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2005年09月10日

■超才? 明石散人「視えずの魚」を読んでみた

このサイトの中でも何度か取り上げたことのある明石散人氏の著作を、最近2冊ほど新たに読んでみた。
歴史が好きな人の間では、知る人ぞ知る存在。筆者が「信長が本当に天才なのか?」という疑問をハッキリ抱くようになったのも、思えば明石氏の「二人の天魔王」(講談社)を読んだのがきっかけだったろうか? 同書は、信長は決して独創的な人間ではなく、一時代前に「天魔王」と恐れられた足利6代将軍・義教をモデルにしていたという「仮説」が、豊富な資料解読によって浮かび上がってくる、非常にインパクトの強い1冊である。

その明石氏の処女小説が、今回読んだ「視えずの魚」(講談社)。
まず、裏表紙のキャッチコピーがすごい。

「偶然の集積は瞬間的に奇跡として時間の先端に現象する」! 推理・歴史・官能・美学・哲学……。天下の超才・明石散人のすべてを鏤(ちりば)めた絢爛たる処女小説にして、絶無の神品。「全宇宙の外側の景色」から視た時間の先端の奇怪にして精緻きわまるコラージュ。
これを読まずして明石散人は語れない!

本当にもう、あおりにあおってます。笑。
とりあえず、このキャッチの冒頭にある「偶然の集積は〜」について本文でふれている箇所を、抜粋してみます(Web上でわかりやすく見せるため、一部段落などを変えて表記しています)。


時間の先端は自己の中に一つしか所有できない。未来から視れば、現在所有する自己の時間の先端は他の時間の先端と対立軸に存在することは明確だからだ。
自己以外の時間の先端は未来時間が過去の景色を視る時にしか成立しない。いつも左へ曲がる道をふと右に曲がったところで、全てで辻褄は合い、何も変わらないのである。
一方で、未来から視れば左の景色と右の景色の違いは明確なのだ。『どうしてあの時に限って右へ……』、世の中の現象はこれが同時多発的に起きている。だから奇妙なのだ。

なにやらわかりにくいと思うので、勝手に解説してみます。

時間の先端は自己の中に一つしか所有できない。
(人は「いま」という一つの時間の中でしか生きられない、ということですね)。

自己以外の時間の先端は未来時間が過去の景色を視る時にしか成立しない。
(でも、過去を振り返ったとき、じつは無数の選択肢があったことに気づく。これは「いま」という時間に当てはめてみると、じつは選択していない時間が同時に、並列的に存在しているという言い方になる)。

いつも左へ曲がる道をふと右に曲がったところで、全てで辻褄は合い、何も変わらないのである。
(「いま」は一つしか選べないので、ふと別の選択をしたところで、その選択したものがその人にとっての「いま」になる。この原理は絶対に変えられない)。

一方で、未来から視れば左の景色と右の景色の違いは明確なのだ。『どうしてあの時に限って右へ……』、世の中の現象はこれが同時多発的に起きている。
(「いま」が「過去」になったとき、人ははじめて自分の選択しなかった時間の存在を知ることができる。ふと選択したことの「ふと」の不思議さを感じたりする)。

だから奇妙なのだ。
(そう。ただ、奇妙というのは不可解という意味ではない。不可解と思うのは、この仕組みが見えていないから。「ふと」の不思議さを感じたとき、人は奇妙という感覚を抱くことができる。そこに人生の玄妙さがある……)

ちょっとわかりにくいかな……。
これだけではなにやら難しいことばっかり書いてあるように思われそうなので(半ばそうなのだが)、別のページから関連してそうな箇所を抜粋。

「いつだったか……、しのぶちゃん、人が何か確認する時って五つの要素があるんだけど知ってる?って。
私は目で視えること。耳で聞くこと。体のどこかで触れること。それから何となくわかると言ったような直感。それに予言、と答えたら、笑いながら三つ目までは正しいけど、あとの二つは駄目だと言うの。
私がどうしてって聞くと、あとの二つは同じものだ。それから直感に対する解釈も間違っている、と言ったわ。直感を支えるのは、何となくなんていうあやふやなものではなく確実な経験なんですって」

「あとの二つを何と言ったんです。明石さんの思考パターンを探る上で重要なキーワードになるかもしれません。是非とも知りたいですね」

「四つ目は記憶に基づく直感。五つ目は気配だというの」

「明石さんらしいな。直感はあやふやなものではなく、記憶に基づく帰納的推論というわけか。そしてその先に気配がある。なるほど一理あるな。それで先ほどしのぶさんは、記憶に基づく直感では気配の人明石散人は捕まらないと」

「そう言えば香月さんは、明石さんから気配の解釈を聞いたんですよね。何て言ったんでしょうか」

「それがね、大宇宙の外側の景色を視ることだって言うの。センセイには見えるんですって」

最後の“大宇宙の外側の景色”というのは、じつは筆者もわりと似た言葉を昔から使っているので興味深く感じた。
で、以下は筆者の解釈だが……。

まず「宇宙」という言葉で、物理的(天文学的)な宇宙を思い浮かべてしまうと、とたんに抽象的な、雲をつかむような話になってしまう。
人の意識の「広さ」は宇宙の「広さ」に重なる。
だから、自分にとって一番身近な?「心」という言葉に置き換えてみる。

すると「大宇宙の外側」とは、「心の外」ということになる。
「心」は生み出されたものだから、生み出した本体=自己は、当然のことながら、「心の外」にある。
つまり、心はこの世界のすべてではない、ということ。
ということは、我々が認識している宇宙もまた、すべてではないということになる……。

あるいは、筆者の書いた2冊目の本のテーマをふまえるなら、それは「脳を超える」ということ。
そこにもっと大事な本質がある。
そういう感覚がつかめると「気配」の意味も見えてくる……。
これもちょっと難しいかな?

あと、次のくだりもおもしろかった。ちょっと長めだがそのまま抜粋する。

遠矢に名前を呼ばれた麗奈は顔が少し青ざめている。さっきは自分の感情の赴くままに発言してしまったが、その後の状況を目の当たりにして自分の犯した失態に気づいたのだ。

今までの麗奈は自分の発言は自分で責任を取ればそれで良かった。周りも許したし、事実、何事も言いっぱなしで済んだのである。ところが、今の麗奈は失態の責任を自分ではどうにも取りようがない。

麗奈は男が遅れてきたことや傍若無人な態度に腹が立って思わず口走ったが、少し考えれば判ることなのだ。男は遅れてきても自分は許されるという前提で遅れてきている。男はどんな振る舞いをしようとそれも許されるという自分の枠組みを知っている。麗奈はそれを単なる傍若無人と見誤ったのだ。

麗奈の不安は更に大きくなっていく。遠矢企画は大手代理店のC・Jから全ての仕事を切られてしまう可能性さえある。

麗奈は「狼の群れにいる羊を恐れよ」という祖父の言葉を思い出していた。凶暴な狼は羊を捕らえて喰らう。にも拘らず、この恐ろしい狼の群れに一頭の羊が平然としている。何故、羊は狼を恐れない。何故、狼は羊を襲わない。答えは簡単である。実はこの羊は羊の皮を被った虎なのだ。狼はそれを知っている。だからそっとしておく。

このあとに続けて、「とにかく人は見てくれだけで人を判断しがちである。自分の拙い目筋で他人の力を推し量ろうとせず、最初はその人の周りを視るのだ」という。
そして、「もし仮に世間様が認知している実力者が、一見大したことのない人に気を使っていれば、実はその人は見かけよりずっと力を持っている」と続ける。
人生の機微を知っている人の考察だな、と思う。

正直なところ小説(読み物)としては練りが足りないというか、「いまいち」だが、以上のように随所に明石ワールドはちりばめられている。
そして強く思うのは、「いまいち」であろうがどうであろうが、こうして本になり最後まで読む人間がいる現実があるということ。
それを知っていて、確信犯的に「思いのままに」書いたのがこの処女小説なのだと考えると、明石氏の「気配」も見えやすくなるかもしれない。
あるいは、作品が表に出ること、人に評価されることの妙が見えてくる……。

このあとに読んだ篠田監督との対談本(「日本史鑑定〜天皇と日本文化」徳間文庫)については、別の機会にふれてみたいと思う。

投稿者 長沼敬憲 : 2005年09月10日 09:15

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