2004年09月30日
■「プロ野球合併問題」その後……(2)
このコラムでプロ野球の合併問題について何度か書いたが、その後も事態は様々な形で推移しているようだ。いちいち追いかけるつもりはないが……、興味深いと思われる点があった。楽天の三木谷社長の動きだ。新規参入がライブドアの「後出し」だと批判もされているが、事の経過を見ていくと、どうもライブドアの堀江社長より「器」が一枚上という印象がある。そう感じたのは、ご存じの人も多いだろう、仙台でのテレビ収録のあと、先に収録を終えた堀江氏が三木谷氏に「アポなし会談」を申し出た時のエピソードだ。
一緒にエレベーターに乗り込むと、堀江社長から「ちょっと時間はないですか」と持ちかけた。「いいですよ」と応えた三木谷社長と、約3分間“会談”。先に報道陣の前に現れた堀江社長は、楽天の参入経緯などを聞いたことを明かし「同じようなプロセスを我々は表で、彼らは裏で、水面下でやっていたということ」と話した。
同じ仙台をめぐる争いに「我々も落としどころが分からない」と困惑する堀江社長に対して、三木谷社長は「落としどころということをどういう意味でおっしゃっているか分からない。あとはNPBが公正に判断すること。ライブドアさんを選んだのなら拍手を送りたいし、応援する。私たちが選ばれれば責任を持ってやっていきたい」と語り、対決姿勢をにじませた。
(日刊スポーツ9/26日より)
「落としどころ」を探る堀江氏に対して、「あとはNPBが公正に判断すること」と反論する三木谷氏。この場合、後者のほうが筋は通っている。冷静に見れば同じ仙台にフランチャイズを宣言した時点で、「戦い」を挑んでいるわけである。そういう人間に「落としどころ」という言葉を使ってしまった時点で(個人的にわかる気はするが)、本人のそのつもりはなくとも、「なあなあさ」「甘さ」が浮き彫りになってしまった。
三木谷氏はすでに24日の会見の段階で、「ライブドアさんほど表立ってやらない主義なので、水面下で動いていました」と発言している。要するに、表に出る前にちゃんと根回しをしていましたということだ。遠回しのライブドア批判だが、それを彼は「経営諮問委員会(アドバイザリーボード)の設営」という形で、世間に向けてわかりやすく表現した。
「この1週間ぐらいの間にお願いを致しまして、驚くべきことに皆さま快く一発即答でOKでした。年間数試合は見て頂き、3カ月に1回、経営リポートを提出しますので、ご指導してもらいたいと思っています」
とのことだが、トヨタ自動車会長の奥田硯氏をはじめ財界の大物が名を列ねるそのリストに、「権力者にすりよった」かのような悪印象を抱いた人も少なからずいるようだ。しかし筆者には、全然当たり前の手順を踏んだだけと映る。
財界の大物をあのような形で「立てる」ことで、同じ立場にある球団オーナーの気持ちも和らぎ、「あの男になら任せてもいいのでは」という気になったのではないか? おそらく三木谷氏はオーナーの何人かとは非公式に会っているだろう。最低限の「挨拶」はしているはずだ。だからかどうか、ここ数日、オーナー側の発言もかなり軟化してきている。事実上、来季からの新規球団参入も可能になった。選手会との交渉は選手側のエゴが強すぎたためかなり難航したが(というのが筆者の見方)、当たり前の「根回し」を当たり前にした楽天の参入は、その分発表が遅れたが、事態を好転させる方向に作用したように思える。
おそらく波瀾がなければ、1社のみと思われる来季の新規参入球団のポストは、楽天が手にするだろう。まあ、常識的な観測だが、となると先に手を挙げた堀江氏は「敗北」である。しかし、そこで終わるまい。ここまで楽天の利点ばかり挙げているように映ったかもしれないが、じつは穴のないやり方というのは、世間の反感を買いやすい面がある。判官びいきの風土のある日本では特にそうだ。仙台市民の「9割以上」はライブドアを支持しているというデータもある(スポーツナビ)。
楽天=三木谷氏は、経営が順調に進めば進むほど、これからヒールのような立場になっていく可能性もある。まあ、冷静な評価もなされるだろうが、人の感情としてはライブドアに人気(同情票でもあるが)が集まりやすくなる。そうなると、「市民の声」「ファンの声」をバックに、堀江球団がドラマチックに再浮上する……なんていうビジョンも見えてくる。
いずれにしてもプロ野球界の構造改革の「可能性」は見えてきた。そう感じた人は多いだろう。元オリックス監督の石毛宏典氏が四国に独立リーグを構想する話もメディアに取り上げられ、大手企業(四国コカ・コーラ、JR四国など)がスポンサーにつくなど具体化の方向で進んでいる。しかし冷静に見れば、改革が実現していったとしても、そのきっかけはあくまで外部のパワーによるもの。幕末の黒船を出すまでもなく、疲弊化したシステムというのは内側から変えるのは「不可能」なのかもしれない。Jリーグもワールドカップという外部パワーがあったから、明治維新の時の日本のように「急速な近代化」が進められた。大きな話、この「法則」をふまえると、日本の構造改革もこのままではうまくは行かない。しかし、その場合の「外部」とは何になるのか? が問題だ。
話が脱線しているように思えるかもしれないが、そうではない。「サムライ」でも書いたがスポーツはその社会のわかりやすい縮図なのである。しかもこの先に起こる社会現象が、先行した形で現れやすい。スポーツ選手と実業家、政治家では活躍年齢が違うからだ。同じ資質を持った同世代の人間のなかで、一番早く結果が出せるのがスポーツで10〜20代。実業家は今回の三木谷氏、堀江氏を見ても30〜40代が最初の活躍期。政治家は早くても40代以降だ。国政の中心に躍り出る頃には、50〜60代になっている。時代の要請があれば驚くほどの若返り現象もありえるが、一般的な構造としては、「スポーツマンを見ていけば時代の先が見える」。
野球界に30代の実業家が入り込んできたと言うことは、それだけで「時代の変化」を感じさせる。もう少し若い世代の参入もこの先あるだろう。そうなってくると、いずれ意外な形で若く有能な(イチローのような)政治家が彗星のごとく現れるかもしれない。いまは想像もつかないが、そんな人材が見えないところで舞台の出来上がるのを待っているわけである。
筆者のイメージする「構造改革」を別のキーワードで表すなら、少々古い?表現ではあるが、「労資協調」ということだ。マルクス主義の影響なのかどうか、「資本家を敵とし、労働者が一致団結して戦う」という従来の組合の感覚は、そろそろ時代にそぐわなくなってきている。こうした意識そのものがまず「改革」されないと、構造自体の改革など不可能に近いと筆者は思う。球団オーナーの経営能力にどこまで問題があったのか正直わからない。しかし彼らを悪者に設定し、わかりやすいが出口の見えない批判を繰り返すより、楽天の社長のように敬して取り込んでしまったほうがはるかにうまくいく。
そして前回も話したように、批判や提言をするならば、する側がきちんとリスクを背負うことも必要だ。その姿勢をまず見せる。筆者はこの問題に関してリスクを負える立場にない。だから安易なオーナー批判をしないし、むしろ彼らの立場を肯定し、その立場からあれこれ当たり前とも思える「道理」を話しているわけである。
2004年09月20日
■「プロ野球合併問題」その後……。
プロ野球の合併問題についてはもう触れるつもりはなかったが、どうも世論の動向がいびつに思えて気持ち悪いので、少し補足的に「当たり前のこと」を書いてみたいと思う。
筆者は前回のコラムで「1リーグ制を支持してもいい」と書いたが、選手会の感覚に疑問を覚えるという意味では、いまも考えは変わっていない。要は1リーグ制か2リーグ制かという議論の問題ではなく(そんな議論はいまやどこかに行ってしまった感もあるが)、組合運動というヤツが嫌いだし、それを当然の権利のようにやっている選手会も支持する気にはなれないということだ。
選手が真剣になって頑張っているのはわかる。しかし、それをもって彼らがリスクを冒しているかというとそうではなく、彼らの主張というのは要するに「リスクを冒したくない」という内容ではないのか。いまのプロ野球の問題は新規球団の加入を認めるかどうかではなく、システムそのものに問題があることは多くの人が指摘している。そのシステム改革の足を引っ張っている一つに、選手の高額な年棒がある。選手たちにとってのリスクは年棒を「適正価格」に減らすということだ。それが発言できて、それも厭わないという覚悟ができて、はじめて自己の主張にも真実味が出てくる。そうではないだろうか?
彼らの豊かな選手生活は、彼らが批判する球団の親会社の補填によって多くが賄われているのである。プロとして身を削って闘っていることはわかるが、現実にはバブルなのである。赤字してまで食わせてもらっているのに、その経営者に文句を言うというのがまずはおかしい。新人や低年棒の選手、あるいは球団関係者はともかく、選手会の役職を務めるような「一流選手」なら、その億単位の年棒をまず半分以上カットすると宣言したらどうか。もし清原が「年棒の8割は白紙にしてもええ」と宣言し、オーナーたちに「改革についての真摯な話し合い」を呼び掛けたなら、彼は間違いなく英雄になれる。経営コンサルタントでも会計士でもいいから、球界の現状を分析してもらい、適正年棒を割り出し、実体あるところからリスタートしようというのがまっとうな提言だ。
仮にJリーグ並みに下落し、生活が苦しくなったとしても、懸命になってプレーして、客を増やして、それで「地域密着の」「ファンの声重視の」球団経営をしていけばいいではないか。そういう覚悟があって、球界の問題を経営側にすべてなすりつけるかのような対応をやめれば、オーナーたちの態度も当然のことながら軟化すると思う。彼らを抵抗勢力のように言うのは簡単だが、彼らだって努力していまの社会的地位を勝ち取ってきたわけで、長く生きている分、プライドもある。それを蔑ろにするような言い方をしたら、自分に非があるとわかっていても、素直に認める気になれるだろうか。彼らだけに聖人君子を求める風潮は本当に無責任に思う。
同様の意味で、選手会の動きに連動してタレントや文化人がプロ野球擁護の発言をしたり、市民運動めいたことを始めたのもいかがなものかと思う。批判は誰だってできるというだけの話でしかないとは思うが、自分は地位が脅かされない安全なところにいて、リスクも冒すという感覚もなく、オーナー止めろとか言うのはやはり無責任で、事態をかき回しているだけのように見える(すべてがそうではないだろうが)。人が人に変化を要求するということは、多くの場合、エゴイズムから来ている。あるいは自分のエゴを守ろうという感覚が隠されている。それがわかっていたら、あまり変な主張はできなくなるのが本当のところだ。
ライブドアの件に関しては、前回批判もしたが、楽天も含め彼らの立場からすれば当然の動きをしているとは思う。なぜ審査に時間がかかるのか、来季から参入できないのかと疑問を提示するのももっともなことだ。でも、ここまでの話と同様、人には感情がある。彼らの言っていることが正論でもスムーズにいかないのだとしたら、人生の先輩に対する「礼」が欠けているからではないかと思ってみるのも必要だと思う。マスコミに出る前にきちんと根回しして、配慮と敬意を見せていけば、こうも問題にならなかった可能性もあるのではないか? ビジネスライクというのは嫌な言葉だ。めぐりめぐって最後は自分に帰ってくる(自分もいまの球団オーナー側の立場になるかもしれない)ことを人生の晩年に気づいても、それが成功者の生き方だとはならないはずだ。
「損して得取れ」という言葉があるが、問題がもつれる時というのは、決まって損したくないという思いが全面に出てくる。選手会の動きは正義で正当のように見えて、そこに本質があるから筆者は「ストはやむをえない」などと発言できない。あれでどれだけの人に迷惑をかけたのか、自分たちのエゴを守るために……と、そう思える感覚があったほうがいい。
いずれにせよ、なかなか現実というものは、このエゴとエゴがぶつかり、どちらがどれだけの権利を勝ち取るかで終わるお決まりのパターンから抜けだせないものだ。したがって人生にはなかなか感動はないし、驚くということも少ない。いつも言っていることだが、当たり前のことを当たり前に認識し、実行できることが、驚きや感動につながる。人を驚かすのは簡単なことではない。そんなことを世の中の動きを見ながら、つくづくと感じてしまう。
2004年08月30日
■「プロ野球合併問題」と「一歩引く覚悟」
近鉄とオリックスの合併問題をきっかけに、プロ野球のあり方がさかんに議論されている。要するに、昔から「人気のセ、実力のパ」などと言われてきたが、これは「巨人人気の恩恵を受けているセ」「受けていないパ」というのが実体であったということが、もはや否定できないくらいはっきりしてきたということだろう。
で、特に経営状況が逼迫している近鉄が、自力での球団再建を事実上諦めてオリックスとの合併交渉を始めていたところに、「それならウチが買収します」と名乗りを挙げたのが、IT事業で昨年度の年商が58億という急成長を遂げているライブドア社長の堀江貴文氏。
ただ、この申し出を近鉄は拒否。各球団のオーナーもおおむねその参入には否定的で、要するに堀江氏の実績や若さ、あるいはいつもTシャツで通す「社会通念のなさ」などに生理的な反感、「うさん臭さ」を抱いているようだ。つまり会社どうこうというより、人間的に信用できない(したくない)というところなのだろう。
結局、ファンや選手の声を「無視」した形で、合併を前提にした「1リーグ制への移行」「2リーグ制の維持」が議論されているなか、「1リーグ制」の実質的な推進者だった巨人の渡辺恒雄オーナーが突然の辞任(8月13日)。ドラフトで目玉だった明治大学の一場靖弘投手に球団のスカウトが、200万円を渡していたことをネタに右翼団体に脅迫されたことが原因と言われているが、予想以上の「国民・選手の反発」「巨人戦の視聴率の低下」などに嫌気が指したのではという見方もある。また、読売グループのトップの座から降りたわけではないので、今後も裏から球界への影響力を駆使するのではともささやかれている。
ちなみにオーナーを辞任して以来、最近渡辺氏が公の場に姿を現し、記者の取材に答えたようだが、抜粋すると、
「急に6球団が4になったら1リーグにしないといけないなと考えたこともあるが、7月の段階でオレは2リーグ制を各方面に説いて、球界の首脳には、何人かには言ってある」
「ただし、交流試合を入れた新しい2リーグ制だ。5対5の2リーグ。これでやる、と確固とした考えで、7月の頃から各方面を説得している。かなりの同調はあるが、反対する人もいるかもしれない。オレは2リーグ制論者だから」
(以上、8月28日「スポーツニッポン」より)
微妙にこれまでの論調をずらしているような感がある。このままで行くと、彼の主張するあたりに事態が落ち着く可能性も見えてきた。もちろんそれが本当の解決にはならないという声もある。とまあ、こんなところがここまでの大ざっぱな経緯だろう。
これらをふまえて、まず当たり前のこととして理解しなければならないのは、球団の運営権はお金を出している親会社とオーナーが握っているのだということ。渡辺前オーナーのように「たかが選手」というのは問題だろうが、会社として考えれば選手は社員であり、経営に参画していない以上、古田のように選手会の立場からしか意見は言えない。
そしてそのオーナーたちは、老害などと批判されているが、これまで問題の多い球界を牽引してきたという自負を少なからず持っているであろうということ。自分たちが無理して頑張ってきたから、仮にもやってこれたのではないかというのが、彼らの本音であり、プライドであると筆者は思う。球界が発足した初期の頃から巨人中心で成り立ち、関係者も含め少なからずその恩恵に与ってきた以上、赤字の責任をオーナー(親会社)の才腕にすべて押し付けられない面が当然あるわけである。
つまり、批判されている彼らにも人間としての「感情」がある。これを無視したり、軽んじるような感覚で「正論」を述べても、反発されるのは目に見えている。その反発をさらに批判すれば、ますます問題はこじれていく。
加えて球界に彼らを任免する権利を持った立場の人間、役職はない(コミッショナーにそのような力はない)。会社で言えば社長なのだから、問題を起こした場合の引責も含めて、出処進退は基本的には本人たち(あるいは親会社)の意思に委ねられている。選手やファンの意見を汲み上げるのは必要なことだが、それは絶対の義務ではない。汲み上げようが汲み上げまいが、きちんとやれていればそれはそれで正論にもなる。
ファンは民主主義の原理を球団にも求めようとするが、民主主義で会社経営をするようなところは現実にはない。社員の昇格・昇級をもし選挙で行う会社があったら、そんなところはとっくに潰れているはずだ。
で、こうした「常識」をもとに考えていくと、まず堀江氏の球団買収は「うまくいかなくて当然」という話になってくる。
個人的には、あの年齢(32歳)であれだけの事業展開をしている才腕を球界で生かせたら結構面白い展開も可能(球団の黒字経営も不可能ではない)気もするが、彼にそれだけの熱意や構想があるのなら、よく言われているようにTシャツでの会見はいただけない。彼が活躍している土壌(IT業界)ではそれで通ってきたのだと思うが、誰を相手にするかを最初に発想すればイメチェンも戦略の一つだったことがわかるはずだ。そんなものは関係ないと言ってしまうと、成り立たない世界がそこにある。
繰り返すが、どんな人間にも感情(プライド)がある。世間(マスコミ)から一番根本の経営能力を疑われているオーナーたちが、自分たちの苦労を共有できるかわからない「若僧」の提案にホイホイうなずくはずはない。これは別にオーナーを弁護しているわけではない。彼らを批判するのは簡単だが、それでは出口は見つからないと言っているわけである。
筆者が堀江氏の立場にあって、もし球団買収を画策するなら、マスコミに発表する前に最低限オーナーたちに根回しをする。もちろんスーツを着ていき、礼儀正しく接して、人生の先輩に対するリスペクトも忘れないように心がける。その上で自分の熱意を伝えて、「ああこの男になら任せていいんではないか」と思わせるようにする。実際にうまくいくかはわからないが、マスコミ先行で会見を開いて、あとでオーナーにファクスで「いずれ挨拶に伺いたい」などと書面を送っても、「何だそれは?」の話だと思う。残念ながらこうしたレベルの戦略しか見えない堀江氏のやり方は、オーナーに反発するファンや選手会から一定の支持は得られたとしても、そこから先の絵が描きにくい。悪く言えば「売名行為だったのでは?」ということにもなる。
さて、堀江氏の件はこのくらいにして、では現実に球界をどう誘導していけばいいのだろう? 筆者は経営の専門家でもないし、球界のコンサルタントでもないから、1リーグ制がいいのか2リーグ制がいいのかなど、正直わからない。ただ現実問題として、先に触れたように球界全体の経営権、運営権はオーナーが握っている以上、多少問題があるとしても「行き着くところまで」彼らにやってもらうのがいいと思う。それが1リーグ制への再編というなら、筆者はそれを支持したい。
逆に言えば彼らは「こうやります」という戦略なり、方針をわかりやすくファンや選手の前に提示して、それに全身全霊を賭ける意思を見せないとならない。そのうえでうまく行かなかった時、初めて明確な責任が問われてくる。
そんなふうに安易に任せたら球界は滅茶滅茶になると言われるかもしれないが、どういう形にせよ改革しなければ先細りになるのは大方の一致した見解であるはず。であるならば、現時点で「権力」を持っている人たち(オーナー)にすべてを任せる。彼らの主導で改革なり再編をやってみる。選手会は雇用の問題などで可能な限り選手のケアを行ったうえで、引くところは引いて協力をする(現実にはいいプレー、必死なプレーを今以上に見せていく)。マスコミも批判のための批判はしない。
もちろん選手会なり、前出の堀江氏など在野の経営者、事業者なり、球界のOBなり、こうした推移を見守りながら、「うまく行かなかった場合の改革案」についても具体的に用意しておく必要があると思う。オーナーたちも手を尽くしてそれでもうまくいかないとなれば、その改革案に従うしかなくなる。その時が本当の球界再編の時なのかもしれない。それを今の段階で出してもうまくはいかないし、第一そんな準備をきちんとしてきた人はいるのか? いるならば先の話ではないが、きちんと必要な根回しをして、出るべき時に表に出ているはずだ。いまできないのなら、数年先を見越してその準備するべきだということになる。
現状のプロ野球界は、ある意味江戸幕府の末期のようなものだと言えるかもしれない。幕府主導で進めた改革がどうにも行き詰まった時、歴史の世界では「大政奉還」が行われ、その後の曲折を経て、ガラッとシステムが変わってしまった。まず議論が大切だなどと言う人がいるが、議論をして歴史が変わった試しはない。実際問題、それぞれ(たとえばオーナー側と選手会側)が意見を主張していても噛み合わないし、事態は進展しないしないままに悪化していく。「小田原評定」という言葉を思い出して欲しい。
選手会側は「要求が受け入れられないならストもあり得る」などと考えているかもしれないが、本当に改革を望んでいるなら一度相手の提案を受け入れる形で、必要最低限の要求をしたほうが現実的だ。その上で繰り返すが、「自分たちならどうするか?」戦略も練っておく。野球というスポーツはゲームとしては面白く魅力があり、衰退はあってもこの地上から(というより日本から)姿を消すということはないだろう。現実がどんな推移で展開していくかは不透明な部分もあるが、どの立場の人であっても「一歩引く覚悟」があれば物事は進展する、ということを理解したほうがいいだろう。
2002年07月03日
■韓国飛躍の要因は、「封建主義」にあり。
ワールドカップが幕を閉じた。特にサッカーファンとも言えない筆者も、ご多分にもれずかなりの頻度で試合の中継を見、いろいろなインスピレーションを得ることができた。
まず思ったのが、日本人はやっぱり外国人が好きなんだな、ということ。
排他的などと言われることもあるが、それは島国という地理的な環境から勝手に連想されているだけのイメージにすぎない。逆に島国であるからこそ、外の世界に憧れを持つ。賢者が海の向こうからやってくるという発想は、ほとんど神話の時代からある。そうした異人に対する素直さは、日本人の美徳のひとつと考えてもいい。
その意味では日本人というのは、意外なほど結束力の「弱い」民族でもある。
集団になった時のパワーはすごい、それが負に働けば戦争まで引き起こしてしまうなどと語る人もいるが、ひとたびおのれの非を悟れば、まるで嘘のように行いを改めることができる。相手に悪いと言われた時、「そうか自分が悪かったのか」とまず思ってしまう感性は、じつは国際的に見たら非常に特異なケースなのである。
さてこの脳天気なほどの素直さは、イングランド人よりも熱心にベッカムを応援したり、カメルーンが去ったあと思わず涙をこぼした中津江村のおばあちゃんがいたり、サッカーに普段ろくに関心がないのにブラジル×ドイツの決勝が60%を超す驚異的な視聴率を記録したり、そうしたほほえましい現実を生み出す一方で、日本代表のあと一歩先へ進めなかった「物足りなさ」の結果にも明らかに繋がっているだろう。
日本人にハングリー精神がない、というのは本当の話である。
物事を素直に受け止められる感性があれば、少々イヤなことがあってもそれをモチベーションにして戦ってやろうという気概は生まれにくい。個人としてそうした境遇の人はいても、その比率は圧倒的に少ない。基本的にのんきで楽天的な人が多いのである。そこには戦いに勝つことよりも、それを表現し、時に勝敗を超えた何かに昇華させてしまうことを「道」と呼び、尊んできた歴史が厳然として存在している。
というわけで、そんな国民性にも関わらず、シビアな勝ち負けを競う世界でよくもまあ、世界のベスト16にまで勝ち進めたものだというのが筆者の正直な感想。しかも、その特性を失わぬまま、この先もっと強くなってさえいけるとも思っている。そういう妙なカルチャーショックを世界に与える可能性を秘めているのである。
このあたりはいつも話していることなので、ここでは簡単に説明しよう。
読者は何か新しく習い事をはじめるとき、どんなことを心掛けるだろうか? ここまでの話をふまえるまでもなく、当然「素直さ」という言葉が浮かんでくるはず。
しかし、伸び悩む多くの人にとってはこれがいちばん難しい。自分はこういう人間なのだというプライド、我を持ってしまっているからだ。それが仮に実体のない、些末なものであったとしても(ある意味些末だからこそ?)、ひとたび否定されてしまうと、自分そのものが否定されてしまうような恐怖感に陥ってしまう。
そんなことは日本人だって同じだろう、と反論する人もいるだろう。
しかし、個々に異様に頑固な人はいるとしても、国民性、民族性という点から見た場合、先にも触れたように異常にこだわりが少ない。たとえば宗教を例に取ればわかるだろうが、ヨーロッパ人の多くはキリスト教、アラブ人の多くはイスラム教の世界観が骨の髄まで染み込んでいて、なかなかその枠から自由になれない。
イスラエルとパレスチナの紛争はその先端の現象に他ならないが、日本人ならとっくの昔に融和しているであろうことが、彼らにとっては最悪の難問なのである。
というわけで、この素直さの感覚を内に宿している限り、日本人はたえず成長を続けていくことができる。ではなぜ今の社会がこんなに混乱してるのか、景気だって全然先行きが見えないじゃないか、とこれまた別の反論が聞こえてきそうだ。
しかし筆者に言わせれば、新しいものを学んでいる時期は、過去の能力は往々にして失われてしまうものなのである。新しいものとは、むろん欧米人の感覚であり、もともと日本人が不得手だった論理性や緻密な計画性といった能力に他ならない。
その未知の力を本当に習得しようと思ったら、すべてを捨てるくらいの覚悟が必要。
でも、普通はなかなかそんな覚悟はできない。我を失う恐怖心を内在させたまま、自分の都合のいいところだけ拝借して、それで学んだと思ってしまう。しかし長い目で見れば、そうした人(国)はやがて衰亡する。どうしようもなく行き詰まる。
今の日本が、果たしてそうした衰亡や行き詰まりの渦中にいるのかどうか。
そうだと言うなら、なぜサッカーの代表やメジャーリーグで活躍するような選手が多々輩出されるのか? 彼らだけが突然変異で、特別な現象なのだと捉えるほうが理に合わない。彼らは活躍しやすい場所で、先取り的に頭角を表わしているわけである。
長々書いてしまったが、そうした意味ではベスト4に入った韓国という国には、この先日本以上に大きな課題が残されている、と言えるかもしれない。
別にこれは、彼らの今回の成果を低く評価しているというわけではない。
ただ、彼らは古き良きアジアの面影を日本以上に色濃く残した中で、この国際社会を生きている。それはすなわち、封建主義や儒教の面影。西洋でいう宗教にあたる倫理的な枠組みが、彼らの行為を規定し、それが強さだけでなく弱さにも繋がっている。
彼らから見れば、同じ儒教の影響を受けながら、日本などは相当にいい加減な、節操のない国に映るだろう。いい加減=野蛮というイメージも持たれてきた。
しかしこのいい加減さがなかったために、韓国(朝鮮)は近代化の波に乗り遅れた。しかもこのように言えば、いや、それは日本が侵略したからだとかすぐさま反論が返ってくるだろう。そうだとするなら、残念ながら素直さに欠けている。言われた瞬間に原因を他者(外部)に求める感性は、結果として成長を妨げてしまう。
すべてが自由だと言われたとき、人は少なからず混乱し、堕落するものなのである。
しかしその経験を経ねば、本当の自主性、主体性は芽生えない。言論・表現の自由と人は簡単に言うが、その権利は一度弱さを直視しない限り、なかなか体感は難しい。韓国はまだ言論も表現もある部分が国にコントロールされている。善も悪も入り混じった情報の渦の中でもまれるには、もう少し時間がかかるだろう。
ともあれ、サッカーが今の世界の縮図というなら、世界は当面(半永久的に?)紛争や戦争が続くだろうということだ。それもシビアな現実のひとつ。
日本はその国際情勢の中でまだまだ真の影響力を手にしていないが、その次元を目指すというのなら、勝ち負けの先にある世界にもっと視野を向けることだ。
ワールドカップを終えた直後の中田は、決してネガティブな意味ではなく、「これからはサッカーを楽しみたい」と語った。戦い(武)は昇華されると、芸に変わる。芸とは遊戯であり、遊戯とは言うまでもなくゲームのことである。頂点を目指すことを口にしなかった彼の感性が、今後の日本の方向性を何気なく暗示している。
楽しむという境地に入れたとき、人はもっと強くなれる。そうなれば勝ち負けに必要以上にこだわる感覚も、ひとつの曲がり角を迎えることになるだろう。そのとき日本とブラジルの決勝が、ワールドカップで見られるかもしれない。
2001年11月01日
■ランディ・ジョンソンは、38歳でなぜ「剛腕」なのか?
ヤンキースとダイヤモンドバックスによるワールドシリーズもたけなわのこの時期、メジャーリーグをこよなく愛する敏腕編集者のM氏から、次のような私信が届けられた。なかなか興味深いので、勝手に抜粋すると……。
「本日のワールドシリーズの第2戦、ランディ・ジョンソンのピッチングは圧巻のひとこと。そのランディは今年38歳、カート・シリングは35歳、ロジャー・クレメンスは39歳と30代後半になってもメジャーはすごいピッチャーがゴロゴロしている。バッターもバリボン(筆者注・バリー・ボンズ)の37歳を筆頭に同様。それに対して日本は、槙原(巨人)が38歳で(今季一軍登板なし)、斎藤雅樹(同)は36歳で、西崎(西武)は37歳で引退、バッターも石井浩郎(ロッテ)が37歳で戦力外。この差について、こっちはこっちなりに結論を見いだしているが、そっちの考察も聞きたい……、云々」
スタンダードなスポーツライターがこれにどんな「答え」を用意するのか知らないが、筆者自身、自分なりの身体観をもとに、少々毛色の違うスポーツ論を展開してきた経緯がある。M氏もきっとその種の「答え」を望んでいると思われるので、ご期待に添えるよう(?)、これから「返事」を書かせてもらうこととしよう。
たとえば、右のような事実を挙げられた場合、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、日本人とアメリカ人の基礎体力の違い、といったところだろう。
しかし、一口に基礎体力の違いと言っても、その意味はかなり漠然としている。
要するに、アメリカ人のほうが筋肉質で、ガタイが大きいから、その分基礎体力もあるということなのか? 中にはそう単純に思っている人もいるかもしれないが、筆者は必ずしもそうとは言えない、いやもっとハッキリ言えば、身体の大きさなど直接体力とは関係はないと、これまでの著作の中で繰り返し語っている。
たとえば、「スポーツは「武道」である」(*「サムライ」のこと)の3章でも記しているが、かつての日本には「1日に80キロ走ったあとでも平気で仕事が続けられる馬方」のように、小柄ながら心身ともに非常にタフな人たちが、ごく当り前に存在していた。筋肉や体格の有無とは関わりなく、自然と「元気」を保ち続けることができていたわけである。
……もし彼らがメジャーに挑戦できたとしたら、ジョンソンやシリング以上のタフネスぶりを発揮することができたのではないか?
ある意味、妄想と言われるかもしれないが、少なくとも現代の日本人が、そうした力を失ってしまっていることには気づかされるはずだ。槙原や斎藤が明治時代に生まれても、残念ながら、馬方の仕事が勤まるとは思えない。である以上、彼らにメジャーリーガー並みの体力がなかったとしても、責められないと思うのである。
では、なぜ失ってしまったのか? アメリカの一流プレーヤーが発揮できているものを、どうして今の日本の選手は満足に発揮できないでいるのか?
筆者はこうした問いに対して、「柔道の選手がレスリングでメダルを取ろうとしても、そう簡単に勝てるはずないだろう?」と、答えることにしている。
たとえば日本政府が、篠原信一や井上康生らに対して、「今日から国を挙げてレスリングの強化に取り組むことに決まったから、柔道は全面禁止。これからは柔道着を捨てて、レスリングで金メダルを目指してほしい」と通達したら、どうなるだろうか? もちろん逆らったら、監獄入り。非国民の扱いを受けることになる。
そんなことありえない、考えるのも馬鹿馬鹿しい、……そう思った人も多いだろう。
しかし、これと同じ「転向」をすべての国民に強要せざるをえなかったのが、明治以降の日本という国の現実だった。世界中が「レスリングスタイル」で強さを競い合っていた以上、そのルールの中で勝つことを目指す以外、生き残る道はなかった。いや、負けたら滅びてしまうという、きわめて切迫した状況に置かれていたのである。
いくら井上康生でも、急にレスリングで勝てと言われたらかなりの困難が伴うはずだ。
同じ格闘技だとカンタンに言ったところで、ルールも違えば、発想も、身体の動かし方もみな違う。しかしそうした無理な状況の中、欧米流のスタンダード(生活様式)を取り入れることで、日本はオリンピックで言えば、まあ、銀メダル(?)くらいは獲得することができた。「レスリング」にのめり込んできた分、「柔道」の感覚は忘れてしまったが、それでもそれなりの結果は残してきたことになる。
とはいえ、このままでは頭打ちである。DNAの奥底にまで「レスリングスタイル」が身についているアメリカ人には、勝つことなどできないはずだろう。
彼ら(あるいは欧米人全般)は、自分たちの作り上げた土俵を絶対のものとし、その中で自己を表現し、勝ち抜く術を心得ている(ジョンソンらのプレーの見事さは、そうした風土が生んだひとつの作品のであると言える)。逆に日本人は、他人の土俵に上がり込んで、その中で勝ち上がることを、むしろ潔いと考える。外国の文化を取り入れ自己流にアレンジしてしまう感性などは、こうした姿勢と重なり合う。
このふたつの文化がぶつかり合う時、やはり劣勢に立つのは、上がり込んだ側である。
しかし上がり込んだほうが、じつは対応力ははるかに身につく。漢字を取り込んで仮名を生み出したように、仏教や儒教を日本流にアレンジして定着させてしまったように、「柔道」の上に「レスリング」を融合させ、別の何かに作り換えようとしているのが、いまの日本の姿なのである。表面的な結果にだけ目を向けても、こうした実態は見えてこない。欧米人のスタンダードに、いたずらに憧れるだけで終わるだろう。
というわけで、筆者は、ジョンソンやシリングの活躍に敬意を表する一方で、日本という土壌の中からイチローや中田のような、かつての日本人とも一脈通じる(しかも「柔道」と「レスリング」をうまく融合させることにも成功しつつある)スポーツ選手が現われはじめている現実にも、大いに注目を寄せている。
じつはアメリカ人は、この種の融合経験にきわめて乏しいという側面を持っている。
多民族国家でありながら他者に対して寛容になれない点などは、その活発な議論のスタイルとは裏腹に、他者とのコミュニケーションにしばしば摩擦を生じさせている。多民族国家だから摩擦が生じるのではなく、自分の土俵から出ようとしないから、他の土俵とぶつかり合ってしまうのである。ジョンソンらの活躍をプラスとするなら、そこにマイナスの面が存在するということも、明らかに見て取れるのではないだろうか?
ひとつの事象を見ただけで、その背後にひそむさまざまな問題が見えてくる。
スポーツが文化であると称するのなら、そのような視線こそ必要だろう。問題を解決していく糸口も、その中から見い出される。シリングのドッシリとした、見事なハラの向こう側には、彼を生み出した風土が見え隠れするのである。