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2005年05月25日
■立花隆氏のコラムから「憲法改正」問題を読み解く(下)
ここから前回の続き。
まずは、筆者の感じている日本の「未来像」について触れてみたい。
前回も書いたが、日本の国民の多くはどんな理由であれ戦争はすべきでない、したくはないとごく自然に感じる、“不思議な民族性”を持っている。
たとえば中国や韓国は、教科書問題などを取り上げて、日本の右傾化(軍国主義化)を非難するが、現実問題として右傾化など何ら進んでいないことは、この国で普通に暮らしていれば、誰もが感じるであろう現実だ。
歴史的事実を簡単にたどってみても、日本はすでに戦前の段階で「軍事的な成功」というものを経験してしまっている。
しかし、それはもう過去の話だ。大東亜共栄圏構想を一種のバブルと捉えるならば、敗戦によってそのバブルははじけ、国政の一切がリセットされた。
そして、それから戦後のわずかな期間で、今度は「世界第2位の経済大国」にも登りつめた。しかし、これもご存じのように、90年代初頭の経済バブルの崩壊によって大きな転機を迎えた。
べつにお国自慢をしているわけではない。
ただ、こうした「過去の経験」をふまえた上で、「いま」がある。
要するにいまの日本人の大半は、もう軍事的成功にも、経済的成功にもあまり興味は持ってないということだ。
それよりももっと質実の伴った、「身も心も実際に豊かになれるような生活」をしたいと思っている。
また、質実ということで言えば、日々接している情報に関しても、特定の思想や価値観に染まったものではなく、当たり前で正確なことを知りたいと感じている。
しかも、そのような生活が可能となるような土壌が整いつつある。無自覚な人が多いが、世界的に見ても非常に恵まれた状況の中に日本人はいるのである。
わかりやすく言えば、「本物志向の時代」に入ったということだ。
「本物志向」という言葉自体はずいぶん前から使われはじめているが、これは思想や価値観の解体を伴うものであるから、どんな国でも容易に体験できるというものではない(個人レベルではもちろん例外はある)。
耳障りはいいが、為政者にとっては「危険思想」であるとも言える。それがいまの日本では、当たり前の言葉として浸透しつつある点が重要なのである。
たとえばヨーロッパには、宗教(キリスト教)という伝統的な価値観が人々の意識や行動を規定している面があるだろう。
この規定が伝統や文化を作り上げている側面もあるが、同時に精神的な壁を作り、他の文化への無理解をも生み出している。
いや、ヨーロッパ人だって他文化を理解する感性はあるはずだと反論があるかもしれないが(もちろん、ないとまで言わない)、では、彼らが普段意識しているキリスト教と同等のボリュームで、仏教や儒教、イスラム教……を「理解」することができるかというと、なかなかそうはならないと筆者は感じる。それくらいに思想や価値観の縛りというものは強固な面があると思えるからだ。
つまり、上記はわかりやすい一例だが、では、このように縛りがいくつもある人が志向する「本物」とは、いったいどんな「本物」なのかという話になるだろう。
宗教の話で言えば、自分の信じる神が「本物」だという単純な話にもなってしまう。
もちろん、それが他者(他民族)とのあつれきを招くことにつながると頭でわかっていても、なかなか「自分たちの価値と他者の価値を対等に据える」ということはできないものなのである。
中国や韓国にしても、結局のところこの作業が満足にできていないために(おそらく、その発想自体が欠如しているために)、狭い意味でのナショナリズム(民族主義)の枠の中に多くの人の感情が縛られている。
そして頭のいい?為政者たちは、この国民感情をうまく利用することで、国政や外交を有利に展開させようと画策している。
では、ひるがえって日本はどうかというと、こうした精神上の縛りというものが、驚くほど「ない」ことに気づかされないだろうか。
それはいまに始まった話ではなく、日本の歴史の特質そのものでもあり、その特質があったからこそ、近代の軍事的成功も戦後の経済的成功も可能になったと捉えることができる。そして、「失敗」も含めたそれら過去の経験をふまえた先に、「本物」を受け入れようと志向する日本の「いま」がある。
繰り返すが、「本物志向」には、伝統破壊を生み出し、価値観の極端な多様化をもたらす「危険」な側面がある。
ある程度の段階をふまなければ、手軽に志向できるものではない。
「ある一つの状態」に留まろうということ自体が(つまりは伝統を守ろうということ自体が)、「本物志向」に反してしまう場合もありえるからだ。
もちろん逆の言い方をすれば、そのような伝統を解体し、様々な価値観を同等なものとして受け入れるという経験をすることで、結果として「伝統の価値が見直される」こともある。また、新しく生み出されたものの中から、伝統的なものにも通じる価値が、先祖帰り的に見いだされたりもする。
「本物」と呼ばれるものは、そうした過去と現在の融合の中で醸成され、よりクオリティーを高めていく側面を持っている。
話が長くなってしまったが、古いものも新しいものもないまぜになった日本という国は、「本物」が生まれやすい風土であることがわかるだろう。
現にこうしたカオス的な状況の進んだこの十年ほどの中で、目に見えてわかりやすい形で「本物」が表舞台に現れはじめている。
人物で言うならば、そのシンボリックな一人に、やはりイチローが挙げられる。
アメリカでは、いくつもの記録を塗り替える彼の驚異的な活躍が報じられる一方で、中心選手のストロイド剤の常用が社会問題にもなっていると聞く。
彼は、野球という競技を通して、アメリカに新しい、彼らにとって未知の価値観を、身をもって伝える役割をいつの間にか果たしてしまっている。
たとえば、未知の価値観と言ってピンと来ない人でも、アメリカ人の一般的な身体観の中に、肉体をビルドアップし、「パワーをつけることで強くなる」という発想があることは否定しないだろう。その意識が高じれば、ひとつの必然として、ストロイドのような人工薬物に頼ってしまう負のケースも表面化する。
しかし、日本人の伝統的な武道、武術には、そうしたパワー思想とは相反する「柔よく剛を制する」という身体観がある。
前回のコラムに登場した高岡英夫氏の理論を持ち出すまでもなく、イチローの動きがそうした日本の伝統的な身体観に合致していることはよく知られている。
ただ、さらに注視しなければならないのは、この先の話だ。
イチローは野球という人気のある競技の、それも世界的に最も注目される場に立っているから、鈍感な人でもさすがに「すごい」と認識できる。
しかし、同じポテンシャルを持った人が、「ごく普通の会社」にいた場合はどうか? そんなにすごい人が会社になんているわけがない。そう思うだろうか?
筆者はこれまで何度か、単純な「世代論」というモノサシを使って、イチローを生み出した風土=日本の「未来」について予測(予言?)をしたことがある。
すなわち、イチローが特別な環境の中で純粋培養されたわけでない以上(他の日本人と同じ空気を吸い、教育を受け、食事をしてきた以上)、同じようなポテンシャルを持った「同世代」は、少なからず日本のどこかに存在している。
そのように捉えることで、社会と人が時代の中でひとつにつながる。
もちろんイチローの場合、父(鈴木宣之氏)の“野球教育”が純粋培養に近い環境を生み出したことも指摘できるので、その部分で「有利」であったかもしれない。
しかし、これまで触れてきたような戦後の日本人が知らずに経験してきた伝統の破壊、価値の多様化というものは、負の側面も多く生み出した一方、「柔軟でとらわれのない感性」を生み出すことにもつながっている。
社会の規制が少なくなるほどに国は乱れ、犯罪は増え、モラルのない人間を量産していくが、すべての人がマイナスの害ばかり被るとは限らないということだ(戦国時代に生きた人がすべてケモノのようだったわけではないように)。
ただ、繰り返すが、すべての人が世の注目を浴びているわけではない。ポテンシャルに遜色がなくとも、同じスケールで才能を発揮できるというものでもない。
たとえばイチローのように野球(スポーツ)が好きならば、早ければ10代から才能が開花し、20代で充実期を迎えるが、事業家であれば、順調に成功しても充実期は30代、政治家であったら早くても40代というのが「相場」。
そのようなことを数年前に書いた「サムライ」で触れておいたら、案の定と言うべきか、最近ではアテネ五輪、格闘技界などで才能ある10代、20代の日本人が登場する一方で、楽天の三木谷氏やライブドアの堀江氏など、30代にして「巨万の富」を築いた事業家も、表舞台に登場するようになった。
事業の世界に関しては、成功したすべての人がメディアに登場するとは限らないので、「もっとすごい本物」が、どこかで活躍していることも想像できる。
いろいろな問題を抱えながらも、「世代交代」はある程度順調に進んでいることが見てとれるわけである。
となれば、新しい時代の政治家の登場は「これから」ということになる。
イチロー的な感性と能力を持った政治家……、まあ、これは歴史的な流れから割り出せる予測なので「いつ」とか「だれ」とまでは特定できないが、そんな人間がこの先現れたとしてもべつに驚くべきではない。
そして、ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、憲法改正をする時機があるとしたら、こうした政治家が国の中心に立ったときだと筆者は思う。
小泉首相や民主党の岡田代表の時代に憲法改正などして「普通の国」になってしまったら、立花氏が指摘するように、アメリカの覇権主義に「つきあわされる」可能性が高くなる。
しかも、そのアメリカとて安泰ではない。国として衰亡期に向かっているという指摘もある。ヘタすれば共倒れということになりかねない。
護憲派と改憲派の多くは、筆者の見るところ、理想と現実のどちらをより志向するかで分裂してしまっているだけで、さほど異なった世界観を持っているとは思えない。
つまり、本来ならば「現実としての護憲」、「理想としての改憲」という感覚が最も現実的であるはずが、両者ともおかしな形でねじれ現象(理想としての護憲×現実としての改憲)を起こしてしまっている。
一見すると護憲が「理想」で、改憲が「現実」にように思われがちだが、じつは護憲のほうが日本という国にとっては「現実」。「普通」でもある。
改憲派はグローバルスタンダードのモノサシで一つの「現実」を提示してはいるが、それが本当の意味でグローバル=普遍的な「現実」であるかというと、もしかしたら国を危機に陥れるだけの「現実論」かもしれないわけである。
まあ、ナントカ派に分かれて議論を戦わすのもよいが、護憲も改憲も、情勢判断によって選択される「手段」でしかないということだ。
その点の感覚は、立花氏が指摘する通りで問題ないと筆者は思う。
加えて筆者に言わせるならば、その情勢判断という点で言えば、政治がらみの改革などはまだまだ先の話ということになる。
表舞台に現れる政治家に「日本が普通なんだ」と説けるくらいの感性と度量、そして論理性がないうちは、改憲なんて口にしてもヤケドするだけなのかもしれない。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年05月25日 21:33