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2005年11月22日

■佐伯啓思「自由とは何か〜“自己責任”から“理由なき殺人”まで」を読んでみた

筆者は、文中で「自由」という言葉を使うことが多い。
といって、ものすごい難しい概念ように思っているわけではない。筆者の「自由」の定義はカンタンだ。ほぼ「快適」という言葉とイコールで捉えられるものであるからだ。

自由とは、快適であるということ。あるいは、快適と感じられるような状態。

快適などと言うと、俗にいう快楽主義の一種のようにイメージするかもしれない。
そしてその快楽主義は、往々にして「自分さえ気持ち良ければ」というエゴイズムとどこかで結びついている。
しかし、実際に快適さを追求していくと、そんな単純なものではないことが見えてくる。
なかなか奥深い言葉であることがわかってくる。

たとえば、自分だけが快適であれば(気持ち良ければ)自由なのか? ……というと、当然のことながら、そういうことはない。
やはり、周囲との調和が必要。
しかし、周囲との調和にばかり気配りしていると、それはそれで不自由になってしまう。

ということは、自由=快適であるためには、ある種のバランス感覚が必要であることが見えてくる。
ではバランスとは何か?
……とまあ、ひとたび「自由」を問いはじめると、突き詰めないとならない問題が次々と浮かんでくるわけである。

前置きが長くなってしまうので、ここでは深入りはせず、次の点のみを確認しておこう。
それは、「自由」が「快適」とイコールであるという前提に立った場合、「自由」は観念から離れ、実感を伴ったものになってくるということ。
快適さとは、結局のところ、身体で感じるものであるからだ。

快適さ=自由とは、身体で感じるもの。

筆者はいま、ものすごーく当たり前のことを書いている。
ただ、この当たり前がなかなか当たり前とは捉えられない現実がある。
自由というものを、権利であるとか思想であるとか、アタマで捉えた概念としてイメージする人が多いことも知っている。

歴史を振り返ってみれば、確かに自由はそのような観念として認知されてきた。
その観念をめぐって革命が起きたり、国がつくられたり、滅ぼされたり、法が生まれたり、書物が書かれたり……。
もしかしたらそれが「近代」と呼ばれるものの実態だったのかもしれない。

しかし、そうした視点で自由の本質を理解できた人は、本当にいたのか?
むしろと問えば問うほど、その本質はベールに包まれ、曖昧模糊としていったのではないか?
そんなことを考えながら読んだのが、書店で偶然に見つけた佐伯啓思氏の「自由とは何か〜『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」
サブタイトルがなかなか興味を惹くが、一読してみると思いのほかわかりやすく、社会思想史から見た自由の本質がひもとかれていた。

まず、佐伯氏は同書の冒頭で、「今日、自由という詩はもはや人の心を揺さぶるような響きを持っていない」と指摘した上で次のように語る。


少し前に二十人ほどの少人数の学生の講義で聞いてみたことがある。「君たちにとって自由は重要なものだと思うか」。当然、全員が「自由は大事なものだ」という。
「では、現在、君たちは何かに不自由な思いをしており、自由を享受できていないと思うか」。すると、ほとんどが「別に問題はない」という。

そこで続けて聞いてみる。「では、現在、日本の問題は、個人の自由が侵害されている点にあるのか、それとも、自由を縛るはずの道徳規範や拘束がゆるんでしまっている点にあるのか、そのどちらが問題なのだろうか」。これに対しては、おおよそ三分の二が「道徳、規範が崩壊していることのほうが問題だ」と答えるのである。


なるほど。確かにこのあたりが、自由に対する日本人の受け止め方の“現状”ではないだろうか?
わかりやすく言えば、「自由が広まることで社会のタガがゆるんでしまった」という具合に、どちらかというと自由は悪いものとして捉えられている面がある。
そして問題は、そのように自由の価値が低落しているにもかかわらず、


依然として自由は、少なくとも社会科学の最も重要なテーマとなっている。社会思想史、哲学、政治学、経済学を含めて、人間は自由であるべきであるし、本来、自由な存在と説いている。


ということ。要するに一般の感覚と学問上の概念との間に、大きな溝ができてしまっている。
一般の人にとってあまり重要でないものが、「最も重要なテーマ」として位置づけられている。

そんなことは今さら言うほどのことではない、と思われる人もいるかもしれない。
しかし、こと自由ということに関しては、学問と現実の乖離(かいり)は、なかなか無視できない側面がある。
自由とは本来、冒頭で筆者が述べたように、権利や思想である以前に個々人の体感(快適さ)と結びついたものであるからだ。

つまり、先の学生たちのように自由が実感できないということは、じつは生きることの楽しさを実感できていない現実にもつながってしまう。
ここでいう楽しさは、「価値」や「意味」と言い換えてもいい。
現代社会に致命的な問題があるとしたなら、それはそうした体感的な意味での自由を喪失してしまっていることにあるのではないか?

そして繰り返すが、学問で取り上げられるような、体感から離れてしまった「自由」の概念では、この喪失を救うことはできない。
語れば語るほど、逆に矛盾が浮き上がってしまう。
佐伯氏は、先のイラク戦争の際に起きた「人質事件」について触れることで、この矛盾をわかりやすく解きほぐしている。


ここで関心を向けたいのは、事件そのものではなく、それをめぐってなされた「自己責任」をめぐる論議である。
この「自己責任」をめぐる論争は、外国のジャーナリズムによっても、いったい何を論じているのか、とからかわれたりしたものだが、確かに、今日の日本の精神状況・言論状況を象徴するものであった。


ではこの「自己責任」論は、具体的に自由の問題とどうつながっているのか?


この場合には、ボランティア活動という文字通りの個人の自発的な選択、個人の自由が唱えられているが、その個人の自由な行動そのものが政府、国家によって支えられているということである。

国家があってはじめて自由な個人という主体があり得るという、考えてみれば当然の事実に、人質事件は改めてわれわれの眼を向けることになった。


言い換えるなら、「国家」と「自由な個人」の関係は、くだんの人質事件が起こるまでは十分に認識されていなかったということ。


普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。
こうして、「権力を行使する国家」に対抗する「自由な個人」という図式が出てくる。
……しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力を持った国家」なのである。


この側面は「なかなか見えにくい」と、氏は語る。上記のようなわかりやすい対立図式によって覆い隠されてしまっていると言い換えてもいい。
ということは、どういうことか?

近代の市民社会がひとたびできてしまうと、人々は、その中でもっぱら私の利益や関心に従って活動する。「私」にしか関心を持たないのである。
主権者(国家権力)が、もっぱら「公」を独占して、市民社会の秩序(法的なものを含めて)を支えることになっているのだから、市民社会は平和的なルールに従っておればよい。
人々は、その中で私的利益や享楽を追求しておればよい。こういうことになる。

……しかしそうだとすれば、いったい誰が、どのような利益に従って、国家の活動にかかわろうとするのだろうか。


国家の活動などと言うと逆にピンと来ないかもしれないが、冒頭で取り上げた道徳の問題と結びつければ、問題の本質は明確になる。
市民社会が形成され、自由が権利として普及することで、結果として、この「公=道徳(モラル)」が見失われた。
むしろそのことを問題視する人が増えているにもかかわらず、現実面での有効な対処法が見つかっていない。

たとえばいくら大事だからと言って、生活委員のように「モラルの復活」を唱えたところで効力はない。
わかるだろうか? そこで語られる道徳は、個人の自由を縛る対立概念として想起されてしまうものだからだ。
道徳がはびこっていけば、人々は世の中が窮屈になるとも考えている。

この道徳の先にあるのが、法だ。法を管理するのは国家。
法の締めつけが強くなるほどに人は不自由を感じる。国家は人の自由を縛る存在であるという「悪」のイメージが植え付けられる。
単純に公共心の大切さを説いても、人々の心には響いてこない(結果として現実は変わらない)のである。

では、それとは異なる理解の仕方は可能なのだろうか?
上記の点に関しては、佐伯氏も指摘するように、個人の自由はじつはその集合体である国家の安全保障によって支えられている。
これは、集団を切り離した個人など存在しない、いや、もっと言ってしまえば、人間関係を無視したところに個人の生活は成り立たない、そんな現実にもつながってくる。

いくら自由であると言っても、自分の行為は社会に反映される。だから、社会とのつながりを無視して(軽視して)ふるまえば、あえてイラク人質事件を例に出すまでもなく、人に迷惑がかかる。
といって、人に迷惑をかけないことばかり考えていると、したいこともできなくなる。
そう。大事なのはバランス感覚……。

筆者はバランス感覚を説いているので、国家が安全保障だけでなく、抑圧装置の側面を持っていることももちろん承知している。
しかし、国家を社会と言い換えれば、単独の「自由な個人」など存在しないという、当たり前の理も見えてくる。

そんな観念のような「個人」像に脳を支配され、他者との関係が見えなくなってしまっているから、道徳の価値も見えなくなる。
自由を縛る窮屈な決まりのようなものとしか理解できなくなる。
自由そのものもアタマでとらえる観念となり、体感はできなくなる。

しかし、ここまで読まれれば、「自由」と「道徳」が必ずしも対立物ではないことも容易に見えてくるのではないだろうか?
繰り返しになるが、自由とは観念ではなく、もっと体感的なもの。自分自身の快適さという感覚と、ダイレクトにつながったもの。

これを素直に追求していけば、エゴイスティックな快楽追求では本当の快適さ(自由)も得られないことが理解できる。
いくら自分が快適(自由)でも、それが誰かの犠牲や苦しみの上で成り立っているものであるとしたら……。やはり、“気持ちいい”ものではない。
そのように感じることで、初めて道徳と呼ばれるものが、自分自身の切実な問題として発生することになる。

以下、佐伯氏の著書のなかから、筆者が気になった箇所をいくつか抜粋しておこう。
たとえば「功利主義でもカントでもうまくいかない」というくだり。


そこで「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに対して答えればそれは次のようになろう。「別に悪いという絶対的な理由はない。しかし、そんなことをして法に引っかかり人生を棒に振るのは損だ」というわけである。行動を決定する基準は「道徳」ではなく「利益」なのである。

しかし、この説明は「なぜ法を守らねばならないのか」という問いへの十全な答えにはなっていない。この種の功利主義が与えるのは、せいぜい、多くの人は、自己の利益を目的として行動しているのであり、そうである限り、多くの人は法を守っているだろう、という程度のことに過ぎない。
……これでは、法を破ったほうが少なくとも当座は得だという者も現れるかもしれないし、さらに、自分は必ずしも損得で行動するわけでない、という者もいる。


「しかも、功利主義にはもっとやっかいな問題がついてまわる」と、氏は言う。


功利主義の基本テーゼは、よく知られているように「最大多数の最大幸福」として定式化される。
……だとすれば、ここに皆に忌み嫌われ、人々に多大な損害を与えながら生活している者がいるとしよう。功利主義からすれば、この人間を抹殺することは望ましいという結論さえ導かれかねないだろう。
……実際、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニエフは、まさにこの種の問いに取り付かれたのであった。皆から蛆虫のように嫌われている高利貸しの老婆など殺してもよいではないか。

……この論理は、もっと最近ではたとえばアメリカによるイラク攻撃に際しても使われた。……功利主義の罠は今日でも現実なのである。そしてこの罠が待ち受けている限り、「なぜ人は殺してはならないのか」という問いから逃れることは難しい。


そう。これがいまの世にはびこっている「功利主義」の実態。
しかし、この問いから逃れられないかというと、筆者はそうは思わない。ここまで話したように、「体感」というものが出口のカギを握っていると感じている。
この筆者の「体感」(もっと広く、身体論と言い換えてもいい)と微妙にシンクロしているのが、哲学者カントの道徳論だ。


「なぜ人を殺してはならないか」と少年に聞かれれば、われわれはたいてい、多少狼狽しながらも、「そんなことはだめに決まっている。理由も何もない」とついいってしまうだろう。実際、それ以外にいいようもない。

だめなものはだめだという。理由もなくだめなものが世の中にある。……実はそういったのは、十八世紀のドイツの哲学社イマヌエル・カントであった。

人間の日常の経験の世界においては、人間の欲望にせよ、感覚的な快楽にせよ、人間の感覚や自然の条件という自然法則に従って動いている。だが、人間の意思の世界はそうではない。人間が自分の意思を持って何かを実践しようとするとき、その限りでのみ人間は自由である。

では、この実践の世界、人間の意思の世界で、意思の動きを決定するものは何か。ここでは人間は自然法則に従うのではなく、道徳法則に従わないとならない。意思とは、道徳法則に従うことにほかならないのである。


要するにカントは、人間を(他の動物とは異なる)理性的な存在としてとらえている。それは一面の真理かもしれないが、しかし、


ではカントの道徳法則はいったいどこから導かれているのかというと、そこには根拠はない。絶対的な命令という言い方からわかるように、もはやその根拠を問いただしても仕方がないのである。

カントは、一方では人間の意思の自由や自立を主張する近代主義者であるとともに、他方ではプロテスタントの信仰深いキリスト教徒でもあった。
(カントの道徳論は)キリスト教という絶対的な禁止を与える宗教的権威を隠れた前提としているのであって、この権威によってようやく「だめなものはだめ」という言い方が効力を持ち得るのである。

だが、近代的自由はキリスト教という宗教的権威を批判した。……だから、近代的自由からすると、カントの義務論そのものが、もはや意味をなさないということになる。


宗教によって支えられていた道徳。権利や思想として、その宗教を否定する形で認識された自由。
そのどちらも、現代社会においてはもはや意味をなしていない。


もしも規範や道徳のほうに正当性がなくなってしまうと、そもそも自由がそのために戦うべき障害も大きな脅威でなくなってしまうだろう。すると、自由のほうもその活力を失っていってしまう。

こうなると、「自由」は、もはや大きな障害を持たず、それゆえ「自由」を実現するための強い緊張感もなくなってしまう。……「なぜ人を殺してはならないのか」という問いは、まさにこの「自由の意味衰弱」の中で生じたのであった。


そう、もはやこれまでの(観念としての)自由には、人を救う力はない。そして、言い換えるならそれは道徳の衰弱とも表裏一体の関係にある。
つまり、筆者流に言わせてもらえるなら、そうではない(体感としての)自由を得るということは、新しい道徳を創造するということ。

(このへんの話は、大正時代のアナーキスト大杉栄の「身体論」とも大きく関わってくる。興味のある人はこちらを参照。)

佐伯氏の「自由」に関する社会思想史の観点からの指摘は、このあとまだまだ広範囲に展開されていく。そして同書の末尾には、氏なりに、自由に代わる価値として「義」という東洋流の概念も打ち出されている。
興味深い内容なので機会があればもう少し突っ込んで取り上げたいが……。

ともあれ、筆者の感覚に照らし合わせるのなら、自由の問題も、当たり前のことを当たり前と認識さえできれば、呆気ないほどに解消されていく。
しかし同時にハッキリと言えるのは、その当たり前のことが当たり前には解決できない現実も厳然とあるということ。
そして筆者はその現実から隔離された「個人」などではなく、その解決できない社会の一員であるということ。

表裏一体の「自由」と「道徳」は、その当たり前の現実の中でたえず試され、磨かれるものだと、筆者は思う。
そのからくりがわかっていれば、人はもっと「感じる」ことができるようになるし、自己と他者によって構成される社会の実態も見えてくるはずだ。

投稿者 長沼敬憲 : 2005年11月22日 02:59

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