安にかられる自分がなくならないはずだ。
 何かを得ても何かが足りない。これ自体はまあ、当たり前のことなのだが、当たり前のことほど受け入れられない、気づけない。不安になる……。
 では、この当たり前のことを意識的に学んだり、身につけていくことはできるのか? つまり、筆者は自分の身につけた感覚を、体系だって人に伝えたり、教えたりすることは可能か? 社会が人と人のコミュニケーションで成り立っている以上、実際のところ、いまの筆者にとって大事なことはこっちのほうだ。
 
 次回は、「身体を通してただ一つのことだけを伝えている」という点で、すでに一つのメソッドを作り上げているMRT内海康満氏について触れてみたいと思う。
 筆者が大事にしている「しっぽ」の概念も、もとはと言えば内海氏の「仙骨が身体の中心にある」という理論から影響を受けてのものだ。
 高岡氏の提唱する身体意識の概念に慣れてしまっている人からすれば、それとはまったく定義の違う世界観、身体観のあることに驚かされるかもしれない。
 身体もまた多様性の上で成り立っている、その意味で精妙不思議な「宇宙」なのである。


投稿者 長沼敬憲 : 2005年05月22日 09:12

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