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2005年06月08日
■“お墓参り”に行きそびれてる一日本人の見た靖国神社問題
先日、テレビを見ていたら「報道2001」という朝の政治討論番組で、靖国神社の「A級戦犯合祀」問題を取り上げていた。
要は、戦争被害を受けた中国や韓国の国民感情を考え、「A級戦犯」は別の神社に分祀したらどうか、無宗教の追悼施設を別に建てたらどうかといった“代案”が、与野党問わず、一部の政治家などから提案されている。それについてゲストがそれぞれの考えを発言していたわけだが……。
筆者は番組を見ながら、以前、仲のいい友人が「面倒なトラブルが起こるくらいなら、首相が参拝をやめるなり、分祀するなりすればいいじゃないか」と言っていたのを思い出した。
経済問題とか、もっと現実的に大事なことがあるんじゃないか、それが妨げられるなら、べつにこだわる必要もないのではないかといった論調だったと思う。
参拝をやめるということは、要するに、仏教で言えば先祖のお墓参りをやめるということ。
そう言えば自分自身、もうかなり長い間、お墓参りをしていない。
もちろん、ほめられたことではない。なんとか機会を作って、お線香の一つでもあげないとマズいのではとたまに思ったりもする。
これと同じに考えれば、靖国神社には戦争で亡くなった霊が(加害者・被害者の隔てなく)祀られているわけだから、一国の首相が参拝に訪れるのは当然。
むしろ参拝しないほうが不義理ということになる。
これは思想の問題を云々する以前の話だと思うのだが、いかがだろうか?
反論がありそうなので、分祀の問題と併せて、さらに次のように考えてみよう。
たとえば、筆者の家は父親が分家だったので、両親は一生懸命働いて、もうずいぶん昔に檀家の寺にお墓をつくった。そこに父方の祖父母ら身内のお骨が納められている。もしこのお墓を急にどこかに移せと言われたらどうだろう?
これだけではあまりピンと来ないかもしれないので、(あまりいい例えではないが)この墓に身内の“犯罪者”が眠っているとイメージしてほしい。
それを隣のお墓の所有者が突き止めて、「犯罪者の隣では自分の先祖は成仏できない。どこかに移してほしい」と訴えてきたら、すんなりハイと言えるだろうか?
隣の墓の親族が不愉快な気持ちになるのもわからないでもない。しかし、仮にその故人がそう思われても仕方のない犯罪を冒していたとしても、もはや“仏”になっている。現実問題、どこへ移せばいいのかという話にもなる。
むしろ、血のつながった自分たちが守ってあげなければかわいそうだ、成仏できないと考えるのは、普通にまっとうな感覚。これはあちこちで指摘されていることではあるが、日本人としては、ごくごく自然な宗教感情ということになるだろう。
ちなみに、いまどこへ移せばいいのかという話が出たが、神道の場合、お墓に死者の骨を納める仏教とちがって、姿形の見えない霊を祀っている。
番組の中で竹村氏も言っていたが、分祀と言っても、靖国神社から別の場所へ「A級戦犯の霊」を移動させられるわけではない。本体の霊(本霊)は、靖国に残る。分祀された霊は、あくまで分霊(わけみたま)なのである。
形だけ分祀を行っても、本質的に見れば何の意味もないということだ。それよりも、こうした日本の文化の特性を他国の人間にももっと理解してもらうべきだ。それを伝える努力が必要だといったことを、竹村氏は主張していた。
確かにそれが正論であり、筋が通っていると、筆者も思う。
しかし同時に、そんな日本の文化がどうだとか、おそらく中国や韓国の政治家も、一般庶民も関心はないのだろうとも思ってしまった。
中韓の政治家は、もともと国内政治の不満のはけ口を“反日教育”“反日報道”という形で、いわば一つの政略として日本に向けさせている側面があるようだ。
よく指摘されるように、仮に小泉首相が参拝をやめても、あるいは「A級戦犯」の分祀や無宗教の追悼施設の建設が実現したとしても、正直、それで彼らの反日政策がなくなるとは思えない。自国民の被害感情すらも政治の道具に使って国際関係で優位に立とうという、一面でシビアな政治感覚がそこに見いだせるからだ。
では、どうしたらいいのか? 筆者が見た番組のように「出口なき靖国問題」とでも形容するしかないことなのか?
ここで、先ほどの筆者の友人の話を思い出してほしい。彼がなぜ、“事なかれ主義”と言ってもいいような発言をしたかというと、要は、彼の中には「お墓参りなんてどっちでもいいじゃないか」という感覚があるからだろう。
こう言うだけでは怒られそうなので、もう少し勝手に代弁すると、「お墓参りをしないことをいいとは思っていない。ただ、そんな休みはなかなか取れない。仕事を優先しなければ生活だってできなくなる。だから仕方ないじゃないか」ということになるのかもしれない。
筆者自身、お墓参りに行かない(行けない)のは同じような理由だと言える。その意味では、とても非難できる立場にはない。
しかし、これを国の問題と結びつけてみたらどうだろうか?
「A級戦犯」の分祀や無宗教の慰霊施設の建立を主張する人は、「お墓参り」よりも大事なもの、もっと優先すべきものがあるということになる。
そう言われて、「侵略戦争の被害を受けた中国や韓国の人たちの被害感情を和らげることが優先だ」と答えるならば、それは竹村氏ではないが、「日本人なんだからもっと日本の文化についても理解したら?」という話になってくる。
お墓に眠るのが“犯罪者”であるというなら、なおさらちゃんと供養してあげなければならない。隣のお墓の所有者にもまずその点を話し、理解してもらう必要がある。
そもそも、どこかへ移すだの、無宗教だの、ホント祟りが怖くないのだろうか? 自分が霊だったらないがしろにされたと思う。だからきっと主張した人間に祟るだろう(霊が存在するかどうかの問題ではなく、気持ちの問題について言っている)。
あるいはこれとは別に、筆者の友人もそうなのかもしれないが、中国との経済関係を重視している人たちもいる。彼ら(政治家や財界人)は、一つの政治的な譲歩として、分祀や慰霊施設を考えているということだろう。
これは、「会社が忙しいからお墓参りに行けない」という人の発想と、ほぼ同じ意味合いに捉えることができる。
しかし、その事情はよくわかるにしても、正当化まではできないはずだ。
いくら経済的な問題(生活がかかっている)とはいえ、「お墓参り」をしないのが不義理であることは一種の社会常識。それを自覚した上で、本当にそうした主張しているのかという話になってくるからだ(結局、普段の筆者と同じように、「お墓参り」のことなんてすっかり忘れているのではないだろうか?)
さて、被害者への配慮、経済問題優先、このどちらにも「自覚」の欠けている点があることが見えてきた。
しかし筆者は、ここまで書いてきたことは問題の核心ではない、日中関係、日韓関係がこじれているのはもっと別の理由があるのではないか、と感じている。
先ほど分祀や慰霊施設の建設を、一種の「事なかれ主義」であると筆者は書いた。
もちろん、そんなことはない、きちんと中国や韓国との関係に向き合った上での結論だと反論する人がいることも知っている。
しかし、本当に向き合うというのなら、繰り返すが、竹村氏の言うように日本の文化的な特性をきちんと理解し、それをはっきりと伝えることが筋。そうも書いた。
その点を曖昧にしたまま、実質的には何の意味もない分祀を行ったところで、それは“本気の行為”ではない。少なくとも、中国人にも韓国人にも本気さは伝わらない。だからまたしばらくしたら、「反省心が足りない。謝罪しろ」と言ってくるはずだ。
(追悼施設にしても、無宗教という以上、結局のところタテマエ的なモニュメントにしかならない。なにしろ霊そのものは靖国神社に留まっている。百年経って残っているのは果たしてどちらなのかと、どうして発想できないのだろう?)。
話しが少しそれてしまったが、では、日中・日韓関係が本気の産物でないとすると、今の日本にとって(日本の政治家にとって)本気になれるものとは何だろうか?
察しのいい人はすぐ気づいたかもしれないが、それはアメリカとの関係である。
先のゴールデンウイークの休暇中に、日本の主要な政治家のほとんどがアメリカに「挨拶回り」に行ったことを覚えているだろうか?
中国に行った政治家はわずか、韓国に至っては誰か行ったのかもしれないが、ニュースにすら報道されなかったと記憶している。
経済面などを見れば、確かに中国は日本にとって重要な国だ。韓国の存在も無視はできまい。しかし、本命ではないのだ。
言い換えるなら、アメリカとの良好な関係が維持していけさえすれば日本は安泰だ、何とかなるといった認識が大勢を占めている。
この点について、国際情勢解説者・田中宇氏がネット上で発表しているコラムの中で次のように語っている。
筆者が示唆を得た箇所を、いくつか引用させていただこう。
中国や韓国は「日本は再び覇権をとりたいだろうから、ドイツ式に、日本政府が過去の反省を堅持することを条件にしよう」と考えている。「アジア共同体」の中国語訳を「東亜共栄圏」にしている新聞社もある。ところが、日本の側は「もう永久にアメリカの傘下で生きていくのだから覇権など要らない。大東亜共栄圏にも関心はない。過去の反省も、もう60年やったのだから、このぐらいでいいはずだ」と考えている。
日本政府にとっては、アメリカとの関係が最重要であり、アメリカの世界支配が永久に続くことが望ましい。アメリカの支配力が弱まると、その傘下にある日本の力も相対的に弱くなってしまう。中国や韓国からの「アメリカに頼らないアジア共同体を作りましょう」という誘いに乗ることなど、とんでもない話である。小泉首相が靖国神社に参拝するのは、中韓からの誘いを断るための方策である。
(以上、「短かった日中対話の春」より)
どうだろうか? これを対米追従で情けない、アメリカの傘下に入っているも同然と嘆く人もいるかもしれないが、必ずしもそうとは言えない。なぜか?
筆者は、この世界を東洋と西洋に分けた場合、東洋の最先端に日本があり、西洋の最先端にアメリカがある、と書いたことがある。
近代以降の世界において、この両国は急速に発展を遂げ、古い文明圏(中国やヨーロッパ)から脱却し、ついには全面戦争まで体験した。
戦後は戦勝国と敗戦国という立場にありながら密接な同盟を結び、コインの裏表のような関係で西側諸国のイニシアチブを取ってきた。
大ざっぱに言えば西側の軍事はアメリカ、そして経済は日米で担ってきた(その意味では、アメリカ側の負担のほうが大きかったことがわかる。日本は、「対米追従」などと言われながら、政治的にはずいぶんうまく立ち回ってきたとも言える。この点については、後日、堤尭氏の「昭和の三傑」などを下敷きにひもといてみたいと思う)。
その後、東西冷戦が終わり、西側諸国という概念も形骸化したが、小泉首相とブッシュ大統領の関係を見るまでもなく、いまだ強固な日米関係は続いている。
田中氏は、様々な国際情勢を分析しながら、「アメリカは衰退期に向かっているが、日本の政治家は、小泉首相も含めそれに気づいていない」といった趣旨の発言をしている。衰退は言い過ぎだという人も、イラクへの強引な宣戦やその後の統治の泥沼化などを見るにつけ、アメリカの国際的な影響力の低下を感じ取っているのではないだろうか。
しかし、それでもなお、政治家たちが対米関係を重視するのは(あるいは、アメリカの衰退に気づかない、気づいていたとしても、つい目をつむってしまうのは)、それくらい関係が深いということだ。
批判するのは簡単だが、戦後の政治の流れそのものを断ち切るくらいの強い覚悟がなければ、「対米追従」(それを一面で利用した経済力強化)の姿勢は変わらない。
言い換えるならば、中国問題、韓国問題に本気で向き合うには、いま、アメリカに注ぎ込んでいるエネルギーの多くを東アジアに転換しなければならない。
田中氏は、中国や韓国の政治家たちも、本音のレベルではそれを望んでいる、と分析する。筆者が見る限りでも、経済的な結びつきがここまで形成された以上、自国のメンツを損なわない形で友好関係が結べたほうが得策だと、そのくらいのことは国のトップとして考えているだろうなと思う。日本が本気で関係を切り結ばないから、国民感情を利用し、“反日”という別のカードを切っているということになる。
長くなってきたので、ここで一つ結論めいたことを書いてこの稿を締めくくることにしよう。
こじれにこじれている日中関係、日韓関係の背後には、日本とアメリカの戦後以来の蜜月的な同盟関係があると書いた。
ということは、日米関係を見直さない限り、中韓との関係も変わらない。
では、日米関係を見直すとはどういうことか? ここには憲法改正問題もつながってくる。憲法を変え、自衛隊の位置づけを明確にし、日本が軍事的に自立ない限り、アメリカとの同盟関係を崩すことは難しいからだ。中韓は「日本の軍国主義化」を非難すると思うかもしれないが、深読みするなら、それすらも彼らの戦略かもしれないということもある。
(日本が世界の他の国々と同様、当たり前に軍隊の存在する「普通の国」になるべきなのか? という点についてはまた稿を改めて論じることにしよう)。
いずれにせよ、こじれた中韓関係も、日本の政策の根幹が変わればあっさりと解消されてしまう可能性があるということ(政治的な意味でだが)。
ただ、それを可能にするには、大前提として、それを可能にするだけの強力なリーダーシップを持った政治家が、日本に現れる必要がある。
つまりは、そんな政治家が現れるかどうかということに、ここまでの問題はすべて集約されていく面がある。
筆者はいまの日本の社会状況を考えれば、それもありうると考えている。そのことについても、以前ふれたことがある。
変化は、多くの人の気づかないところで、水面下で進行している。結局のところ、それをどれくらい感じ取れるかが、世の中を見る大きな基準になってくる。
感じ取るには自分自身の感覚を養うしかないと、最後の最後は、いつもの身体論に結論が落ち着くことになりそうだ。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年06月08日 00:50