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2006年01月06日

■「女性天皇問題」から見る「変化の兆し」(2)

以前、筆者もブログで書いたことがあるが……、世の中の多くの人は「女性天皇を容認していい」と考えているようだ。
去年の12月5日に配信された共同通信の記事によると、

共同通信社が3、4両日に実施した全国電話世論調査で、政府の「皇室典範有識者会議」が打ち出した女性、女系天皇について聞いたところ、女性天皇の子どもが即位する女系天皇について「認めてもよい」とする回答が71.9%を占め、従来の「男系を続けるべきだ」の16.1%を大きく上回った。

 また75.3%が「女子が天皇になっても良い」と女性天皇を認め、「男子に限るべきだ」としたのは11.8%。ただ女性天皇を認めた場合の皇位継承順位は「(男女を問わず)第1子からとすべきだ」(43.3%)と「(天皇の子どもの兄弟姉妹間で)男子を先にすべきだ」(42.2%)とで意見が二分された。
 小泉純一郎首相の内閣支持率は57.1%と10月末から11月初めの前回調査(60.1%)より3ポイント減ったが、依然、高水準を維持。不支持率は前回28.7%から4.5ポイント増の33.2%だった。

なかなかすごい結果が出たものだ。
現状では(多くの人がイメージしていることだろうが)女性天皇と言えば、愛子さまということになる。
愛子さまが天皇になってもいいという人が、75.3%。愛子さまの子供の系統がそのまま皇位を継承してもいいという人が、71.9%。
まあ、簡単に言えば、多くの人にとって血統などどうでもいい、ということだろう。

ちなみに、小泉首相の私的な諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大総長)は、同年11月24日、「象徴天皇制度の安定的な維持のため、皇位継承資格を女性や女系の皇族に拡大することなどを求める報告書をまとめ、首相に提出」している(11月25日産經新聞より)。
ここでの見解もなかなかすごい。

 ……現行の皇室典範一条が「皇位は男系の男子が継承する」と規定していることに対し、「(男系男子で)皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難」だとした。
 そのうえで、憲法が定める皇位の世襲の原則は「男子や男系であることまで求めるものではない」と主張。「重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたこと」だとして、女性・女系天皇を容認することの意義を強調している。

また、こんなことも言っている。

 ……皇室研究者や与党内から女系天皇の歴史的な正統性に疑問の声が出ている点に関しては、各種世論調査で約8割が女性天皇を容認していることなどを背景に「幅広い国民の積極的な支持が得られる制度である限り、正統性が揺らぐことはない」と結論づけた。

幅広い国民の積極的な支持……。
一見もっともらしく感じられるかもしれないが、そんな支持など、まるで実体のない「気分」にすぎないものではないのか?
100年、1000年というスパンで歴史を見た場合(それが天皇家の歴史時間でもある)、どこまで確実な根拠となりえるのか?
諮問会議とやらで意見した人たちは、当然、このことに責任を負える立場にない。

筆者は天皇制の“絶対的な支持者”ではないが、こうした世論の動きを見るにつけ、「ああ、有史以来1000年、2000年と続いたこの国の歴史も終わりだな」と感じてしまう。
そう、日本は終わる。
愛子さまが成人し、皇位継承が現実味を帯びてくる頃に、おそらく……。

それが何を意味するのか?
べつに楽しく人生が送れればそれでいいじゃないかと思っている人も多いだろうが、筆者が言いたいのは、ちまたの反対論者が語っているようなことと少々違う。
そのことについて語る前に、最近これに関連したちょっとおもしろい記事を見かけたので、紹介しておこう。

その記事とは、昭和天皇の甥にあたる寛仁親王が、ことしの1月4日、毎日新聞の取材に答えたもの。
昨今の「女性天皇論」について皇族の立場で(ここまで)口を開いたのは、おそらく親王が初めてではないだろうか?

 皇室は、一部の例外を除いて権力を握ることがなかった。権力を持つところと、皇室を分けてきたのは、大和民族の知恵だと思う。国を守っていくためにそういう形になった。外国の王族の中には、パワーの論理が働いて権力を握ったりしたから、その後つぶれたケースもある。

まったくその通り。日本史の本質の一端をきちんと理解してらっしゃると思う。

 皇室は悠久の歴史の中で常に受動態であった。突き詰めると、存在することに意義があるということだ。政治や営利にも関与できないし、ある意味「ニッチ(すきま)産業」だ。
 政府や行政も、国民のためにいろんなことを展開していくが、足らざるところはある。皇族がそれを補い、光が当たっていないところに光を当てる。それぞれの皇族が、国民の要望、希望に沿っていくことが大事だ。

政府や行政の「足らざるところ」を皇室がやる。これも現行の皇族のあり方として異論がないところだろう。
で、問題は「女性天皇」問題について……。

 皇室のあり方に関する問題を有識者会議による1年、30数時間の議論で決めてしまうことに素朴な疑問を抱く。この問題は、政治を超えたものだ。多くの国民が歴史を理解したうえで大いなる論議がわき上がって、国会で、審議に審議を重ねて結論が出ればと思う。男系で継いできた歴史は、一度切ってしまえばつなげないことを分かってほしい。

 皇位継承をめぐってはいくつかの危機があったが、これまで回避してきた。10親等ぐらい離れた傍系から皇女に婿入りしたり、宇多天皇のように臣籍降下したのに復活して皇太子になり、その後天皇になったケースもある。
 1947年に臣籍降下した11宮家の当主にカムバックしていただいたり、養子ができるようにするなどの方法がある。できるだけの手段を講じるのが先だ。すべての手を尽くしたうえで、駄目なら仕方がない。
 11宮家の復帰には、60年間一般の中で生活してきたので違和感があるというが、異様な意見だ。菊栄親睦会という昭和天皇のご親族が集まる会がある。旧宮さま、元宮さまとの付き合いは深い。
 むしろ愛子さまの夫になった人が、突然「陛下」と呼ばれる方が違和感が強いのではないか。

……どうだろうか? 筆者は特に異論がない。
というより、正直この程度の発想を、一流学者も国民も、なぜ持つことができないのか? そのことのほうが疑問に思えてしまう。

と、ここで先の問いかけに戻るが……。
筆者はなぜ、直接自分の利害とは関係ない天皇家の問題について、ここまで(熱心に?)語ろうとしているのか?

まずこんなふうに考えてほしい。
この世界というのは、過去から未来へ連綿と続く「歴史」と、東西南北に広がる「風土」とが融合することで成り立っている。
歴史を縦軸とするなら、風土は横軸。
縦軸と横軸がクロスしたところに「いま・ここ」の自分という存在のポジションがある。

筆者は、この縦と横がクロスした世界のありようを理解できる感覚がある。
言い換えるならば、世界とは観念ではなく、現実であるということ。
この言い方にピンと来るだろうか?
筆者は身体論というものをやっているが、そのうえでつくづく感じるのは、いま多くの人がこの「世界」を見失っているということだ。

世界を見失うということは、縦軸が見えないということ。そして、横軸も見えないということ。
自分という存在がどのようにして成り立っているのか?
それが「わかる」という感覚は、正直なところ言葉ではうまく伝えにくい。
しかし、僭越ながら「わかる」人間の立場から言わせてもらうと、みな世界から引き離されている。
一人ぼっちで生きている。
しかも、その淋しさが見えていない……(見ようとしていない?)。

そう、要は天皇制が存続すればいいかどうかという問題ではないということ。
好きとか嫌いに関わらず、「天皇家がなぜ尊いのか?」それが理解できないのは、縦のつながりが実感できていないから。
血統によって「いのち」をつないでいくということの意味合いが理解できていないから。

こういう人は、先にも触れたが、豊かな暮らしさえできれば自分が「日本人」でも、「アメリカ人」でも構わないと考える。
しかし、これは血のつながりで見るなら、自分の親に対して「べつにあなたが親でなくたって構わないんだよ」と言っているのと変わらない。
これで本当にまともな感覚だろうか? 

横軸へと広げて見るならば、風土の中の人と人とのつながり、つまりは人間関係がわからない。
もっと言ってしまえば、「他人が自分と同じように生きている」という現実がわからない。
そう。繰り返すが「一人」なのだ。
1億人いようと、60億人いようと……。
そんな人がどんどんと増えている以上、筆者がいちいち言うまでもなく、日本は終わる。
女性天皇を容認するかどうかという問題は、そうした氷山の一角にすぎないということにもなる。

さて、ここまでお読みになって暗い気持ちになった人もいるかもしれないが、筆者は必ずしも現実を悲観してはいない。
確かに大部分の人は、さまざまな原因により自然の感覚を失い、「孤立化」への道を歩んでいると筆者は思う。
しかし、物事には裏と表がある。

いま日本人の多くが(日本人に限らないとも言えるが)自然の感覚を見失ってしまったのは、なぜなのか?

自然の感覚……すなわち縦軸と横軸の感覚が生活の中にきちんと根づいていた時代、日本史で言えば江戸時代あたりが特に該当するだろう。
最近では、江戸の頃の暮らしが再評価されている。ちょっとした江戸ブームが起こったこともあった。
こうしたブームも、再評価も、悪いことではない。
しかし、それは言い換えるなら、評価が落ちた時期があったということ。

縦軸と横軸の感覚は、制度で言うならば、封建社会のなかで花開いた。
封建社会のいい面と悪い面、そのうちの悪い面のほうを改善しようという動きが、日本では明治維新をもたらし、近代化が進められた。

ここまで言えばわかるだろう。
「生きる」ということをトータルで考えた場合、縦と横の感覚を身につけることが必要。しかし同時に、「個人」の感覚も必要であるということ。
それは自分の意思で生き、自己決定し、自らの感覚で価値判断するということ。
「家」があり、「国」があり、「身分」があった時代では、この感覚を自由に磨くことはできなかった。

最近ではよく「自己責任」という言葉が使われるが、この言葉がどこかうすっぺらく響くのは、逆に言えば、縦と横の感覚を喪失しているからではないのか?
しかし、この喪失にはそれなりの必然性があった。
確かに縦と横の感覚を取り戻すことは必要かもしれない。しかし、その次に問われてくるのは、「個人」という感覚であるということ。
両者がコインの裏と表の関係にあることが見えてくるだろう。

この先、自分を見失っている人たちの「無関心」と「無理解」によって、日本という国はおそらく滅びてしまう時が来るだろう。
そう、誰もその「責任」をとらないままに……。
しかし、その滅びと入れ替わるように、本当の意味での「個人」が台頭してくる。
日本にはこの「個人」が台頭しうる条件が、かなりのレベルで整っている。もしかしたら世界で一番整っている「場」なのかもしれない……。
(なぜかについては、いろいろなところで書いてきたが……)

では、その「個人」になるにはどうしたらいいか? 「女性天皇」論を飛び越えて問われてくるのは、じつはそこなのである。


投稿者 長沼敬憲 : 2006年01月06日 22:52

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