2007年03月21日
ジャーナリズム。
「八百長問題」のプレッシャーからか、
横綱が連敗するなど、初日、二日目と大荒れになった大相撲。
……って、肝心の記事は読んでないわけですが、
大マジメな話、「ジャーナリズムって何だろう?」って思ったりする。
実際、八百長があったとしたなら、少なくとも朝青龍にとって、その全人格が問われかねない大問題。
……にもかかわらず、告発したメディア(週刊現代)の「全人格」が見えてこない。顔が見えない。
編集長って誰? 横綱と同じように実名報道されて、顔も露出している?
発行元の講談社って、誰が代表?
衆人環視の中、彼らは連敗するくらいのプレッシャーって受けてる?
なんかアンフェアというか、「ズルイ」気がするんだよなあ。
2004年11月18日
■ぼくの考える「メディア論」(1)
メディアの本質について、意外と見逃されている事実がたくさんあります。
この「たくさん」をキャッチできると、誰もが有効な情報発信をできるようになります。運営(経営)規模の大小にかかわらず、情報の質において「読者=共感者」を獲得できる。時代はいま、そのような方向に推移しています。
まず情報とは何か、わかりやすくひもとくと……「事実報道」と「二次報道」に分けられます。「事実報道」とは文字通り、事実を伝えるという情報発信の一番初めに発生する「報道」です。たとえば、日本シリーズの第1戦はどちらのチームが勝ったか、勝利投手は? 試合経過は? ……というのが「事実報道」において求められる情報内容です。ここには、基本的に「見解の相違」はありません。
当たり前じゃないかと言われそうですが、そうでもないのです。
日本人はあまりピンと来ないかもしれませんが、国によってはまだこの「事実報道」が十分にできてないところが数多くあります。
その典型が北朝鮮の報道でしょう。あそこまで極端でなくとも、中国や韓国でも一部の「事実報道」が国の政策によって歪曲されている面があるようです。また、国によっては経済的な問題から、報道機関そのものが十分に整備できないところもあるでしょう。
もちろん日本でも、意図的にこの「事実報道」を歪め、情報操作をするケースはありえます。次の「二次報道」とも絡んでくるものだからです。
言い換えるならば、「事実報道」が歪んでしまうと、「二次報道」にも弊害が出てくるということ。
しかし、あっさり言ってしまえば「事実報道」は「誰にでもできる情報伝達」でもあります。「日本シリーズでどこが優勝したか」、これは記者でなくても、スタンドに足を運べば確認できる。テレビの中継でもわかるものだからです(厳密に言えば、テレビの「事実報道」によって情報を得ているわけですが)。
もちろん、誰にでもできると言っても、現場によっては(戦場や極地、スクープなど)「行くことに価値がある」場合もあります。
しかしそうした記者の努力も含め、テレビ、新聞、雑誌、インターネット…、現在の日本では誰もが「事実報道」をほぼ平等に得られる環境にあるわけです。情報をまさに「湯水のごとく」得られるのは、世界的に見ても、非常に「恵まれている」状態なのです。
である以上、日本において「報道の質」が問われるのは、多くの場合、「二次報道」の内容に関してであるとわかるでしょう。
これまで報道というと、「現場主義」という言葉もあるように、「事実報道」の伝達というイメージが強かったと思います。しかし現場に行ったからといって「真実」がわかる(伝えられる)わけでは、必ずしもないのです。
「事実と真実は違う」という言葉がありますが、ここでいう「真実」は「二次報道」のことを指しています。「日本シリーズでどこが勝った」というのはねじ曲げようのない「事実」ですが、その「事実」に対しどう感じたかは、その情報に接したすべての人が体験できるものであるからです。
どう感じたか……つまりは解釈であり、主観になります。これが事実に対する真実の部分です。この「真実」をどう伝えるかは、個々の感性、センスによっています。当然のことながら、その人の人生観が反映されています。人生観のやり取りこそが、コミュニケーションの本質と言えるのす。
従来のメディアでは、先に話したように、この「事実報道」と「二次報道」の位置づけが非常に曖昧でした。「事実報道」を発信していることに特権意識を持っていたのかもしれません。記者が自分の仕事にプライドを持つことは当然ですが、「二次報道」に関しては、「感じる」という点で誰もが同じ土俵の上にいます。
確かにインターネットのような環境が整備されていなかった過去においては、「事実報道」を継続的に発信できる大手資本のメディアが、同時に「二次報道」も発信し、それらすべてが「事実」であるかのように世論が形成されてきました。
しかし、「事実と真実は違う」のです。わかりますか?
事実報道が整備された土壌(日本)では、真実は誰もが好きな形で発信できます。そうした「自由な場」のなかで価値が創造されます。
逆に言うならば、「公共の場」の間口が一時代前とは比べ物にならないくらいに広がったということです。それは情報を発信する個人の責任が、これまで以上に増してきたということ。情報の伝わり方が、口コミや噂のレベルも含めて、今後おそらくどんどんと「速く」なっていきます。淘汰も速く進みます。
情報の受け取り手の多くが、「事実報道」と「二次報道」の違いに気づくようになると、これを混同してきた報道機関のアイデンティティは大きく揺らぐことになるかもしれません。その兆しはすでに感じている人も多いはずです。
我々一人一人の生活を豊かにするために必要なものは、「事実に基づいた真実」です。もちろんどんな真実でもいいわけではなく、その質も求められます。
「たった一つの真実」が客観的にあるわけではありません。あくまでその人にとっての真実、それを真実と思う人の真実です。要はその真実の「普遍性」「妥当性」が、コミュニケーションの場で求められているのです。
こと日本では、「自分の豊かさ」が「他人の豊かさ」にもつながる発想を、いま多くの人が望みはじめています。こうした意味での「本物志向」の人々が、一歩一歩、新しいメディアの形態を志向し、創造するようになるはずです。
それが「普遍性」「妥当性」として認知されるような状況も生まれるかもしれません。
「総合」をうたうThunder-r-Revolutionの活動も、こうした新しいメディアの一つの「場」として、自分の発想を豊かにし、ラクにし、周囲との「和」を生み出すために有効な「二次報道」を追求し、発信していくつもりです。
*当サイトの発足にあたって以上のような「メディア論」をまとめてみました。まだメディアについては言及しきれていないので、続編も考えています。
2002年10月21日
■「現場主義」はなぜメディアを硬直化させるのか?
筆者が定期的にチェックしているサイトの中に、「田中宇(さかい)の国際ニュース解説〜世界はどう動いているのか」という、非常に面白いページがある。
主宰者の田中宇氏は、元共同通信の記者。しかし、「硬直化したマスコミ」の取材法に疑問を感じ、やがてマイクロソフト社の「MSNジャーナル」編集記者を経たのち、ネット情報を有効活用した「国際ニュース解説者」として独立する。
先日、氏のホームページを覗いていたところ、そのあたりの経緯を記したインタビュー記事が紹介されていた。今回の話の主題に入る前に、まずその中からいくつか、筆者が興味深いと感じた箇所を拾い出してみよう。
マスコミも今でこそ叩かれるようになったじゃないですか、マスコミと言えばしょうもないことを書くとみんな思っている、みたいな。実際にマスコミの中にいても同じことを感じているんですね。僕がいたころからすでにマスコミは硬直化していて、面白ければ面白い原稿ほど通らないような感じでした。
こういう風に書いてもいいんだという点では、欧米のマスメディアの書き方は参考になりました。反対に日本のマスメディアの場合、現場に行っているくせに「私は現場に行ってこう思った」というのは書いてはいけないんですね。……客観報道じゃなきゃいけない。記事に主観を入れてはいけない、というんです。日本のマスコミ全部が“客観”の意味を取り違えていると思うんですけどね。
……ジャーナリストというのは現場で自分の目で見たことを報道する。現場にいって報道するのことこそがジャーナリズムだ、と言うことが日本のマスコミの普遍的な価値観なんです。そういうことを言ってるのは日本だけで、間違っているんことなんですが。だから何も事前に調べもしないで現場に行って、現場の人にインタビューして原稿を書くから本質が見えない記事になるんです。
(HOTWIRED JAPANより)
……筆者は過去に雑誌編集の仕事などもしてきたが、報道記者のようにたえず「現場」に足を運んでいたわけではない。だから最後のコメントなどは、半分「ホントかな?」と思ってしまったわけだが、氏は一本の記事を書くための下調べに「30時間はかけている」というから、それを基準にしたら「何も調べもしないで」ということになるのだろう(その情報ソースを、氏は世界中のサイトから得ているわけである)。
この「下調べ」の実態については上記のインタビューに直接当たってほしいが、筆者自身、メディアの偏った「現場主義」にはかねがね疑問を抱いてきた。それが非常に硬直化し、多くの情報を見逃している現実も目のあたりにしている。
たとえば私事で恐縮だが、筆者は2冊目の著書「脳を超えてハラで生きる」の出版にあたって、販元の了解を得た上で自らが自作のプロモートを担当し、1か月弱ほどかけて国内の主だったマスメディアにアポイントを取っている。
アポイントの意図は明快だ。とにかくメディアに携わる多くの人に、自分の本を読んでもらいたい。そのためには、ただ本を送るだけではダメ。ほぼ9割方、読まれる前に捨てられてしまう。自分の本をゴミにしないためには担当者に直接会って、5分でも10分でもいいから作品の内容や出版した意図について話をすることだ。
筆者は自分の作品にも活動にも、すべて自信を持っている。自分の提供する情報には、すべて価値があると思っている。だから、この仕事を続けている。
仮に筆者がどんな人間であるとしても、真贋の判断は無機的に送られてくる情報だけはほとんど感じ取れない。記者はそういう情報が信頼できないから「現場」に走るのではないか? その記者が「一人一人に会っていたら、仕事ができなくなるからお会いできない」と平気で言う。自分の日常のすべてが「現場」であるにもかかわらず、ある特定の事件や事故、イベントなどがある場所を「現場」だと思っているわけである。
筆者はいたずらに、自分の不満ばかりを書き綴っているわけではない。
ただ今回の筆者のようなプロモーション自体、ふつう作家はしていないようだ。筆者自身、編集者の仕事をしていたころ、販売や広告の仕事にはほとんど関われなかった。土日もないくらいに働いていたが、なかなか自分のしていることの実体がつかめなかった。
すべてがすべて細分化されているから、みな「全体」がつかめない。
そんな人がいくら現場に出ようが、限定された視野からしか物は見えない。だから硬直化する。筆者がフリーランスとなり、独自の仕方で「取材」するようになったのは、筆者自身がそうした現実を体験し、そこに居続けることに危惧を感じたからだ。
先の田中氏の場合、ネットというバーチャルな情報源を極限まで駆使し、机に座った段階で「全体」が見えるところまで準備をしている。そしてその上で取材にも行く。
一方筆者の場合、氏に比べたらまだまだ「駆け出し」にすぎないかもしれないが、自分の感覚そのものを磨く手段を考案し、それを高めることで、いつ何時、どこにいても必要な情報がキャッチできるような「状態」を作っている。
だから筆者は従来のような形でほとんど取材をすることなく、2冊の本を書いてしまった。それを「真実味がない」(場合によっては「うさん臭い」)と感じた人もいるようだが、以上のようなスタンスで半ば意図的にやったことであるから、その点を理解してほしい。取材したことに必要以上に価値を感じる従来の感覚自体を、まず疑うべきなのである。
「毎日何百冊も山のように本が届く。とてもじゃないがすべては読めない」と言っていた記者の方も、それを理由に外部からのコンタクトを遮断するのはやめたほうがいいだろう。この仕事は煩些で無駄なことが多く、9割くらいはどうでもいい行為を強いられるものなのである。自分に日々の仕事を守ろうとするあまり、残りの1割との出会いも捨ててしまったら、それこそ無駄な情報しか提供はできない。
筆者だったら献本してきた著者や版元に「次から送らないでください。送っても読みません。宣伝をしたい場合は直接当社にお越しください」と(もっと丁重な言い回しで)手紙を書く。いまの仕事の仕方を少し変えるだけでも、よりリアルな「現場」を作り出すことができる。繰り返すが、日常のすべてが「現場」なのである。