2005年05月08日
■高岡英夫「身体感覚を鍛える」を読んでみた(上)
この間、仕事をしながらテレビを見ていたら、NHKの「いっと6けん」というお昼前の番組で、高岡英夫氏が「ゆる体操」のエクササイズを行っていた。
天才的な武術家として筆者も著書で紹介したことがあるが、始終タコのように身体をくねらす、あの液体のようなゆるみ加減を、一般の視聴者はどう感じたのだろうか? ちょっとヘンな人だなと思ったかもしれないが、こんな簡単な体操で数々のスポーツ選手が好成績を挙げていると聞けば、「身体の調子が良くなるのならやってみよう」くらいは思ったかもしれない。
ま、ゆるめるということは、物事をスムーズに進める上できわめて重要なことだ。
高岡氏も再三指摘しているが、現代人は身も心も硬直しすぎている。
肉体が硬直すれば様々な体調不良が引き起こされるし、もちろん病気の原因にもなる。また、意識が硬直していると視野が狭くなる。一つの思想や価値観に囚われてしまい、果てない対立の原因にもなってしまう。
筆者も氏に教わったというわけでもないのだが、テレビを見ていて、日常で知らず知らずのうちに「ゆる」を実践していた自分に気がつく。
ちょっと気になったので、図書館で高岡氏の本を一冊借りて、久しぶりに読んでみた。2003年に出された「身体意識を鍛える」(青春出版社)という本だ。参考になったところがあるので、いくつか触れさせていただこう。
氏はこの本で「7つの身体意識」を鍛えるべきだと説いている。
身体意識と言って、読者はすぐにピンと来るだろうか? ぼく流に勝手に解説してしまうと、意識とは身体中に偏在しているもの。脳の中だけと錯覚している人も多いが、それだと身体を見失ってしまう。
身体を見失ってしまう……これもまたピンと来ない表現かもしれないが、やはり身体と言えば物理的な肉体(筋肉や骨、臓器)のことをイメージし、これらの肉体的器官を脳が操ることで人は生きて活動することができる、それが当たり前の「常識」だと思い込んでいないだろうか?
しかし、この常識を鵜呑みにしていると、肝心の意識の実体が捉えにくくなる。
当たり前というのなら、身体とは「肉体と意識の複合体」であるわけだが、この「心身一如」の関係がわからなくなってしまうわけである。
言ってみれば、心(意識)と体(肉体)がバラバラの、裏腹の状態。
これでは思う通りに生きようと思っても、その思う通りと思っている自分自身をうまくコントロールできないはずだ。
というわけで、肉体と表裏一体の関係にある意識の重要性が見えてくる。
脳の中だけに閉じ込めてきた意識を、身体中に偏在しているものとして捉え直すことで、高岡氏の言う身体意識の存在が認識できるようになるはずだ。
身体意識と言っても、もちろん、人によってその意識の現れ方は異なっている。
氏はそれを大まかに7つの機能によって分類したわけだが、参考までに挙げると次のようになる。
センター 下丹田 中丹田 リバース ベスト 裏転子 レーザー
詳しい意味は氏の著書などに直接当たってほしいが、筆者のちょっと面白いと思ったのは、日々歩くことで「ゆる」が進んだという自分の実感が、氏の言う「ベスト」の記述のところでうまく符合していた点だ。
この命名は、文字通り、衣類のベストから。ベスト特有の「袖ぐりのラインとそっくり」の形で身体意識が形成されている状態を指している。
「ベストが形成されると、上半身が格段にラクになります。……肩の力が抜け、今まで肩こりに悩んできた人も治ってしまいます。精神面でも、肩のまわりが柔らかくなることで、まさに肩の荷が下りた気分になる効果があります」
確かにそんな感じだ。肩こりはもともとなかったが、それでもこの感覚がつかめたとき、「ああ、知らないうちに肩に力を入れて生きてきたんだな」と感じたのをおぼえている。この感覚というのを、氏の著書からさらに引用すると……。
「……ベストが備わると、肩関節よりももっと内側、つまりベストのラインの断面上がもうひとつ別の大きな関節になったかのように腕を動かすことができます。肋骨は柔らかく固まらず、肩甲骨も解き放たれたように自由自在に動くようになります」
後半部分は自分的に「ちょっとどうかな?」という気もするが、確かに「ベストのラインの断面上がもうひとつ別の大きな関節になったかのような」というのは、かなりわかる。
じつは筆者は、この「ベスト」の感覚を自覚するまでは、両親からの遺伝として、自分は先天的に中丹田優位の人間だと思ってきた部分がある。
しかし、人間的にそれほどハートが熱い(情熱的)というわけでもないし、精神が愛に満ちあふれているわけでもない(ま、このへんは人並みです)。情に弱いところがあるからそう思ってきた面があるわけだが、「ベスト」の概念を取り入れたほうが「自分」の全体像がより明確に見えてくるように思える。
「ベストが発達した人は、上半身がよく動くようになります。……その結果、当然肩に力みが感じられませんし、肩肘張った感じがなくなります」
これもそう。筆者が仕事で人に褒められる時というのは、だいたい「肩肘張らないでやれる」と言われることが多い。自分でも、無意識にそんな状態を目指していたかもしれない。なるほど、これが「ベスト」の効用か……。
じつはこの「ベスト」に関して、もう一つだけ面白い発見があった。
歴史好きの筆者が日本史の中で最も注目している豊臣秀吉が、じつは「ベストの達人」であったというくだりだ。
「豊臣秀吉は“人たらしの天才”と言われた人物です。“蕩す(たらす)”というのは“女たらし”というように、あまりいいイメージはないかもしれません。しかし、秀吉の“人たらし”というのは、人と親和するという意味でしょう。……“人たらし”といわれる人は、相手が肩肘張ろうとしても、それをなだめすかして蕩してしまうわけです。……そう考えると、“人たらし”と言われた豊臣秀吉は、強力無比ともいえる強大なベストを持っていたはずです」
筆者が秀吉に関心を持ってきたのは、要するに、身体意識で共有できる点があったからだと言われれば、感覚的に合点がいく。
おそらく信長にあまり魅力を感じないのは、彼がセンター系の身体感覚の持ち主だったからだろう(筆者は、高岡氏が言うほどにはセンターの効用というものを重視していない。というより、理解できていないと言うべきか)。
まあ、それはともかく、歴史というバーチャルなものも身体意識を介してよりリアルに感じられるものだという点では異論がない。史料だけでは読み取れないものでも、感覚を働かせれば相応に論拠のある視点が提出できる……こんな筆者の捉え方も、身体論的に明確に裏づけられるものなのかもしれない。
予備知識がないとちょっとわかりにくい内容だったかもしれないが、筆者の身体観は高岡氏と必ずしもイコールではない部分もある。今回取り上げた「7つの身体意識」の概念をもとに、この点についてもう少し指摘しておきたい気もする。
それなり長くなりそうなので、後日、稿を改めて触れることにしよう。
(追記)
偶然だがこの原稿を書いた直後、たまたまウエブをくぐっていたら、あの「マネーの虎」の高橋がなり氏のブログを発見した。
自分の原稿の内容と不思議にシンクロしていて、ちょっと面白かった。おそらく彼も、かなりの「ベスト」の持ち主なんだと思う。どうだろうか?
2005年02月03日
■前田日明「復活」から見えてくるもの
あの前田日明がついに「復活」するようだ。もはや伝説と言ってしまってもいい総合格闘技団体「リングス」が活動休止して4年、時折雑誌などに登場することはあっても、ほとんど近況も語られないままに時が過ぎてきた。
既成のプロレスから離脱して、「総合格闘技」という未知のジャンルを立ち上げてきたパイオニア。母体となったUWFは、91年、前田の「リングス」、船木・鈴木の「パンクラス」、高田の「UWFインター」に分裂したが、「総合格闘技」をつくるという意思を最も明確に持ってきたのが前田のリングス。
たとえばキックボクサーがいる、柔道家がいる、アマチュアのレスラーがいる。それぞれの分野ではチャンピオンであり、世界選手権のトップクラス、五輪メダリスト、出場経験者。むろん、すぐれた身体感覚の持ち主。そうした異分野の強者たちを、同じリングに上げて共通のルールで戦わせる。
いまでこそPRIDEや立ち技のみに限定したK-1が大晦日にテレビ中継されるほどの人気となり、「総合格闘技ルール」は当たり前のものとなった感があるが、その基礎が固まる段階はすべてが実験の連続。
筆者はUWFが分裂し、リーダー格だった前田が孤立して、たった一人で「リングス」を立ち上げた時、「これは応援しなければ」という義侠心?に駆られ、中継が見られる開局直後のWOWOWに加入。
あの当時は一大会で5試合程度。しかも、メインに登場する前田以外は、すべて「無名の外人」たち。もちろん無名と言ってもアマチュアとしての実績は相当にある猛者たちばかりだったわけだが、彼らは「総合格闘技」など理解できていない。
柔道しかできない柔道家が、リングの上で腰の引けた不慣れなキックをする。寝技のできないキックボクサーが、その柔道家につかまって必死にロープエスケープする。WOWOW開局当初ということもあり、そんな奇妙な試合がほとんどノーカットで延々と流されていたのを思い出す。
メインに登場する前田だけを見にやってくる、多くの観客たち。しかしその彼も、開幕2戦目で左膝を負傷。以後引退に至るまで痛々しいニーブレスを装着して戦い続けた。五輪3連覇、人類最強の男と言われたアレキサンダー・カレリンとの「引退試合」を終えた彼は、記者たちの前でこんなことを語っていた。
【みなさんはルールがどうだとかいうけれど、大前提としてWOWOWとの契約で毎月1回興行を打たないとならない。そうしなければ団体が維持できない。この条件のなかで、出場する選手たちの能力を最大限に発揮できるようなルールを考え、つくり、試合を組む……】
筆者の中で記憶している言葉を再現しただけだから正確なものではないが、あのときのコメントのなかには、「総合格闘技」の真実が端的に語られていたように思う。前田の発言を筆者流に要約するのなら、だいたい次のような感じだ。
【総合格闘技は“ノールール”で、“なんでもあり”というけれど、それでもルールはある。そのルールの中で勝つ人間が最強というのは、一種の幻想にすぎない】
どんな格闘技にも必ずルールはある。しかし、そのルールを可能な限り排除してしまえば、様々なジャンルの格闘家が強さを競い合い、「最強の格闘家」を決めることができる。これがアメリカやブラジルで盛んになったバーリトウードの発想。しかし前田の発想は似て非なるもの。ある意味でもっとリアリスティック。
【生きていくのには必ずルールがある以上、ノールールなどということを考えるのはナンセンス。考えなければいけないのは、その時その時の与えられた条件のなかで、戦う人間の能力を最大限に引き出すルールをつねに考えるということ。条件が変わってくれば,当然ルールも変わる。進化していく】
前田が設定した「リングス・ルール」にはロープエスケープやダウンカウントも認められていた。バーリトウードの発想からすれば、「それではノールールではない、真の強者は決まらない」となる。しかし、前田がやろうとしていたのは「ノールールというルールの設定された競技」ではなかった。
世界中にある様々な格闘技。その競技の中で人を魅了し、勝ち続け、身体感覚に磨きをかけてきたアスリートたち。彼らの能力をさらに引き出す、発揮させるために、「総合格闘技」という場を提供する。それがリングスの発想だった。キックのできない柔道家、寝技のできないキックボクサーが同じリングで戦い、しかも自己を高めていくことは、バーリトウードではできない。ただ、ひとつのルール(より制限の少ないルール)のなかで戦える能力のある者が勝者になるだけ。
「選手を生かす」ということまで視野に入れた前田の感覚は、その意味できわめて東洋的、日本的であり、本人は否定するかもしれないが、プロレス的だ。プロレスもまた、「最強を決める」とうたいながら、きわめて曖昧なルール設定の中で、まず戦う者どうしの能力を生かし合うことが求められる。ショー的な要素の強いプロレスも、格闘技的な要素の強いプロレスも、この点は同じ。
話が長くなってしまったが、リングスという「場」で日本的な総合格闘技(広い意味で「武道」と言い換えてもいい)、本来の意味での「プロレス」を追求してきた前田が、新日本プロレスを退社した上井文彦氏と組んで、彼の興すプロレス興行にアドバイザーのような立場で関わっていくという。新日本プロレス内で格闘技志向の強い試合をマッチメークし続けてきた上井氏は、どこかで前田のプロレス観(総合格闘技観)に通じる感覚を持っていたのだろう。
3月とも4月とも言われるその旗揚げ戦には、新日本プロレスを中心にマット界の台風の目になってきた“外敵軍団”、天龍源一郎、高山善廣、鈴木みのる、佐々木健介らフリーの大物プロレスラーが参戦するという。国内外の格闘家に幅広い人脈を持つ前田は、彼らの対戦相手と言ってもいい有望な選手を発掘し、リングに送り出す役目を担っているようだ。
先頃、新日本プロレスの次代のエース候補、柴田勝頼も契約交渉で決裂し、団体を離脱。「上井プロレス」への参戦は決定的と言われるが、旗揚げのメンバーの名前を聞いて、「これが新日本プロレスじゃないですか」と語ったという。上井氏の構想するプロレスに、新日本のあるべき姿が見えてくるということだろう。
この上井版の「新日本プロレス」に、協力態勢が敷かれているというK-1所属の藤田和之、秋山成勲、宮田和幸、宇野薫らの総合格闘家が加わる。前田ルートでリングス・ロシアのヴォルク・ハンらも参戦することになるかもしれない。まだ全貌は明らかでないが,こう考えるとなかなか夢の膨らむ陣容だ。PRIDE、K-1とはまったく別コンセプトの「総合格闘技=プロレス」が立ち上がる可能性もある。
上井氏の独立だけでは正直漠然としていたが、前田が加わったことで柴田のいう「新日本プロレス」の骨格が見えてきた。現在の新日本のなかにではなく、前田の現れる「場」にそれが見えたというのは皮肉だし、興味深い。本来新日本プロレスが(あるいはアントニオ猪木が)担うべきだった役割を、めぐりめぐって一番の“反主流派”だった前田が引き受ける形になったような展開だ。
おそらく「上井プロレス」への協力とは別に、前田は前田で「第2次リングス」の設立も準備しているだろう。断片的な彼の発言をもとにするなら、一団体の旗揚げというよりは、選手たちのフィジカルケア(スポーツケア)やトレーニングなども視野に入れた、イベントにとどまらない「場」を作ろうとしている。「話すと勝手に真似するやつが出てくる」と前田が繰り返すが、沈黙を守ってきた彼が表舞台に登場することで、どうやら日本の総合格闘技はさらに一段進化しそうな気配だ。
前田の発想が「世間」に広がっていけば、格闘技でありながら必ずしも「弱肉強食」ではない、つまり、競争社会の形態を取りながら勝者も敗者も学び、先へ進んでいける広い意味でのシステムが、多くの人の感性に届くはずだ。社会は、いい意味での日本的な方向へ変わってゆく。「融合」の時代を格闘技の中で体現してきた前田は、いま、格闘技の枠の中からゆっくりとはみでようとしている。
2001年11月25日
■「理想の武道家」ロビンソン・クルーソー。
子供の頃に愛読した本の中で、何がいちばん記憶に残っている? ……そう問われて真っ先に思い浮かぶのは、「ロビンソン・クルーソー」である。
作者はダニエル・デフォー。意外に感じるかもしれないが、刊行されたのは18世紀初頭(1719年)と、思いのほか古い。
イギリスでも当時ベストセラーになったと言われるが、ご存じのように南海の無人島に漂着してしまった主人公ロビンソンが、絶望や孤独を味わいながら、さまざまな知恵を身につけ、28年にも及ぶ自給自足の生活を送るというストーリーである。後半には忠実な召使いとなった黒人青年フライデーとの出会いもあり、最後は謀反人に奪われたイギリス船を逆に乗っ取ることで晴れて故郷イギリスへの帰国の途につくという、なかなか面白い構成になっている。
では、筆者はなぜロビンソンの物語に魅かれたのだろう?
無論、子供の当時は直感的、感覚的なものだったわけだが、その後この「なぜ」を問うていく過程で、いろいろ興味深いことが見えてきた。ロビンソンは架空の人物であり、物語自体、作者のデフォーがお金に困って書き上げたものだとされているが、時代背景や人物設定など、さまざまな点で今日に通じるものが見られるからだ。
たとえば、時代背景について探っていくと、刊行当時、貴族階級に代わって勃興しつつあった中流階級の自己主張が見隠れすると言われている。
日下公人氏の本に書かれてあったが、「近代以前においては、貴族の男は毎日午前中は全部おしゃれの時間だった。服と靴下はボタンやホックだらけで召使いが着せてくれないと着れないし、髪を整え顔をつくってカツラをかぶり、最後のできあがりはメリケン粉を頭から振りかける。……貴族はそれを自慢していたが、中流から見るとなんともばからしいことをやっていた」(「21世紀、世界は日本化する」より)そうである。
たしかにばからしい。日本では平安時代の貴族がそうだったろうが、自分では何もできないくせに、権威をひけらかして「凄いだろ」と言っているわけである。
たとえばいま、NHKの大河ドラマで蒙古襲来を描いた「北条時宗」が放送されているが、もし平安時代にモンゴルが攻めてきたら……と考えたら、ゾッとする人も多いのではないか? ちょうど実力主義によって這い上がった武士が政権を握っていた時代(鎌倉時代)だったから、なんとか国難に対応できたわけである。
話が少々逸れてしまったが、ロビンソンもまた貴族に対する武士のような存在である。
はじめはただ頼りないだけの船乗りだったのが、生死ギリギリの苦難に出会い、それでも生きざるをえない状況に追い込まれたとき、はじめて「自分のことは自分でする」という当たり前の感覚に目覚めた。要するに、ロビンソンというキャラクターは、当時の上流階級に対する完全な「あてつけ」なのである。権威と呼ばれるものからまったく隔離された空間で、衣・食・住を得るための知恵をめぐらす。無人島で28年もの歳月を過ごすというあまりに苛酷な設定も、そう考えれば何事か見えてくるだろう。
つまり、中流というとあまり響きはよくないが、本当の意味での中流とは、主人でもなく、奴隷でもない、自分のの能力を頼りに生きていける階級に他ならない。
現在「中流意識」を持っているであろう読者の多くは、本当に自分が中流であると言えるだろうか? むしろ上流に近い生き方をしているのではないか? 中流だ、中流だと言いながら、むしろ貴族たちのDNAを受け継いでいる……。
思えば筆者は、この「何でもできる」ということに憧れていたのかもしれない。
「裸の王様」の話ではないが、子供は直感的に何が本物か見抜く能力を持っている。大した自慢にはならないが、ロビンソンに憧れた筆者は、自分が生きていく上での羅針盤を彼の物語を読むことで、無意識に手に入れていたと思うのである。
とはいえ、ロビンソンの道、つまり本当の意味で中流となる道を進むには、自分がただ頑張るだけでなく、社会そのものの「構造改革」が必要になってくる。たとえば現在のロビンソンとしてまず思い浮かぶのは、日本の経済成長を支えてきた中小企業の経営者に他ならないが、彼らの多くは大企業の下請けというポジションの中で、いわゆる上流階級の栄枯盛衰の影響を受け、時には下流のような辛酸をなめている。
このへんは平安時代の頃の社会状況と、なんら変わりがないと言えるだろう。
あの時代は、当時のロビンソン(=中小企業の経営者)にあたる武士たちが結束して、上流の意には添わない連合政権を作り上げた。それが力をつけ、巨大化していくことで、やがて戦国の世の混沌の中から、ある意味完成型に近いシステムが生み出された。それが江戸幕府である。ロビンソンの物語がイギリスで刊行されたのも、ちょうどこの時代(正確には江戸時代の中期)。物語の中での時代設定は、宮本武蔵らが活躍した時期と重なっており、洋の東西を問わず中流が台頭していたことを示唆している。
しかし、武士も権力を握ることで貴族=上流化した。そして数百年を経て、自分たちでは何も生み出せなくなった時、彼らのシステムは崩壊する。戦後に勃興したソニーやホンダなど大企業の多くも、そのパターンを踏んではいないか? 盛田昭夫も本田宗一郎も、あるいは松下幸之助も、はじめは中小企業の経営者だった。にもかかわらず、彼らの作った組織は、彼らの時代ほど輝いていると言えるだろうか?
……こうして見ていくと、筆者のいう「構造改革」の意味もわかってくるだろう。
現状の企業をどう改革しようが、その体質が上流に浸り切っている限り、残念ながら淘汰の対象となってしまう。それを防ぎたいのなら、根底にある組織論そのものを見つめ直し、中流に戻る道を探っていくしかない。しかし、半ば貴族化し、創業時代のクオリティーを失っている人々に、それだけの覚悟やパワーがあるかどうか。あるという人は、おそらく組織を離れ、まず自らが中流に戻る道を選ぶのではないか?
その意味で言えば、中小企業が真の中流を確立できるか、のほうが現実味がある発想だと筆者は思う。
あるいは、仮に確立できたとして、その時かつての中流がたどったような貴族化への道をたどらぬには、どうしたらいいのか? それが問われている。大きな話だと言われそうだが、そのくらいの「想像力」がなければ現状は変わらない。「これはありえない」という発想の壁を超えないかぎり、ロビンソンにはなれないはずである。
真に中流を名乗りたいのなら、やはり武士たちのように上流から決別し、文字通り、自立(自己完結)するしかない。その上で組織を大きくするのではなく、同志を探し、その連合=ネットワークを模索する。またそれを拡充する一方で、たえず自立のクオリティーを維持し、次代へ継承していく道を探っていく。
もちろんこれは、同じく中流を極めようと志す筆者にとっても、同じことである。
要するに物書きであるからと言って「いい作品」を書くだけでは、自分自身のポジションは確立できない。作家が作家という肩書きにこだわっているかぎり、「売れた」としてもその時貴族への道に転がり落ちる。たえず内なるロビンソンを意識し、「自分でやる」ことを問うていくべきなのである。
武道についていくつかの作品を書いてきた筆者にとって、理想とする武道家とは、ある意味彼のような存在なのだと感じている。一芸に秀でるだけでなく、その一芸が多芸へと通じる生き方。刀を持っていなくとも、刀を持っているのと同じ身体感覚を「生きる」ことそのものの中で発揮していく。そして磨いていく。
子供の頃の憧れをいまだ失っていない自分が、こうして今、自分自身を作っている。無人島で暮らさなくとも、「自分でやる」ことは可能なのである。
2001年06月02日
■日本とブラジルが「融合」するとき。
最近出ていた「Number」で、ブラジルの格闘家たちが特集されていた。
スポーツ強国として知られるブラジルだから、サッカーあたりが取り上げられるのは珍しくないが、表紙やグラビアに桜庭と戦ったシウバやビクトーらが起用されていたのを見て、少々おどろいた。数年前にはまったく考えられなかったことであり、「ああ、格闘技もかなりメジャーになってきたんだな」と実感したわけである。
まあ、立ち読みしただけなので内容についての論評は差し控えるが、パラパラと中をめくっていっただけでも、彼らのポテンシャルの高さが十分に伝わってきた。おそらく格闘技というジャンルで国別ランキングを作っても、ブラジルが最強国に位置づけられるだろう。それくらい彼らの身体能力は秀でているのである。
ちなみに、このランキングでベスト5を作るとしたら、2位がアメリカ、3位がロシア、4位と5位が、日本かオランダ、あるいはフランスといったところだろう。
アメリカはやはり国土の広さ、人種の多様さ、そしてそこからもたらされる事件やトラブルの多さ、発想の自由さ……などが、強い人間を生み出す条件を作り出している。この点は、ロシアも同様。ソビエト崩壊後、経済的にはなかなか厳しい状況が続いていると言われているが、結果的にはそれがプロ化を促進させてきた。
一方、オランダの場合、なぜか身の丈のバカでかい人間が多く、k-1で活躍するアーツやホーストをはじめ、特に立ち技に優れた選手が多い。またフランスも、ヨーロッパ柔道のメッカであり、k-1選手で例を引くならば、バンナやアビディのような有能なボクサーも輩出させている。そして日本は武道の発祥の国である。
……と、これらの国々を見渡すと、いくつか面白いことに気づかれないだろうか?
たとえばブラジルは、政情が非常に不安定なことで知られている。経済事情などは日本と対極。だから、ヒクソンやホイス、ヘンゾをはじめ、フリーファイトで成功したグレイシー一族なども、いまでは多くがアメリカで道場を経営している。また、自国で開催される大会ではあまり稼げないので、主戦場はもっぱら日本である。
要するにブラジル人は、優れたソフト(選手)は生み出すが、ハード(イベント、大会)を作り出す能力には長けていない。その点では日本やアメリカに一日の長があると言ってよく、特に観客の目の肥えている日本の場合、選手自身も自分たちの技術を披露できる場として、自国以上に敬意を抱いてくれているようだ。
要するにブラジル人の強さは、ハングリーにならざるをえない環境、つまり政治・経済の非常に不安定な国に生まれたことに、その多くが起因している。
一見するとマイナスの要素でしかあり得ない不安定さが、「ナメられたら終わりだ、そんなことでは生きていけない」という強烈な気概を生み出す原動力にもなっている。あるいは、ひと昔前の日本にもこれとよく似た状況があったんだろうな、という想像も十分に成り立つだろう。今のブラジルと昔の日本は、似通う面があるのである。
日本は、よく知られているように、明治維新を経て、大幅に欧米文化を取り入れてきた国である。また、第2次大戦に破れて以降はアメリカ文化を積極的に受容し、世界でも有数の経済大国に成長するに至っている。ハッキリ言えば、かつての時代のような(たとえば、戦前や江戸、明治の頃のような)ハングリーさはない。
しかし、国が豊かになり、ハングリーさを失い、堕落した?と言われる中でも、イチローや中田のようなニュータイプのスポーツ選手が生み出されていることも、これまた事実である。格闘技界で言えば、彼らによく似た桜庭和志のようなレスラーが現れてもいる。その意味では、決してダメになったばかりではないわけである。
筆者の目から見れば、こうした現実は、「苦労のない、非常に豊かな環境の中でも、優れた人間は育ちうるのか?」といった実験を、日本人自らが無意識のうちに取り組んでいる証のように映っている。ブラジル人は、今の日本人がそう簡単に追いつけないほどの素晴らしいポテンシャルを持っているが、たとえば我々のような「豊かな」環境が与えられた時、それは退化してしまうのだろうか? だとするなら、彼らの国に経済的な繁栄はありえない、それで本当にいいのか? という話にもなってくる。
あるいはアメリカのように、大富豪かホームレスかと言ったような非常に極端な社会システムが(それがアメリカンドリームと呼ばれているわけだが)、果たして未来にわたって永続可能な、人に自由をもたらすシステムと言えるかどうか。
われわれはいま、他者を通して自己を変革させていく必要に迫られている。
教育の基本は相手の長所を積極的に伸ばすことだと言われているが、その基本を踏まえた上で、さらにその当人の不得手なこと、あまりやりたくないことにも関わらせる必要がある。そのことで無自覚だった潜在能力が開花する可能性が生まれうるのである。音楽家が音楽だけを追求する時代は、もはや過去の話と言えるのではないか? 一芸に秀でながらも、もっと全体の見渡せる視野の広さ、柔軟さこそが問われている。
言ってみれば、ブラジル人は日本人から組織作りや物作りのノウハウを学んで「経済大国」を目指すべきだし、日本人は日本人で、彼らと関わり合うことで、かつてのサムライ・スピリットをもっと明確に自覚し、蘇らせるべきである。アメリカ人やオランダ人との関わりにおいても、やはり同様に学び合っていく条件が隠されている。こうした「融合」の先に、トータルな能力を持った人間が作られていくのである。
おそらく、オレが一番だ、誰が一番だと多くの人々が言い合っている間に、こうした他者との「融合」を最も高度に吸収していった者が、国や民族を超えた巨大なヒーローとして頭角を表わすことになるだろう。じつはそのヒーローこそが、まだ過去において出現したことのない、真の「インターナショナル」な存在なのである。
筆者は、2010年前後にそのひとつの結論が出てくるのではないかとイメージしているが、これも決して夢物語を言っているわけではない。それどころか、そのヒーローが日本から生まれることだって十分にありうる、その可能性は多くの人が思っている以上に「高い」のだということに、我々はもっと気づくべきではないだろうか?