2006年01月04日

■約束を守ること、人をだますこと〜出口王仁三郎のエピソードから

自分ってどんな人間なのか? もしそう自問することがあったとしたら、その答えはぼくにとってかなり単純なものだ。
はた目にどう思われているかわからないが、すごくわかりやすい生き方をしていると自分では思っている。
たとえばぼくはこんな話が好きだ。

時は戦前。当時、新興宗教の教祖として時の人であった出口王仁三郎のもとに、共産党の活動家、三田村四郎という人物が訪れる。
戦前の共産党は非合法の政党、というより、政党という何も値しないごく少数の主義者、当局のお尋ね者……。
三田村は大陸に逃亡する計画を立てていたが、妻に逃げられ、生まれたばかりの乳飲み子を抱え、先行きに難渋していた。

もとより大本(王仁三郎の教団)と共産党の関わりはない。思想的なつながりも、義理も何も。
ただ、立場に窮した三田村が、知り合いから王仁三郎の名前を聞き、まったくつてもないままに丹波・亀岡に彼の教団を訪ねると、王仁三郎は深く理由を問いただすことなく乳飲み子を預かり、逃走資金さえ提供した。

もちろん、その乳飲み子が三田村の子と知れれば、身柄がどうなるかわからない。乳飲み子を熱心な信者のもとに預けた王仁三郎は、周囲の人間には平然と、“わしが失敗して産ました子や”と語っていたという。

もちろん、彼の妻であるすみ(2代目教主)はその噂を耳にして激怒した。しかし、王仁三郎は真意を伝えず、平身低頭ひたすら謝るばかり。以後三田村が帰国して娘と対面するまでの20年近く、その娘本人も、自分の妻も、周囲の人間もすべてだまし通した。

と、ここからはぼくの想像……。

王仁三郎って宗教に目覚めるまでの若い頃は、侠客まがいの日々を送り、女好きで、やることなすことすべて派手な目立ちたがり屋……こんな印象があるが(そして、その印象は宗教家と呼ばれるようになって以降も終始つきまとうが)、実際には、そんな遊びの世界は“卒業”してしまった人だったと思う。

ほら、若いころにさんざん遊んできた人が、年をとってスッと突き抜けてしまって、ものすごく軽やかに生きているみたいな……。

ハッキリ言って、地下活動している、明日をも知れぬ共産党員の乳飲み子をかくまういわれはどこにもないのに、そこでこざかしい理屈は考えない。
自分のところに頼ってきたのだからと、ただそれだけの理由で彼を助ける。そして、自分のプライドだの何だのよりも、約束を守ることを優先した。

約束ってそう言うものだと、王仁三郎は教えてくれる。

約束は軽視され、契約だけが重視される……紙に書かなければ、判を押さなければ、信用というものが生まれない……。

もちろん王仁三郎がずっと黙っていたのは、周囲の人間が(自分の妻が)信頼できなかったからでなく、もし万が一、外部に乳飲み子のことが漏れたらどうなるのか?ということ。

もし万が一漏れたら、なにより自分が大事にしてきたものが壊れてしまう。それがあるから自分でいられるというものが、失われてしまう。

目に見えないものということで、王仁三郎は「霊」の存在を説いた。
しかし、霊が存在するかどうかよりも、もっと目には見えない、自分の一番かたわらにいる人さえもだまさなければ守れないものがあることも、彼は知っていた。

その目に見えないものを壊さないためには、失わないためには、計算はしない。理屈は考えない。いや、考えるというなら、あとで考える。

レッテルを貼られることになっても構わないし、人も平然とだます。

王仁三郎は自分が宗教家に分類されてしまうことを嫌い、娘が学校に提出する父親の職業欄には「世界改造業者」と書いたことでも知られる。
カテゴライズされないところに棲んでいる人間は、とてもおもしろい。

ぼく自身、世にある宗教にはまったくと言っていいほど興味がない。無神論でも有神論でもない、ゼロのところで生きている人間だから。
また、右とか左とかの分類で人の価値観を分け隔てることも、いまの時代には通用しない、“古い”ことだと思っている。

そんなものをすべて取っ払った先に、人のすがたは見えてくる。
取っ払うのに必要なのが、感覚。
曖昧と言われる感覚だが、それは脳が曖昧だと思っているだけ。身体はもっとハッキリ「正しい」ことを感じたりもする。

ぼくもまた人をだますことを、これから先平然と行なっていきたいと思う。

年賀に代えて。

投稿者 長沼敬憲 : 15:21 | コメント (0)

2005年10月29日

■佐高信「司馬遼太郎と藤沢周平」を読んでみた

近年、作家・藤沢周平の足跡が何かとクローズアップされている。
筆者も仕事で時代劇関係の本を作ることになり、これを機会にいくつか代表作を読んでみた。

そのなかでも最も印象に残ったのは、やはり「蝉しぐれ」だろうか?
現在、市川染五郎の主演で映画が公開中で、関連本もずいぶんと刊行されている。
また、数年前にはNHKでも内野聖陽の主演で同作がドラマ化された。こちらはつい先日、ビデオでの視聴が終わったが、原作の世界がうまく再現され、なかなか余韻の残る佳作。
映画と見比べてみるのも面白いかもしれない……。

この作品のなかで描かれているのは、文字通り、サムライの世界だ。
主人公は、江戸時代の東北の小藩の下級武士。藤沢氏の郷里である山形の鶴岡近郊(庄内平野)がオーバーラップされているという。
仕事かこつけて読んだ評論家・佐高信氏の著書には、次のような記述がある。

「江戸城は誰がつくったか」という問いかけがある。太田道灌と答えると正解で、大工と左官がつくったというと笑われるが、たぶん、藤沢は笑わないだろう。大工と左官の立場に身を置いて書かれたのが藤沢の小説だった。
「司馬遼太郎と藤沢周平〜『歴史と人間』をどう読むか」光文社)

上記の書名でわかるように、佐高氏は藤沢周平と司馬遼太郎を対比させながら、「左官と大工」を描く藤沢のほうにシンパシーを寄せている。
“国民作家”である司馬に関しては、むしろその歴史観(司馬史観)にひそむ「虚構性」を批判したい思いがあるようだ。

端的に言えば、司馬(遼太郎)は商人であり、藤沢は農民である。そして、池波(正太郎)は職人である。職人と商人をコントラストさせることはできない。いささかならず調子のよい商人に対抗するためには、寡黙に働く農民のエネルギーをもってこなければならないのである。
(同上 文中のカッコは筆者)

なかなか面白い対比ではないだろうか?
佐高氏の指摘するように、実際司馬は「江戸城をつくった人」を描く際に、「太田道灌」にスポットを当てるケースが非常に多い。
つまり、作品に一種の英雄主義的な側面があり、社会の底辺を支える大多数の無名の人々(大工や左官)の存在は多分に軽視されている。
権力者(政治家、経営者)の腐敗を徹底的に批判するというスタンスを持つ佐高氏からすれば、司馬の「英雄主義」は、彼らの生き方に安易に迎合してしまう、「調子のよい商人」として映るのだろう。

ピンと来ない人のために、佐高氏が著書でも触れていた、司馬の歴史観を表す一文を紹介しておこう。

ビルから下をながめている。平素、すみなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。おなじ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある。

この俯瞰的な、「神」の視点から歴史を見下ろす行為では、いちばん底辺の庶民の生き様は見落とされてしまう面がある。
言い換えるなら、藤沢周平はこの司馬が見落としてしまった底辺の世界をうまく描き出し、庶民を中心にすえた独自の歴史像を構築することに成功した。
上のポジションに駆け上がっていく間には見えなかった世界が、藤沢作品には丹念に描かれていると言ってもいいかもしれない。

筆者は、十代の頃から司馬作品を多く読んできたこともあり、佐高氏のような嫌悪感まではむろん持っていない。
というより、司馬氏にはいろいろ教えられてきた面も多いので恩を感じてもいる。そして、だからとうわけではないが、彼が「城をつくった人=権力者」ばかりを描いてきたという指摘には、少々誤解があると思えてしまう。

なぜなら、司馬氏は確かに権力者を描いてきたが、通説で語られてきたような「権力者の英雄性」をそのまま礼賛してきたわけではない。
むしろそうした通説を嫌悪し、通説では光の当てられてこなかった彼らの一面をシニカルに描いている面が濃厚にある。

たとえば、歴史のなかで英雄として祭り上げられてきた源義経(「義経」)の描き方など、戦争には強いが、普段はだらしない若者という感じで、少しも英雄らしくはない。
通説では脇役でしかなかった坂本龍馬や新選組を取り上げた点なども含め(しかも新選組では、副長の土方歳三が主役に据えられた)、オーソドックス(通説)へのアンチテーゼという点が、司馬史観の根底にあると言うこともできる。
埋もれていた脇役を小説の主人公に据えることで歴史に多様性を与えた点が、多くの読者の琴線に触れた面であると思われるのである。

とはいえ、筆者は手放しで司馬史観を礼賛しているというわけでもない。
事実、佐高氏が推奨する藤沢周平の作品を実際に読んでいくと、「ああ、この世界は司馬さんには欠けていた世界だ」と感じさせるものが確かにある。

藤沢周平の「時代小説」には、実在の人物が取り上げられることもあるが、代表作の一つである「蝉しぐれ」にしても、「用心棒日月抄」にしても、登場する多くは架空の人物。
「こんな人がいたかもしれない」という無名の人の生き様を創作し、結果として歴史(たとえば江戸時代)の実像をうまく浮き上がらせている。
その意味では、司馬作品の欠落箇所を藤沢作品が補完している。筆者などは、そこにある種の新鮮さをおぼえたわけである。

しかし、ここまで書いてきてもうお気づきかもしれないが、藤沢作品が司馬作品の欠落を補完しているというだけではない。
藤沢作品の欠落を司馬作品が補完しているという言い方もできる。
つまり、江戸城をつくったのは「大工や左官」であると同時に、「太田道灌」でもあるということ。
当たり前の話だが、どちらが正しく、どちらが間違っているわけでもない。優秀な大工や左官がいくら集まっても、それだけでは城はつくられない。

佐高氏のなかにはまず、庶民の暮らしを圧迫し、私欲をむさぼっている「権力者」に対する痛烈な批判精神があり、彼らの「悪」を追求し、世の中を少しでも風通しのよいものにしていきたいという志があるように見受けられる。
言ってみれば、司馬作品への批判には、体質的な嫌悪感以上に、自分自身の目的を遂行するための戦略的な要素が含まれている。
そのへんを差し引かないと、今度は「大工や左官」の世界に意識が傾いてしまう。

その意味では、司馬作品も藤沢作品も同じように自分の感覚に取り込んでしまったほうが、よりトータルな「歴史」が見えてくる。
そして、このようなトータルな感覚を身につけるには、司馬の言うような「ビルの上から俯瞰する」意識がじつは欠かせないこともわかってくる。

ちなみに筆者は、司馬史観の「欠落部分」を、藤沢作品的な世界とはまた違った形でイメージしてきた。
たとえば、「脳を超えてハラで生きる」のなかで、司馬作品は“脇役”ばかりにスポットを当ててきたことで、結果として「日本史上でも最高レベルのハラの持ち主であった西郷隆盛については、相当に書きあぐねている」といった指摘をしている。
(ハラについてわからないひとは、こちらを参照)

西郷を描いた司馬作品としては、明治維新以後、西南戦争へと至る顛末をつづった「翔ぶが如く」という長編があるが、氏にしては珍しく歯切れの悪い作品で、まるでブラックホールのような(つまり、あまりにハラ的な)西郷の人間像に悪戦苦闘したまま終わってしまった感が強い。

作品そのものの読みごたえはともかく、読了したあとでも、「で、西郷って、どんな人なの?」という思いが浮かんでしまう。要するに、ハラ的な人間の大きさは、氏の知性をもってしても捉えきれなかったわけである。

むろん、西郷が描けないということは、その累は(?)慶喜にまで及ぶだろう。
慶喜については、「最後の将軍」という短編が遺されているが、短編という扱いを見てもわかるとおり、司馬氏は慶喜をあまり買ってはいない。つまり、慶喜になどろくなハラはないと思っていた。大政奉還をなし、江戸無血開城を指示した家康以来の英傑を、才子、才に溺れる(?)の典型のように見なしていたようだ。
しかし、慶喜という月が理解できないかぎり、太陽である西郷と出会うこともできない。両者は、そういう構造のなかにいる。しかも、慶喜という月は、結果として太陽に勝利し、太陽の没落を呼び込むという離れ業もやっているのである。

西郷と慶喜の「対立構造」については、「振り返れば「神」になる」のなかで“続き”を書いているが、筆者に言わせれば、主役であろうと脇役であろうと、権力者であろうと庶民であろうと、すべて「同じ人間」であるということだ。

「すべて同じ人間」という立場にたてば、すべての人に対して同じ平等な視点で向き合うことができる。
ただ、この平等な視点は、強者に対するルサンチマン(怨恨感情)を持っているかぎり、なかなかバランス良くは磨かれていかない。
しかし、このルサンチマンからひとたび脱却し、この視点を獲得してしまえば、自分が出会うものすべてから「学ぶ」ことができるようになる。
だからこそ筆者は、藤沢周平作品からも、そして佐高氏からも、こうして多くのことを学び取ることができたわけである。

さて、藤沢周平の世界をもう少し堪能するために、映画(蝉しぐれ)のほうも見にいってみようか。
主演の市川染五郎は、主役の牧文四郎を演ずるにあたって「ハラを意識してきた」と雑誌のインタビューで語っていたな……。

司馬作品がじつは「ハラ」をうまく描けてないという点に関しては、非常に重要な問題が内包されている。藤沢周平の真価も、もしかしたらそのなかでさらに浮かび上がってくるかもしれない。
こちらはまた、稿を改めて触れてみたいと思う。

投稿者 長沼敬憲 : 01:34 | コメント (0)

2005年09月10日

■超才? 明石散人「視えずの魚」を読んでみた

このサイトの中でも何度か取り上げたことのある明石散人氏の著作を、最近2冊ほど新たに読んでみた。
歴史が好きな人の間では、知る人ぞ知る存在。筆者が「信長が本当に天才なのか?」という疑問をハッキリ抱くようになったのも、思えば明石氏の「二人の天魔王」(講談社)を読んだのがきっかけだったろうか? 同書は、信長は決して独創的な人間ではなく、一時代前に「天魔王」と恐れられた足利6代将軍・義教をモデルにしていたという「仮説」が、豊富な資料解読によって浮かび上がってくる、非常にインパクトの強い1冊である。

その明石氏の処女小説が、今回読んだ「視えずの魚」(講談社)。
まず、裏表紙のキャッチコピーがすごい。

「偶然の集積は瞬間的に奇跡として時間の先端に現象する」! 推理・歴史・官能・美学・哲学……。天下の超才・明石散人のすべてを鏤(ちりば)めた絢爛たる処女小説にして、絶無の神品。「全宇宙の外側の景色」から視た時間の先端の奇怪にして精緻きわまるコラージュ。
これを読まずして明石散人は語れない!

本当にもう、あおりにあおってます。笑。
とりあえず、このキャッチの冒頭にある「偶然の集積は〜」について本文でふれている箇所を、抜粋してみます(Web上でわかりやすく見せるため、一部段落などを変えて表記しています)。


時間の先端は自己の中に一つしか所有できない。未来から視れば、現在所有する自己の時間の先端は他の時間の先端と対立軸に存在することは明確だからだ。
自己以外の時間の先端は未来時間が過去の景色を視る時にしか成立しない。いつも左へ曲がる道をふと右に曲がったところで、全てで辻褄は合い、何も変わらないのである。
一方で、未来から視れば左の景色と右の景色の違いは明確なのだ。『どうしてあの時に限って右へ……』、世の中の現象はこれが同時多発的に起きている。だから奇妙なのだ。

なにやらわかりにくいと思うので、勝手に解説してみます。

時間の先端は自己の中に一つしか所有できない。
(人は「いま」という一つの時間の中でしか生きられない、ということですね)。

自己以外の時間の先端は未来時間が過去の景色を視る時にしか成立しない。
(でも、過去を振り返ったとき、じつは無数の選択肢があったことに気づく。これは「いま」という時間に当てはめてみると、じつは選択していない時間が同時に、並列的に存在しているという言い方になる)。

いつも左へ曲がる道をふと右に曲がったところで、全てで辻褄は合い、何も変わらないのである。
(「いま」は一つしか選べないので、ふと別の選択をしたところで、その選択したものがその人にとっての「いま」になる。この原理は絶対に変えられない)。

一方で、未来から視れば左の景色と右の景色の違いは明確なのだ。『どうしてあの時に限って右へ……』、世の中の現象はこれが同時多発的に起きている。
(「いま」が「過去」になったとき、人ははじめて自分の選択しなかった時間の存在を知ることができる。ふと選択したことの「ふと」の不思議さを感じたりする)。

だから奇妙なのだ。
(そう。ただ、奇妙というのは不可解という意味ではない。不可解と思うのは、この仕組みが見えていないから。「ふと」の不思議さを感じたとき、人は奇妙という感覚を抱くことができる。そこに人生の玄妙さがある……)

ちょっとわかりにくいかな……。
これだけではなにやら難しいことばっかり書いてあるように思われそうなので(半ばそうなのだが)、別のページから関連してそうな箇所を抜粋。

「いつだったか……、しのぶちゃん、人が何か確認する時って五つの要素があるんだけど知ってる?って。
私は目で視えること。耳で聞くこと。体のどこかで触れること。それから何となくわかると言ったような直感。それに予言、と答えたら、笑いながら三つ目までは正しいけど、あとの二つは駄目だと言うの。
私がどうしてって聞くと、あとの二つは同じものだ。それから直感に対する解釈も間違っている、と言ったわ。直感を支えるのは、何となくなんていうあやふやなものではなく確実な経験なんですって」

「あとの二つを何と言ったんです。明石さんの思考パターンを探る上で重要なキーワードになるかもしれません。是非とも知りたいですね」

「四つ目は記憶に基づく直感。五つ目は気配だというの」

「明石さんらしいな。直感はあやふやなものではなく、記憶に基づく帰納的推論というわけか。そしてその先に気配がある。なるほど一理あるな。それで先ほどしのぶさんは、記憶に基づく直感では気配の人明石散人は捕まらないと」

「そう言えば香月さんは、明石さんから気配の解釈を聞いたんですよね。何て言ったんでしょうか」

「それがね、大宇宙の外側の景色を視ることだって言うの。センセイには見えるんですって」

最後の“大宇宙の外側の景色”というのは、じつは筆者もわりと似た言葉を昔から使っているので興味深く感じた。
で、以下は筆者の解釈だが……。

まず「宇宙」という言葉で、物理的(天文学的)な宇宙を思い浮かべてしまうと、とたんに抽象的な、雲をつかむような話になってしまう。
人の意識の「広さ」は宇宙の「広さ」に重なる。
だから、自分にとって一番身近な?「心」という言葉に置き換えてみる。

すると「大宇宙の外側」とは、「心の外」ということになる。
「心」は生み出されたものだから、生み出した本体=自己は、当然のことながら、「心の外」にある。
つまり、心はこの世界のすべてではない、ということ。
ということは、我々が認識している宇宙もまた、すべてではないということになる……。

あるいは、筆者の書いた2冊目の本のテーマをふまえるなら、それは「脳を超える」ということ。
そこにもっと大事な本質がある。
そういう感覚がつかめると「気配」の意味も見えてくる……。
これもちょっと難しいかな?

あと、次のくだりもおもしろかった。ちょっと長めだがそのまま抜粋する。

遠矢に名前を呼ばれた麗奈は顔が少し青ざめている。さっきは自分の感情の赴くままに発言してしまったが、その後の状況を目の当たりにして自分の犯した失態に気づいたのだ。

今までの麗奈は自分の発言は自分で責任を取ればそれで良かった。周りも許したし、事実、何事も言いっぱなしで済んだのである。ところが、今の麗奈は失態の責任を自分ではどうにも取りようがない。

麗奈は男が遅れてきたことや傍若無人な態度に腹が立って思わず口走ったが、少し考えれば判ることなのだ。男は遅れてきても自分は許されるという前提で遅れてきている。男はどんな振る舞いをしようとそれも許されるという自分の枠組みを知っている。麗奈はそれを単なる傍若無人と見誤ったのだ。

麗奈の不安は更に大きくなっていく。遠矢企画は大手代理店のC・Jから全ての仕事を切られてしまう可能性さえある。

麗奈は「狼の群れにいる羊を恐れよ」という祖父の言葉を思い出していた。凶暴な狼は羊を捕らえて喰らう。にも拘らず、この恐ろしい狼の群れに一頭の羊が平然としている。何故、羊は狼を恐れない。何故、狼は羊を襲わない。答えは簡単である。実はこの羊は羊の皮を被った虎なのだ。狼はそれを知っている。だからそっとしておく。

このあとに続けて、「とにかく人は見てくれだけで人を判断しがちである。自分の拙い目筋で他人の力を推し量ろうとせず、最初はその人の周りを視るのだ」という。
そして、「もし仮に世間様が認知している実力者が、一見大したことのない人に気を使っていれば、実はその人は見かけよりずっと力を持っている」と続ける。
人生の機微を知っている人の考察だな、と思う。

正直なところ小説(読み物)としては練りが足りないというか、「いまいち」だが、以上のように随所に明石ワールドはちりばめられている。
そして強く思うのは、「いまいち」であろうがどうであろうが、こうして本になり最後まで読む人間がいる現実があるということ。
それを知っていて、確信犯的に「思いのままに」書いたのがこの処女小説なのだと考えると、明石氏の「気配」も見えやすくなるかもしれない。
あるいは、作品が表に出ること、人に評価されることの妙が見えてくる……。

このあとに読んだ篠田監督との対談本(「日本史鑑定〜天皇と日本文化」徳間文庫)については、別の機会にふれてみたいと思う。

投稿者 長沼敬憲 : 09:15 | コメント (0)

2005年01月21日

■「女性天皇問題」から見る「変化の兆し」

 最近、何かと皇室の話題がメディアに登場することが多い。
 皇太子さまの「(皇室に)雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」という発言、それに対する弟・秋篠宮さまの「反論」、そして紀宮さまと東京都庁職員・黒田慶樹さんの婚約会見など、よくよく考えると天皇陛下の「子供たち」の発言がクローズアップされている。

 しかし、そうした発言以上に問題視されているのは、天皇家の後継者問題。雅子さまが長女(愛子さま)を出産されたあたりから、「女性天皇を容認するかどうか」が議論されはじめているが、これは「男女平等」の点から説かれるような問題ではない。なぜなら、平等云々を語る以前に、現在の皇族には、皇太子さま、秋篠宮さま以外に、後継者となりえるような男子がいないからだ。
 現状では、愛子内親王が父のあとを継いで「女性天皇」になるということは、国民感情からいってもきわめて自然な流れになってきている。

 では、権利の問題以外に、女性天皇の存在に何か問題があるのだろうか?
 「皇室典範」に皇位は「皇統に属する男系の男子たる皇族」となっているから法律を改訂しなければならないと(それが問題だと)語る人もいるが、法律自体は、手続きは面倒でも変えることはできる。不変の法則というわけでもない。
 ここで問題視されているのは、血統なのである。
 ピンと来ていない人も多いかもしれないが、たとえばいまの愛子さまが皇位を継いで、晴れて「女性天皇」になったとする。当然、適齢期になれば「ご結婚問題」が浮上するが、お相手となるのは自然にいけばほぼ、民間人(黒田さんのような)となる。仮に民間人が婿入りし、男子の後継者を得られたとしても、「血統の中心は男系」という伝統的な発想からすると、本人の資質に関係なく権威(=皇室のアイデンティティ)が薄れてしまう。戦後、臣籍降下した旧皇族のなかから男子を選ぶという方法もあるが、本人の意思の問題もあるから昔のようにはすんなりと行かないだろう。

 「天皇制は反対」という人にとってはむしろ「いい展開」なのかもしれないが、基本的には多くの国民が存続を希望・容認している。皇室関連の番組などは人気が高く、日本の国の「象徴」であるという点は、否定派の立場から見ても客観的事実と認めるしかないだろう。
 筆者自身、特別な「思想」は持っていない、「多くの国民」の一人である。ことさら存続を否定するような動機も意思があるわけではない。ただ、多少なりとも日本の歴史の流れを知っているので、天皇家という血統の重要性は「多くの国民」よりもリアルに理解できている。
 神話の時代はともかく、皇室は少なくとも1000年以上にわたってひとつの血筋を継承し続けてきた、ある意味「日本で最も古い家柄」である。それは、それぞれの時代の天皇の努力や功績という以前に、日本列島に住み続けてきた人々が無用な争いを引き起こさないために生み出したシステムといった側面がある。

 権力の頂点に実権を持たない「象徴」が存在することで、日本の歴史は西洋や中国大陸とは異なる、「和」をベースにした歴史を作り出してきた。
 太平洋戦争へと至る近代の日本の戦争が天皇の名のもとに引き起こされたという点から、昭和天皇の「戦争責任」を問う声もあるが、筆者に言わせれば「戦争責任」などというものを問うこと自体、日本的な感覚の現れなのである。
 日本の風土に生まれ育ち、「和」の感覚のなかで生きてきたからこそ、帝国主義の世界潮流に巻き込まれ、未曾有の戦争を引き起こしたという事実に対して「反省」が起こる。「お詫びの感情」が湧いてくる。左翼と呼ばれる人も、右翼と呼ばれる人も、その意味でともに「生粋の日本人」なのである。

 こうした自己の行為を反省し、他者に思いやりを持ち、判官びいきなどと言われるように勝者よりも敗者に思いを寄せてしまう、良くも悪くも「優しい日本人」。
 その日本人を作り出し、生み出してきた社会の中心に、ほとんどの時代において政治的には有名無実、ある時期にはすっかり忘れ去られていた天皇という存在が位置しているわけである。
 多くの国民が天皇制を容認し、無くなることを想像できないでいるのは、感覚的にそうした日本特有の「中心」(色即是空にも通じる“空っぽの中心”)であることを感じ取っているからだと筆者は思う。これは思想の問題というより、感覚の問題。だから、思想のレベルでこのシステムをいくら否定しても、大衆を動かす力にはなりえないわけである。

 さて、このように思想では決して動かない天皇制が、感覚の根拠と言ってもいい血統の問題によって、いま大きく揺らごうとしている。
 血統なんて関係がない、多くの国民の合意があれば、女系であろうと皇室は存続していくはずだ……と思う人も多いかもしれないが、筆者の言いたいことはそんなことではない。
 不思議なことに(としか言いようがないが)、皇太子ご夫妻にも、秋篠宮ご夫妻にも、男子は生まれていない。いまの天皇陛下の弟にあたる常陸宮さまには子供はなく、昭和天皇の弟、三笠宮さまの子にあたる3人の親王の家系も、みな女子だ(そのひとり、皇位継承の上位にあった高円宮さまは先年亡くなられた)。現在の皇室は、有史以来ほとんど例のない「皇室存亡の危機」のなかにある。政治的な危機は数々乗り越えてきた天皇家も、一番重要な血統によって存在が問われている。

 それにしてもなぜ、いまこうも皇位継承に皇室が悩まされることになったのか?
 昭和天皇以前の歴代の天皇は、よく知られているように「一夫多妻制」の文化のなかにあったから、正妻(皇后)に子が生まれなければ(女子ばかりならば)、側室に男子を産ませることで皇統を保ってきた。また、近親結婚が現代のようにタブー視されてなかったこともあり、過去に皇位に就いていた女性天皇(歴代で8人10代存在。うち2人が2度皇位に就いている)は、近い血筋から親王(夫)を迎えることで、血統の薄まるのを防いだ。
 しかしいまの時代は、こうした手段が、少なくとも西欧社会の文化としてはコンセンサスを得られていない。皇太子時代のイギリス留学などを経て世界のスタンダードを体感された昭和天皇は、皇位継承後、強い意志で古い因習の多かった宮中を改革したことで知られるが、その際、側室を置く慣例も廃されている。「時代に合った皇室のあり方」を考慮された結果と言うことになるが、皇后さまがなかなか男子をお産みにならなかったこともあり、男系の後継者を得るのに大変苦労をされている。
 その後代替わりし、現在の天皇陛下(当時は皇太子)は民間から嫁がれた美智子さまとの間に、二人の男子を得た。しかし現在の皇太子と結婚された雅子さまは、ご存知のように愛子さまお一人をようやくお産みになったのみ。これが大きなプレッシャーになったことは想像に難くないが、もう一人の子(男子)を望むことは、失礼ながら年齢的に難しいのが現実だろう。

 天皇家はいわば日本という国の祭祀を司る「神主」のような存在である。とするなら、こうまで男子が生まれないの事実は、あるいは「神意」と言っていいのかもしれない。
 神意といっても、べつにオカルトめいたものではない。自然の流れ、摂理のようなものと捉えたらいい。実際、「女性天皇」が誕生するとしても(普通に考えて20年とか30年先の話であるだろうが)、その時は、従来のような形で皇室が存在していない社会になっている可能性が高い。
 皇室そのものは存続していくとしても、もしかしたらその歴史的役割自体、大きく変わっているかもしれない。もちろん、日本も世界も現在では想像できないくらい様変わりしているはずだ。そのとき日本人は、「象徴」を必要としなくても「和」を保てるようになっているだろうか?
 じつはこの点が、一番問われなければならない問題なのである。

 我々の存在を支えているものの多くは、普段は自覚もできず、強く意識もされない。
 しかしたとえば富士山が噴火し、現在の秀麗な形を失ってしまったとしたら、日本人の意識も大きく変化する。山になど興味はないという人も、喪失感を抱かずにはいられないだろう。天皇制も、言ってみれば、富士山に近いような存在と考えたらいい。
 富士山をただのモノとしか思えない人は、個人としてはそれでよいとしても、人を動かし、社会を動かす仕組みまでは感じ取れない。そんなものがこの先大きく崩れ、変わっていく兆候が、日本の「中心」の異変に見え隠れするのである。

投稿者 長沼敬憲 : 00:02 | コメント (0)

2004年10月15日

■歴史の本質は「ボリューム」ではかる

 歴史というものを日常の中で意識するにはどうしたらいいか? それにどんな意味があるのか? ……ということについて、今回はちょっとヒントになる話を。たとえば、後世の人が我々の時代を語る時、歴史上の人物として誰を取り上げるだろうか? まずそんな想像をしてみてほしい。まあ、「平成」の時代はまだ続いているので、ここでは「昭和」と限定しておこう。様々な意見はあるだろうが、作家の明石散人氏は著書(「日本「宗教」鑑定」)のなかで昭和天皇、田中角栄、池田大作の名前を挙げてる。どうだろうか?
「千年後」に思いを馳せて、「現代」を振り返ってみてほしい。

 聖徳太子、後醍醐天皇、空海、日蓮、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この人達って誰もが現実にこの目で見たいと思う歴史上の人物でしょう。
 でも、歴代天皇の中で先帝陛下(*昭和天皇のこと)は最大ですよ。総理大臣で最高なのは田中角栄、宗教家は池田大作氏ですよ。
 僕たちは三つの奇跡をみんな見ているんです。歴史をちゃんと認識していれば、昭和が如何に凄い時代であったかは簡単に判るはずなんです。

 ……いろいろな意味で誤解を受けやすい表現だが、筆者が見る限り、明石氏は特定のイデオロギーにとりつかれたり、こだわっている人ではない。むしろそうしたタイプの陥りやすいおかしな先入観をほどくスタンスで、様々な作品を発表している。筆者の考えを話す前に、もう少し氏の発言のエッセンスになる部分を引用しておこう。

 空海、最澄の時(*平安時代)の時だって何万人という僧侶がいたんだろうけど、あの二人がいたおかげで、慈覚大師以外は全部吹き飛んじゃった。良弁(*奈良時代)のときだって沢山の僧侶がいたんでしょうけど、誰も歴史に残りません。……

 慈覚大師、良弁すら知らない人は多いと思うが、言いたいことはわかるだろう。無数の毀誉褒貶のつきまとう田中角栄や池田大作については、次のように語っている。

 国会議員は這いつくばって土下座してやっと当選するんです。見知らぬ人を、自分の魅力だけで、雨や雪が降っているのにただで投票所まで運ばせるのは大変なことです。どうしても来てくれない時には、お金まで配っているんです。そこへいくと、池田さんは違います。自分はふんぞり返ってね、物も人も全て選り取り見取りです。黙っていてもお金まで持ってくるんですよ。それが一千万人近くもいるんです。どうしてこれが凄い人と評価できないのか不思議ですよ。

 ……彼の言いたいのは、歴史にはボリュームが存在するということ。個人に照らし合わせるなら、人物としての固有のエネルギーと言い換えてもいい。その人の業績や思想に対する評価は時代によって変わりうるが、ボリュームは不変。筆者の身体論であらわすなら、それは「器の大きさ」ということになる。身体感覚による人物評は不変(つまり、誰にとっても妥当性のある、共通の評価というものを引き出すことができる)……この点を理解していない人が非常に多いように筆者は思う。

 きわめて単純なことだが、好き嫌いで人を評価しては、本質が見えなくなる。もちろん好き嫌いがあるのはいい。しかしそこから離れ、凄いものは凄い、と理解する感覚がまずなければ、結局感情だけで行動することになる。皮肉な話だが、そういう人が逆に「熱心な信者」になったり、熱にうかされたように「雨や雪が降っているのにただで投票所まで」行ったりもする。そのように「大衆」を動かしてしまうエネルギーが人物を作り出し、動かし、歴史は作られる。イデオロギーや主義主張、あるいは政策などによって作られるのではなく、そうしたものすら生み出したその人の「ボリューム」が、歴史の源泉であるわけだ。

 こうした目で見た時、確かに昭和天皇、田中角栄、池田大作の名前は「昭和史」に欠かせない……筆者もそう思う。異義はない。好き嫌いの感覚でいえば大きく評価が別れるのかもしれないし、嫌いの側から言えば、「歴史に名が残る」ことに抵抗を覚える感情もあるだろう(筆者はそうでもないが)。しかし、好き嫌いは飲み屋交わすレベルのごく私的な会話だ。ジャイアンツが好き、タイガースが好きというレベルで熱く語り合うのは楽しいことだが、当然のことならがそれだけでは見えてこないものがある。

 つまり、「俺はトラ吉」とわかって話していれば問題はないが、厄介なのはそれに気づいていない場合。筆者に言わせれば、主義主張と称するものの多くは、その根底に「好き嫌い」が横たわっている。しかし、主張する当人は自分が好き嫌いよりもう少し高級なレベルで話していると思っている。実際は感情だから、相手の主張が異なると「感情的」になるし、場合によっては、何らかの力を駆使してそれを押しつぶそうとする。そういう行動自体、じつは歴史の中で人の「器」を押し上げるエネルギーにもなっているわけだが……。

 ちなにに筆者は、「昭和」と言った場合、上記の3人に加えて、出口王仁三郎と田岡一雄の名前も思い浮かべる。出口王仁三郎はいわば「池田大作以前」の昭和宗教史の要のような人物であり、田岡一雄は戦後社会を揺るがせた山口組の3代目組長。表の歴史にはほとんど浮かび上がらないが、生前のボリューム(器)の大きさは、前記3人に匹敵するものがあるように思える。彼らを「悪」と捉える視点そのものが、おそらく今後の歴史の中で修正されていくだろう。なぜなら善悪で人を論じる感覚そのものが、好き嫌いの感情に起因しているからだ。好き嫌いを外して歴史を見た時、善悪の観念を超えた「ありのまま」が浮かび上がる。

 筆者はこの「ありのまま」に耐えられる強さを持った人間が好きだし、好き嫌いの感情をそこに置くことで、自分の感情も満たしながら、同時にニュートラルな感覚を養っている。ここに挙げた人物がある意味でみな埋もれているのは、「昭和」がまだ完全に歴史になりきっていないからだろう。しかし、そうであっても、自分にその気があればいまここで理解をし、感じることができる。こうしているいまも歴史の渦中にあるという「後世の視点」を、まさにいま持つことができれば、物の見方もずいぶん自由になるはずだ。
 多くの人たちにとって、「好き嫌い」の克服は確かに容易ではないだろうが、この感情から抜け出せた時、人間の「大きさ」というものが実感できるようになる。頭ではなく、身体で物を捉えられるようになる。

投稿者 長沼敬憲 : 00:12 | コメント (0)

2004年09月26日

■「時間」とは何かを理解すると……。

 歴史について書いていると、しばしば「時間とは面白いな…」という思いが湧いてくる。そしてこれが意外と理解されていないから、歴史の持つ複雑怪奇な面白さも捉えきれないんだなと感じたりする。
 我々が生きている時間というのは、当たり前だが500年前、1000年前、1万年前と同じではない。もちろん天体の運行がそうそう変わるわけではないので、平安時代の人が時計を持っていたとしても同じようには動く。しかし感じ方が違う。だから平安時代の400年と20世紀の100年を長さだけでは比べられない。時間には密度と言うものがあるからだ。

 たとえば我々の時代は、一応太平洋戦争の終結(1945年)が一つの起点になっている。戦争に負けたことで生活スタイル、政治体制が一新したからだが、冷静に見ると、それからまだ60年経っていないわけである。昔で言うと60年は干支の1サイクルで、だから60歳になると還暦と言って「暦に還る」と表現され、赤ん坊と同じちゃんちゃんこを着せられる。
 まだ還暦にもなっていないわけだ。時代としてはまだまだ一定の評価を下したり、定義付けることが難しいこともわかるはずだ。まあ、逆に言えば、そろそろ「時代を振り返る」ことも可能な段階になってきたと言えるわけだが……。
 
 しかし60年と意識すると、ある意味で、我々の時代の「短さ」というものを感じてしまうだろう。筆者は小学校の時歴史年表を見て、「鎌倉時代は短いな」とふと思ったことがある。とりあえず「いい国つくろう……」で1192年を起点にすると、滅亡が1333年だから、正味141年。しかし現代と比べたらどうか。2080年を過ぎないと鎌倉時代とは同じにならない。気が遠くなる……。

 とはいえ、先の話を繰り返すならば、その140年は鎌倉時代と同じ時間感覚では展開されていない。こんなふうにインターネットで情報伝達できる時代の1年というのは、鎌倉武士の何年に匹敵するのだろう? たとえば格闘技でも秒殺などと言うが、1分くらいで終わってしまう試合がある。しかし密度が濃ければ「いい試合だったね」と言われる。歴史が面白いのは、この密度の濃淡が時代によって様々であるからだ。密度が濃ければいいというわけではない。縄文時代の1万年は、その意味では密度が薄いが、それは時間的な長さばかりでなく、人々の意識もまたゆっくり移ろっていたと想像できるからだ。いまという時代の観念を捨てなければ肉迫はできない。

 このいまという時代はとにかく展開が早い。しかし個人の意識も同じように早いのかというと、そこには差もある。それは個々に想像力があるからだ。歴史を知ることに意味があるとすれば、一直線の歴史年表では表現しきれない「意識の様々な状態」を、想像力によって疑似体験できることにある。つまり、いまの時間感覚がすべてではない。縄文時代を知るということは、縄文人の時間感覚を想像し、追体験するということだ。この感覚がわかってくると、知識としての歴史から、感覚として取り込む歴史へと、吸収の仕方が変わっていく。もちろんそれは現実の生活へも反映される。

 以前にも書いたが(「日常感覚」)、昨今の年金制度をめぐる議論の馬鹿馬鹿しさなどは、この時間に対する観念が「まるでわかっていない」ことに起因している。時間というものは、様々に変化するのである。長くもなるし、短くもなる。つまりは当てにならない。過去の30年の尺度で未来の30年を想定し、その30年後の自分のために今からお金を積み立てるなどという机上の空論を、国民の多くが支持できないのも当然だ。「年金制度の必要性」を訴える政治家も官僚も、おそらく2030年には生きてはいまい。生きていたとしても、その時の社会制度まで予言できたうえで発言しているのか? 根本的な無知がそこには横たわっている。

 鎌倉時代の話が出たから、そこで例を出すと、あの時代には徳政令という「制度」があった。過去にさかのぼって累積した借金をすべて棒引きにするというもので、過去のシステムの負荷を自主精算しきれなくなった時、強制的にリセットしてしまおうと発想したものだ。これを幾度か繰り返したのち、その制令の母体である鎌倉幕府は信用を失い滅亡した。
 このようなリセットは、天災や戦争も含め様々な形でやってくる。そこで人々の時間感覚も一度ゼロになる。時間はずーっと続かないのである。進んだと思ったら止まったり、下がったりもする。ノロノロが急に光速にも変わる。
 平安時代の400年で成し遂げたものを、40年でできた時代もあるかもしれない。いまはどんな時代だろうか? とにかく時間が早いだけではなく、密度も濃いのが特徴だ。我々の1年は、すでに我々が10年前に感じていた1年とも違っている。政治も無責任と言われたくなければ、「いま」という時間のなかで自己完結できる発想を持つことだ。

 ラーメン屋で「いま」500円払うから、「いま」ラーメンが食べられる。これが自己完結だ。後腐れがない。我々が普段当たり前にやっていることだ。何年計画かで進めていくことでも、理屈は同じだ。自己完結の積み重ねにより、数年先の成果が出るのだと捉えてみる。ラーメン屋が500円の積み重ねで店を大きくするのと同じ感覚だ。
 「いま」を犠牲にして、無視して、「未来」ばかりを語る人は、歴史に裏切られる可能性も想起しておいたほうがいい。本人がいかように夢を見ようが、頑張ろうが、「徳政令」ですべてが御破算になることがある。

 それは政治の話だけでなく、個人の生き方のなかでも起こりうる。しかし、「いま」を積み重ねた結果が「未来」であると理解できていれば、じつはつねにリセットされながら進んでいくので、失敗やトラブルはあっても「御破算」はないのだが(理解が残る)、なかなかそんなふうな感覚でみんな生きてはいないのかもしれない。ちょっと難しいだろうか?

 時間は当てにならないのに、当てがあるように思って(それが絶対の基準であるように錯覚して)、機械的に同じ早さで進んでいくように思っているから、歴史に翻弄されてしまう。人生計画は立てても当てにはならないのと同じように。
 歴史は複雑怪奇だと冒頭に書いたのは、時間の本質が天文や物理ではなく、人の心(意識)に起因したものだからいかようにも変化し、極論すればその人の都合で流れていくということだ。早いなとか短いな、とか……。

 待ち合わせの時の不思議な時間の長さを、歴史にも当てはめ、人生そのものにも当てはめると、生きるということがもっと肉感を伴った、まさに生きたものであると感じられるようになる。「退屈な毎日」はなくなる。歴史をもっと「全体」で捉えられるようになる。カレンダーとか時計とか、予定表などの役割も、おそらく違ったものになるはずだ。

*「時間」については歴史コラムの冒頭でも取り上げています。

投稿者 長沼敬憲 : 00:35 | コメント (0)

2004年09月21日

■「武士道」ブーム?の背景

 PHPの出している「THE 21」という雑誌に、ライターの山口雅之氏が作家の火坂雅志氏に取材した話として、「武士道のルーツは上杉謙信にあり」という記事が載っていた。昨今の武士道ブームを「徹底検証」するといったテーマのコラムだったが、謙信に目をつけたのは確かに面白い。いまもてはやされている?武士道のルーツは江戸時代にさかのぼるが、この時代の武士(サムライ)が謙信の「戦国武将らしからぬ生きざま」に憧れの念を持ったことは十分想像できる。謙信の場合、義という「きれいごと」を全面に出した生き方をしながら、ほとんど無敵であったわけだから、カッコイイと思わないほうがどうかしている。

 でも、武士道のルーツをすべて謙信に集約できるかというと、いささか暴論だろう。筆者の考えるルーツはもっと単純だ。武士道は日本人が歴史のなかで培ってきた「和」の感覚から派生したもの、「和」のひとつのバリエーションなのだということ。このように捉えると、ちょっととっつきにくい武士道も、一気に身近な感覚として受け止めることができる。

 「和」というのは、基本的に言えば、人を大切に思う感覚だ。「夢の王国」のなかで伝えていくつもりだが、その起原は特別に争ったり、国家などつくらずにも豊かに暮らせた縄文時代の、たっぷり1万年にも及ぶDNAのなかにある。戦国時代のように弱肉強食の時代になっても、それでも端々にこのDNAが顔を出す。なにしろ1万年の記憶だ。急ごしらえで断ち切れるものではない。その意味では謙信という武将の特異性も、それ自身「和」の一つのバリエーションであったと見えてくる。天下人となったのは「和」の権化、秀吉だ。秀吉は最後の小田原攻めあたりになると、戦いを戦いではなく、自己喧伝のイベントのように変えてしまった。

 江戸時代の武士は、戦うことを職業としながら戦う機会などほとんどないという、アイデンティティの危機に陥っていた。自分らしさとは何かを問い詰めた時、人は必ず自分のルーツというものを意識する。武士という身分であれば武士とは何かと考える。武士道という観念が形成され、それが現実の生き方にも反映されるようになったのはある意味必然だ。江戸社会は成熟していたから、観念もまた成熟し、「こうありたい」という憧れをつくっていく(……そう言えばこのあたりは「新撰組」のところで書いたな)。

 歴史の話はこれくらいにして……、筆者が思うのは、アメリカ人がサムライに憧れるのは、まだ無意識レベルに近いだろうが、それが自分たちの生き方と明らかに異質だからだろう。戦いという生きるか死ぬかの場面でも「人を大切に思う感覚」が重視されてしまう、それが評価の基準にもなってしまうわけだから、異質でなくて何なのだとなるはずだ。日本人にとっては多分当たり前すぎて(逆の意味で無意識すぎて)ピンと来なくなっていることが、世界的にはまだまだ異質であり、驚きなのだということ。そう認識しておいたほうが、このグローバルで「個」というものが過剰に問われる国際社会の中で、らしさを発揮していける。

 武士道の実践は難しいとか、自分とは無縁だと思っている人も、それが「和」の一バリエーションなんだと理解できれば、特別な苦労もなく、その感覚を磨いていける。実力をつけるということは人より秀でるということだから、努力して少しでも秀でた部分が感じられたら、逆に一歩引くようにすればいい。さらに秀でられたらまた一歩引く。自分は「できる」わけだから「引く」こともできる。逆に言えば、努力している状態というのは前に出ている状態、わからなければわからないと主張しなければならない段階。自己主張の実体とはそういうものだとわかれば、あんまり大声は出さなくなる。それが個性だとは言わなくなる。

 こんな感覚が世の中に広まっていったら、相当に住み心地がよくなると思わないだろうか? それが日本人の「理想」だったなんて思えたなら、それをベースに国際貢献もできる。イメージとしての武士道には現実味が感じられず、近よりがたくても、意識のベクトルを少し変えればその本質は見えてくる。実感もできる。ただ、一つのパラドクスとして、極めれば極めるほど見えなくなるのが武士道であり、「和」なのである。それがわかれば、さらにグローバルな(日本的というより東洋的な)「道」という観念も見えてくる。いまの武士道ブームは、そんな果てしない「道」のほんの入口でしかないが、それでも入口は入口なのである。

投稿者 長沼敬憲 : 00:39 | コメント (0)

2004年09月10日

■徳川斉昭とジョン万次郎の対話記録から

 最近、最後の将軍・徳川慶喜についてコラムに書いたが(「振り返れば「神」になる」)、あれこれネットで調べ事をしているうちに、面白い記事に出くわした。慶喜の父・斉昭とジョン万次郎(中浜万次郎)の対話の記録だ。
 ジョン万次郎というと、漂流がきっかけで鎖国中のご時世にアメリカ生活を体験したという、当時最新の欧米事情を知っていた一級の知識人。かたや斉昭は尊王攘夷の総本山、水戸藩の当主。頭の柔らかい万次郎と、古い観念に凝り固まった斉昭……という図式を想像するかもしれないが、読んでいくと全然印象が違う。アメリカ帰りの万次郎も逸材だが、斉昭は斉昭で封建時代の藩主としてそれなりの見識を備えていたことが見えてくる。ちょうどペリーが浦賀に来航した年(1853/嘉永6年)の記録だ。
 ちょっと順を追って紹介させていただこう。

Q(斉昭公)、大船建造の費用及び売買について
A(万次郎)、日本の銀にて2000貫、銅は少なく鉄が多い。鉄の鋳造は甚だ難しく、日本では困難、買い上げの方が易しい。軍艦の売り船は無いが、一艘ぐらいはあるであろう。オランダへ申し込めば船大工が来るであろうから、古船買い上げよりも便利であろう。

 外に向けて強硬な攘夷論を主張する一方で、斉昭はこうした現実的な分析もしている。というより、万次郎に話を聞く自体、彼の攘夷がただの観念論、精神論ではなかったことがわかる。ま、とはいっても、このあたりは当時英邁と言われた藩主なら誰もが考えたことであろうから、とりたてて言うほどの話ではないかもしれない。先へ進もう。

Q、アメリカの医術はどのようであるか。
A、アメリカの医術というのではなく、イギリス、フランスの医術を通用させている。

 なるほど。アメリカという国の本質(移民によって成り立っている合衆国という実体)がある意味想像できる記述だが……、斉昭の感想は残されてないので、ここも先に進もう。筆者が一番面白いと思ったのは、この次のくだりだ。

Q、共和政治の主は城郭の内におるのかどうか。
A、城郭はなく、住居は日本の豪富農商の住宅と同様町並みに住んでいる。共和政治の主は4ヶ年目に代わり、人望あれば8年も勤められる。
 これについて斉昭公の感想
「36州の主、4年毎に代わることは睦まじいようであるが、その元は利欲より出ていることである。今は開国初めのことであるから戦争などにより英雄の王が出て強いが、戦争ができなくなることは目に見えていることであり、そのときは、利益本位の王では問題となろう。」

 斉昭の感想が面白い。「4年毎に代わるのは睦まじい」と言いながら、それは「利欲から出ていることだ」と言い切っている。つまり選挙で君主が選ばれるのは一見公正で、庶民の意見を反映したもの(=睦まじい)かもしれないが、そんな意見など突き詰めれば「利欲」でしかないと言っているわけである。目先の損得勘定で選ばれるだけで、特別感心することではないということだろう。

 加えて斉昭はアメリカという国に対して、「開国初めのことであるから戦争などにより英雄が出て強いが」と、皮肉めいた論評を加えている。アメリカは建国したばかりの若い国だからまだ混乱もあり、戦争などもあるだろうから、選挙で英雄の力量を持った者が選ばれれば強い国にもなるだろう……、って、これは今日に至るアメリカの政治体質そのものでもある。

 「戦争できなくなることは目に見えている」が、そうなれば「利益本意の王では問題となろう」。アメリカの場合、国が行き詰まってくると対外戦争を仕掛けるという傾向があるが、斉昭の主張と照らし合わせると、大統領が「英雄」でない限り(ただの「利益本意の王」に堕してしまうと)国の強さが維持できなくなるという強迫観念が、為政者の間にあるのかもしれない。

Q、4年毎に代わる場合に、辞めた主はどうしているか。
A、一般と同じ庶民となる。
Q、庶民と同じになりては、今日の生活にも差し支えがあろう。
A、主となった時に金銀財宝おびただしく蓄えおくため何ら差し支えがない。

 お殿様らしく質問の内容が可笑しい。自分がアメリカ国の「主」であったらと想像したのだろう。その時まっ先に問題になるのは、いまの生活が維持できるのかということ。お殿様だから贅沢がやめたくないのだろう、などと安易に捉えないことだ。ここでの斉昭は君主としての体面、権威というものを気にしている。一国の主となった者が任期が切れたからと庶民同様の扱いを受けたら、目上に立つ者としての誇りが失われないか? 庶民の目上の者を尊敬する意識も失われるのではないか? これに対して万次郎は「任期中に蓄財しておくので、心配ないですよ」と答えている。意識の微妙なズレが感じられるやりとりだ。

 さて、残された記録は以上の通りだが、どんな感想を持っただろうか? 筆者はこの簡単なやりとりのなかに、斉昭のなかに染み付いた東洋人の感覚、思想というものが見て取れると思う。たとえば世襲制度は一見不合理だが、世襲であることから君主としての帝王教育を受けられるという利点もある。現に斉昭は慶喜という英才を育て、幕末の世に送りだしている。

 また、民主主義が衆愚政治に陥りやすいというギリシャ・ローマの時代から言われてきた教訓も、彼が理解していたことを示している。筆者に言わせれば、要は民主主義だからレベルが高くて、封建主義だから低いとか、物事はそんな単純には言えないということだ。民主主義を「良識ある政治」の絶対条件のように考えている人は、逆に自分の視野を狭くしている。

 以前にも書いたことがあるが、選ぶ人間のレベルが問われているのだから、密室のなかで首相が選ばれたとしても、だから間違っているとは言えない。密室内のレベルが高ければ問題はない。逆に投票率99パーセントの選挙が実施されようが、だから立派な政治家が選出されるとも言い切れない。制度など目に見える形にばかりこだわる人は、よりよい制度を整えればよりよい選択ができると想像するが、そのようにして実行された共産主義はご存じのようにうまく機能しなかった。

 それでもさらによりよい制度は? と模索するのは自由だが、視点を変えてもっと単純に考えれば、自分自身の質を上げればいいではないかという話になる。自分自身の意識を自由にし、物を見る目を養えば、その分だけ視野は広くなる。主義にこだわる意識が薄くなるほどに、質によって人を見る、物事を捉える感覚が育っていく。世の中というのは、つかみどころがないようでいて、そういう質の人間がある一定以上増えてくれば自然と変わっていくものなのである。

投稿者 長沼敬憲 : 00:48 | コメント (0)

2003年02月01日

■脱「東洋人」を目指して。

 2003年もあっという間に一月が過ぎ、あれこれと忙しく過ごしているうちに、サイトを更新する間もないまま2月を迎えてしまった。
 旧暦(太陰暦)では、ちょうど今日(2月1日)が新年である。
 中国大陸や香港などでは旧暦を祝う風習が今も続いているというが、明治以来、欧米文化をスタンダードにしてきた日本では、月を基準にした生活などすっかり忘れ去られている。日本人は意外なほど伝統を守らない。歌舞伎や相撲などが続いているから伝統的に見えるが、それは日本らしさの本質とは必ずしも重ならない。

 本にも書いたことがあるが、法隆寺とマクドナルドが混在している「いい加減さ」「曖昧さ」こそ、日本らしさと捉えたほうがいい。古めかしい伝統と最新の技術が隣り合せ。その落差を我々は当り前のように受け入れて生きている。
 東洋式の新年にあたって、これから1年の計を自分なりに立ててみたいと思う。
 これまで筆者は、自分自身を日本人の典型のように感じてきた。もう少し手先が器用だったら完璧?だったが、まあここでは性格的なものをイメージして欲しい。先に触れた「いい加減さ」や「曖昧さ」。言葉にすると悪いイメージがあるが、生きていく上でなくてはならない感覚である。カタブツと呼ばれる人は、これがわからない。反面、人生の機微を理解している人は、「いい加減はよい加減」だと感じている。
 日本人は働きアリのように思われているが、筆者に言わせれば基本的にのんびり屋であると思う。ただ、基礎能力が高いからちょっと頑張ればいい結果が出る。のんびり屋の人間はおだてられると弱いから、ついついそこから頑張ってしまう。
 ワーカーホリック(仕事中毒)の気がある人は、まずそんな自分に気づくことだ。そして歴史を振り返り、いちど初心に帰ってみる。
 かつて中国大陸では、百花繚乱の思想が華開いた時代があった。
 日本列島が縄文文化にどっぷり漬かっていた頃、大陸では大河(黄河、長江)の流域で初期文明が興り、農耕が開始され、国が生まれ、他民族・異民族がせめぎ合い、ぶつかり合う中で、様々な価値観・考え方・発想が生み出された。現在の我々が「道徳」と呼んでいる儒教も、「道」と呼んで尊んでいる道教も、「法律」と呼んでいる法家思想も……、そんな渦中で導き出された生きる処方に他ならない。
 同時代の日本人は、そんな思想など持たずとも、つまり「おのれとは何ぞや?」という問いを発しなくとも、殊更問題なく、自由に淡々と生きることができた。
 同時代の日本人、すなわち縄文人。1万年続いたというこの時代、日本人の性格や資質のベースがほぼ9割方作られた。その後大陸からの文化が入り込んでくることで、それらをミックスさせた、弥生時代以降の歴史が作られる。
 日本人が自我に目覚めたとき、自分たちの生き方に最もフィットした思想は、儒教や法家思想でも、インドから中国経由で入ってきた仏教(大乗仏教)でもなく、老子や荘子によって編み出された道教であったと筆者は理解している。
 道教(老荘思想)の本質は、その名の通り、道という語に集約されている。
 日本人は道が好きだ。芸事全般に限らず、何にでも道をつける。縄文時代のライフスタイルが、この道の概念と重なり合っていたからだ。では道とは何か? 日本人はそれをシンプルに神道と呼んだ。神道を宗教の一つと思い込んでいる人は多いが、明確な教義などあるわけではなく、もともと自分たち固有の生き方に他ならない。大陸から伝来してきた儒教や仏教などと区別するため、便宜的にそう名づけられたものだ。
 
 道教の理想は「愚」になる、ことである。無能でいい。むしろ有能になることを小賢しいと呼び、そうならないように戒めた。
 小賢しいということは、頭でっかちであるということだ。
 そんな計算ばかりするから世の中が住みにくくなった、と道家は捉える。日本人が頭ではなくハラを大事にしてきたことは、これまで筆者が繰り返し述べてきたことだが、ハラで生きるということは、極論すれば愚になるということである。
 それが道を極めたことだと日本人は捉えたため、剣道、柔道、華道、茶道などなど……、芸事の語尾にこの文字をつけ、自らの理想としたのである。
 筆者は自分を日本人の典型と書いたが、それは言い替えるなら、この道の感覚が好きであるということだ。いい加減、曖昧という語を悪いものと捉えないのも、小賢しさに陥って脳が凝り固まってしまうより、「よい加減」であるほうが自由でいられるからだ。この感覚がなければ、仕事をしても、芸に打ち込んでも、最後は自分を見失ってしまう。逆にこの感覚と出会うために、仕事や芸に没頭する。働きアリのように思えて、じつは働くことそのものより、日本人は「道を極める」ことが好きなのである。
 さて、長々前置きするのはやめにして、そろそろ「一年の計」の話をしていこう。
 ここまでさんざん東洋人や日本人の話をしてきたが、筆者はすでにその資質を理解し、一定レベルの感覚を持ち合わせている。要するに、べつに今のままでもいい。平凡に生きるだけでも十分に楽しいし、それもまた立派な能力である。簡単に平凡というが、誰に言うとでもなく、この道を極めようとしている人はいくらでもいる。
 しかし筆者は、こうした平凡さの道とは少々異なる道を歩もうとしている。
 すでに本を出し、ホームページで物を語っている以上、傍目にもそれは平凡?とは言えないのかもしれない。これからますます、その度合は増すだろう。しかし傍目だけの問題ではない。筆者は当サイトのタイトルに「“融合”への道しるべ」というフレーズを掲げている。融合ということは、異なるものを結ぶということだ。
 この「結び」という語は、筆者がこの人生でしようとしていることそのものである。
 筆者は作家の仕事をしているが、それは手段であり、バラバラになっているものを結ぶこと、つながることが、求めている結果に他ならない。自分は日本人だ、東洋人だと言ったところで、この世界には西洋人も、アフリカ人も、アラビア人もいる。日本人が完成されたすばらしい民族であれば、世界のどこに顔を出してもそのまま認められるはずだが、まだまだ誤解されることが多いのが現実。むろん、万能でもない。
 卑下する必要はないが、欠けているものは補い、対応力を身につける。
 愚の感覚を内に秘め、自らのベースとしつつ、決してそれで終わらない。小賢しいと言われるのも承知で、広く世界に打って出ようと思っている。
 それはべつに海外に旅行したり、外国人と仕事するということではない。
 それを国際的(インターナショナル)と勘違いしている人は多いが、筆者が求めているのはもっと内面に反映されたものだ。欧米人にも学ぶべきところはたくさんある。明確な論理性、合理性、いい意味での計算能力……、これらはすべて筆者に欠けた感覚である。かつての縄文人がそうであったように、これらを持たなくても生きてこれたから身につけなかったわけだが、時代はもはや21世紀である。自らのアイデンティティを主張する暇があったら、本当の意味で国際的な人間になろう。
 日本人ほどの対応力、そして勤勉さがあれば、それは決して不可能ではない。
 自分の発想の仕方や生活パターンを意識して変えていくわけだから、思うようにいかないことも出てくるだろう。しかし筆者が身につけたものは、これまでがそうだったようにひとつのノウハウとしてみなに提供していけると思う。
 かつて仏教が伝来してきた時も、西洋文明を取り入れた時も、おそらく同じような努力をし、取り入れることに成功したからこそ、日本人は変わってきた。
 世界がひとつにつながろうとしている現代では、その取り入れる作業も過去以上にグローバルになる。グローバルの本質がわからない人は、自分の外にばかり目を向けて、目に見える現象とばかりつながろうとするだろう。しかし本当のグローバルとは、自分の内側に形成されるものである。自分が変わることで、世界も変わる。
 この一年は本格的な「融合」へ踏み出す、重要な一歩になるものと筆者は思う。
 筆者は脱・東洋人を目指す。少しずつ進んでいく。東洋人の感覚がわからない人は脱する前に思い出して欲しい。そのノウハウならすでに筆者は持っている。

投稿者 長沼敬憲 : 20:51 | コメント (0)

2001年06月02日

■韓国はなぜ「歴史教科書の修正」を求めるのか?

 最近ニュースでさかんに報じられているのが、歴史教科書の検定をめぐる日韓の「摩擦」だろう。日韓だけでなく、「新しい歴史教科書をつくる会」の検定教科書を支持するかしないかで、日本のマスコミの間でも意見が分かれているようだ。

 どうやら「つくる会」を支持すると、「右翼」ということになるらしい。
 ということは、不支持側は「左翼」ということなるわけだが、その「左翼」的な感覚を持った人たちが現在のマスコミの中枢を担っている?という現状をふまえると、要するに、彼らが右と左の判断の元締のようになっているのかもしれない。
 右でも左でもない、その真ん中の道を歩みつづける筆者としては、「つくる会」の教科書を支持する・しない以前に、こうした状況に妙な違和感をおぼえてしまう。

 たとえば、何週か前の「サンデープロジェクト」という田原総一朗が司会をしている政治討論番組で、ゲスト出演した共産党の志位書記長が、
「つくる会の教科書では、大平洋戦争を大東亜戦争と記述している。大東亜戦争という呼称は侵略戦争を推進した軍部が名付けたもの。それを採用するということは、彼らが侵略戦争を肯定し、賛美しているなによりの証拠だ」
 と、なにやらステレオタイプとも思われる批判をしていた。

 ……では、太平洋戦争という呼称は、どうなのか? 番組の中でも言っていたことだが(志位氏自身が言っていたような気がするが)、これも戦後に戦勝国・アメリカによってつけられた呼称なのである。軍部がつけたものはダメで、アメリカのつけたものならいいのか? 田原氏の問いに、志位氏は一瞬言葉に詰まっていたように思う。

 日本が侵略国家なら、アメリカも中国も、言うまでもなく侵略国家である。
 しかもさらにスケールの大きな侵略者であったことは、歴史教科書を読むまでもなく明らかな話。中国などは中華4000年とか5000年とか言われているが、要するにそれだけ侵略の歴史があるということでもある。いわゆる不支持派の人たちは、こうした事実を大目に見て? ひたすら日本の軍国主義だけを問題視しようとする。このあたりは「つくる会」も指摘していたように思われるが、たしかに矛盾している。要するに、ある種の強いこだわりが、当たり前の現実を見えなくさせているように思えるのである。

 その意味では、日本の侵略を非難できる資格?がありそうなのは、韓国くらいなものだろう。たしかに韓国は、侵略国家としての歴史は日本以上に希薄であり、彼らが過去の日本国の行為に対して恨みを抱く感情は、非常にピュアなものであると思う。
 しかし筆者は、それをふまえた上でも、彼らの発言にあまり共感は持てない。
 細かい問題はここではふれるゆとりはないが、なにやら自分たちの国の「悲劇」をすべて日本のせいに、「責任転嫁」しているきらいがあるからだ。

 しかし、果たしてそうなのか? 日本が侵略国家であったとして、ではなぜ、彼らはその侵略から国を守ることができなかったのか? 当時日本と朝鮮は、欧米の列強から見れば非常によく似た立場に置かれていたはずだ。彼らが「明治維新」を起こせなかったのも、日本のせいなのか? 日本が近代化に「成功」できたのも、ただ運がよかったからということか? あるいは「悪どかったから」とでも言うつもりなのだろうか? 他者の責任を問う以前に、まずそのことを問うべきだと思うのだが……。

 筆者は、彼らの発言が事実に照らし合わせて「正しかった」としても、日本がそれを認めて心から謝罪したとしても、決して問題は解決しないと感じている。
 つまり、そういうことでは「ない」のだと気づくことができないかぎり、本当の意味での「自己肯定」には出会えない。ただ自分たちの面子?が守られるというだけで、何かを作り上げていこうという真の意欲は生まれえないのである。

 韓国は、日本に対する怨恨や敵がい心をエネルギーにして戦後を歩んできた面があるように思われるが、戦争終結から50年が経ち、もうそんなモチベーションだけでは先へ進めないところに来ている。こうした意識のままではなかなかワールドカップでも勝てないだろうし(日本が勝てるという保証もないが、可能性ははるかにある)、南北統一など夢のまた夢であるはずだ。……そういう「状況」に気づくべきではないのか?

 日本に対する「恨み」も、もっとちがう形で晴らすことができるのである。
 ……ということで、こうした巷の論争をよそに、筆者や筆者と心を同じくする人たちは、国境を超え、時代を超え、どんどんと先へ進んでいく。日本人であるということも大きな武器としながら、日本人以上の日本人になろうと考えている。

 韓国人も、そうした障壁を乗り越えて、韓国人以上の韓国人を目指すべきである。
 民間レベルでそのような握手ができたとき、おそらく本当の隣人として、150年前にはなし得なかった「日韓同盟」が、自然と締結されていくだろう。
 これもまた、決して夢の話ではない。すでにタネは蒔かれはじめている。
 筆者には、それが見えている。

投稿者 長沼敬憲 : 09:21 | コメント (0)