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2005年10月09日
■中島義道「怒る技術」を読んでみた。
現代日本には「怒らない人」がうじゃうじゃ生息しています。老若男女、前後左右、突如ぶん殴られても起こらないであろうような柔和な顔、顔、顔の氾濫。私はぞっとしてきます。
という一文から始まるのが、中島義道氏の「怒る技術」(PHP)という本。
ある人から紹介されて読みはじめたのだが、なかなかおもしろかった。ていうより、もしかして同類かと思ってしまったのだが……。笑。
筆者はまったく存じ上げなかったが、中島氏は大学教授で哲学者。プロフィルによると、「誰もが好きなだけ哲学を学べる『無用塾』を主宰している」とのこと。
怒れない日本人……。まあ、よく言われていることではある。そして、その対極として、「怒る技術」を身につけている欧米人がいるという構図。
中島氏もご多分に漏れず、
じつは小学校・中学校・高等学校を通じて怒らない子、いや怒ることができない子でした。……こうした状態は大学生になっても続き、何をしていいかわからず、一二年も大学にいて、そのうち二年ほどはひきこもっていました。しかし、そのときでさえ、真の意味で怒ることはなかったのです。
という典型的な日本人だったようだ。それが33歳の時のウイーンでの留学経験を通じて、「怒り」の重要性に開眼する。
ウイーンでは、私は怒らなければ生きていけなかった。ウイーンは前世紀のヨーロッパの悪いところがすべてそろったところで、……能率は悪く、官吏はいばっていて、しかも無能。カフカの世界そのものであった。
こうした状況に投げ込まれて、私費留学生としての私は、自分が生きていくために、ほんとうは怒っていなくても、怒っているようにふるまわなければならなかった。相手を執拗に責めることによって、自分の正しさを浮き立たせなければ、生きていけなかったのです。こうして、気がつくと、私はウイーンでは四六時中烈火のごとく怒っていました。
とまあ、このあたりの話はある意味で「よく聞く話」であると思う。
問題は何かを体験することではなく、体験を通して何を理解したか、何かどう変わったのかということ。中島氏の場合、この留学経験によって自分の中に眠っていた「何か」が完全に動きはじめてしまったようだ。
氏の常人離れした、「怒る人生」がスタートすることになる……。
ここで注意しておきたいのは、「怒る」ことと「キレる」ことは、まったく違うということだ。
本のタイトルに「怒る技術」とあるように、「怒る」ことは半ば意図的に発散される感情表現。
一方、「キレる」というのは、むしろこの「怒る技術」の身につけていない人が、自己の感情をコントロールできなくなって爆発してしまうもの。
キレないためにも「怒る技術」を身につけなさい……というのが、中島氏の主張でもあるわけだ。
では、中島氏は実際にどんなふうに「怒っている」のだろうか? 著書からこの「怒りの達人」のなかなかスゴイエピソードを紹介してみよう。
話はいきなり窃盗話からスタートする。
(私は)これまで法に触れる窃盗を二度ほどしました。一度は、電通大(*氏の勤務している大学)近くの天神通りにある酒場のスピーカーがあまりにうるさいので、それを奪い取って、「返してくださいよ! 返せよ!」という訴えをものともせず、民家の庭に投げ捨てたのでした。翌日学長から電話がかかってきて、調布警察が動き出したということ。結局、私は三万円ほどの金を払いましたが、いまだに全然悪いと思っていません。
と、ここだけ切り取ってしまうと相当に誤解を与えそうだが(笑)、興味深いのは「もう一つ」のエピソード。達人の域に達している……。
もう一つは、ウイーンで洋服屋からベルトを盗み出したのです。ヨーロッパ諸国では旅行者がその旅行中買った物はしかるべき手続きをすれば免税になります。品物によって違いますが、およそ定価の一割のカネが返ってくるので無視できない。
(ただ)オーストリアに住所のない旅行者でないと駄目なので、そして外見は誰が旅行者か見分けがつかないので、旅行者は常に自分のほうから用紙を請求しなければ、店の者は何もしてくれません。
さて、ある日のこと、いい歳をしてそしてガラにもなく、Fugo Bossの黒いスーツを買いました。だが、……用紙を請求することをつい忘れてしまい、翌日ああそうだと思い出して店に赴き請求したのです。
が、若い大男の店長は開口一番「買ったときでなければ駄目だ」と言う。そんな原則知っているのです。でも、何度もここウイーンでは数時間後に思い出して要求しても、翌日行っても、数日後行っても用紙に記入してくれました。そう言っても、どうしても駄目という返事。
ここで氏は、数日前に用紙を発行してくれた近くの店にこの店長を連れて行って確認させたり、税関に電話したり、様々な処置を講じる。しかし、「(彼らは)原則を言うだけですから、やはり店長のほうにつく」。
頭に来た! ウイーンではいつもこうなのです。十回原則を破りながら大丈夫だと安心した後、十一回目に突然「原則がこうだから駄目だ!」と来るのです。……(私は)さあどうしよう、と思案していました。
ここで中島氏の「怒りの虫」が動き始める。
店長は、そのまま「どうぞ、ゆっくり考えてください」と引っ込んでしまう。ふと見渡すと店内にはだれもいない。まるっきり私ひとりなのです。
……そのとき、私の目はしらずしらずのうちにあのスーツの一割分の物はないかなあと物色しているのです。
……あれっ、すぐ手元にたくさんのベルトがぶら下がっている。私はその一本をスーイと抜いて……、「きょうのところはこれで帰ります。まだ納得できないので、うちでゆっくり考えてみます」と言い残してその店を去りました。
もちろん、氏にどんな言い分があろうとこれは「泥棒」である。笑。
そのことは、氏も自覚はしている。ちょっと長くなるが、さらに続けよう。
ですが、ホテルに帰っても釈然としない。だいたい、そんなベルトなどほしくない。……そこで、翌朝早く私は店に電話して、店長に「きのう、あなたがあまりにも頑固なのでベルトを一本盗みました」と言いました。
……えっ、それは泥棒だ!
……知ってますよ。でも、普通泥棒が盗んだと電話しますか! 私はただあなたの態度があまりにも不遜なので、懲らしめようと思ってやっただけだ。私がスーツを買ったときの店員と話したいのですが。
……彼女は休んでいる。そちらの住所も名前も知っています。返しなさい。
……わかりました。じゃあ、私が条件を出します。今回、私はたいそう不愉快な思いしましたが、あの女店員は任務を怠り責任があったと思います。そして、あなたは店長なんですから、あなたにも責任がある。そこで、もしあなたが自分の落ち度を認めるなら、ベルトを返してあげましょう。でなければ、返しません。
中島氏は、「ヨーロッパ人がいちばん厭がることを、この機会にぜひとも実験してみたかった」と言います。それは言うまでもなく、「自分の非を認めさせること」。
しばらくの沈黙の後、店長が「少しは悪かったと思う」と言いましたので、私は心の中で拍手喝采する。すると今度は彼が条件を出しました。
……あと三〇分以内に戻しに来ないなら、パトカーでホテルに行ってあなたを逮捕する。
……ああ、わかりました。
直後にホテルを出、飛行場に向かうタクシーを途中で停めさせて、私はぼっとつっ立っている彼の両手にざくりとベルトを落とし、そのまま唖然として私を見送る彼をあとに、ふたたびタクシーに飛び乗ったのでした。
どうだろうか? これが氏の言うところの「怒る」ということなのである。
怒りにまかせておのれを失ってしまうわけでなく、案外と冷静。状況を見て、「これを機会にヨーロッパ人を謝罪させる実験」をしようとすら考える。
しかも、こう言う。
私の行為はけっして考え抜かれているわけではありません。むしろ、私の身体が自然にこう動いていくのです。私は泣き寝入りだけはしたくない。相手に何らかの仕返しをしたくてたまらない。そして、具体的な仕方で自分の怒りを相手に伝えたくてたまらない。ほんとうに下品なことです。
本人は下品であると謙遜?しているが、ここで大事なのは「具体的な仕方で自分の怒りを相手に伝えたくてたまらない」という箇所。
「怒る技術」をうたってはいるが、じつはコミュニケーションの本質について語っていることがわかる。
当たり前のことだが、コミュニケーションとは自分の意図や意志を相手に伝えるということ。そのためには、技術が必要であるということ。
ここまで長々と書いてしまって恐縮だが、じつは筆者はあまり怒らない。人前で声を荒げることは滅多にないし、自分が悪いと思っていなくても謝ることが結構ある。
「人あたり」という点では中島氏とは対極にある気もするが、根っこでは氏と同じことを感じ、同じことをやってきたと、この本を読んでつくづく感じた。
(ていうことは、筆者も達人? いや、変人? まあ、いいか。笑)。
コミュニケーション論は、筆者も「言葉を喋れない君のために」というコラムの中でまとめているところだが、先に話したように、それは「伝える」ということ。
決して難しいことではない。
自分が心で思っていることは、ただ思っているというだけでは相手にはわからない。
日々人と接していると、こんな当たり前のことがわからずに意味なく怒っている人がずいぶんいる。
もちろん、その怒りは中島氏のようなレベル?の怒りではない。
自己表現がうまくできないから、ただ単に不満が鬱積して、何かの拍子に爆発する(キレる)。
伝える努力を怠って、トラブルが起きててから、「自分はこう思っていた」と切々と主張しはじめる人が結構いるが、そういう人は他人不在なんだと思う。
ちゃんと他人が自分と同じように存在していることがわかっていれば、言葉は出てくる。うまくいかない時は言葉が伝わらなかったのだと納得もできる。
中島流の「怒る技術」を参考にしつつ、ただ彼の「怒る」マネをしても、何も始まらない。
「怒る」ことが重要なのではない。「怒る」ことも感情表現の一つ。喜怒哀楽、どんな形でもいい自分の感情をカタチにすること。
元気な人は元気なカタチにする。おとなしい人はおとなしく、クールな人はクールに。
おとなしい人が元気になる必要はない。
中島氏は「怒る」という感情を通して、このカタチを見つけられた人。そのカラクリが理解できれば、誰でもその人なりのコミュニケーションの本質も見えてくると思う。
中島氏に出会えたおかげで、「たまには怒ってみようかな?」と思ったこの頃。
教えてくれた人、ありがとう。
投稿者 長沼敬憲 : 2005年10月09日 13:01
コメント
私は中島ファンですが、この本はまだ読んでいません。
しかし、内容には興味あります。
昔、アメリカの女性心理学者の本で(「自分を変える本」作者名は覚えてない)の中で、「主張的コミュニケーション」ということをいっていたのを連想しました。例えば、時間にいつも遅れてくる人に対して、ぎゃあぎゃあ怒鳴るのは、「攻撃的態度」であり、「貴方がいつも遅れてくることに対して、私怒ってるのよ」と、怒りを直接言葉で"示す"のは、主張的な態度だそうです。
西洋人は、ともすれば攻撃的になりやすく、日本人は消極的になりやすい。と言うのは一般論で、普段感情を表さない日本人がきれると、普段小さな喧嘩でストレス解消している西洋人の5倍くらいどなったりする。
しかし、両方とも最近は自分たちのやりかたに疲れてきた
ようで、欧米でも主張的なコミュニケーション(例えば、「あんたはめったに休みを取らないのね。これじゃ、旅行も出来ない!」、と夫をどなりつけるのではなく、「私は貴方と旅行がしたいのよ」、と直接自分の願望を表明する)を薦める本や雑誌もふえています。日本の皆さんもがんっばって主張的になりましょう!
投稿者 内藤 美知子 : 2006年03月01日 23:09