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2005年05月25日
■立花隆氏のコラムから「憲法改正」問題を読み解く(上)
最近、中国、韓国、そして北朝鮮と、日本をとりまく東アジア情勢が何かと紛糾している。各国の識者がそれぞれの立場から「正論」を展開しているわけだが、当然のことながら、それでは共通の理解というものは得られない。
結局のところ、どちらが正しいか、間違っているか、最後はこうした善悪論に終始してしまうことが多いように思われる。
筆者が時々チェックする評論家の立花隆氏のサイトに、先日、この善悪論から抜け出すためのヒントになりそうな話題が掲載されていた。
タイトルは、「日本を軍国主義へ導く「普通の国」論の危険性」。興味のある人は同サイトを参照してもらいたいが、そこでテーマになっているのは、冒頭の東アジア情勢とも密接な関係のある「憲法改正」問題。
「憲法改正」をめぐる議論で大きな焦点になっているのは、戦争放棄をうたった憲法第9条の問題だろう。
戦後の日本は、ご存じのように、憲法では戦争放棄をうたっていながら、現実には自衛隊という軍隊を保持してきたという、制度上の矛盾を抱えてきた。
事実上の軍隊を持ちながら、その軍隊が軍隊としては十分に機能せず、軍隊によって守るべき日本の繁栄や平和は、同盟関係にあるアメリカの軍事力によって保証されてきたという側面がある。
大ざっぱな言い方になるが、改憲派と呼ばれる人たちは、これは国として正常な状態ではない、自衛隊を憲法で軍隊であると規定した上で、それをしっかりシビリアンコントロールする「普通の国」に日本もなるべきだと主張している。
一方、護憲派の人たちは、そのように憲法改正してしまえば、第9条の戦争放棄の理念が喪失し、日本が再び軍国主義の道を進むことになると危惧する。かつて旧日本軍に侵略を受けた中国や朝鮮半島の人々の被害感情を刺激し、東アジアの国際情勢はさらに混迷の度合いを深めてしまうということだろう。
立花氏は、先のコラムのタイトルを見ればわかる通り、日本が「普通の国」になるのを危惧する“護憲派”の一人であるようだ。
ただ、現実の国際情勢を無視した理想主義に陥りやすい護憲派の人々と異なり、かなりリアリスティックな視点で「護憲」を主張しているところが面白い。
まず氏は、
これまでは、第9条があるために、安保条約があっても日本は血を流さないで済んできた。しかし、第9条を捨てたとたんに、日本は、アメリカに求められるがままに、ベトナム戦争に参加して血を流さざるをえなかった韓国と同じ運命をたどることになりそうなのである。
という。アメリカからすれば、同盟国なのだからそれは当然だということになるだろう。これが世界的な常識であり、「普通の国」になるということの「普通」とは、おそらく一般的な日本人のイメージする「普通」とは違う。
「普通の国」である韓国には、徴兵制もある。しかし、日本人の多くはそれを(戦前はともかく)「普通」とは思っていないだろう。
その点において、「現実的ではない」と揶揄される第9条の理念は、じつは日本人の平均的な国民感情とも一致してしまっている。日本は、その意味では世界的にも非常に奇異な(普通ではない)感覚を持った国なのである。
もちろん、理念と感情が一致していようが、現実の国際情勢はそのような原理によって動いてはいないことも確かである。
ピンと来ていない日本人も多いかもしれないが、世界中の国の人々がすべて(大方の日本人のように)「平和を望んでいる」わけではないのである。
時には国益のために戦争をすることも必要だと思っている。あるいは、民族的・宗教的な憎しみをそのような形で晴らしたいと思っている。
よく語られがちな、“一部の「悪辣な独裁者」が「平和を望んでいる庶民」を犠牲にして、自らのエゴのために戦争を仕掛ける”……という図式は、現実的にはあるようでない。歴史的に見た場合、このように為政者を「悪」に仕立て上げる図式は、戦争の勝者が敗者を裁く時に作り出されるパターンの一つである。
戦争の爪痕が深ければ深いほど、誰かを悪者にでもしなければ(たとえば、第二次大戦における諸悪の根源はヒトラーにあるとか)、国民感情を一新して、国を復興させることなどできない面があるからだ。
話が逸れてしまったが、立花氏の指摘の興味深いのは、憲法第9条が理念として素晴らしいから守らなければならないということではなく、現実の政治の局面において役に立つ、だから守るべきだと言っている点だ。
日本が、9条を廃した後の自国の生き方をちゃんと考えていて、国民各層が合意できるような、そしてアメリカも同意できるような対案を出せるならいい。それなしに、9条を捨てたら、日本はアメリカがゴリ押しする「日本もアメリカと肩をならべて戦い、共に血を流せ。同盟国ならそれが当然だ」という要求にズルズルと従わざるを得なくなるだろう。
たとえば、護憲政党と言われる共産党や社民党が(ありえないと思うが)政権を取った場合でも、結局のところ、現実の国際問題と向き合わなければならない。
おそらく彼らも、自衛隊は廃止させられないだろう。“廃止という理念”は打ち出すかもしれないが、現実にはそれ以上の決断をするとは思えない。
ということは、いまの自公政権と同じように(それ以前の55年体制とも大して変わりはなく)、第9条と日米安保という「理想と現実」の微妙なバランスの中で国を舵取りしていくしかなくなるということだ。
つまり、第9条の理念も「戦争抑止の手段」として捉えたほうが、現実の政治の局面では有用な認識であり、よりリアリスティック。改憲派の人々は、それ以上にリアリスティックな方針を持っているのかと、氏は批判するわけである。
立花氏は、「最近読んだ」という堤尭氏の「昭和の三傑」(集英社インターナショナル)という著書を紹介しながら、第9条の「戦争抑止作用」が偶然的にもたらされたものではなく、終戦直後の首相・幣原喜重郎ら「練達の外交官政治家が、考えに考え抜いて作った」仕掛けであったと指摘している。
これも面白いので、筆者自身、堤氏の著書を読んだ上でまた取り上げてみたいが……、大まかな要点のみ抜粋すると次のようになる。
幣原の深謀遠慮は、アメリカをして、憲法第9条の作者はアメリカであるかのごとく思いこませた。憲法第9条はアメリカの理想主義が日本に無理やり押しつけたものであるかのごとく思いこませた。だからこそ、アメリカが日本に再軍備を迫ろうとしたとき、日本が憲法第9条をタテにそれを拒もうとすると、アメリカはそれ以上の無理押しができなかったのである。
一口にいうなら、憲法第9条は、日本の国益を守る最大の壁であり、柱だった。冷戦時代、日本の国益は、アメリカに身を寄せて、アメリカから最大限の保護(軍事的、経済的)を引き出しながら、アメリカに対する貢献(軍事的、経済的)は最小限にとどめることにあった。それを可能にしたのが、憲法第9条だった。日本がこの防護壁のかげに身を隠すと、アメリカは、それ以上日本に迫れなかった。その防護壁はアメリカが作り、日本に押しつけたものだったからだ。
立花氏も言っているが、これをズルイという人は、政治的に見れば、「ナイーブすぎるほどナーブな人」ということになる。それでは、この複雑極まる国際情勢のなかで「平和」を維持することの難しさを(堤氏が指摘するような戦後の日本外交のギリギリの選択というものを)、おそらく理解できないだろう。
しかし、それが理解できたとして、問題はここからだ。
では、今後もこのように意図的に?生み出された“制度上の矛盾”を棚上げしておかなければならないのか? そうすることでしか平和は生み出せないものなのか?
立花氏は、この点に関して、「(日本が)9条を廃した後の自国の生き方をちゃんと考えていて、国民各層が合意できるような、そしてアメリカも同意できるような対案を出せるならいい」と、ひとつの“条件”を出している。そのような前提があれば「改憲」も理解できる(現実的である)、ということだろう。
確かにそのような対案を出せる国に変われるというなら、それは悪いことではない。ある意味で、“戦後の呪縛”から日本が解き放たれるのはその時かもしれない。
しかし、多くの人はいまの政治家の顔を思い浮かべながら、「それは難しい」と感じているはずだ。では、呪縛はずっとなくならないのだろうか?
と、思ったよりも長くなってしまったので、この続きは次回の稿で。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年05月25日 18:03