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2005年09月22日

■栗本慎一郎の新刊「パンツを脱いだサル」を読んだ

栗本慎一郎氏といえば、あまり知らない人は「昔テレビに出ていた人」「政治家?」という印象かもしれないが、本業は学者。
カール・ポランニーの創始した経済人類学という、非常に広範囲にヒトと社会のありようを考察する学問の、いわば日本の第一人者だ。

で、今回紹介する「パンツを脱いだサル」は、80年代に氏の名前を一躍世間に知らしめた「パンツをはいたサル」(81年)、その続編の「パンツを捨てるサル」(88年)につづく、“パンサル”シリーズの完結編。
6年前(99年)に脳梗塞を患い、“奇跡の復活”を果たした氏にとって、このシリーズの「完結」は、経済人類学者としての自己確認的な意味合いもあったかもしれない。
前2作を過去に読んできた一人として興味深く拝読したが、とりあえずざっくりとした作品解説をした上で「感想」を……。

この本のテーマは、サブタイトルにあるように「ヒトは、どうして生きていくのか」というもの。
この「どうして」は、「どのようにして」という意味合いだろうが、「どうして=なぜ」という意味もあえて掛けているようにも受け取れる。
最終章のタイトルが、「ヒトはどうすれば生きていけるか、あるいは生きていく価値があるのか」となっているからだ。

どちらにせよなかなか重く深いテーマだが、身体論・生命論研究の先駆者とも言える氏は、この完結編でどのような「答え」を出しているのだろう?

この本の構成を大ざっぱにまとめると、

1、サルからヒトへの進化についての「真相」
2、近代の金融資本を操ってきた「ユダヤ人」の実態
3、そのユダヤ人に利用された「政治陰謀としてのビートルズ」

といった具合になる。
このすべてについて触れるとかなりのボリュームになってしまいそうなので、ここでは1の話題を中心に話を進めることにしよう。

まず氏は、「サルからヒトへの進化」という枠組みそのものを疑問視する。
一般には、下記の「サバンナ説」が通説として、多くの学者に支持されているわけだが……。

我々の祖先は当初アフリカ大陸の森林地帯に暮らしていたが、気候の急激な変化が起こって森林地帯にサバンナかが進行した。
そこで、一部の類人猿のなかからは、木から降りて、サバンナでの暮らしを選び取るものが現れた。サバンナで生きていくためには、果物や木の葉など、それまでと同じような食生活をしているわけにはいかない。
狩りをする必要に迫られた彼らは、獲物を見つけるために直立し、両手に武器を持って二足歩行することを学び、道具を工夫することで脳が発達し、大きくなった。体毛を失ったのは、木の上よりも厳しい暑さをしのぐためである……。

氏は、「この説は、一見、なかなかの説得力がある。……実際、NHKなどのテレビ番組でも、いまだにこの説に基づいた『人類の進化史』的な番組をよく放映しているし、イギリスの有名なデイビット・アッテンボロー卿の制作した自然番組は完全にそうだ」などと言いながら、

しかしこの説にも、やはりおかしな点がいろいろある。

と言う。
何がどうおかしいのか? 詳しくは本書を参照していただくとして、ここではエッセンスの部分をいくつか抜粋してみよう。

たとえば、ヒトの大きな特徴とされている直立二足歩行だが、これはどう見ても四足歩行より欠陥が多い。進化などでは全然ない。

サルだって必要なときには二足歩行ができるし、たまには両手で物を掴んだり、簡単な道具を使うこともできる。しかし、何かに追われて逃げるときや速く走りたいときなど、自らの生存にかかわるような場合には、必ず四足を使う。

ヒトには(バランスを取るための)長い首も尻尾もない。……それに、二足歩行だと、転ぶ危険性も大きくなる。脳が大きくなったのだから、なおさら不安定である。……ところがヒトは、なぜかケガから身を守る体毛すら捨てて「裸のサル」になってしまっている。これをいったい、どう説明するのか?

つまり、先に触れたように、「進化」という前提そのものを疑ったほうがいいというのが、栗本氏の一貫したスタンス。
では、氏はどんな説を支持しているのか? これも長くなりそうなので、極力要点をかいつまんでまとめてみる。

サルからヒトへの「進化」の舞台となったのは、アフリカ大陸とアラビア半島との間、いまでいう紅海の一帯。もともとこの大陸と半島は地続きだったが、

中新世が終わろうとする670〜530万年前に、……天変地異が起こった。

この結果、

(我々の祖先にあたる類人猿の住んでいた)ダナキル地塁は、アフリカ・プレートからもアラビア・プレートからも切り離され、……孤島となって紅海上に取り残されてしまった。

彼らが体験したのは、何万年にもわたる地鳴りと、頻発地震、火山の噴火である。……我々の祖先は、おそらく今日の我々よりもはるかに鋭敏な感覚を備えていたはずであるから、そのような自然界の前代未聞の異変に対して、恐れおののいたに違いない。

近隣の森林に住んでいた仲間のラマピテクスたちは、みな内陸部へと逃げていったが、我々の祖先は何らかの理由で逃げ遅れ、島となったこの地に取り残されてしまった。
 ……彼らは、海水が森林の根元をじわじわと浸していくなか、水を避けて島の森林地帯へ逃げて行った。

天変地異は気候も変動させる。大気は冷え、地表の乾燥が進み、……ダナキル地塁を覆っていた豊かな森林のほとんどが枯れてしまった。……我々の祖先は住処を失い、食糧も乏しくなり、さらには、エサを求めてさまよう大型肉食動物たちの餌食となる危険性も増大したのである。

栗本氏は、島に取り残されたサルたちは「いまや断固として浅い海の周辺で生きていくことを選択した」、という。

食糧を求め、浅瀬を動き回ったり、ときには海の中に入って魚を狙ったり、海辺近くの陸地で休んだりを繰り返したであろう。……このような動作の反復が、より合理的な移動方法としての直立二足歩行を促したことは十分に考えられる。

以上が、非常に大ざっぱであるが栗本氏の支持する「ヒトはいかにしてヒトになったか」の仮説であるわけだが……。
この説がやがて「サバンナ説」を押しのけ、「種の起原」の定説になる日が来るかどうか、筆者にはよくわからない。
 
ちなみに「サバンナ説」については、筆者も当ウェブで連載中の歴史エッセイ「夢の王国」のなかで「進化のモデル」として引用させていただいている。
まあ、筆者の場合、「ヒトとはどんな存在なのか?」を考える素材として「サバンナ説」を取り上げただけなので、栗本氏の指摘が正しければ、氏の支持する説を素材にして同じ「結論」を導くこともできる。

問題は、栗本氏が上記の新説を通して何を言いたかったのかということ。
繰り返しになるが、氏は、ヒトの直立歩行への「進化」を非常に「中途半端」で、「進化と呼べるようなものではない」と位置づける。
これに関してもいくつもの例を挙げているが、ここでは氏自らも体験した脳梗塞(血栓症)の話題とからめた箇所を抜粋してみよう。

やがて水が引いたあと、彼らは陸上に戻ることを選んだのだが、陸上で直立歩行をすることになったヒトは、……必然的に高血圧の危険を抱え込むことになった。
水中では二足歩行していても水圧によって体重が支えられ、下肢まで下がってきた血を押し返す力があったため、浅瀬であっても高血圧の問題は起きなかったのである。

ヒトがそのまま水生生活を続けていれば、高血圧も血栓症も起きなかったであろう。血栓症の問題も、水中で生きるための進化をしたあとで再び陸上で生活することになったために、出血の危険性が生じて生まれたものである。
つまり、水の中という環境に適応した「進化」は、陸上に戻れば環境への不適応、「退化」となったのだ。

このあたりの記述に至ると、氏の言いたいことの本質がハッキリ見えてくる。
つまり、通常言われている「サルからヒトへの進化」は、じつは限られた条件下で適応を強いられた結果生じた、“非常に欠陥の多い体質変化”ようなものにすぎなかったということだろう。

この中途半端な、欠陥の多いヒトへの体質変化が、過ちの多い、他の生物や地球環境に無用な負荷をかける、人類の歴史を生み出すもとになった。
要するに栗本氏の人間観は、「性悪説」に属していると言えるのかもしれない。

……この当時の記憶は深層の記憶となって、我々人類に残された。そして折に触れて、我々の精神を支配することとなる。
それが生み出す情動に、ヒトは知識や理性では抵抗できない。それを昇華しようと言ったのはゴーダマ・ブッダ(釈迦)だったが、それは簡単なことではない。

ということはどういうことか?

身体の不備を補う「道具」と言語から始まり、民族、宗教、国家という「制度」はみな、ヒトが生きるための「パンツ」であった。組織、攻撃、拡大、建設を快感とすることも同じである。それを統合するのが、救済思想だった。

だが、市場社会という大制度を選び取ったことから、最終的には貨幣がその最上位にきてすべてを支配するようになった。……鈍感な我々が気づいていなかっただけで、敏感な者は早くから気づきそれを悪用すらしていた可能性があるが、18世紀後半以上の世界はすでにそういうことになっていた可能性(危険性?)がある。

この最後の箇所の指摘が、2のユダヤ人の話につながっていく。

これ以上詳しく触れていくときりがないので、そろそろ筆者の「感想」を言わせていただくと、正直な話、「栗本氏の指摘はするどく、まっとうなものではあるが、それがすべてではないな」という感じだろうか。
氏の発想はやはり「性悪説」であり、人間の存在を「悪」ととらえる点で、キリスト教の原罪説と変わらない面があるからだ。

手前味噌で申し訳ないが、筆者は前述の「夢の王国」のなかで、「性善説も性悪説も、どちらも正しく、どちらも間違っている」と書いたことがある。
どちらも正しく、どちらも間違っている。
つまり、どちらに偏ってしまってもバランスが失われるということ。

別の言い方をすれば、サルからヒトへの「進化」が氏の提示したような形で生じたものであるにしても、それは「偶然」に起こったものなのだろうか、ということ。

「偶然」というのは一種の言葉遊びのようなもので、物事には必ず理由、意図と呼ぶべきものがあると、筆者は思っている。
つまり、結果として見るならば、ヒトは不利な生存状況に追い込まれ、身体的にも退化を強いられることで、脳を特異に発達させることができた。
特異に……と書いたが、それは「自意識」が芽生えたことを意味する。
自らを客観視し、世界を知的に把握することのできる機能を、ヒトは「退化」することで手に入れることができたわけである。

それは「悪い」ことでもあるが、同時に「いい」ことでもある。
繰り返すが、どちらに傾いてしまってもいけない。
ただの自己肯定では、栗本氏の指摘する「負の側面」が見えてこない。しかし、「負」が本質であるとまで言ってしまうと、それはそれでバランスを失ってしまう……。

では、このバランスとは何だろうか?

それは、いまこうして世界を認識して、感じている中心に自分自身がいるということだ。
世界がまずあって、そこに人類(あるいは自分)が生まれたわけではない。それが一番の錯覚……というのが筆者の感覚。

一見すると逆が真実であるように思える。しかし、そうではない。
なぜか? このように延々と語られている世界もまた、自分が存在しなければ「ない」のと同じであるからだ。
「自分が存在しなくなった世界」「自分の存在していない世界」
そんなものは、実際には「ない」ものだし、そういうものを想像することじたい、「自分」を前提にしている証拠でもある。

ということはどういうことか?

自分自身を「よい」と肯定できていれば、「これから先の世界はどうあるべきか?」など、「関係ない」ものになるということ。
世界はどうあるべきか? どうするべきか?
つまり、「ヒトはどうすれば生きていけるか、あるいは生きていく価値があるか」
……栗本氏も同書のなかで様々な提言をされているが、この点に関しては「答え」などというものはない。ないものを見つけようとするから、ひたすらに苦悩が生まれてしまう。それこそが悪しき脳のなせる業……。ちがうだろうか?

「関係ない」などというと「冷たい」「無関心」「自己中心」などと思われるかもしれないが、案外そういうものではない。
たとえば筆者が「冷たいかどうか」は、またべつの問題ということ。笑。
筆者から見れば、自分の手の及ばない範囲にあるものまで自己責任の範疇に加えてしまう感覚は、「脳の過剰な働き」にすぎないと思う。

これも手前味噌だが、筆者は過去に「脳を超えてハラで生きる」なんていうタイトルの本も書いている。
ヒトは確かに欠陥が多く、「完成された存在」などではないが、だからといって「間違っている」のか? そう見なしてしまうことは、脳の発想でしかないのではないか?
その脳を超えてしまえば、違うものが見えてくる……。

それを昇華しようと言ったのはゴーダマ・ブッダ(釈迦)だったが、それは簡単なことではない。

そりゃあ、「人類全体」を見れば、簡単なことではないかもしれない。なにしろ身近な人の生き方ですら変えることは難しいし、そもそも変える必要などあるのだろうか?(変えようとするから、物事がややこしくなる)。
この本来「ない」はずのものを人類レベルにまで広げてしまったら、問題は異様に複雑で難しいものになる。まあ、絶望的な気分になるのは仕方ない話だ。

しかし、筆者はそうはとらえない。本当に自分のことだけを考えるようにすれば、案外とあっさり突破口が見えてくると思っている。
まあ、こんなことを言うと、栗本氏の発想の根本を否定してしまっているような具合になってしまうが、そんなことにこの話の論点があるわけではない。

なにしろ、筆者は氏から多くのことを学ばせていただいた。
ただ、氏よりも後に生まれてきた人間として、よりバージョンアップした生命論、身体論を提示することが「恩返し」だという、勝手な思いをささやかだが持っている。そのため、少々辛口の「感想」を書かせていただいたというだけの話……。

今回の「完結編」も含め、“パンサル”シリーズも、ヒトという存在を理解する上で必読の書のひとつであるというのが、正直な感想。
筆者は彼の著書を何度も読み返して、いまの身体論の土台をつくっている。
これらの本を読んだからこそ、筆者は「このように」感じることができたわけである。


投稿者 長沼敬憲 : 2005年09月22日 00:07

コメント

 トラックバックありがとうございます。webの専門家のtakanorixさんがこの間が初トラックバックというのも、面白い気がしますが。
 この本は面白かったですね。「ユダヤ陰謀論」とかいろいろ細部でいう人はネット上でもいるようですが、脳卒中から生き返ったともいえる栗本さんの「気迫」を感じました。
 僕はユダヤ人問題に特に関心を引かれました。ユダヤ人について無知だったのと、栗本さんが盛んに引いているアーサー・ケストラーの科学哲学の本「ホロン革命」に影響を受けたためです。彼の自殺の背景にこんなことがあったとは・・・。僕のやっている心理学もフロイト、アドラー、フランクルはじめユダヤ人がいなかったら存在しなかったわけで、これから勉強してみたいと思います。
 昨日まで秋田の乳頭温泉に浸って水棲生物として生きていました。進化をたどった気分(^^)。やっぱり水はいいですね。

投稿者 アド仙人 : 2005年09月25日 11:58

コメントありがとうございます。
Webは創作の場として実験的にやっているので、いまのところあまり宣伝する気はないのです。

栗本さんの学問上の系譜はホント無視できないですよね。それとアドラーもユダヤ人でしたか。
少し落ち着いたら何か入門書でも読んでみようと思っています。

10月以降で新しい動きがありそうなので、またWeb上でお知らせします。お楽しみに!

投稿者 takanorix : 2005年09月27日 00:07

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