2006年01月06日
■「女性天皇問題」から見る「変化の兆し」(2)
以前、筆者もブログで書いたことがあるが……、世の中の多くの人は「女性天皇を容認していい」と考えているようだ。
去年の12月5日に配信された共同通信の記事によると、
共同通信社が3、4両日に実施した全国電話世論調査で、政府の「皇室典範有識者会議」が打ち出した女性、女系天皇について聞いたところ、女性天皇の子どもが即位する女系天皇について「認めてもよい」とする回答が71.9%を占め、従来の「男系を続けるべきだ」の16.1%を大きく上回った。
また75.3%が「女子が天皇になっても良い」と女性天皇を認め、「男子に限るべきだ」としたのは11.8%。ただ女性天皇を認めた場合の皇位継承順位は「(男女を問わず)第1子からとすべきだ」(43.3%)と「(天皇の子どもの兄弟姉妹間で)男子を先にすべきだ」(42.2%)とで意見が二分された。
小泉純一郎首相の内閣支持率は57.1%と10月末から11月初めの前回調査(60.1%)より3ポイント減ったが、依然、高水準を維持。不支持率は前回28.7%から4.5ポイント増の33.2%だった。
なかなかすごい結果が出たものだ。
現状では(多くの人がイメージしていることだろうが)女性天皇と言えば、愛子さまということになる。
愛子さまが天皇になってもいいという人が、75.3%。愛子さまの子供の系統がそのまま皇位を継承してもいいという人が、71.9%。
まあ、簡単に言えば、多くの人にとって血統などどうでもいい、ということだろう。
ちなみに、小泉首相の私的な諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」(座長・吉川弘之元東大総長)は、同年11月24日、「象徴天皇制度の安定的な維持のため、皇位継承資格を女性や女系の皇族に拡大することなどを求める報告書をまとめ、首相に提出」している(11月25日産經新聞より)。
ここでの見解もなかなかすごい。
……現行の皇室典範一条が「皇位は男系の男子が継承する」と規定していることに対し、「(男系男子で)皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難」だとした。
そのうえで、憲法が定める皇位の世襲の原則は「男子や男系であることまで求めるものではない」と主張。「重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたこと」だとして、女性・女系天皇を容認することの意義を強調している。
また、こんなことも言っている。
……皇室研究者や与党内から女系天皇の歴史的な正統性に疑問の声が出ている点に関しては、各種世論調査で約8割が女性天皇を容認していることなどを背景に「幅広い国民の積極的な支持が得られる制度である限り、正統性が揺らぐことはない」と結論づけた。
幅広い国民の積極的な支持……。
一見もっともらしく感じられるかもしれないが、そんな支持など、まるで実体のない「気分」にすぎないものではないのか?
100年、1000年というスパンで歴史を見た場合(それが天皇家の歴史時間でもある)、どこまで確実な根拠となりえるのか?
諮問会議とやらで意見した人たちは、当然、このことに責任を負える立場にない。
筆者は天皇制の“絶対的な支持者”ではないが、こうした世論の動きを見るにつけ、「ああ、有史以来1000年、2000年と続いたこの国の歴史も終わりだな」と感じてしまう。
そう、日本は終わる。
愛子さまが成人し、皇位継承が現実味を帯びてくる頃に、おそらく……。
それが何を意味するのか?
べつに楽しく人生が送れればそれでいいじゃないかと思っている人も多いだろうが、筆者が言いたいのは、ちまたの反対論者が語っているようなことと少々違う。
そのことについて語る前に、最近これに関連したちょっとおもしろい記事を見かけたので、紹介しておこう。
その記事とは、昭和天皇の甥にあたる寛仁親王が、ことしの1月4日、毎日新聞の取材に答えたもの。
昨今の「女性天皇論」について皇族の立場で(ここまで)口を開いたのは、おそらく親王が初めてではないだろうか?
皇室は、一部の例外を除いて権力を握ることがなかった。権力を持つところと、皇室を分けてきたのは、大和民族の知恵だと思う。国を守っていくためにそういう形になった。外国の王族の中には、パワーの論理が働いて権力を握ったりしたから、その後つぶれたケースもある。
まったくその通り。日本史の本質の一端をきちんと理解してらっしゃると思う。
皇室は悠久の歴史の中で常に受動態であった。突き詰めると、存在することに意義があるということだ。政治や営利にも関与できないし、ある意味「ニッチ(すきま)産業」だ。
政府や行政も、国民のためにいろんなことを展開していくが、足らざるところはある。皇族がそれを補い、光が当たっていないところに光を当てる。それぞれの皇族が、国民の要望、希望に沿っていくことが大事だ。
政府や行政の「足らざるところ」を皇室がやる。これも現行の皇族のあり方として異論がないところだろう。
で、問題は「女性天皇」問題について……。
皇室のあり方に関する問題を有識者会議による1年、30数時間の議論で決めてしまうことに素朴な疑問を抱く。この問題は、政治を超えたものだ。多くの国民が歴史を理解したうえで大いなる論議がわき上がって、国会で、審議に審議を重ねて結論が出ればと思う。男系で継いできた歴史は、一度切ってしまえばつなげないことを分かってほしい。
皇位継承をめぐってはいくつかの危機があったが、これまで回避してきた。10親等ぐらい離れた傍系から皇女に婿入りしたり、宇多天皇のように臣籍降下したのに復活して皇太子になり、その後天皇になったケースもある。
1947年に臣籍降下した11宮家の当主にカムバックしていただいたり、養子ができるようにするなどの方法がある。できるだけの手段を講じるのが先だ。すべての手を尽くしたうえで、駄目なら仕方がない。
11宮家の復帰には、60年間一般の中で生活してきたので違和感があるというが、異様な意見だ。菊栄親睦会という昭和天皇のご親族が集まる会がある。旧宮さま、元宮さまとの付き合いは深い。
むしろ愛子さまの夫になった人が、突然「陛下」と呼ばれる方が違和感が強いのではないか。
……どうだろうか? 筆者は特に異論がない。
というより、正直この程度の発想を、一流学者も国民も、なぜ持つことができないのか? そのことのほうが疑問に思えてしまう。
と、ここで先の問いかけに戻るが……。
筆者はなぜ、直接自分の利害とは関係ない天皇家の問題について、ここまで(熱心に?)語ろうとしているのか?
まずこんなふうに考えてほしい。
この世界というのは、過去から未来へ連綿と続く「歴史」と、東西南北に広がる「風土」とが融合することで成り立っている。
歴史を縦軸とするなら、風土は横軸。
縦軸と横軸がクロスしたところに「いま・ここ」の自分という存在のポジションがある。
筆者は、この縦と横がクロスした世界のありようを理解できる感覚がある。
言い換えるならば、世界とは観念ではなく、現実であるということ。
この言い方にピンと来るだろうか?
筆者は身体論というものをやっているが、そのうえでつくづく感じるのは、いま多くの人がこの「世界」を見失っているということだ。
世界を見失うということは、縦軸が見えないということ。そして、横軸も見えないということ。
自分という存在がどのようにして成り立っているのか?
それが「わかる」という感覚は、正直なところ言葉ではうまく伝えにくい。
しかし、僭越ながら「わかる」人間の立場から言わせてもらうと、みな世界から引き離されている。
一人ぼっちで生きている。
しかも、その淋しさが見えていない……(見ようとしていない?)。
そう、要は天皇制が存続すればいいかどうかという問題ではないということ。
好きとか嫌いに関わらず、「天皇家がなぜ尊いのか?」それが理解できないのは、縦のつながりが実感できていないから。
血統によって「いのち」をつないでいくということの意味合いが理解できていないから。
こういう人は、先にも触れたが、豊かな暮らしさえできれば自分が「日本人」でも、「アメリカ人」でも構わないと考える。
しかし、これは血のつながりで見るなら、自分の親に対して「べつにあなたが親でなくたって構わないんだよ」と言っているのと変わらない。
これで本当にまともな感覚だろうか?
横軸へと広げて見るならば、風土の中の人と人とのつながり、つまりは人間関係がわからない。
もっと言ってしまえば、「他人が自分と同じように生きている」という現実がわからない。
そう。繰り返すが「一人」なのだ。
1億人いようと、60億人いようと……。
そんな人がどんどんと増えている以上、筆者がいちいち言うまでもなく、日本は終わる。
女性天皇を容認するかどうかという問題は、そうした氷山の一角にすぎないということにもなる。
さて、ここまでお読みになって暗い気持ちになった人もいるかもしれないが、筆者は必ずしも現実を悲観してはいない。
確かに大部分の人は、さまざまな原因により自然の感覚を失い、「孤立化」への道を歩んでいると筆者は思う。
しかし、物事には裏と表がある。
いま日本人の多くが(日本人に限らないとも言えるが)自然の感覚を見失ってしまったのは、なぜなのか?
自然の感覚……すなわち縦軸と横軸の感覚が生活の中にきちんと根づいていた時代、日本史で言えば江戸時代あたりが特に該当するだろう。
最近では、江戸の頃の暮らしが再評価されている。ちょっとした江戸ブームが起こったこともあった。
こうしたブームも、再評価も、悪いことではない。
しかし、それは言い換えるなら、評価が落ちた時期があったということ。
縦軸と横軸の感覚は、制度で言うならば、封建社会のなかで花開いた。
封建社会のいい面と悪い面、そのうちの悪い面のほうを改善しようという動きが、日本では明治維新をもたらし、近代化が進められた。
ここまで言えばわかるだろう。
「生きる」ということをトータルで考えた場合、縦と横の感覚を身につけることが必要。しかし同時に、「個人」の感覚も必要であるということ。
それは自分の意思で生き、自己決定し、自らの感覚で価値判断するということ。
「家」があり、「国」があり、「身分」があった時代では、この感覚を自由に磨くことはできなかった。
最近ではよく「自己責任」という言葉が使われるが、この言葉がどこかうすっぺらく響くのは、逆に言えば、縦と横の感覚を喪失しているからではないのか?
しかし、この喪失にはそれなりの必然性があった。
確かに縦と横の感覚を取り戻すことは必要かもしれない。しかし、その次に問われてくるのは、「個人」という感覚であるということ。
両者がコインの裏と表の関係にあることが見えてくるだろう。
この先、自分を見失っている人たちの「無関心」と「無理解」によって、日本という国はおそらく滅びてしまう時が来るだろう。
そう、誰もその「責任」をとらないままに……。
しかし、その滅びと入れ替わるように、本当の意味での「個人」が台頭してくる。
日本にはこの「個人」が台頭しうる条件が、かなりのレベルで整っている。もしかしたら世界で一番整っている「場」なのかもしれない……。
(なぜかについては、いろいろなところで書いてきたが……)
では、その「個人」になるにはどうしたらいいか? 「女性天皇」論を飛び越えて問われてくるのは、じつはそこなのである。
2005年11月15日
■“経営コンサルタントの神様”船井幸雄氏はアナーキストである!?
たまたま本屋で見かけた船井幸雄氏の新著を、先日、つい衝動買いしてしまった。
タイトルは「にんげん」。
一瞬、あいだみつをの本かと思ったが、もちろん違う。笑。
氏の言葉を借りるなら、
1933年生まれの私は、いま72歳です。なぜか幼少時より、常識的に言いますと、ある目的のために、学び働くことだけの人生を送ってきました。
……「これでもか、これでもか」というくらい働かされ、「世の中」や「にんげん」についての根源的なことを学ばされてきました。
……そのある目的とは、「世の中の構造」と「にんげんの正しいあり方」を知り、多くの人に知らせるためといってもいいと思えるのです。
ということになる。
まず、氏のことをよく知らない人のために、ホームページよりその略歴を引用させていただこう。
1933年 大阪府生まれ
1956年 京都大学農林経済学科卒業
産業心理研究所研究員、日本マネジメント協会経営指導部長、理事を経て、
1970年 (株)日本マーケティングセンターを設立
1985年3月 船井総合研究所に社名変更
1988年 経営コンサルタント会社として世界ではじめて株式上場。
“経営指導の神様”と呼ばれコンサルティングの第1線で活躍するとともに、社長、会長を歴任。
2003年3月 名誉会長に就任
同社を約300人の経営専門家を擁する日本最大級の経営コンサルタント会社に成長させた。
現在、グループ30余社の総帥。
2003年4月 超資本主義社会を牽引するテクノロジーの発掘・普及のため、(株)本物研究所を設立した。
2005年1月 船井総合研究所・本物研究所・船井メディア・船井コミュニケーションズ・船井財産コンサルタンツ最高顧問・(株)船井本社代表取締役会長就任
これを一読すれば、顧客との信頼関係によって成り立つ経済コンサルタントの業界で、不動と言っていい成功を成し遂げた人であることがわかる。その氏が、
70歳になったのを機に、……同社(*船井総研)の代表取締役をやめ、……経営コンサルタントも、きれいさっぱりやめました。ただ、私個人の人脈や能力は、束縛がなくなり自由になっただけ、その後、より拡充したように思います。
と語る。“経営者としての束縛がなくなったことで、自由になった”。……確かに今回の著作を読むにつけ、筆者自身、その思いを強く感じた。
「単著が180冊、共著や編者まで含めると260冊以上」という氏の著作のすべてを読んだわけではないが、どんな傾向の情報発信をする人なのかはもともとわかっていた。しかし、今回の著作の内容は「かなり過激」。
試しに目次から、気になるコピーをいくつか拾っていってみよう。
第1章 絶対的常識がくつがえりつつある
●人は猿から進化したのではない
●死んだ動植物が見事に生き返る
●煎ったピーナッツから芽が出た
●人は食べなくとも生きていける
第2章 最近の10年、有識者は密かに「アセンション」の研究をしている
●世の中には不思議な能力を持った人が存在する
●一流大学の出身者は創業経営者にならない
●決め手は統計学と、超能力者
第3章 ようやくわかった大事な諸事情
●トランス・チャネラーの情報は参考になる
●人は「生かされている」ようだ
●多分、近未来、易や占星術は無用になる
第4章 これからこう生きよう
●こだわる人間ほど程度が低い
●策略、刺客……選挙に見る「時流」
●視力0.05が4年間で0.8になった
第5章 いよいよ「世の中」の分岐点(略)
……筆者特有のバランス感覚?(言い換えれば、独断と偏見)で選んでみたが、どうだろうか?
文字面だけを追えば「トンデモ本」にも思われかねない、かなり「ぶっとんだ」内容であることがわかるだろう。
詳しい中身の検証は、興味を持った読者各人で行なってほしいが、筆者がここで強く感じることは、
「このような“ぶっとんだ”“あやしい”内容を堂々と本にしている人間が、きわめて現実的な判断の要求される経営コンサルタントの世界で、多くの人に信頼され、社会的に大成功を収めた」
という事実だ。
船井氏自身、これまでの歩みを振り返り、
20数年前、著書中で「死んでも終わりではない」と書いただけで白眼視され、10年前「超常現象はあるし、人の意識は物質に影響する」と言っただけで「オカルト人間」と呼ばれ、マスメディアからシャットアウトされ、多くの顧問先から去られた私としては、(ここ数年の世の中の変化に)ちょっとびっくりしていますが、しかしよい時代になったと思います。
などと語っている。
10年ほど前から氏の名前を聞き知っていた筆者の印象でも、確かに上記のような「白眼視」を受けていたように思う。
しかし氏には、ある程度のバッシングがあろうと揺るがない、自分の社会的成功に対する自信があったはずだ。
素直にすごいと思うのは、その点だ。「白眼視」されるのが厭で、なるべくなら世間に迎合し、波風立てないように活動してきた(?)筆者としては、第一にその自信の強さに感心してしまう。
そして、そうした氏の努力もあって、確かにこの10年で、ずいぶんと言いたいことが言いやすい世の中になってきた。
前述の目次から引用したコピーにしても、盲信するべきではないが、それでも「すべてありえる」というくらいの、常識の囚われない感覚が筆者にはある。
しかし、こうした感性はほんらい社会の第一線で活躍するジャーナリストにこそ必要なものではないだろうか?
なにしろ、彼らの活躍の場とも言える映像・活字メディア(テレビや新聞、雑誌など)では、言論の自由と言いながら、大幅な自主規制が存在している。
筆者もそのメディアの末端に属する一人だが、大手メディアに活動の場が広がれば広がるほど、じつは意識の自由が奪われる傾向があることを感じている。
表に出せることと出せないことの境界が、日々の錯綜した仕事の中で、かなり安易な状況で決められているとでも言えばいいか。
その総和として、世論が形成される……。
新聞社や出版社から給料をもらっている(それで家族を養っている)状況から脱しないかぎり、まともなジャーナリストにはなれない。
以前、作家の井沢元彦氏がそういった意味のことを著書の中で記していた記憶があるが、確かにその通り、自分の感性を維持し、磨いていくためには、既成のメディアはむしろ反面教師になりつつある。
経験を積むために既成の媒体を活用させてもらうことはもちろん必要だが、本当の意味での「精神的な自立」を求めるなら、一度はゼロに立ち返り、「自分自身のメディア」を構築するプロセスがどうしても必要になってくる。
というわけで、いま筆者がささやかながらWebを中心に展開している「活動」の必然性が見えてくるわけだが、べつにこれはジャーナリスト(マスコミ関係者)だけに求められる話ではない。
そのメディアから受け取った情報によって、個々の生活や人生観が左右されてしまうものだからだ。
この点について、船井氏は、著書の中で政治評論家・森田実氏のホームページから、次のような一文を紹介している。
日本のアメリカ化を先頭に立って推進しているのが小泉内閣である。小泉内閣の3年間の間に、銀行の90%は米国の金融機関に握られてしまった。製造業の70%が米国に握られた。東京のホテルのほとんどが米国資本のものとなった。流通も、食糧も、土建業者すらも米国資本の傘下に組み入れられている。最近はマスコミがこれを応援している。それどころか、マスコミまでアメリカに握られてしまった。
最近、政官界内部で次のような噂が流れている。……「広告業は米国資本に握られたため、テレビで米国批判を行なうものは、テレビ界から排除されることになった。ほとんどの大手のコマーシャル提供の大企業は米国資本が握ったからだ」。
ちょうどその頃、私はあるテレビで米国の日本支配、日本従属国化、植民地化について語ったあとは出演依頼がほとんどなくなったことを経験したので、思い当たることがあった。米国の影響力は強大である。日本人の頭脳のなかまで変えつつある。
今朝、友人から電話があった。
「350兆円の郵政資金を手に入れるための対日工作費として、米国経済界が約5000億円を使ったという話を知っていますか。主としてマスコミ工作費のようです。大がかりな350兆円奪取作戦が展開されてきたことは明らかです。……」
(以上、5/12、14発信「森田実の時代を斬る」より)
また船井氏は、別の箇所で「森田氏のホームページを見た」というある大学教授のファクスを紹介するなかで、
ウオール街は、電通に3兆円の資金を投入して、大手新聞社、テレビ局を通じて、郵政民営化法案の可決のための世論工作活動をしている
といった指摘もしている。
ここで森田氏のいう米国資本は、以前、栗本慎一郎氏の新著(「パンツを脱いだサル」)について書いた稿の中でもふれたように、ユダヤ系の国際金融資本とほぼイコールであることは想像できるだろう(→こちらを参照)。
筆者自身、「電通に3兆円云々」がどこまで真実かはわからないが、これまでストックしてきた種々の情報を総合するなら、
なぜ小泉首相とブッシュ大統領の関係が親密なのか? それはただ単に両者のウマが合うからでないことは明らか。
要は、小泉氏の年来の政治的悲願であった「郵政民営化」が、米国経済の“活性化”にとってもメリットがある(おいしい)ということをブッシュが(アメリカ側が)理解していたから、両者の利害が一致した=親密になれたのではないか?
言い換えるなら、小泉氏は自らの政治的悲願実現のために、米国(ユダヤ系の金融資本)のバックアップを受けた。
しかし彼には「郵政民営化は政治家である自分の、年来の公約である」という“信念”があるから、このバックアップも「悪」には映らない。
逆に彼らの要求を利用しているというくらいの意識はあるだろうが、冷静に実態を見るならば、やはり利用されているのは小泉氏のほう。米国資本のほうが、かけひきの点で一枚上手ではないのか?
なぜなら、金づるをますます米国資本に握られてしまう可能性が高いからだ。そうなると、一般庶民はますます経済的に身動きの取れない状況に追い込まれる。
しかし、小泉氏にはそうなっても、その原因が郵政民営化にあるとは認識できない。だから結局、責任も取らない。
……といったような推測も可能であると感じている。
そして、これがどこまで正しいかは別として、この種の発言はテレビや新聞などではなかなかできない。つまりは、テレビや新聞(既成のメディア)を通じては情報収集もできない。
この点に問題があると気づかないと、いつまでたっても物事の本質には近づけない。
筆者はさほど熱心に情報収集しているわけではないが、それでも森田氏がホームページで著書の一読を勧めている関岡英之氏のリポートが、文芸春秋などに掲載されちょっとした話題になっていることは知っている。
森田氏も引用しているが、その関岡氏の著書「拒否できない日本」の表紙の裏には、次のような記述があるという。
建築基準法の改正や半世紀ぶりの商法大改正、公正取引委員会の規制強化、弁護士業の自由化や様々な司法改革……、これらはすべてアメリカ政府が彼らの国益のために日本政府に要求して実現させたもので、アメリカの公文書には実に率直にそう明記されている。近年の日米関係のこの不可解なメカニズムのルーツを探り、様々な分野で日本がアメリカに都合いい社会に変えられてきた経緯を、アメリカの公文書に則して明快平易に描く。
このアメリカの要求を飲んできた張本人の一人に、小泉内閣の経済顧問的な役割を任じている竹中平蔵氏(金融・経済財政政策担当大臣)がいるという。
真偽はわからないが、じつは昨日、たまたまテレビをつけたら、テレビ朝日の「サンデープロジェクト」で田原総一朗氏が、上記の「文芸春秋」の記事などを例にとりながら、ゲストの竹中氏にこのへんの話題を問いただしていた。
しかし、当然と言えば当然だが、竹中氏は「おもしろおかしく書いているだけ。根拠はまったくない」といった返答。
それはいいとして、問いただした田原氏はどう突っ込むのか? ンン? 思わず注目したが、何を突っ込むわけでもなく、適当に受け流して話題をスルーしてしまった。
たいして重要事ではないといった口ぶりで……。
番組の前後をきちんと見ていたわけではないので、上記は印象論にすぎないかもしれない。
しかし、これも以前に別の稿でも書いたように(→こちらを参照)、
たとえば、先の衆院選挙の期間中、造反組として新党日本に参加した小林興起氏も、記者会見などの場で、「小泉さんの郵政民営化の背後には、アメリカのバックアップがある」といった意味のことを暴露?していた。
同様のことは、政見放送で共産党の志位和夫書記長も語っている(「郵政民営化は、アメリカをもうけさせるためのもの」云々)。
といった政治家の発言もあるにはあったが、メディアはほとんど取り上げなかった。
少なくともテレビでは、森田氏が指摘するように、郵政民営化とアメリカとの関係をつっこんで触れることはタブーになっているような印象を受ける。
……船井氏の話からだいぶ脱線してしまったが、要するにこの先ボンヤリ生きていたら、小知恵を使って生きている人間に、いくらでも自分の財産(知的なものも含め)を搾取されてしまう時代がくるだろうということ。
殺し合うという意味での戦争が起こるかはわからないが、いまの時代、日本史で言うところの「戦国時代」に突入したのだと理解したほうがいい。
「秩序」や「常識」が自分を守ってくれるタテになってくれない以上、あの時代の人間のように、個々が自主独立を目指すほかは自由に生きる道はない。
というわけで、すでに10年ほど前からそんなための準備を進めている筆者は、「ますます面白い時代になってきたな」とほくそ笑んでいる次第。
話がいちいち錯綜してしまうが……。
最近始めたブログのなかから、大正時代のアナーキスト(無政府主義者)、大杉栄の次の言葉を引用して、今回の稿を締めくくろう。
社会のある少数の間に、その道徳観念が全く変わってしまう時代がある。
誠に危険なる時代である。
かつては最も道徳的であるとせられていた事が、こんどは反対に、最も不道徳な事であるとせられて来る。
従来尊敬せられ神聖視せられていた慣習だの、伝習だの、又はある一階級の利益のためにのみ造られた道徳だのが、一切放擲(ほうてき)せられてしまう。
そしていわゆる不道徳な行為をする事をもって、自分に対する及び世間に対する最高の義務であると認めるような人が出て来る。
誠に危険なる人物である。
けれども史家の教ふる所によれば、この危険なる時代においてこの危険なる人物によって、歴史はつねに向上の一転化をするのだという。
道徳を創造するんだ。
幸いにこの種の時代に生まれて、この種の人物の一人に数えられる。
誠に千載の一遇である。
(1913年1月「道徳の創造」より)
“経営コンサルタントの神様”船井幸雄氏もまた、筆者の目から見れば、“平成の乱世”をしたたかに生きる自主自立のアナーキストである。
そのような意味におけるアナーキストとして(あるいは戦国時代のサムライとして)、筆者も「道徳」を創造し、みずからの「自主独立」を推し進めていきたいと思う。
気がつくと船井氏の新著から、最後は大杉栄が飛び出してしまったという話。笑。
2005年09月14日
■9.11・衆議院総選挙の「その後」を予想する・2
先日、朝の「みのもんた」の番組を見ていたら、早くも衆院選後の「ポスト小泉」のことが話題になっていた。
ネットでちらちらと覗いてみたが、現時点で自民党の次期総裁候補(つまりは次期首相候補)になっているのは、福田康夫、麻生太郎、谷垣禎一、安倍晋三氏あたりのようだ。
9月13日の「産經新聞」によると、
首相は最近、テレビ番組でそれぞれの人物評を語っている。
「(安倍氏は)国民の声をとらえて、応援に来てくれと多くの人が引きも切らない」
「(麻生氏は)郵政、地方分権、さまざまな経験を積んで支えてくれた。十分、指導者としてやっていける人だ」
「(福田氏は)私の官房長官として支えてくれて、バランス感覚も豊か」
「(谷垣氏は)まじめで穏やか。しっかりと全体的に務めている」
これからは“意中の人”は判別できない。
なのだそうだ。
小泉氏の総裁任期が切れるのは、来年の9月。じつはまだ1年ほどの時間がある。
意外と長い気がするが、次期首相の「器」の見極め期間になると考えればちょうどいいのかもしれない。今回は、外交問題に焦点をあてた前回の話をふまえて、今後の政局の推移を筆者なりにシミュレーションしてみよう。
まず、前回も話したように、小泉自民党の圧勝は従来の「親米路線」が継続・強化されたことを意味している。当然、次期総裁となる人物も、この路線を継承することが考えるの自然。おそらくそのうえで、ハード路線かソフト路線かという選択になるのだろう。
「みのもんた」の番組でも、毎日新聞編集委員の岸井成格氏が、靖国参拝問題も含めたアジア(中国・韓国)外交を懸念したうえで、
「強硬派(ハード路線)の安倍さんでは摩擦が生じるので、(ソフト路線の)福田さんあたりを推す可能性もある」
といった意味のことを言っていた。
十分考えられることではあるが、ここまで筆者が指摘してきたように、小泉首相の親米路線と靖国参拝は外交問題としてリンクしている側面がある(詳しくは、国際情勢解説者・田中宇氏のコラムが参考になる)。
つまり、日本が中国ではなくアメリカとの関係を重視している「意思表明」として、小泉氏は中国(あるいは韓国)が硬化せざるをえない靖国参拝を強行している面があるのではないかということ。
となると、対中強硬派で知られる安倍氏が小泉政権を継承したほうが、外交レベルの混乱はないことにもなる。
一番いけないのは、アメリカにも配慮、アジアにも配慮という中途半端な、その意味での「国際協調路線」だということは、前回も書いた。
そういう“二股”は、どちらの国とも「深い関係」になれない。
独立国としての気概云々の問題と、現実的な外交問題は必ずしも結びつかない。安倍氏以外の誰が総裁になるにしても、中国や韓国になんらかの譲歩がないかぎり(アメリカも納得するような「大義名分」が生まれないかぎり)アジアの国際関係が改善されることは難しいのではないだろうか?
言い換えるなら、次期総理は「個人の信念として」靖国には参拝しないかもしれない。
しかし、それに代わる「何か」によって中国に対して「NO」の意思表示を突きつける可能性があるということだ。
中国は、経済躍進の側面ばかりが伝えられるが、冷静に見れば、12億人の規模で戦後の日本のたどった道を後追いしている側面がある。
ということは、どういうことか? すでに兆候が現れているが、公害問題、エネルギー問題、そしてバブル崩壊などの危機を内包しているということ。
成長しているものは、ひとつの摂理としてやがて停滞もするし、後退もする。
しかし、それがあれだけの規模で展開されると、国そのものが内部崩壊、分裂する危険性もある。
現に中国は、過去の歴史において、大帝国の出現の後に必ずと言っていいほど長期の分裂時代を経験している。
歴史時間で見れば「すぐ」という話にはならないだろうが、賃金が安いといったレベルで中国進出している企業は、先々相当なリスクを負うことも想定しておくべきではないだろうか?
というわけで、前回も書いたように、同じ「アジアの一員だから」と必要以上に中国に肩入れすることは、政治的判断としても非常にあやういと筆者は思う。
そして、中国に対してですらそうなのだから、アメリカとの関係悪化を覚悟してまで、対韓関係を改善させようというエネルギーは、いまの日本の政治家には希薄かもしれない。
情勢が変われば別かもしれないが、いま韓国は反日だけでなく、反米も大きな世論になっているからだ(世論はある程度、国の主導のもとと考えられる)。
では、以上のアジア情勢をふまえたとしても、従来のようにアメリカとの関係を重視していれば、それで日本は安泰だろうか?
じつはそうとも言えないことも、多くの人が指摘しているし、気づいてもいる。
だから、この先の舵取りは誰がやっても難しい。相当なバランス感覚が要求される。首相になる人物の、リーダーとしての「器」が問われる大きな判断材料にもなってくるとも言えるわけだ。
まず第一に、よく指摘されていることだが、アメリカの国力は落ちてきている。
世界の警察、世界一の軍事大国としてふるまうだけの気概、エネルギーは、この先どんどんと低落していくように思われる。
要は、金がない。だから、たとえばいまの中国のようなイケイケの感覚をアメリカが持ち合わせているとは思えない。
逆に、「自分たちだけがなぜ頑張らなければいけないんだ」という感情も、アメリカの為政者の中には当然芽生えていることになる。
となると、日本にもさらなる軍備(あるいは海外派兵)を要請すべきだという話になってくる。
これはひとつの「圧力」として今後さらに現実味を帯びてくるはずだし、ご存じのように、これには憲法改正問題もからんでくる。
日本の為政者の本音としては、軍事化は金がかかるし、実戦はアメリカにやってもらったほうがいいと、当然考えると思う。
それが親米路線の最大のメリット(うま味)でもあるからだ。
だから逆にアメリカが作った「平和憲法」をタテに、次期首相も海外派兵などをめぐって、アメリカと陰に陽にかけひきを続けることになると思う。
小泉氏は、このかけひきのなかでイラク戦争に自衛隊を派遣する決断をしたが、実際の戦闘には参加させていない。
これは彼の力量と言えば力量だ。
「平和」という意味では派兵しないほうがいいに決まっているが、アメリカの要求をつっぱねて(派兵を拒み)関係が悪化したら、逆に自前で国防をせざるをえなくなる。
「平和」を求めながら、かえって「軍国主義化」が進んでしまう可能性もある。
アメリカとの関係も改善し(アジアとの関係も重視し)、軍国化もやらないなどという共産党や社民党の主張は、この点において机上の空論に近い。
ただ、小泉氏の親米路線には、こうした外交・軍事問題に対処しえたとしても、よりグローバルな国際金融の問題をめぐって、非常にあやうい側面もひそんでいる。
ここでは、かつて自民党の代議士として小泉氏のブレーンも務めたことがあるという、経済人類学者・栗本慎一郎氏の発言を紹介しよう。
彼は、新刊「パンツを脱いだサル」(現代書館)のなかで、
日本でグローバルスタンダードという言葉がさかんに使われるようになったのは1998年ごろからのことで、2000年にはお題目としてさらに強化され、そして小泉政権に至ってまことに露骨な錦の御旗となった。
と語る。グローバル・スタンダードと言うと、ずいぶん響きのいい言葉だが、そこには裏がある。
栗本氏の言葉にさらに耳を傾けよう。
繰り返すが、「グローバル・スタンダードにのっとれ」という主張は、「グローバル資本に乗っ取られろ」というのがその本意である。ただし、このグローバル・スタンダード化の陰にはユダヤ資金資本(*)があるぞということは、すでにかなりの人が気づいているようで、もはや「陰」という言葉を使う必要がないくらい、明白なこととして指摘されていたりする。
(*経済人類学の用語。俗にいう「ユダヤ金融資本」のこと)
以上の点をふまえて、栗本氏は「ある意味で、それは小泉政権の陰影でもあるのだが、その背後にユダヤ資本があるということを忘れてはいけない」と結んでいる。
この種の話は、政治家の間でもある程度「常識」として認識されているようだ。
たとえば、先の衆院選挙の期間中、造反組として新党日本に参加した小林興起氏も、記者会見などの場で、「小泉さんの郵政民営化の背後には、アメリカのバックアップがある」といった意味のことを暴露?していた。
同様のことは、政見放送で共産党の志位和夫書記長も語っている(「郵政民営化は、アメリカをもうけさせるためのもの」云々)。
ここでいうアメリカのバックアップとは、すなわちアメリカの金融を牛耳っているユダヤ系財閥のバックアップを指している、
たとえば、ライブドアの堀江貴文氏が、なぜ小泉改革に突如「全面賛成」し、亀井氏への“刺客”として立候補したのか……。
くだんの「フジテレビ乗っ取り」を振り返ればわかるが、彼もまた、ユダヤ系の金融資本(メディアでは外資という表現が使われているが)から相当額の融資(バックアップ)を受けていることとの関係がここに浮かび上がってくる。
彼は、「グローバル・スタンダードの申し子」のような側面があり、発言などを聞くかぎり、日本という国の内実が外国資本に乗っ取られようが「自分のやりたいことがやれればそれでいい」「みんなが幸せであれば関係ない」と考えている節がある。
また、小泉氏の郵政民営化にしても、彼の年来の持論であることは確かかもしれないが、アメリカ=ユダヤ資本の利害と一致したからこそ、小泉政権の親米路線とシンクロするようにして推進された面があると筆者は思う。
要は、堀江氏や小泉氏が推進したがっているグローバル化がこの先どんな状況を生むのか、想像できるだけの感性が最低限必要であるということだ。
先の栗本氏に言わせると、
小泉(とその背後)が権力の座に座り続けたなら、進めようとする「改革」の方向は予測できるだろう。郵政民営化が郵便のあれこれなどと関係なくて、200兆円になんなんとする郵便貯金の崩壊(市場への放出)を狙ったものであるように、最後は日銀の民営化(つまり米国の連邦準備制度化)までも行って、国際資金資本が牛耳りやすくする舞台を作ろうとするに決まっている。これは要するに、ユダヤ国際資金資本のために日本を使いやすくする「改革」にほかならない。
となる。この指摘を「いま流行の陰謀史観のたぐいか」というのは簡単だが、問題は氏が指摘しているように、小泉氏はこうした構造が「ありうる」ということをまったく自覚しないままに「改革」を推進していたであろう点だ。
最初から(小泉氏の)議論が単純すぎることが気になっていた。だから、いろいろ経済について教え、優秀な経済学者に「ご進講」もさせた。でも彼は、賛成や反対をするというよりもまったく反応できなかった。「(問題が何か)わかってないんじゃないの?」というのがある有名な学者の採点だった。
さて、次期首相となる人物は、こんな筆者でも指摘できている程度の国際情勢をきちんと認識できているかどうかが問われてくる。
いま「政治的判断」として郵政民営化に賛成でも、すべてがなし崩しのまま「改革」を進めてしまえば、栗本氏の危惧が進行する可能性もある。
筆者が偉そうに言うことではないが、政治家としての「器量」の有無は、こうした複雑怪奇な情勢を受け止めたうえでの、絶妙なバランス感覚にあると思う。
このバランス感覚をどこまで発揮できるか?
少なくとも状況の「あやうさ」が自覚できていれば、小泉流とはちがう器量が必要であることはわかるはずだが、果たして……。
以上、メディアの伝えることとはやや異なる焦点で、今後も政局を見守っていきたいと思う。
*栗本氏の新刊については、また機会を改めて「感想」を書きます。
2005年09月03日
■9.11・衆議院総選挙の「その後」を予想する
前回に引き続き、間近に迫った衆議院選挙の話題を。
「郵政民営化」を最大の焦点にすえる小泉自民党(および公明党)に対して、焦点はそれだけではないと反論する、岡田民主党をはじめとする野党。
筆者は、政策の中身を重視する「まじめで」「理論的な」岡田民主党では、良くも悪くも論点を単純化させ、構造を見えやすく国民に示した「頭のいい」小泉自民党に、なかなか勝つのは難しいといった趣旨のことを前回書いた。
「まじめ」な岡田氏から見れば、小泉総理は「いい加減」に映る。その印象は国民もある程度は共有しているけれども、「まじめ」な人間というのは、前任者がよほどの汚職でもやらないかぎりは表舞台には立てない面がある。
たとえば、古くは江戸時代、「賄賂政治」で知られた田沼意次のあとに「改革」を掲げて登場した松平定信。
また、昭和で言えば、「ロッキード事件」で退陣した田中角栄のあとに内閣を組織した三木武夫。
彼らの人物的な評価は別に、「クリーン」「清貧」というのは、庶民受けはするが、政治家としてのパワーは落ちる面がある。まして、今回の小泉自民党は、汚職問題が取りざたされているわけでもない。
余談だが、歴史的な評価を見ると、松平よりも彼に失脚させられた田沼のほうが、積極的な経済政策を推し進めた“改革派”として、近年再評価を受けている。
また、同じ意味で「クリーン」な三木よりも、「犯罪者」である田中のほうが、後世の評価は高くなる可能性がある。
歴史は、個人の好き嫌いで論じられるものではないからだ。
要は、「器」というものが、善悪を超えて歴史のありようを左右するということ。
このへんのことは前回それなりに書いてきたので、今回はもう少し別の視野から「総選挙後」の争点について絞り込んでみよう。
小泉氏は、よく知られているように徹底的な「親米路線」をとってきた。
これに対して岡田氏は、もっと幅広い国際協調のようなものを主張するかもしれないが、それを安易に押し進めるとかえっていばらの道にも進みかねない。
現状の世界を見つめた場合、日本の有力なパートナーになりえる「器」を持っているのはアメリカしかいないからだ。
筆者は別に親米派ではないが、小泉氏の外交路線は、その点の認識において非常に「リアリスティック」であると言うこともできる。
筆者が何度か取り上げたことのある国際情勢解説者・田中宇氏の分析によると、小泉氏が中国や韓国の批判も顧みず靖国参拝をやめないのは、歴史認識の問題というより、彼らと手を組まないことの、つまり「日本はアメリカとの関係を大事にしていますよ」ということの「意思表示」に他ならないという(言うまでもなく、アメリカに対しての意思表示にもなる)。
確かに、東アジアの協調を口にするのは簡単だ。そのほうがリベラルで、理性的な印象を与えるかもしれない。
しかし、戦後60年にわたって築いてきたアメリカとの関係はなかなか強固だ。
対米追従などと言われるが、アメリカと講和条約をした吉田茂などは、剛腹にも、アメリカは“お番犬様”、つまりは膨大な軍事費を肩代わりして日本の平和を保証してくれた“ありがたい存在”と位置づけていた面もある。
良し悪しは別にして、持ちつ持たれつでやってきた“腐れ縁”的な関係なのである。
もちろんアメリカも、日本が軍事的に自分たちを「利用」して、経済繁栄してきた事実はさすがに認識しているだろう。
“冷戦”もとうに終結したいま、いつまでもガードマンでい続ける必要はない。この先は憲法改正させて、これまでのような過剰な軍事的肩代わりを解消させようと、当然意図しているはずだ。
日本の中にも対米追従をやめて、「普通の国」として自立しようと考える政治家は少なくない。そのため、憲法改正の議論も盛んになってきている。
アメリカとの関係を見直すということは、当然、軍事の問題とも密接に関わり合う。
憲法9条をそのままにして、しかもアジアとの協調を図るという共産党や社民党の主張は、現実的にはかなりの理想論に見える。
アジア寄りになればなるほど、アメリカとの距離は生まれる。ということは、彼らの忌避している軍隊を自前で編成して、国防に備える必要も出てくる。
このへんのバランスは非常に難しい。ならばいっそのこと、深く考えずにアメリカにべったりくっついたほうが確実だという、小泉流の発想が生まれる。
複雑なものより単純なもののほうがパワーが生まれる。
野党はこのパワーを崩せないでいるし、こうした構造そのものが見えていないのではないかという節もある。
実際、どうなのだろう? テレビを見ていても、こうした質問を誰もしないので、なかなか問題が浮き彫りにならない気がするが……。
いずれにせよ、国がどのような政策を選択しようが、日本はどこかの国と手を組み、協調していく必要はある。
しかし、アメリカから東アジアの協調路線に鞍替えするのは、繰り返しになるが、現状ではあまりに冒険であると筆者は思う。
覚悟しての冒険なら乗ることもできるが、その覚悟が見えてこない。
アメリカともアジアともうまくやっていきますという程度の言い方では、観念論をかざしているようにしか映らない。
(単純化の小泉氏に勝つには、別の意味での単純化が必要だが、彼らは「物事はそんなに単純ではない」という当たり前のことしか、結局口にしていない。道理と戦略というものを混同していないだろうか?)
前述の田中氏によれば、中国も韓国も、本音レベルでは日本との協調を望んでいるという。
昨今の歴史問題に目をくらまされている感があるが、地理的にも近く、経済力のある日本ともっと親密な関係になれたほうがいいと思うのは、(少なくとも為政者レベルに立てば)きわめて現実的な感情であるとも言える。
ただ、日本に従属するわけにはいかないし、イニシアチブを握られたくないという思いがあるから、ストレートに話が進まないというだけの話。
加えて、肝心の日本は(日本の政治家は)、そこまで中国や韓国を信頼はできない(そこまでの器量はない)と思っている。
そして、それもまた現実的な判断であると筆者も思う。
いくら経済発展しているといっても、現在の中国は不確定要素の多すぎる。アメリカにももちろん問題は多いが、国としての安定度、信頼度を考えたら、正直、同じ土俵に乗せて両国を比較するには無理があるように思える。
たとえば今回の総選挙で民主党が躍進して、単独政権が生まれたとしよう(現実的には考えられるのは、躍進あたりまでだろうが)。
「岡田政権」は、小泉氏の親米路線(対米追従)を批判してきた以上、アメリカとは距離を置き、その分アジア寄りの外交を展開することが求められる。
具体的には、靖国参拝をやめ、中国や韓国のメンツを立てることで、両国との緊張関係も緩和されていく可能性はある。
しかし、中韓と協調し、東アジア(あるいはアジア)に経済の主軸を置くということは、繰り返しになるが、「アメリカにも、アジアにも」ということではない。
言ってみれば、いままでつきあってきた彼女はそのままで、新しい彼女ともつきあうというようなもので、へたをすれば、両者から見捨てられる可能性もある。
少なくとも、アジアとの協調を考えるのなら、アメリカを敵に回す可能性をも想定しておく必要がある。
となれば、先にふれたように、憲法改正もいま以上に現実味を帯びてきて、憲法9条を改正しなければならない状況も出てくるかもしれない。
というわけで、岡田民主党に変わるということは、我々が思っている以上に劇的な変化を伴うということだ。
当たり前の話だがよほどのリーダーシップがなければ、アメリカとの友好関係がいたずらに崩れ、中国や韓国に政治的に利用され……、おそらく小泉自民党以上の「失策」をやらかす可能性が十分にある。
繰り返すが、大事なのは政策の中身ではないということだ。理論が先行している感のある民主党は、その意味でまだ国民に信頼されていない。
いわば、そこが最大のアキレス腱になっている。
逆に言うならば、民主党が理論先行型なのは、野党に政権奪取の経験がほとんどないからでもある。
国政に対して実務経験がなければ、頭でっかちになるのも仕方ない。
その意味では、民主党に政権政党としての経験を積んでもらうことも、日本としては必要な選択と言えるかもしれない。
そうさせてもいいかなと思わせる要素が少しでもあれば、それが追い風になるわけだが……。
日本は確かに「戦後以来の大きな曲がり角」に来ていると、筆者も思う。
この曲がり角は、世界的な曲がり角にもリンクしているし、おそらくすべての人が大きな「変化」の渦に巻き込まれるだろう。
いま求められているのは、ありきたりの言い方になってしまうが、自分自身の「本質を見る目」を養うこと。
そのためには、目の前に展開されている現象を題材にするのも悪くない。
今回の総選挙をそうした視点で捉えることができれば、「誰が(どこが)勝つか」以上に興味深いことが見えてくる。
おそらくメディアは投票率を関心度に結びつけて報道するだろうが、「投票するかどうか」も含めて、自分の目を使って真剣に判断したほうが自分自身のためになる。
小泉自民党が勝った場合、ポスト小泉は、現状では安倍晋三氏あたりだろうか?
誰がなるにせよ(岡田氏も含めて)、おそらくアメリカとアジアの間での微妙な舵取りが強いられるだろう。
そのなかで自身の「器」を磨けるような政治家が現れるかどうか? そのあたりが今後の興味の焦点になってくるかもしれない。
2005年08月14日
■9.11・衆議院総選挙を早くも予想する。
郵政民営化法案の否決に伴う、衆議院総選挙が近くなってきました。ぼくにはいろいろ面白いものが見えているけど……、まあ今回は、普通に考えたら小泉さんの勝ちだと思う。
郵政民営化が本当に必要な改革なのか、国民の多くはよくわかっていない。
その点の不備を民主党や、自民の反対勢力は突いているわけだけど、それって正論以上のものではないわけで、では彼らが代わりに政権を取って「本当の改革」がやれるかというと……、やれるかもしれないが、何の保証もない。
そうなると、8割り方話の進んでいる小泉自民党のほうが、「何かが変わるだろう」という期待感を抱かせる。
繰り返すが、それが正しいのか正しくないのか、そういう話ではない。そんなジャッジはじつは国民にはできない。
大事なのは、理屈ではなく、感覚なのである。
偉そうに言えば、政治家はなによりそれを理解しないと駄目だと思う。
たとえば、こんなふうな意味でだ。
ぼくは編集者の仕事をしているから、「いい雑誌」を作ることはできる。そのセンスでもって人や世の中を見渡して、何が「いい」か自分なりの評価も出せる。しかし、その評価は理論的というより、感覚的なものだ。もっとわかりやすく言えば、専門的なものではない。それをしたいなら、もっと本腰を入れて、とりあえず政治評論家か政治ジャーナリストあたりになるしかないだろう。
つまり、郵政民営化が正しいかどうかの判断を、「部外者」のぼくがしはじめたらおかしなことになるということ。
人は人を、そんな細部ではなく、もっと大まかな「雰囲気」で判断する。それを曖昧だ、いい加減だと言ってしまったら、世の中は見えなくなる。もちろん、人も理解できない。
なぜならその雰囲気のことを、人は「器」と呼んでいるからだ。
民主党の岡田さんは、話を聞いていると、正しい政策をわかりやすく説けば、国民は理解してくれると思っている節が感じられる。
でも、国民が求めているのは、「正しい政策」ではない。人としての安心感、信頼感を抱かせるだけの「器の大きさ」である。なまじ頭のいい人は、そんな器なんていう目の見えないものは信じない。まやかしだと思ってしまう。
現に岡田さんは小泉さんの人気をまやかしだと思っているだろう。
しかし、小泉さんが曲がりなりに4年間も首相でいられたのは、現状の日本で彼を上回る「器」を持った人間が現れなかったからだ。
それを政策で勝とうとしても駄目だ。
正論をいくら訴えようが、それだけでは負ける。
歴史を俯瞰すれば、小泉さんを凌駕するくらいの「器」を持った人物は、いくらでもいただろう。
しかしいまは、「器なんていう曖昧なものは信頼できない。大事なのはデータだ。科学的な分析だ」と、まだまだそんな価値観がまかり通っている。
器を持った人間が表舞台に現れにくい時代が続いている。
というわけで今回の選挙、それなりに接戦になっても、ちょっと民主党が勝つとは、ぼくには思えない。
あるいは仮に小泉さんが負けても、彼は自分の主張を貫いての敗北なので、器はあまり傷つかない。政治的に浮かぶ瀬はいくらでもある。
この点では頭のいい人だな、と思う。
同じYKKの一人、数年前に「反乱」に失敗した加藤紘一氏とはそこが違う。
数年前の加藤が失脚して、今回の小泉が生き残って……、その意味では、日本も少しずつ「前進」していると言えるかもしれない。
「器」を持った人間、つまりは本来の政治家らしい政治家の現れやすい土壌は、少しずつ整いつつあるということ。
今回、選挙に勝利して、郵政民営化が実現したとしても、小泉さんは政権に一区切りつけるだろうから、問題はポスト小泉。どちらかというと、焦点はそこになるような気がしてくる。
我こそはと思っている政治家がいたら、やはり「国民が最も期待しているものは何か?」感じ取るセンスこそ大事にしてほしい。
繰り返すが、政策ではない……。政策は官僚やブレーンが考えるものだ。優秀な人間を選ぶという目も、「器」の領域に属している。
ここを勘違いしていたら、ポストがめぐってきてもおそらく長期政権は築けない。
その意味では、仮に民主党が勝利しても、多分現状ではうまくいかない(理屈どおりにいかない)だろう。
まあ、うまくいかないという現実を我々の前に示すことで新たな変化が促せる側面もあるので、それはそれで意味があるわけだけど。
というわけで、今回の選挙。
それなりに状況を観察して、ぼくなりに物を見る目を養う糧にさせてもらいます。笑。
2005年06月08日
■“お墓参り”に行きそびれてる一日本人の見た靖国神社問題
先日、テレビを見ていたら「報道2001」という朝の政治討論番組で、靖国神社の「A級戦犯合祀」問題を取り上げていた。
要は、戦争被害を受けた中国や韓国の国民感情を考え、「A級戦犯」は別の神社に分祀したらどうか、無宗教の追悼施設を別に建てたらどうかといった“代案”が、与野党問わず、一部の政治家などから提案されている。それについてゲストがそれぞれの考えを発言していたわけだが……。
筆者は番組を見ながら、以前、仲のいい友人が「面倒なトラブルが起こるくらいなら、首相が参拝をやめるなり、分祀するなりすればいいじゃないか」と言っていたのを思い出した。
経済問題とか、もっと現実的に大事なことがあるんじゃないか、それが妨げられるなら、べつにこだわる必要もないのではないかといった論調だったと思う。
参拝をやめるということは、要するに、仏教で言えば先祖のお墓参りをやめるということ。
そう言えば自分自身、もうかなり長い間、お墓参りをしていない。
もちろん、ほめられたことではない。なんとか機会を作って、お線香の一つでもあげないとマズいのではとたまに思ったりもする。
これと同じに考えれば、靖国神社には戦争で亡くなった霊が(加害者・被害者の隔てなく)祀られているわけだから、一国の首相が参拝に訪れるのは当然。
むしろ参拝しないほうが不義理ということになる。
これは思想の問題を云々する以前の話だと思うのだが、いかがだろうか?
反論がありそうなので、分祀の問題と併せて、さらに次のように考えてみよう。
たとえば、筆者の家は父親が分家だったので、両親は一生懸命働いて、もうずいぶん昔に檀家の寺にお墓をつくった。そこに父方の祖父母ら身内のお骨が納められている。もしこのお墓を急にどこかに移せと言われたらどうだろう?
これだけではあまりピンと来ないかもしれないので、(あまりいい例えではないが)この墓に身内の“犯罪者”が眠っているとイメージしてほしい。
それを隣のお墓の所有者が突き止めて、「犯罪者の隣では自分の先祖は成仏できない。どこかに移してほしい」と訴えてきたら、すんなりハイと言えるだろうか?
隣の墓の親族が不愉快な気持ちになるのもわからないでもない。しかし、仮にその故人がそう思われても仕方のない犯罪を冒していたとしても、もはや“仏”になっている。現実問題、どこへ移せばいいのかという話にもなる。
むしろ、血のつながった自分たちが守ってあげなければかわいそうだ、成仏できないと考えるのは、普通にまっとうな感覚。これはあちこちで指摘されていることではあるが、日本人としては、ごくごく自然な宗教感情ということになるだろう。
ちなみに、いまどこへ移せばいいのかという話が出たが、神道の場合、お墓に死者の骨を納める仏教とちがって、姿形の見えない霊を祀っている。
番組の中で竹村氏も言っていたが、分祀と言っても、靖国神社から別の場所へ「A級戦犯の霊」を移動させられるわけではない。本体の霊(本霊)は、靖国に残る。分祀された霊は、あくまで分霊(わけみたま)なのである。
形だけ分祀を行っても、本質的に見れば何の意味もないということだ。それよりも、こうした日本の文化の特性を他国の人間にももっと理解してもらうべきだ。それを伝える努力が必要だといったことを、竹村氏は主張していた。
確かにそれが正論であり、筋が通っていると、筆者も思う。
しかし同時に、そんな日本の文化がどうだとか、おそらく中国や韓国の政治家も、一般庶民も関心はないのだろうとも思ってしまった。
中韓の政治家は、もともと国内政治の不満のはけ口を“反日教育”“反日報道”という形で、いわば一つの政略として日本に向けさせている側面があるようだ。
よく指摘されるように、仮に小泉首相が参拝をやめても、あるいは「A級戦犯」の分祀や無宗教の追悼施設の建設が実現したとしても、正直、それで彼らの反日政策がなくなるとは思えない。自国民の被害感情すらも政治の道具に使って国際関係で優位に立とうという、一面でシビアな政治感覚がそこに見いだせるからだ。
では、どうしたらいいのか? 筆者が見た番組のように「出口なき靖国問題」とでも形容するしかないことなのか?
ここで、先ほどの筆者の友人の話を思い出してほしい。彼がなぜ、“事なかれ主義”と言ってもいいような発言をしたかというと、要は、彼の中には「お墓参りなんてどっちでもいいじゃないか」という感覚があるからだろう。
こう言うだけでは怒られそうなので、もう少し勝手に代弁すると、「お墓参りをしないことをいいとは思っていない。ただ、そんな休みはなかなか取れない。仕事を優先しなければ生活だってできなくなる。だから仕方ないじゃないか」ということになるのかもしれない。
筆者自身、お墓参りに行かない(行けない)のは同じような理由だと言える。その意味では、とても非難できる立場にはない。
しかし、これを国の問題と結びつけてみたらどうだろうか?
「A級戦犯」の分祀や無宗教の慰霊施設の建立を主張する人は、「お墓参り」よりも大事なもの、もっと優先すべきものがあるということになる。
そう言われて、「侵略戦争の被害を受けた中国や韓国の人たちの被害感情を和らげることが優先だ」と答えるならば、それは竹村氏ではないが、「日本人なんだからもっと日本の文化についても理解したら?」という話になってくる。
お墓に眠るのが“犯罪者”であるというなら、なおさらちゃんと供養してあげなければならない。隣のお墓の所有者にもまずその点を話し、理解してもらう必要がある。
そもそも、どこかへ移すだの、無宗教だの、ホント祟りが怖くないのだろうか? 自分が霊だったらないがしろにされたと思う。だからきっと主張した人間に祟るだろう(霊が存在するかどうかの問題ではなく、気持ちの問題について言っている)。
あるいはこれとは別に、筆者の友人もそうなのかもしれないが、中国との経済関係を重視している人たちもいる。彼ら(政治家や財界人)は、一つの政治的な譲歩として、分祀や慰霊施設を考えているということだろう。
これは、「会社が忙しいからお墓参りに行けない」という人の発想と、ほぼ同じ意味合いに捉えることができる。
しかし、その事情はよくわかるにしても、正当化まではできないはずだ。
いくら経済的な問題(生活がかかっている)とはいえ、「お墓参り」をしないのが不義理であることは一種の社会常識。それを自覚した上で、本当にそうした主張しているのかという話になってくるからだ(結局、普段の筆者と同じように、「お墓参り」のことなんてすっかり忘れているのではないだろうか?)
さて、被害者への配慮、経済問題優先、このどちらにも「自覚」の欠けている点があることが見えてきた。
しかし筆者は、ここまで書いてきたことは問題の核心ではない、日中関係、日韓関係がこじれているのはもっと別の理由があるのではないか、と感じている。
先ほど分祀や慰霊施設の建設を、一種の「事なかれ主義」であると筆者は書いた。
もちろん、そんなことはない、きちんと中国や韓国との関係に向き合った上での結論だと反論する人がいることも知っている。
しかし、本当に向き合うというのなら、繰り返すが、竹村氏の言うように日本の文化的な特性をきちんと理解し、それをはっきりと伝えることが筋。そうも書いた。
その点を曖昧にしたまま、実質的には何の意味もない分祀を行ったところで、それは“本気の行為”ではない。少なくとも、中国人にも韓国人にも本気さは伝わらない。だからまたしばらくしたら、「反省心が足りない。謝罪しろ」と言ってくるはずだ。
(追悼施設にしても、無宗教という以上、結局のところタテマエ的なモニュメントにしかならない。なにしろ霊そのものは靖国神社に留まっている。百年経って残っているのは果たしてどちらなのかと、どうして発想できないのだろう?)。
話しが少しそれてしまったが、では、日中・日韓関係が本気の産物でないとすると、今の日本にとって(日本の政治家にとって)本気になれるものとは何だろうか?
察しのいい人はすぐ気づいたかもしれないが、それはアメリカとの関係である。
先のゴールデンウイークの休暇中に、日本の主要な政治家のほとんどがアメリカに「挨拶回り」に行ったことを覚えているだろうか?
中国に行った政治家はわずか、韓国に至っては誰か行ったのかもしれないが、ニュースにすら報道されなかったと記憶している。
経済面などを見れば、確かに中国は日本にとって重要な国だ。韓国の存在も無視はできまい。しかし、本命ではないのだ。
言い換えるなら、アメリカとの良好な関係が維持していけさえすれば日本は安泰だ、何とかなるといった認識が大勢を占めている。
この点について、国際情勢解説者・田中宇氏がネット上で発表しているコラムの中で次のように語っている。
筆者が示唆を得た箇所を、いくつか引用させていただこう。
中国や韓国は「日本は再び覇権をとりたいだろうから、ドイツ式に、日本政府が過去の反省を堅持することを条件にしよう」と考えている。「アジア共同体」の中国語訳を「東亜共栄圏」にしている新聞社もある。ところが、日本の側は「もう永久にアメリカの傘下で生きていくのだから覇権など要らない。大東亜共栄圏にも関心はない。過去の反省も、もう60年やったのだから、このぐらいでいいはずだ」と考えている。
日本政府にとっては、アメリカとの関係が最重要であり、アメリカの世界支配が永久に続くことが望ましい。アメリカの支配力が弱まると、その傘下にある日本の力も相対的に弱くなってしまう。中国や韓国からの「アメリカに頼らないアジア共同体を作りましょう」という誘いに乗ることなど、とんでもない話である。小泉首相が靖国神社に参拝するのは、中韓からの誘いを断るための方策である。
(以上、「短かった日中対話の春」より)
どうだろうか? これを対米追従で情けない、アメリカの傘下に入っているも同然と嘆く人もいるかもしれないが、必ずしもそうとは言えない。なぜか?
筆者は、この世界を東洋と西洋に分けた場合、東洋の最先端に日本があり、西洋の最先端にアメリカがある、と書いたことがある。
近代以降の世界において、この両国は急速に発展を遂げ、古い文明圏(中国やヨーロッパ)から脱却し、ついには全面戦争まで体験した。
戦後は戦勝国と敗戦国という立場にありながら密接な同盟を結び、コインの裏表のような関係で西側諸国のイニシアチブを取ってきた。
大ざっぱに言えば西側の軍事はアメリカ、そして経済は日米で担ってきた(その意味では、アメリカ側の負担のほうが大きかったことがわかる。日本は、「対米追従」などと言われながら、政治的にはずいぶんうまく立ち回ってきたとも言える。この点については、後日、堤尭氏の「昭和の三傑」などを下敷きにひもといてみたいと思う)。
その後、東西冷戦が終わり、西側諸国という概念も形骸化したが、小泉首相とブッシュ大統領の関係を見るまでもなく、いまだ強固な日米関係は続いている。
田中氏は、様々な国際情勢を分析しながら、「アメリカは衰退期に向かっているが、日本の政治家は、小泉首相も含めそれに気づいていない」といった趣旨の発言をしている。衰退は言い過ぎだという人も、イラクへの強引な宣戦やその後の統治の泥沼化などを見るにつけ、アメリカの国際的な影響力の低下を感じ取っているのではないだろうか。
しかし、それでもなお、政治家たちが対米関係を重視するのは(あるいは、アメリカの衰退に気づかない、気づいていたとしても、つい目をつむってしまうのは)、それくらい関係が深いということだ。
批判するのは簡単だが、戦後の政治の流れそのものを断ち切るくらいの強い覚悟がなければ、「対米追従」(それを一面で利用した経済力強化)の姿勢は変わらない。
言い換えるならば、中国問題、韓国問題に本気で向き合うには、いま、アメリカに注ぎ込んでいるエネルギーの多くを東アジアに転換しなければならない。
田中氏は、中国や韓国の政治家たちも、本音のレベルではそれを望んでいる、と分析する。筆者が見る限りでも、経済的な結びつきがここまで形成された以上、自国のメンツを損なわない形で友好関係が結べたほうが得策だと、そのくらいのことは国のトップとして考えているだろうなと思う。日本が本気で関係を切り結ばないから、国民感情を利用し、“反日”という別のカードを切っているということになる。
長くなってきたので、ここで一つ結論めいたことを書いてこの稿を締めくくることにしよう。
こじれにこじれている日中関係、日韓関係の背後には、日本とアメリカの戦後以来の蜜月的な同盟関係があると書いた。
ということは、日米関係を見直さない限り、中韓との関係も変わらない。
では、日米関係を見直すとはどういうことか? ここには憲法改正問題もつながってくる。憲法を変え、自衛隊の位置づけを明確にし、日本が軍事的に自立ない限り、アメリカとの同盟関係を崩すことは難しいからだ。中韓は「日本の軍国主義化」を非難すると思うかもしれないが、深読みするなら、それすらも彼らの戦略かもしれないということもある。
(日本が世界の他の国々と同様、当たり前に軍隊の存在する「普通の国」になるべきなのか? という点についてはまた稿を改めて論じることにしよう)。
いずれにせよ、こじれた中韓関係も、日本の政策の根幹が変わればあっさりと解消されてしまう可能性があるということ(政治的な意味でだが)。
ただ、それを可能にするには、大前提として、それを可能にするだけの強力なリーダーシップを持った政治家が、日本に現れる必要がある。
つまりは、そんな政治家が現れるかどうかということに、ここまでの問題はすべて集約されていく面がある。
筆者はいまの日本の社会状況を考えれば、それもありうると考えている。そのことについても、以前ふれたことがある。
変化は、多くの人の気づかないところで、水面下で進行している。結局のところ、それをどれくらい感じ取れるかが、世の中を見る大きな基準になってくる。
感じ取るには自分自身の感覚を養うしかないと、最後の最後は、いつもの身体論に結論が落ち着くことになりそうだ。
2005年05月25日
■立花隆氏のコラムから「憲法改正」問題を読み解く(下)
ここから前回の続き。
まずは、筆者の感じている日本の「未来像」について触れてみたい。
前回も書いたが、日本の国民の多くはどんな理由であれ戦争はすべきでない、したくはないとごく自然に感じる、“不思議な民族性”を持っている。
たとえば中国や韓国は、教科書問題などを取り上げて、日本の右傾化(軍国主義化)を非難するが、現実問題として右傾化など何ら進んでいないことは、この国で普通に暮らしていれば、誰もが感じるであろう現実だ。
歴史的事実を簡単にたどってみても、日本はすでに戦前の段階で「軍事的な成功」というものを経験してしまっている。
しかし、それはもう過去の話だ。大東亜共栄圏構想を一種のバブルと捉えるならば、敗戦によってそのバブルははじけ、国政の一切がリセットされた。
そして、それから戦後のわずかな期間で、今度は「世界第2位の経済大国」にも登りつめた。しかし、これもご存じのように、90年代初頭の経済バブルの崩壊によって大きな転機を迎えた。
べつにお国自慢をしているわけではない。
ただ、こうした「過去の経験」をふまえた上で、「いま」がある。
要するにいまの日本人の大半は、もう軍事的成功にも、経済的成功にもあまり興味は持ってないということだ。
それよりももっと質実の伴った、「身も心も実際に豊かになれるような生活」をしたいと思っている。
また、質実ということで言えば、日々接している情報に関しても、特定の思想や価値観に染まったものではなく、当たり前で正確なことを知りたいと感じている。
しかも、そのような生活が可能となるような土壌が整いつつある。無自覚な人が多いが、世界的に見ても非常に恵まれた状況の中に日本人はいるのである。
わかりやすく言えば、「本物志向の時代」に入ったということだ。
「本物志向」という言葉自体はずいぶん前から使われはじめているが、これは思想や価値観の解体を伴うものであるから、どんな国でも容易に体験できるというものではない(個人レベルではもちろん例外はある)。
耳障りはいいが、為政者にとっては「危険思想」であるとも言える。それがいまの日本では、当たり前の言葉として浸透しつつある点が重要なのである。
たとえばヨーロッパには、宗教(キリスト教)という伝統的な価値観が人々の意識や行動を規定している面があるだろう。
この規定が伝統や文化を作り上げている側面もあるが、同時に精神的な壁を作り、他の文化への無理解をも生み出している。
いや、ヨーロッパ人だって他文化を理解する感性はあるはずだと反論があるかもしれないが(もちろん、ないとまで言わない)、では、彼らが普段意識しているキリスト教と同等のボリュームで、仏教や儒教、イスラム教……を「理解」することができるかというと、なかなかそうはならないと筆者は感じる。それくらいに思想や価値観の縛りというものは強固な面があると思えるからだ。
つまり、上記はわかりやすい一例だが、では、このように縛りがいくつもある人が志向する「本物」とは、いったいどんな「本物」なのかという話になるだろう。
宗教の話で言えば、自分の信じる神が「本物」だという単純な話にもなってしまう。
もちろん、それが他者(他民族)とのあつれきを招くことにつながると頭でわかっていても、なかなか「自分たちの価値と他者の価値を対等に据える」ということはできないものなのである。
中国や韓国にしても、結局のところこの作業が満足にできていないために(おそらく、その発想自体が欠如しているために)、狭い意味でのナショナリズム(民族主義)の枠の中に多くの人の感情が縛られている。
そして頭のいい?為政者たちは、この国民感情をうまく利用することで、国政や外交を有利に展開させようと画策している。
では、ひるがえって日本はどうかというと、こうした精神上の縛りというものが、驚くほど「ない」ことに気づかされないだろうか。
それはいまに始まった話ではなく、日本の歴史の特質そのものでもあり、その特質があったからこそ、近代の軍事的成功も戦後の経済的成功も可能になったと捉えることができる。そして、「失敗」も含めたそれら過去の経験をふまえた先に、「本物」を受け入れようと志向する日本の「いま」がある。
繰り返すが、「本物志向」には、伝統破壊を生み出し、価値観の極端な多様化をもたらす「危険」な側面がある。
ある程度の段階をふまなければ、手軽に志向できるものではない。
「ある一つの状態」に留まろうということ自体が(つまりは伝統を守ろうということ自体が)、「本物志向」に反してしまう場合もありえるからだ。
もちろん逆の言い方をすれば、そのような伝統を解体し、様々な価値観を同等なものとして受け入れるという経験をすることで、結果として「伝統の価値が見直される」こともある。また、新しく生み出されたものの中から、伝統的なものにも通じる価値が、先祖帰り的に見いだされたりもする。
「本物」と呼ばれるものは、そうした過去と現在の融合の中で醸成され、よりクオリティーを高めていく側面を持っている。
話が長くなってしまったが、古いものも新しいものもないまぜになった日本という国は、「本物」が生まれやすい風土であることがわかるだろう。
現にこうしたカオス的な状況の進んだこの十年ほどの中で、目に見えてわかりやすい形で「本物」が表舞台に現れはじめている。
人物で言うならば、そのシンボリックな一人に、やはりイチローが挙げられる。
アメリカでは、いくつもの記録を塗り替える彼の驚異的な活躍が報じられる一方で、中心選手のストロイド剤の常用が社会問題にもなっていると聞く。
彼は、野球という競技を通して、アメリカに新しい、彼らにとって未知の価値観を、身をもって伝える役割をいつの間にか果たしてしまっている。
たとえば、未知の価値観と言ってピンと来ない人でも、アメリカ人の一般的な身体観の中に、肉体をビルドアップし、「パワーをつけることで強くなる」という発想があることは否定しないだろう。その意識が高じれば、ひとつの必然として、ストロイドのような人工薬物に頼ってしまう負のケースも表面化する。
しかし、日本人の伝統的な武道、武術には、そうしたパワー思想とは相反する「柔よく剛を制する」という身体観がある。
前回のコラムに登場した高岡英夫氏の理論を持ち出すまでもなく、イチローの動きがそうした日本の伝統的な身体観に合致していることはよく知られている。
ただ、さらに注視しなければならないのは、この先の話だ。
イチローは野球という人気のある競技の、それも世界的に最も注目される場に立っているから、鈍感な人でもさすがに「すごい」と認識できる。
しかし、同じポテンシャルを持った人が、「ごく普通の会社」にいた場合はどうか? そんなにすごい人が会社になんているわけがない。そう思うだろうか?
筆者はこれまで何度か、単純な「世代論」というモノサシを使って、イチローを生み出した風土=日本の「未来」について予測(予言?)をしたことがある。
すなわち、イチローが特別な環境の中で純粋培養されたわけでない以上(他の日本人と同じ空気を吸い、教育を受け、食事をしてきた以上)、同じようなポテンシャルを持った「同世代」は、少なからず日本のどこかに存在している。
そのように捉えることで、社会と人が時代の中でひとつにつながる。
もちろんイチローの場合、父(鈴木宣之氏)の“野球教育”が純粋培養に近い環境を生み出したことも指摘できるので、その部分で「有利」であったかもしれない。
しかし、これまで触れてきたような戦後の日本人が知らずに経験してきた伝統の破壊、価値の多様化というものは、負の側面も多く生み出した一方、「柔軟でとらわれのない感性」を生み出すことにもつながっている。
社会の規制が少なくなるほどに国は乱れ、犯罪は増え、モラルのない人間を量産していくが、すべての人がマイナスの害ばかり被るとは限らないということだ(戦国時代に生きた人がすべてケモノのようだったわけではないように)。
ただ、繰り返すが、すべての人が世の注目を浴びているわけではない。ポテンシャルに遜色がなくとも、同じスケールで才能を発揮できるというものでもない。
たとえばイチローのように野球(スポーツ)が好きならば、早ければ10代から才能が開花し、20代で充実期を迎えるが、事業家であれば、順調に成功しても充実期は30代、政治家であったら早くても40代というのが「相場」。
そのようなことを数年前に書いた「サムライ」で触れておいたら、案の定と言うべきか、最近ではアテネ五輪、格闘技界などで才能ある10代、20代の日本人が登場する一方で、楽天の三木谷氏やライブドアの堀江氏など、30代にして「巨万の富」を築いた事業家も、表舞台に登場するようになった。
事業の世界に関しては、成功したすべての人がメディアに登場するとは限らないので、「もっとすごい本物」が、どこかで活躍していることも想像できる。
いろいろな問題を抱えながらも、「世代交代」はある程度順調に進んでいることが見てとれるわけである。
となれば、新しい時代の政治家の登場は「これから」ということになる。
イチロー的な感性と能力を持った政治家……、まあ、これは歴史的な流れから割り出せる予測なので「いつ」とか「だれ」とまでは特定できないが、そんな人間がこの先現れたとしてもべつに驚くべきではない。
そして、ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、憲法改正をする時機があるとしたら、こうした政治家が国の中心に立ったときだと筆者は思う。
小泉首相や民主党の岡田代表の時代に憲法改正などして「普通の国」になってしまったら、立花氏が指摘するように、アメリカの覇権主義に「つきあわされる」可能性が高くなる。
しかも、そのアメリカとて安泰ではない。国として衰亡期に向かっているという指摘もある。ヘタすれば共倒れということになりかねない。
護憲派と改憲派の多くは、筆者の見るところ、理想と現実のどちらをより志向するかで分裂してしまっているだけで、さほど異なった世界観を持っているとは思えない。
つまり、本来ならば「現実としての護憲」、「理想としての改憲」という感覚が最も現実的であるはずが、両者ともおかしな形でねじれ現象(理想としての護憲×現実としての改憲)を起こしてしまっている。
一見すると護憲が「理想」で、改憲が「現実」にように思われがちだが、じつは護憲のほうが日本という国にとっては「現実」。「普通」でもある。
改憲派はグローバルスタンダードのモノサシで一つの「現実」を提示してはいるが、それが本当の意味でグローバル=普遍的な「現実」であるかというと、もしかしたら国を危機に陥れるだけの「現実論」かもしれないわけである。
まあ、ナントカ派に分かれて議論を戦わすのもよいが、護憲も改憲も、情勢判断によって選択される「手段」でしかないということだ。
その点の感覚は、立花氏が指摘する通りで問題ないと筆者は思う。
加えて筆者に言わせるならば、その情勢判断という点で言えば、政治がらみの改革などはまだまだ先の話ということになる。
表舞台に現れる政治家に「日本が普通なんだ」と説けるくらいの感性と度量、そして論理性がないうちは、改憲なんて口にしてもヤケドするだけなのかもしれない。
■立花隆氏のコラムから「憲法改正」問題を読み解く(上)
最近、中国、韓国、そして北朝鮮と、日本をとりまく東アジア情勢が何かと紛糾している。各国の識者がそれぞれの立場から「正論」を展開しているわけだが、当然のことながら、それでは共通の理解というものは得られない。
結局のところ、どちらが正しいか、間違っているか、最後はこうした善悪論に終始してしまうことが多いように思われる。
筆者が時々チェックする評論家の立花隆氏のサイトに、先日、この善悪論から抜け出すためのヒントになりそうな話題が掲載されていた。
タイトルは、「日本を軍国主義へ導く「普通の国」論の危険性」。興味のある人は同サイトを参照してもらいたいが、そこでテーマになっているのは、冒頭の東アジア情勢とも密接な関係のある「憲法改正」問題。
「憲法改正」をめぐる議論で大きな焦点になっているのは、戦争放棄をうたった憲法第9条の問題だろう。
戦後の日本は、ご存じのように、憲法では戦争放棄をうたっていながら、現実には自衛隊という軍隊を保持してきたという、制度上の矛盾を抱えてきた。
事実上の軍隊を持ちながら、その軍隊が軍隊としては十分に機能せず、軍隊によって守るべき日本の繁栄や平和は、同盟関係にあるアメリカの軍事力によって保証されてきたという側面がある。
大ざっぱな言い方になるが、改憲派と呼ばれる人たちは、これは国として正常な状態ではない、自衛隊を憲法で軍隊であると規定した上で、それをしっかりシビリアンコントロールする「普通の国」に日本もなるべきだと主張している。
一方、護憲派の人たちは、そのように憲法改正してしまえば、第9条の戦争放棄の理念が喪失し、日本が再び軍国主義の道を進むことになると危惧する。かつて旧日本軍に侵略を受けた中国や朝鮮半島の人々の被害感情を刺激し、東アジアの国際情勢はさらに混迷の度合いを深めてしまうということだろう。
立花氏は、先のコラムのタイトルを見ればわかる通り、日本が「普通の国」になるのを危惧する“護憲派”の一人であるようだ。
ただ、現実の国際情勢を無視した理想主義に陥りやすい護憲派の人々と異なり、かなりリアリスティックな視点で「護憲」を主張しているところが面白い。
まず氏は、
これまでは、第9条があるために、安保条約があっても日本は血を流さないで済んできた。しかし、第9条を捨てたとたんに、日本は、アメリカに求められるがままに、ベトナム戦争に参加して血を流さざるをえなかった韓国と同じ運命をたどることになりそうなのである。
という。アメリカからすれば、同盟国なのだからそれは当然だということになるだろう。これが世界的な常識であり、「普通の国」になるということの「普通」とは、おそらく一般的な日本人のイメージする「普通」とは違う。
「普通の国」である韓国には、徴兵制もある。しかし、日本人の多くはそれを(戦前はともかく)「普通」とは思っていないだろう。
その点において、「現実的ではない」と揶揄される第9条の理念は、じつは日本人の平均的な国民感情とも一致してしまっている。日本は、その意味では世界的にも非常に奇異な(普通ではない)感覚を持った国なのである。
もちろん、理念と感情が一致していようが、現実の国際情勢はそのような原理によって動いてはいないことも確かである。
ピンと来ていない日本人も多いかもしれないが、世界中の国の人々がすべて(大方の日本人のように)「平和を望んでいる」わけではないのである。
時には国益のために戦争をすることも必要だと思っている。あるいは、民族的・宗教的な憎しみをそのような形で晴らしたいと思っている。
よく語られがちな、“一部の「悪辣な独裁者」が「平和を望んでいる庶民」を犠牲にして、自らのエゴのために戦争を仕掛ける”……という図式は、現実的にはあるようでない。歴史的に見た場合、このように為政者を「悪」に仕立て上げる図式は、戦争の勝者が敗者を裁く時に作り出されるパターンの一つである。
戦争の爪痕が深ければ深いほど、誰かを悪者にでもしなければ(たとえば、第二次大戦における諸悪の根源はヒトラーにあるとか)、国民感情を一新して、国を復興させることなどできない面があるからだ。
話が逸れてしまったが、立花氏の指摘の興味深いのは、憲法第9条が理念として素晴らしいから守らなければならないということではなく、現実の政治の局面において役に立つ、だから守るべきだと言っている点だ。
日本が、9条を廃した後の自国の生き方をちゃんと考えていて、国民各層が合意できるような、そしてアメリカも同意できるような対案を出せるならいい。それなしに、9条を捨てたら、日本はアメリカがゴリ押しする「日本もアメリカと肩をならべて戦い、共に血を流せ。同盟国ならそれが当然だ」という要求にズルズルと従わざるを得なくなるだろう。
たとえば、護憲政党と言われる共産党や社民党が(ありえないと思うが)政権を取った場合でも、結局のところ、現実の国際問題と向き合わなければならない。
おそらく彼らも、自衛隊は廃止させられないだろう。“廃止という理念”は打ち出すかもしれないが、現実にはそれ以上の決断をするとは思えない。
ということは、いまの自公政権と同じように(それ以前の55年体制とも大して変わりはなく)、第9条と日米安保という「理想と現実」の微妙なバランスの中で国を舵取りしていくしかなくなるということだ。
つまり、第9条の理念も「戦争抑止の手段」として捉えたほうが、現実の政治の局面では有用な認識であり、よりリアリスティック。改憲派の人々は、それ以上にリアリスティックな方針を持っているのかと、氏は批判するわけである。
立花氏は、「最近読んだ」という堤尭氏の「昭和の三傑」(集英社インターナショナル)という著書を紹介しながら、第9条の「戦争抑止作用」が偶然的にもたらされたものではなく、終戦直後の首相・幣原喜重郎ら「練達の外交官政治家が、考えに考え抜いて作った」仕掛けであったと指摘している。
これも面白いので、筆者自身、堤氏の著書を読んだ上でまた取り上げてみたいが……、大まかな要点のみ抜粋すると次のようになる。
幣原の深謀遠慮は、アメリカをして、憲法第9条の作者はアメリカであるかのごとく思いこませた。憲法第9条はアメリカの理想主義が日本に無理やり押しつけたものであるかのごとく思いこませた。だからこそ、アメリカが日本に再軍備を迫ろうとしたとき、日本が憲法第9条をタテにそれを拒もうとすると、アメリカはそれ以上の無理押しができなかったのである。
一口にいうなら、憲法第9条は、日本の国益を守る最大の壁であり、柱だった。冷戦時代、日本の国益は、アメリカに身を寄せて、アメリカから最大限の保護(軍事的、経済的)を引き出しながら、アメリカに対する貢献(軍事的、経済的)は最小限にとどめることにあった。それを可能にしたのが、憲法第9条だった。日本がこの防護壁のかげに身を隠すと、アメリカは、それ以上日本に迫れなかった。その防護壁はアメリカが作り、日本に押しつけたものだったからだ。
立花氏も言っているが、これをズルイという人は、政治的に見れば、「ナイーブすぎるほどナーブな人」ということになる。それでは、この複雑極まる国際情勢のなかで「平和」を維持することの難しさを(堤氏が指摘するような戦後の日本外交のギリギリの選択というものを)、おそらく理解できないだろう。
しかし、それが理解できたとして、問題はここからだ。
では、今後もこのように意図的に?生み出された“制度上の矛盾”を棚上げしておかなければならないのか? そうすることでしか平和は生み出せないものなのか?
立花氏は、この点に関して、「(日本が)9条を廃した後の自国の生き方をちゃんと考えていて、国民各層が合意できるような、そしてアメリカも同意できるような対案を出せるならいい」と、ひとつの“条件”を出している。そのような前提があれば「改憲」も理解できる(現実的である)、ということだろう。
確かにそのような対案を出せる国に変われるというなら、それは悪いことではない。ある意味で、“戦後の呪縛”から日本が解き放たれるのはその時かもしれない。
しかし、多くの人はいまの政治家の顔を思い浮かべながら、「それは難しい」と感じているはずだ。では、呪縛はずっとなくならないのだろうか?
と、思ったよりも長くなってしまったので、この続きは次回の稿で。
2004年01月01日
■「不幸」に陥ってしまう原因は……。
テレビを見ていたら、タレントの向井亜紀さんが3度目でついに代理母出産に成功したというニュースが飛び込んできた。双児の男の子らしく御主人の高田延彦氏と記者会見していた模様が報道されていたが、筆者が見聞きした限り、多くは賛否両論と言いながら、好意的(あるいは肯定的)。「こうしたケースは子宝に恵まれない人にとっては一つの選択手段しも知れませんね」といったコメントをあちこちで耳にした。
これは以前このページでも書いたことだが、生命操作までして子供を手に入れるというのは、明らかに「不自然」なことである。
しかし、自然とは何かを多くの人は理解できていないから、「個人の価値観の問題」に議論がすり替わってしまう。「誰にも迷惑かけてないのだからいいんじゃないですか」と、本質から外れた無責任な発言が飛び出してしまう。
もっともこんな話をしていくと、「あなたは子供ができない人の苦しみを本当に理解しているのですか?」と、不妊症で苦しむ人を引き合いに出しながら、筆者を批判する人もいるかもしれない。
しかし人は、不妊症にかぎらず、「たえず何かを持っていない」存在なのである。
持っていないことが不幸なのか? 不幸であるというなら、その人は永遠に幸福にはなれない。すべてを持つ(完全に満たされる)ことなど現実にありえないからだ。だから多くの人は、そんな完全などという言葉は視野に入れず、「少しでも何かを持っている状態がより幸福な状態である」と中途半端な認識で何かを得ようとする。得たものにしがみつき、失わないように守ってばかりの不自由な人生を送っている。
もう一度質問しますが、あなたはお金がたくさんあるから幸福なのですか? 人に認められるから(愛されるから)幸福ですか? 家を持っているから、健康だから、才能があるから、頭がいいから、……だから幸福なのですか?
たしかに上記の一つ一つは「あったほうが幸せ」に感じるものばかりかもしれない。しかしそれは、「なければ不幸」ということとはイコールではない。結論を言えば、なくても幸せな人は幸せなのである。そして、不幸な人は不幸。
このことがわからない人は、たとえば障害者を見て、「あの人は片腕がないから不幸だ」と感じているのかもしれない。しかし現実には、片腕がない人のなかでも、ないということを通して、両腕のある人よりも深く深く自分自身や人生について問いかけるきっかけが得られた人もいる。そこで一つの諒解が得られた人は、腕がない自分だったからこそわかったのだと、すべてを受け入れられる。大事なのはこの点なのである。
人が勝手に不幸だ不運だと決めつけようが、受け止める人の理解がその意味や価値を決めている。障害があるから不幸だと、それがもっともな道理、動かない現実のように捉えている人は、自己嫌悪や恨みばかり抱え込んで、そこから先へは進めない。1億人に同情されても絶対に満足は生まれない。溜飲は下がらない。
いわゆる障害者と言われる人だけが障害者ではなく、この世の中の99%は(100%と言い切ってもいいかもしれないが)障害を抱えているのである。自分が不幸と感じることは、人と比べた結果ではない。
不幸はイコール悪ではなく、自分自身を変えたり、成長させたりするための原動力にもなる。そのようにして力を得た人は、自分を不幸と思わない。思っているのだとしたら、その人は才能で自分の欠落を穴埋めしているだけの状態を成功と定義しているにすぎない。この点に気づいてほしい。
何かを持っているからではない。なかろうがあろうが、できようができまいが、いまこの状態のままで、欠損や障害があるままで、それがその人の完成された「あるがまま」「素」なのである。完成されているからこそ変化もし、成長もする。変化も成長もこの完全のなかに内包されている。完全なのだから。
簡単な話なのである。幸福になるということは。この簡単がわからないままに、多くの人は「幸福になるために」必死で何かを得ようとする。
子供が生まれないということも、生まれないという現実を通して、その人だけの絶対の世界を見つめるフィルターが与えられているということなのである。そこに不幸という結論を勝手につけてそのどん底を味わっているのだとしたら、それこそが不幸であるということだ。
子供は生まれるべくして生まれる。物事は得られるべくして得られる。勝手に湧いてくるものではないし、機械的に操作して「出来上がる」ものではない(それを出来上がるようにしてしまえば、ますます自然が見えなくなる。自分の最も大事な感覚が麻痺してしまう)。
向井さんも「持つことをやめる」という一番簡単な選択があったはずだが(それに気づくための子宮癌であったと筆者はごく自然に捉えるが)、それに気づくのではなく、自分の心の欠落を埋めることで幸せになろうという方向にどんどん進んでいるようだ。
しかし勘違いしないでほしいのは、人生はそれすらも人に何かを気づかせるきっかけとして、彼女自身の存在をも包み込んでいる。「不自然」あったとしてもだから「間違っている」のではなく、不自然すらもすっぽり飲み込んでいるのが自然の本質なのである。
何事も失敗だ成功だと、正しい間違っていると裁判の真似事などするのではなく、自分のしたことは善も悪もすべて飲み込んで、自分を変える材料にしてしまうことだ。間違っているから悪なのではない。自己嫌悪に陥る必要も、罪悪感にさいなまれる必要もどこにもない。ただ気づいていくことだ。そして理解していくことだ。
今の時点で実績や経験があろうがなかろうが、自分は自分でオーケーなのである。その根本的な諒解が得られるからこそ、その先の自分にとっての課題が見えてくる。運命を乗り越えると宿命が見えてくるというのは、このことに他ならない。
宿命(絶対に変わらないもの)が見えてきた人は、自分だけの決断や判断で「よい」と思うことができる。頭で心がけようとしなくても、「自分が好き」でいられる。これって凄いことだと思いませんか? 成長や能力の開発はここから先の話なのである。
2003年03月23日
■筆者がなぜ「米軍イラク攻撃」に「反対しない」か?
3月20日(米東部時間19日)、アメリカ軍のイラク攻撃(空爆)がついに始まった。
国連決議を得られないままの、アメリカ(ブッシュ大統領)の横暴とも言える、はた目にも大義名分の見えにくい、宣戦布告。
対米追従と言われる日本は、大方の予想通り、アメリカの攻撃を支持。戦争放棄を憲法でうたっているはずの国がなぜ、という質問に対しては「大量の破壊兵器をイラクが破棄しない以上、アメリカの武力行使に正当性がある」という見解。小泉首相は「アメリカは支持するが戦争はしません。戦後の復興に協力する」と、ムシがいいとしか思えない中途半端な発言を、会見の場で堂々と語っていた。
一方、こうした政府レベルでの戦争遂行に対して、世界規模で反戦デモが起っているのも、今回の戦争の特徴の一つだろう。日本でもタレントや文化人、ミュージシャンといった面々が、メディアを使って戦争反対や疑問を投げかけている。またテレビでも連日のように様々な特集が組まれ、その筋の専門家たちが見解を述べている。
しかし、戦争のメカニズムそのものについて言及している例は少ない。だから状況分析自体は的確であっても、その先の絵が見えてこない。タレントたちも含め、本当の意味での当事者意識を持っていない。当事者意識とは運動に参加したり、現地に飛び込んで人間の盾になったりすることでは必ずしもないわけだが……、ではそれはいったいどういうことか? 本質を突いた発言はとんと聞こえてこないわけである。
そもそも国のトップが戦争を始めるときというのは、国民の目を外に反らそうとするとき(つまり内政面やトップがスキャンダルなどを抱えているとき)か、国際経済を支配する財閥層(ユダヤ人など)の働きかけがあったとき(つまり、戦争を起すことで彼らにとっての軍需景気を欲しているとき)に限っている。
純粋に正義の戦争というものはないし、世論に支持された場合でも、その世論自体が巧妙にコントロールされ、何か仕掛けがある場合が大半だろう。
たとえば、日本の真珠湾攻撃をアメリカ(大統領)が事前に知っていながら、国民感情を戦争に向かわせるためにあえて無防備にさせたという話。
9・11の対米多発テロにしても、同様にアメリカの権力層は攻撃を事前に知っていたという指摘も、一部のメディア(テレビも含む)などで指摘されている。国内経済の悪化などから国民の目を反らすためイスラム原理主義者を煽り、ああした事件を起させた。そのような「冷酷な人間」がこの世界を影で牛耳っているかもしれないのである。
つまり重要なのは、この世界は表と裏の両面で成り立っているという事実を知ること。
しかも、「氷山の一角」という言葉があるように、裏(目に見えない要素)のほうが圧倒的に影響力が大きい。というより、自分自身に照らし合わせればわかるだろうが、人はまず行動する前に思う。計画を練る。水面下で交渉する。表に現われたものというのは、思った段階、計画していた段階の、まさに「氷山の一角」にすぎない。
物事の善意を信じる人というのは、たいていの場合、この裏が見えていない。善意を信じるのは構わないが、人はもっといろいろなことを考えている。
もちろん、裏=悪意である(人間の本性は悪である)と言っているわけではない。
なかにはさもしたり顔で、「アイツ儲けているから、裏では相当悪いことやっているんだろう」などと言う人がいるが、この種の人は、自分が善意を信じる人とさして変わらない、まさに裏表の関係にすぎないことを、まず知るべきだろう。
悪を見ることが裏を知ることでは、必ずしもないのである。
もっと言ってしまえば、善悪の観念そのものから抜け出し、物事の全体(裏も表も含めた全部)を、まさに全体的に感じ取る必要がある。その感覚を持ち合わせていれば、単純に戦争反対すればいいというわけでもないことも、同時に見えてくるものなのである。だから筆者は、戦争に反対はしない。賛成もしない。といって、どっちつかずでもない。意見を持っていないわけでも、座して見ているだけでもない。
わけがわからないと言われそうなので、いくつか例え話をしていこう。
たとえば戦争とは何かと言った場合、その原点には憎しみの感情が存在している。
何らかの原因で相手に憎しみを抱くから、その相手をやっつけてやりたい(殴りたい、攻撃したい、殺したい、復讐したい……)と、思う。
しかし当然のことながら、相手に復讐すれば、今度はその相手が憎しみを持つ。
どちらかが100パーセント間違っているというケースはそうそうありえないから、負けた側も言い分を持つ。いまは屈服してもいつかはと思う。それが代々受け継がれれば民族紛争になる。宗教がそこに絡めば、さらに事態は複雑化する。
こうして見れば、これは国どうしの戦争に限った話でないことも見えてくるだろう。
憎しみをぶつける対象がスポーツという場合もある。世界中の人たちがサッカーにあれだけ熱狂するのは、そこに戦争の要素があるからだ。憎しみを持った相手へ報復できたときの快感。たとえそれが人を殺すという行為に発展しなくとも、構造はまったく変わらない。闘争心の矛先が何かのキッカケでずれてしまえば、競技は簡単に戦争に変わってしまう。人の本能にはそうした要素も内臓されているのである。
だから、サッカーは熱狂的に支持するが、戦争は反対という人は、言っていることが矛盾している。いくらデモをしようが言葉と行為が裏腹だから、何の効力も発揮されない。却ってそうした運動が政治的に利用される場合すらある。
これは、サッカーファン(あるいはスポーツファン、格闘技ファン……、もちろん競技者も含む)を、批判しているわけではない。
あるいは、人間の闘争心そのものを否定してしまっているわけでもない。
現実問題として、闘争心はある。あるものをキリスト教の原罪思想のように否定したところで、残念ながらそれはなくならない。自制し、禁欲したところで、そんなものは何かの拍子で禁を犯してしまえば、呆気なく崩れ去ってしまう。
あるものは、まずあると認める。肯定する。受け入れる。その上で自分に問うてみる。自分が正しいかどうかではなく、自由なのか、快適なのか。こうした発想が持てるようになってくると、闘争心の核にある向上心を感じ取れるようになる。
多くの人は闘争心と向上心を混同している。筆者はそう捉えているのである。
たとえば、格闘家は心に何らかの憎しみがなければ、決してリングには上がれない。
機械ではないのだから、純粋に競技としてやることなどできない。その人の抱えている心の不満や欝屈、過去の傷などを、戦うという行為にぶつけている。その点では、彼も日々、戦闘に参加している。戦争を否定すれば自己否定につながる。
しかし、戦うことで発散はできても、実は内なる問題そのものは解消できないという事実がある。むしろ戦うことで欝屈は増幅され、その修羅場から抜け出せないほうが、むしろ多い。華麗な戦績を残したとしても心は地獄という人もいるだろう。
もちろん、戦いにはそうした負の側面ばかりあるわけではない。戦いが芸にまで昇華されたとき、それが明らかに人の心を打つという側面もある。日本人はむしろそこに美を見い出し、武士道(もののふの道)などと呼びならわしてきた。
武道家なども、最後はあまり戦いに興味を持たなくなる。リングに上がる(試合に臨む)ことよりも、自分の芸を極めようという方向に進む。
若い頃は好戦的で、卑怯な戦いすらした宮本武蔵ですら、30代以降の戦いの記録はほとんどない。あれは武蔵の体力が衰えたからだと揶揄する人もいるが、彼が本当の意味での武道家であったとしたら、その強さに年齢は関係しない。年とともにますます強くなってしまったから、戦いに興味が失せていったと捉えられるのである。
筆者に言わせれば、戦いを欲する人というのは(闘争心のある人というのは)、そうした衝動が湧いてくる自分自身に、たいていの場合、目を向けていない。
むしろそこから目を反らし、外敵を作り、そのありあまる憎しみのエネルギーを発散させようとする。これは格闘家やスポーツマンに限らず、多くの人が普段やっている、当り前の行動心理ではないのか? あなたはそうやって仕事をしていないか? だれかを愛したり、守ろうとしていないか? そうした面をなおざりにしたまま、自分のことを棚に上げたまま、戦争という一現象に反対しているのではないか?
戦争をひたすら仕掛けようとするブッシュ大統領も、それに追随する小泉首相も、目に映る現象は自分自身の鏡であると、まず我々は理解する必要がある。
そして世界の現状を変えたいと思うのなら、まずそういう自分が本当に変われるのか問うてみることだ。それができるようになれば、戦争反対など表明しなくとも、生き方そのものが戦いを求めなくなる。もちろん、戦いを求めなくなっても、人には向上心が内蔵されているから、腑抜けになったりなどはしない。自分のエネルギーがもっと自由に、素直に発散されるようになるから、ずっと元気になっていける。
筆者が身体論に注目し、その視点から政治や社会現象まで解き明かそうとするのは、最終的に、この世界の問題というのは自分自身(の身体)に帰一すると思うからだ。
その身体を置き去りにしたまま、そこに目を向けないまま、勝った負けたと繰り返す人生は、筆者から見ればあまり刺激的とは思えない。面白くもない。
もっと刺激的で愉快なものが、目の前の現実に広がっている。それを知りたい、欲しいと望む人だけが、この世界を実質的に変えていける人なのである。
2003年03月14日
■人はみな「あの世」を信じている。
K-1と並んで人気のある「プライド」という格闘技イベントを主宰する会社の社長が、ことし1月、突然自殺し、周囲を驚かせた。
つい数時間前には記者会見を行い、この3月に開かれる「プライド25」のカード発表やその先々を含めた構想を語ったばかり。事業は順調に展開されており、特別に不安材料を抱えていたという話はない。それが、都内のホテルで突然の首吊り自殺。原因は、報道によると不倫相手との別れ話のもつれであったというが、死を決意するというほどの兆候は周囲の人間にもまったく感じられなかったようだ。
繰り返すがまさに突然。真の原因は謎に包まれたまま。本人が何も語らずにこの世を去ってしまった以上、解明されることももうないかもしれない。
……と、こうした自殺報道に接して、読者はどのように感じるだろうか?
人それぞれ、心のうちには様々な思いがある。だから「なんであの人が」という人が突然死を選んだり、事件を起したりしても、ヘンに驚くことはない。逆に、人に対して何らかのレッテルを貼っていた自分に目を向けるべきだとも言える。
しかし、筆者に言わせれば、彼のように突然自殺を遂げてしまうような人は、要するに「あの世などない」と思っていた人たち、に他ならない。
あるいは、死ということについて必要以上に考えた経験がなかったのかもしれないが、であるにしても、もし死生観について問われたなら、彼らは「死んだらおしまい。だから今を精一杯生きるしかない」などと答えるかもしれない。
しかし、考えてみて欲しい。
死んだらおしまいということは、すべてが無になるということである。
これは超がつくほどに過激思想なのだが、口にする人に限ってそれを自覚していない。彼らの論理に従うならば、死んだら自分が無になるだけでなく、すべてが無になる。自分の認識する世界のすべて、この宇宙の一切合際が無くなってしまう。彼らは、それだけのことを言っている自分に、何も気づいていないお気楽な人たちなのである。
自分が無になったところで、世界が無になるわけがない。自分が生まれる前からこの世の中は続いていたし、死んだ後も続いていくはずじゃないか。
なかにはそうした反論をする人もいるかもしれないが、筆者は彼らに「ああ、だからあなたは「あの世」を信じているわけですね」と答えることにしている。
いいだろうか? 「あの世」を信じているから、そのようなことが言えるのである。
というより、これも考えてみてほしい。「自分が存在しなくなった世界」のことを、どうやって認識するというのだろうか?
感じる主体が無となる以上、無いのと同じではないか。あると考えるのは、自分が存在する(死後も存続し続ける)という前提があっての話である。
「死んだらおしまい」と言う人も、「自分が死んだ後の世界」は想像している。この社会も、日本も、地球も、まわりの人々も無くならないと思っている。
これがドエライ矛盾であることに気がついてほしい。
「死んだらおしまい」なら「死んだ後の世界」も存在しない。終わりなのである。すべてが、終わり。そこまで理解してその言葉を使っているのなら、ある意味大したものだが、たいがいの人はもっとずっと軽い気持ちでしか使っていない。
だから深く考えもせずに自殺ができてしまう。故人に対する批判を快く思わない人もいるが、筆者は「あの世を信じている」ので必要以上に気配りはしない。それよりもヘンにタブーにしてしまい、覆い隠してしまうほうが問題だと思っている。
さらに、こんなことも考えてみてほしい。
なんだかんだと言っても、多くの人は自殺をしない。
それはそれほど絶望していないからだと言う人もいるかもしれないが、絶望している人でも、希望がまったく見えない人でも、必ずしも命を絶つわけではない。
なぜか? 理由はいろいろあるだろうが、「残された人」のことを考えるからだ。
自分が突然死んでしまったら、残された家族はどうなるのか? 当然そう考える。
死体の始末から始まって、どこかに身投げでもするなら捜索する人も出てくる。借金をしていたら、それは保証人のもとに請求がいく。仕事を投げ出したのなら、しわ寄せはやはり、「残された人」のもとに降りかかっていく。お寺や葬儀会社の人は「儲かる」かもしれないが、だからといって「嬉しい」とは思うまい。
……こう考えていくと、少々辛いことがあっても頑張らねばと普通は思う。だからみな死なない。死んだからといって「解決」できるとも思わない。
このように発想する人が、要するに、「あの世」を信じている人たち、なのである。
おわかりだろうか? 「あの世」を信じていないのなら、いや、実際に存在しないのなら、人がこのように思うことじたい、ありえない。
少しでも失敗したと思ったら、すぐに死んでもいい。怖いとか痛いとかいう恐怖感が躊躇させているにしても、現実を生きていればそれ以上に辛く、痛いことがあるはずだ。本当に死んで無になるというのなら、この世界の仕組がそのようにセットされているのだとしたら、いま以上に自殺者が出てもいいのではないか?
突き詰めていけば、社会は存続しなくなる。種は滅びてしまうわけだが、現実にはこうして歴史は続いている。みな簡単には死なない。生きよう、頑張ろうと思う。
それどころか、晩年になろうが、あと1年の命であろうが、どんな状況に置かれようが、人は学ぼうとする。学ぶ意欲を失わない。
単純に言えば、心のなかでは「続き」があると感じているからだ。その感覚もないのに学ぼうというのなら、それは究極の物好きではないのか?? 人も生物である。ただ趣味や道楽のために生きようとは思わない。もっと本能的な部分で「メリット」を感じなければ、苦労などしない存在なのである。
これは言い換えるなら、世の中はそれほど人の都合通りにできていない、ということ。
絶望したからと投げ出して自殺したところで、すべてが無になるわけではない。
というより、自分を受けたものを「返す場」から逃げ出してしまったのだ。返すアテのなくなった借金を背負い続けたまま、彼らは「あの世」をさまよい続けなければならない。そんな人にとっては、そこは明らかに「地獄」になる。
逆にきちんと筋を通し、与えられた生を使い切り、きれいさっぱり亡くなった人は、貧乏であろうと、人に認められてなかろうと、心は身軽だ。
彼らにとっての「あの世」は、一つのことを成し遂げた充実感や達成感に満ちている。それはむろん安らぎの場所、つまり、「天国」である。
なにも摩訶不思議なことを信じなくとも、当り前のことを当り前に受け止め、生きていれば、人は無闇に死んだりはしようと思わない。人を傷つけて平気でもいられない。変わっていかねばと思うし、希望も持つ。夢も抱く。
「科学」という名の宗教が「あの世」を否定したことで、こうした当り前の感覚も心の奥に押し込められてしまったのではないか?
科学ももちろん必要だが、科学的な論証とは異なる、ここまで筆者がだどったようなアプローチでこの世界を見つめ、受け止める感性も必要。
いわゆる「精神世界」の実像も、そのときハッキリ浮かび上がってくる。
どちらにせよ、「この世」で生きることが中心なのである。きちんと地に足をつけ、生きていくことを自覚できたとき、人は「あの世」を同時に感じている。
「この世」と「あの世」がコインの裏表となったとき、はじめて道が見えてくる。
それは、あるか無いかという類の問題ではないのである。
2002年12月23日
■小泉流“丸投げ”はなぜ無責任なのか?
最近“丸投げ”という言葉が、頻繁にマスコミを賑わしている。
もとは建築業界の用語であったようだが、あまりいい意味ではない。たとえば、工事を請け負った某社が、そのままそれを下請けに任せてしまう。もちろん仕事を譲るわけではない。経費をピンハネし、中間搾取で儲けを得る。一方、下請け側は安い賃金で仕事をしなければならないので、帳尻合わせに手抜きをしたりもする。
「働かざる者食うべからず」という言葉があるが、現実には、その「働らかざる者」のところに最も金が入ってくる。そうした業界に蔓延していた「負」の仕組にようやくメスが入り、あれやこれやと取り沙汰されているわけである。
もちろん取り沙汰される頻度が増えれば、言葉そのものも一人歩きをはじめる。
いまこの言葉を最も痛烈に浴びせられているのは、おそらく小泉純一郎総理だろう。氏は国民の多くに、「景気のいい、歯切れのいい言葉は使うが、肝心のところは丸投げして、自分では泥を被らない人」というふうに思われている。
たとえば、デフレへの危機感の募る金融政策に関しては、自らが起用した竹中平蔵経済財政・金融相にそっくりと“丸投げ”。10月末に氏主導で何とか「総合デフレ対策」がまとめられたものの、肝心の小泉氏の積極的な後押しがなかったからか、対策というには程遠い「無難な」内容のものに薄まってしまったようだ。
また、新日本製鐵会長である今井敬委員長と作家・猪瀬直樹ら5人の委員の間で大いにモメた道路4公団民営化問題に関しても、やはり“丸投げ”。自らが調整に乗り出すことなく、最終的には道路族代表の今井氏が委員長を辞任するという形で決着した。
筆者は、こうした“丸投げ”自体を必ずしも悪いとは思っていない。
傍観者の姿勢を取った小泉氏に対しても、だから無責任だとは決めつけない。というより、丸投げがイコール無責任だと捉えている人は、逆に言えばもっと自分の意見を口にし、それによってリーダーシップを取ってほしいと思っているのだろう。
しかし、考えてみてほしい。積極的に発言すればリーダーシップが取れるのか?
部下の仕事にあれこれ口を挟み、介入する上司がみな、素晴しいリーダーであるだろうか? もしかしたらただの過保護かもしれないし、単純に煙たがられているだけかもしれない。そんな人間になれば首相が勤まるとは誰も思っていないだろう。
結局、丸投げを「悪」と結びつけるのは、建築業界の中での用語にすぎない。
表面的なイメージが似ているからといって、対象を社会にまで結びつけてしまえば、本質が見失われてしまう場合がある。その意味では、誰が用いはじめたか知らないが、これは、表面をなぞっただけの「誤訳」にすぎないと言ってもいい。
とはいえ、小泉氏自身、残念ながら立派な政治家であると思われてはいない。「無責任」と思われても仕方ない、ある種のイメージが付きまとっている。
イメージというと非常に曖昧だが、それが本人の醸し出している「何か」である以上、おいそれと覆えせない説得力がある。本人がいくらそうでないと力説し、行動しても、よほどの変化がない限り、そのイメージは覆えらないのである。
では、それとは何か? 筆者の読者ならすでに気づいているかもしれないが……、ここで“丸投げ”という言葉の本質をもう一度問い直してみよう。
“丸投げ”。すなわち、相手に自分の身柄をそっくり預けてしまうこと。もちろん、そこに条件もつけない。丸々すべてを投げ出してしまうということ。
そう考えれば、これは仏教などで言う「全託」という言葉とイコールになってしまう。
作家の故・司馬遼太郎氏は、それを「薩摩武士」に特有の美意識や処世術と結びつけ、日本が近代化に成功したのは、この薩摩流の“丸投げ”を政府レベルで実践できたからだという意味の発言をしている。
すなわち、薩摩人の優秀さとは、自らが優秀になることではなく、優秀な人間を見つける眼を養い、彼を抜擢し、自分はその責任を一切引き受ける。
要するに彼らにとっての優秀さとは、「器の大きさ」に他ならず、逆にこの器だけあれば天下の賢者が自分のもとに集まってくる。彼らの才能を発揮できる場を与え、全体として大きな仕事が成せれば、それが優秀さの証なのである。
このようにして見れば、そうした薩摩武士の象徴とされた西郷隆盛など、小泉氏とは比較にならない、全身全霊“丸投げ”の人であることが感じ取れるはずだ。
同じ“丸投げ”でも、相手に伝わる何かが決定的に異なっている。
その何かとは、そう、筆者の言う「ハラ」の違いなのである。そんなものはわからないという人でも、小泉氏を歴史に残る素晴しいリーダーだとは思っていない。それを“丸投げ”しているからだと説明しても、日本の歴代の政治家は、西郷に限らず、みな程度の差こそあれ、この“丸投げ”を実践している。
西郷の事実上のライバルだった最後の将軍・徳川慶喜も、「大政奉還」という世界史的にも類例のない“丸投げ”をしている。両者の戦いについては、当サイトででも取り上げる予定だが、簡単に言えば“丸投げ”合戦だったのである(→こちらを参照)。
みな無意識に感じ取っているハラの感覚をしっかりと言語化できないから、ゼネコンの負の側面と結びつけて、“丸投げ”本来の意味を見失ってしまう。だから有効な批判や、ではどうするかという対案も示せない……。
目に見えない「曖昧なもの」を、言語によって実体あるものへ浮かび上がらせる。そこに社会の閉塞を打ち破る大きな鍵が隠されている。
2002年11月23日
■「有意義な人生」という名の脅迫観念。
だいぶ前のことになるが、何かの雑誌のインタビューか何かだったと思う。今をときめく某有名女優が、「休日の過ごし方は?」という問いに対して、「せっかくのお休みなので、きちんと計画を立てて、美術館なんかに行くようにしています」と語っていた。似たようなコメントを、ほかの場面でもよく聞く。
当たりさわりのないことのように思えるかもしれないが、筆者に言わせると、これは病状の告白(?)に近いものがある。単純に言えば、「なんだ、それなら家でダラダラ過ごすのは無意義なのか?」と、すぐに言い返したくなるのである。
じつは筆者も、長らくこの「病気」に苦しめられてきた経験がある。
たとえば小学校のとき、ご多分にもれず、夏休みや冬休みをものすごく楽しみにしていたので、何とか有意義に過ごそうと親に向かって「遊園地に行こう」「買い物に行こう」「旅行に行こう」と、わけもなくねだっていた。ただ宿題をするだけで無意味に時が過ぎていくのが耐えられなかったからで、親に連れていってもらえなくても、自分であれこれ遊びを工夫して、退屈しないように過ごしていたものだ。
会社に勤めていた頃にも、同じようなことをよく考えていた。
というより、前述の有名女優ではないが、みな夏期休暇には一生懸命予定を組んで、旅行に出かけたり、習い事をしたり、スケジュールの空白を埋めること必死になっていた。それで休み明けにお土産などを配って、自分が「暇人」でないことをアピールする。傍から見てもばかばかしい気はしたが、自分にも多少はそうした面があったので、今にして思えば、結局、小学校の頃からさして進歩していなかったわけである。
すでにハラ感覚を得ていた当時の筆者にとって、これは大きな問題だと思った。
何か意義あることをしていないと、自分が停滞してしまうような感覚と言えばいいだろうか? それが幼い頃からの自然な習慣で、大人になっても巣を食っていた。しかし、そんなふうに意義ばかり求めていると、心の休まるときはない。人に比べたら無意義に過ごすことにも慣れてはいた?が、まだ何かが足りない感じだったのである。
その感覚がラクな方向に変わったのは、珍しく会社の上司たちに誘われて、カラオケに行ったときのことだった。誘われることは嫌いではないが、その時のメンバーは普段はほとんど接点のない人たちばかり。それがどうした成り行きか、なし崩し的に誘われて断わり切れないままに、ボックスになだれ込んでいたのである。
あー、無意味な時間がすぎていくなー。なとど、心の中で思ったのを覚えている。
その頃の筆者はこのように他人のペースに巻き込まれてしまうと、マイペースないつもの自分がうまく作動しなくなり、自然ぼんやりすることが多かった。場を盛り上げるような気持ちも、もちろん湧いてはこない。我ながら始末の悪い存在だな、それなら丁重に断わって、家に帰ればよかったのに……、などと考えていた。
ただ同時に、自分の自由が他人によって左右されてしまうのは如何なものか? それって本当に自由なのか? などと思ったりもした。
筆者はもともと大学を卒業したら就職などせず、田舎で農業をやろうと思っていた。
ただ、大学3年の終わりにある心境の変化があり、田舎そのものにこだわる気持ちが消えてしまった。加えて周囲を見渡すと、みな夢など追わず、条件ばかりで就職活動とやらにいそしんでいるのが目についた(少なくとも筆者にはそう映った)。
筆者が就職活動を大学4年の初夏の頃からにわかに、猛然と始めたのは、そうした彼らを見返してやろうという、誰に宣言したわけでもない勝手な決意に基づいていた。現実は厳しかったが、時はバブルということもあり、行き当たりばったりの面接や試験を繰り返したのち、めでたくテレビ雑誌の編集をする仕事に就いたわけである。
というわけだから、どこかで力みがあったのかもしれない。
山登りをやっていた大学時代に比べたら仕事ははるかに楽で、向いていることをやっているという自覚があったから、力んでいるようにも思われていなかったかもしれない。でも、自分の感覚ではもっと楽に、自由になれるという思いが常にあった。それは怠けるということではなく、もっと仕事をこなせるようになる能力と結びついていた。一生懸命なだけでは身につけられないコツがあると思っていたのである。
無意義なカラオケは無意義なままに、延々と続いた。でも、自分だけ帰れるという雰囲気でもない。どっちつかずの状態で、自分の自由だけが奪われていた。
もちろん、雰囲気など無視して帰ったところで、関係が気まずくなるというほどのものでもなかっただろう。それができない自分は、優柔不断なのだろうか? 嫌なことは嫌だと言えなければ、まともな関係は築けないのではないか?
殊勝にそう思ったりもしたが、その時はそのタイミングを完全に逸していた。
ふと見ると、その時のメンバーの中では唯一話の合う先輩が、無意義な空間の中で無意義に楽しんでいた。当人も別に好きで参加していたわけではなかっただろう。なのに、筆者に比べると、どこかゆとりがあるように思えた。その人をそんなふうに思ったのは、初めてのことだった。何か二言三言、言葉を交した気がする。筆者が何かに「気づく」ことができたのは、おそらくその直後のことだった。
簡単に言えば、抵抗しないということ。委ねてしまうということ。
そうすると頭の中で定義していた「意義がある・ない」という価値観は無意味なものとなり、どんな現実でも自分なりに楽しめるようになる。その現実を選択するかどうかの判断も大切だが、その判断力だけを磨いても、味気ない人間になってしまう。ばかばかしい、無駄と思えることでも全身で漬かってしまえば、ハラの感覚が磨かれていく。
「ね、結構、楽しいでしょ?」
筆者の心境の変化を何事か察したのか、だいぶ経ってからその先輩はそう尋ねてきた。思えばその時からでも5年以上の歳月が過ぎている。筆者は当時の自分と比べてもおそろしく自堕落で、その分有能な自分を感じている。だらだら過ごすことも実に楽しい。働き詰めでもワーカーホリックだという感覚はない。それでもあれもしなければ、これもしなければと思うときは、当時の自分を思い出して、初心に帰っているのである。
自由なる人生の第一歩は、まず実体のあるようでない「時間」の観念から、おのれを解放させることにあるのではないだろうか?
2002年09月29日
■柳美里氏「石に泳ぐ魚」出版差し止めは、是か非か?
作家・柳美里氏のデビュー作「石に泳ぐ魚」が、主人公のモデルとなった在日韓国人女性の訴えにより、9月24日、出版差し止めが決定した。
報道などによると、この小説は94年に「新潮」誌に発表されたもので、主人公の顔面に腫瘍がある点や出身大学、家族関係などが、原告のそれと著しく類似しており、「無断で小説化されて、プライバシーや名誉が侵害され、精神的苦痛を受けた」として、単行本の出版差し止めのほか、130万円の賠償支払が命じられたのである。
これに対し柳氏は同日、都内で会見を開き、「痛恨の極み。作家個人の問題を超え、日本における文芸作品の可能性はもとより、表現の自由を著しく制限するものと言わざるを得ず、慚愧(ざんき)に堪えない」と発言。「小説を書くために人を傷つけてはいいとは思ってない」と前置きしつつも、問題となった小説が「プライバシーを侵害するものではないと思っている」とも、語っている。
筆者は問題となった作品を読んではいないわけだが……、柳氏は自らの内面的な創作欲に従って書き上げただけで、なにも原告のプライバシーを暴くことを目的にしていた(個人的恨みなどがあった)わけではなかったようだ。
もちろんそうだとしても、原告は傷ついた。裁判を起こしたほどだから、それは相当なものだっただろう。作品に希望や励ましが込められていたとしても、おそらく自分の心に他者がズカズカと入り込んできた不快感はあったはずだ。
とここで、果たして小説に実在のモデルを用いることは人権侵害に当たるのか否か……といった問題が浮かび上がってくるわけだが、読者はどう感じるだろうか?
いろいろな識者が見解を述べているが、どうもピンと来るものが少ない。
筆者に言わせれば、表現の自由とはべつに法によって定められたものでも、守られるものでもない。本人が表現したいと欲するからするのであって、そこに権利云々の話を持ち込んでしまえば、「では権利が保証されていたから書いたのか(されてなかったら書かなかった、書けなかったのか)」という話になってしまう。
権利があろうとなかろうと、書かずにはいられないから書いた。その強い意思に編集者の心も動かされ、雑誌への掲載が実現した。
本来ただそれだけのことであったはずではないのか?
である以上、結果としてモデルとなった女性が深く傷ついたとしても、信頼関係を築こうとする前に、自分の創作欲を優先したのだから仕方ない。きびしい言い方をすれば他人の心に鈍感だった、配慮が足りなかった結果であり、これは作家だから発生する問題ではない。「表現の自由」などという大げさな言葉を持ち出さなくとも、自分の行為を「悪」であると認めればもっと早く「解決」に向かったはずなのである。
自分の行為を「悪」であると認める。
こう言うと、筆者が柳氏を一方的に批判しているかのように受け止めた人もいるかもしれないが、しかし人は「善」ばかりで生きているわけではない。
時には何かに衝き動かされるようにして「悪」を働く。ケンカをして人を傷つけることもある。ヘタをすれば殺してしまう場合もある。しかしそうした「悪」をプラスの方向へと向ければ、優秀な格闘家になれるかもしれない。
小説家も腕力を用いないだけで、格闘家と似たような存在である。
ただ、格闘技はルールの上で殴り合っているから試合が終わればノーサードだが、小説はどちらかというとストリートファイトに近い。一般市民だからと言ってすべて無抵抗とはかぎらない。人には心がある。それを忘れたらしっぺ返しが必ず来る。そこで私は作家であると主張しても、怒り出す人は当然出てくるのである。
そもそも、小説であろうと格闘技であろうと、そのような行為に手を染めなくとも、楽しく自由に生きている人はいくらでもいる。
そうした人に比べれば表現者とは、根本的に「業が深い」のである。
その業と向き合うために作品を作る。あらゆることよりそれを優先させたいという衝動に駆られている。自分がそういう人間だと自覚できていれば、いちいち権利がどうだという話はしない。時代が時代なら(あるいは国によっては)投獄されるような憂き目に遭うかもしれないが、だからと言って筆が鈍っては自分は自分でなくなってしまう。そういう危機感にすら苛まれるのが、この種の人たちの宿命なのである。
その意味で言うなら、柳氏の発言は少々観念的だと言えるのではないか?
モデルの女性に「謝る」必要があるかどうかはともかく、筆者ならば少なくとも「彼女の言っていることはもっともなこと。その点では配慮が足りなかった。しかし私は書かずにはいられないから書いた。はじめから批判は覚悟していた」といったことを語っただろう。「悪」であったとしても、すべてが有害とは限らない。一人の人間を傷つけたとしても、百万の人間を救うことも十分ありえる。
百万の人間を選んだ以上、一人を傷つけた事実を最低限認めることだ。
善悪で物事を捉えてしまえば、作品そのものも小さくなる。柳氏の行為が法律で正当だと認められたところで、作品の価値が上がるわけではないのである。
2002年08月17日
■「代理母出産」と「持ってないという幸せ」
「代理母出産」のため渡米したタレントの向井亜紀さんの発言が話題になっている。
彼女は一昨年(2000年)の11月、妊娠の確認で訪れた病院で子宮ガンが発覚。結果として、そのとき身ごもっていた胎児の生命と引き替えに病巣をすべて摘出、自ら死を免れるという、非常に過酷な体験を味わっている。
もちろん、子宮を全摘出してしまった以上、もう子供は産めない。
出産願望の強かった向井さんは、すでにその時の記者会見の場で、「代理母出産」の可能性について言及している。簡単には諦め切れないということだろう。その後社会復帰し、司会業などで活躍していたが、この8月、ついにアクションを起こした。アメリカに渡り、ついにこの可能性にチャレンジしたのである。
「代理母出産」とは、簡単に言えば、子供の産めない夫婦の体外受精卵を、第三者の身体(子宮)に移し、出産させるというもの。
日本では、まだ議論の渦中にあり公に認められていない。代理母が産まれてきた子供に情愛を感じてしまえば、依頼夫婦との間にトラブルが起こることもありうる。産まれた子供の気持ちも複雑になりかねないし、自分の身体をビジネスの道具にする「代理母」が現われ、不妊に悩む夫婦を利用するケースも出てくるかもしれない。
いずれにしても、不自然な行為であることに変わりはない。その意味ではモラルに反していることにもなるわけだが、もちろん、こうした話のいちいちを向井さんが知らないわけではないだろう。知った上で、それでも子供がほしい、「夫(プロレスラー高田延彦氏)の優秀な遺伝子を残したい」という思いが捨てられない……、そんな彼女が悩んだ末に出した結論が、今回のアメリカ行きだったわけである。
すでに報道されているように、結果的にこのチャレンジは失敗に終わってしまった。
本人のホームページなどにも逐一報告されているが、渡米後、病気でほとんど数少なくなっていた卵子を採取することには成功したものの、肝心の体外受精は失敗。代理母に受精卵を移植する以前に、チャンスは断たれてしまったようだ。代理母の励ましにより、今後も可能性を模索していくとのことだが、もちろん成功するという確証はない。そして、仮に待望の第一子を授かることができたとしても、そこから先、子育てなどを通して、さまざまな問題に直面することが考えられるだろう。
テレビなどを見ていると、事実関係についてはきちんと伝えているものの、評価についてははっきりした見解が出せないでいるようだ。
子供を産みたがらない夫婦が増えているなか、不妊症などに悩む夫婦の問題もよく取り沙汰されているが、女性の「産みたい」という願望は、ある種本能的なものだから、「産みたくない」と思うよりはずっと自然だという側面がある。いくら価値観の違いを説いたところで、「産みたい」と思う夫婦の間には(とくに産む側の女性には)、それでは到底承服できない感情がひそんでいるわけである。
前置きが長くなってしまったが、筆者はそんな悩みを持つ人たちに対し、ただ単純に励ましたり、応援することを、少々疑問に感じている。
といって、あたりさわりのないコメントで済ますことも傍観者の発想にすぎない。今は直接関係がなくても、身近にそうした人が現われた場合、そんな態度では済まされなくなる。やはり「答え」が必要なのである。それは、自分ならこうします、という意味での「答え」なのだが、あなたならどう答えるだろうか? やっぱり自分も不妊治療を受けます、代理母出産のため渡米します、と言うだろうか?
筆者はたえず、「持っていないという幸せ」について考えている。
人はできることよりも、できないことのほうが圧倒的に多い。もちろん、得られるものより、得られないことのほうが多いのも同様。だから、多くの人はおのれの限界を感じたり、不幸せに思ったり、この世界を恨んだりする。
でも、何かを得られなければ幸せになれないのか、と感じたことはないだろうか? 逆に何かが得られたから、幸せになれたのだろうか?
だとしたら、幸せはものすごく相対的なものだ。そして、持っているものを失ってしまえば、それは去ってしまう。もちろん、大事なものを失えば人は傷つく。喪失感もあるだろう。そう感じる気持ちを無くしてしまえと言っているわけではない。
たとえば、競争をすればトップもいればビリもいる。どっちつかずもいる。
しかし、すべての人がトップになりたいと思っているわけではないし、なれたとしても幸せであるかはわからない。幸せな人は、じつははじめから幸せなのである。あるいは、どこかでそのコツに気がついて、それで生きられるようになった人である。彼らは、誤解を恐れずに言えば諦めがいい。手を抜いたり、一生懸命を嫌っているわけではなく、できないという現実も、自分という存在の個性であると受け止められる。
たとえば、生まれながらにして、同性しか愛せないホモセクシュアルの人もいる。
生物的に見ればものすごく不自然な存在だが、無理に女性を愛そうとしたら、もっと不自然になる。だから最後は、その現実を受け入れようとする。結局、それが自分にとっての自然なのだという発見をする。自然とは不自然も含めて自然なのである。それだけの奥深さがあるからこそ、この世界の多様性が成り立っている。
つまり、子供が産めないのも不自然だが、それでも産もうとするのは、筆者からすればホモセクシャルが女性を愛そうとする不自然さに近い。
ある幸せのイメージがあって、それに自分が当てはまらなければ幸せになれない、自由になれない……、そんな「囚われ」がどこかにあるのかもしれない。自分の人生は誰とも比べられないたったひとつのものであり、何かを足して完成されるものではない。足せばプラスになるにしても、それはマイナスがプラスに転じるものではない。その発想でいるかぎり、何かが得られてもつねに不足感がつきまとっていく。
向井さんも夫も高田氏も、つねに前向きに、目標を持って生きようとする人だろう。
それは決して悪いことではないが、目標を持つことが心の空白を埋めるものでしかないのだったら、目標を持つことすら一度やめてみることだ。何かを得ようとしなくても、人はすでにその時点で「自分らしさ」を持っている。意識のベクトルを180度回転させると、「子供の産めない自分」も、その人の大事な個性になる。
「諦める」ということは、仏教の言葉では「理解する」という意味にあたるそうだ。
つまり「諦める」とは「明める」、明かにする、ということ。ただ単に手に入れられなかったことを我慢したり、挫折感をおぼえるという類のものではない。他でもない自分がそういう人間なのだと理解し、それをそのまま受け入れること。受け入れることによって、本当の意味での「明るさ」が得られるのである。
さまざまなアドバイスよりも、これがラクになり、新たなやる気の出てくる、おそらく唯一の処方箋であると、筆者は思っている。
あえて人生を意義深くしなくとも、はじめから人生は人生なのである。思い詰めた状態から抜け出すと、「当り前」が見えてくるのである。
2002年08月06日
■「住基ネット」は何が危険なのか?
8月5日、全国民に11ケタの住民コードをつけ、氏名、住所、生年月日、性別など個人情報をコンピューターで一元管理するという、「住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)」がスタートした。
もとは個人情報を守るための「個人情報保護法案」とセットになって施行されるものであったようだが、この法案の可決がままならないまま、見切り発車されたようだ。マスコミの論調を見渡しても、個人プライバシーの流出を危惧する声、管理する行政への不信感が噴出している。反対を表明する地方自治体もかなり紹介されている。
一番の問題は、管理する側の行政が国民にまったく信頼されていないということだろう。逆に言えば、この一点に尽きるのではないか、と筆者は思う。
なぜなら、IT化がここまで進んできている以上、これまで以上に明確な形で情報管理することは必要だからだ。住民コードは国民につける背番号だと反発する声もあるが、それを言ってしまったら、電話番号も口座番号も、あるいは健康保険にもパスポートにも、すべて番号がついている。番号がなくては生活自体が成り立たない。野球選手もサッカー選手も背番号をつけているのだから、それ自体は悪でも何でもない。
番号を強調して、それを支配者の陰謀のように語るのは、政府のすることをすべて悪だと捉えたがる人たちの、一種の過剰反応だと、筆者は思う。
こうした問題を考える大前提として、政府なり行政なり、秩序を管理する機関は、誰がどう政権を取ったとしても必要なものだ。それをただ単に個人の自由を侵害するな、権利を守れと言ったところで、現実味は感じられない。
もちろん、先にも触れたように現政府が国民にまったく信頼されていない以上、こうした声が湧き起こることは、当然のことでもある。筆者もべつに政府を擁護しているわけではない。ただ、自分がそちらの側の立場になったとき(実際にはありえないと思うが)、当然、仕事を能率よく、円滑に進めていくことを考える。
その延長上には、今回のような住基ネットの発想も出てくるかもしれない。
それに反対するというのなら、ただ反対するだけでなく、自分が彼らの立場であったとき、ではどんな方策を取るのか、キチンと考えてみることだ。かつての社会党がなぜ零落したかというと、反対はしてもそうした心構えがまったくできていなかったからではないのか? 社会党は市民政党をうたってきたと記憶するが、筆者に言わせれば、市民もまったく無責任だとしばしば思う。結局、似たり寄ったりではないのか?
筆者は、個人情報が漏れることに対し、じつは必要以上にナーバスになっていない。
出かける時にはカギをかけるべきだし、諸々最低限の注意は払っているつもりだが、そんなことよりも、みながプライバシー、プライバシーとまるで口にしながら、結局心を閉ざしているだけの現実のほうが、よっぱど「危険」であると思う。
個人情報なんて、多少はバレてもいいのではないか。権利がどうこうと言っているが、要するに他人を怖がっているだけではないのか?
その怖がる意識が無用な憶測や誤解を生み出し、さらに他者との壁をつくりあげる。その壁をどうすることもできない人間が、同じ人間の作った法案に反対したところで、なんら説得力はないし、現実が変わるとも思えない。
住基ネットにしても、もう少し議論すべきだとか、個人の希望で選択できるようにすべきだ、あるいは、情報の一元化が危険だといった声もあるが、どんな手法を取ったところで結局情報は漏れる。よりよいシステムを整備することを目指す一方で、その点についてもみなが認識し、それをふまえた生き方を模索していくべきだろう。
本当は壁がないところに、壁を作ったのは誰なのか? 線を引いたのは誰なのか?
そんな作ったものを守るくらいなら、それをほどき、利用するならしてみろと言えるくらいの気持ちを持てるようになったとき、理性的な情報管理の術も見えてくるのである。反対のための反対から、まずは抜け出すべきだろう。
2002年05月18日
■政党を無くせば、政治は変わる。
前回に引き続き、「政治」をテーマに筆者の考えを述べさせてもらおう。
以前、深夜のバラエティー番組を見ていたら、珍しく共産党の志位和夫委員長がゲスト出演しており、硬軟混ぜながら自分の政治哲学などを語っていた。
話を聞いていくと、彼らの政党が政権奪取したとしても、たとえばすぐに自衛隊を廃止するようなつもりはないという。日米安保条約にしても、同様。自分たちの理念をいきなり現実化することは、さすがに難しいと思っている。世の趨勢を見ながら、少しずつでも理想に近づけていきたいといったところが本音なのだろう。
筆者が思ったのは、要するにどこの政党が政権を取っても、急に世のシステムが変わるようなことはありえないのだということ。
まあ、ある意味当り前の話だ。問題は、けっきょく共産党ですら現実主義的な発想ができてるというのに、みながみな互いに「違い」ばかりを主張し、国民に一生懸命「党の個性」をピーアールしようとしているということ。自分たちのカラーを明確にし、それをキチンと伝えれば支持が得られる、広がると単純に思っているのかもしれないが、本当にそうなのだろうか? それで他より抜きん出ることができるのだろうか?
ハッキリ言えば、過去はともかく、現在には右も左もないのである。
当り前の感覚で物事を突き詰めていけば、だいたい最後には同じ結論に行き当たる。せいぜいその結論へ向かう過程に、個々の思惑の違い、発想の違いが浮き出るだけで、その程度の差異などわざわざ政党を作って言い争うほどのものではない。すぐに結論を出せるような問題が、必要以上に話し合われ、事態を停滞させているのである。
要するに、筆者に言わせれば、政治にほんらい政党など必要ない。
ただ、多くの人が民主主義を過度に信仰しすぎているため(言い換えるなら、独裁政治に対する潜在的な恐怖感から抜け出せないため)、なにか保険でも賭けるような感覚で「政党政治」を容認している。不要なものを不要と言えないまま、「どうしたら政治不信が払拭できるのでしょうか?」などと口にしているわけである。
さて、ではなぜ、政党など不要だと言い切れるのだろうか?
簡単に言えば、組織が大きすぎるからだ。だから、同じ党に所属していても、個々の意見が食い違ってしまう。自民党などは党の中にさらに派閥まであるわけだが、その派閥のメンバーがみな一枚岩かというと、そういうわけでもない。
そのくせ、議案を採決するときは、決まって党議拘束がかけられる。
個々に意見を持っているようでいて、結局、その意見はつねに何かに縛られている。自由に発言しようとすると、どこかで待ったがかかるわけである。
このような状態で、果たして自由な発想が政策に反映できるだろうか?
先にも書いたが、ここが日本という国である限り、どの党が政権を担っても、何かがそうそう変わるわけではないのである。共産党であろうが、社民党であろうが、そこには現在の自・公・保政権とかなりの共通項が浮かび上がってくる。それが現実であるにもかかわらず、政党というアイデンティティを捨てられないがゆえに、彼らは「違い」ばかりをひたすら主張し続けなければならないのである。
では、政党が不要だとして、それに代わる政治形態などありえるのだろうか?
仮にすべての政党が廃止されてしまえば、個々の政治家だけが残される。といって、人が社会に生きている以上、必ず集団は生み出される。
べつに集団はあっていいのである。それは自然なことである。
ただ個々に意思があり、発想がある以上、その集団は時と場合により拡縮を繰り返す。いつも会う仲のいい友達と、時々お酒を飲む知り合い、趣味のサークルの場で顔を会わせるだけの仲間……、人は生きている中でたえず集団の性質と規模を作り替えている。そのごく普通にやれていることを、システムに反映させればいいのである。
そうなれば、いつどんな人間と手を組むのか、すべて自分の責任に委ねられる。
共産党に所属していた人間でも、共感ができる法案なら、自民党に所属していた人間と手が組める。左も右もなくなり、ただその時々の適切な判断力、つねに何が真実なのか見極める感性だけが問われてくる。組織に所属することで、自分自身がいつの間にか思考停止していたことにも、否応なく気づかされることとなるだろう。
結局、ニワトリが先かタマゴが先かではないが、「人が先か?社会が先か?」と問われたならば、明らかに人が先なのである。
しかし、自分が物心ついたと同時にすでに社会が存在しているため、その出来上がってしまっているものに心が縛られてしまう。過去に作られたものが、未来の自分を縛り、その縛られた感覚で未来が作られるという悪循環が繰り返されるのである。
とはいえ、筆者があれこれ言ったところで、当面、政党がなくなることはないだろう。
ただ、いつも言っているように、そうした彼らが気づかぬところで、日々集合離散を繰り返しながら、自らの世界を広げている人間はいくらでもいる。彼らが自分たちの「していること」を本当の意味で自覚できたなら、やがてそこから「組織ならざる組織」が生み出され、既成の政党は存在価値を失うだろう。
読者は、この「組織ならざる組織」を、どこまでイメージできているだろうか?
それさえイメージできてしまえば、本当の「構造改革」の意味も見えてくる。目に見えるシステムを変える前に、まず自分の質を変えることが先決だということも、わかってくる。ここでも結局、「答え」は同じなのである。
2002年05月05日
■「メディア規制3法案」は、本当に危険か?
物書きの端くれでありながら、いま巷で問題になっている「メディア規制法案」について、筆者はあまり大きな関心を持ってはいない。
なぜ、関心が湧かないのか? ふと気になって問うてみると、いろいろなことが見えてきた。今回はそれについて書き綴ってみることにしよう。
「メディア規制法案」。正確には、「個人情報保護法案」「 人権擁護法案」「青少年有害社会環境対策基本法案」の3法案(いずれも通称)を指しており、これらが採択されてしまうと、当然、メディアの取材にある一定の制限が加わる。
いわく、国民の「知る権利」は疎外され、戦後の日本が育んできた言論や表現の自由が奪われる。政治家のスキャンダルも暴けない、張り込みとストーカー行為が同一視されてしまう。……などなど、「戦前の日本に逆戻りしてしまうのではないか?」と言ったような危惧の声がジャーナリストや文化人などの間からさかんに発信されている。
よく知られているところでは、真山勇一(日本テレビ)、筑紫哲也(TBS)、安藤優子(フジテレビ)、鳥越俊太郎(テレビ朝日)、田原総一朗ら、民放各局で活躍するキャスター、司会者の面々が、共同会見の場で「断固反対」を表明。
作家では、井上ひさし氏、猪瀬直樹氏、そして城山三郎氏ら。
こうして見ると、錚々たる顔触れだ。現代の日本の言論界の中心にいると有力者のほとんどが、おしなべて反対していると言ってもいい。
参考までに、そうした反対派のひとり、桜井よし子氏の発言を雑誌に寄稿された原稿の中から紹介してみよう。氏は人権保護法案を例に取り、次のようにつづっている。
「たとえば、薬害エイズ事件の被告人である帝京大元副学長の安部英氏は、私も参加した番組の取材依頼に対して自ら電話に出ながら、エイズの件だと知ると、自分は安部氏の「下にいる者」だと偽りの言葉を述べて逃げた。その後にかけた取材依頼の電話には無回答を通した。……だからこそ私は、早朝から安部氏自宅前に“張り込んだ”。……自宅から出てきた安部氏は、それでも問いには答えなかった。
こうした一連の取材を通して、私は薬害エイズ事件の不当な実態と当事者らの姿を報じた。だが、今回の法案が成立すれば、私の取材活動のほとんどは、違法行為となり、私は罰せられる。守られるのは疑惑の中にあって“物言わぬ”人々だ。責任者として語るべき義務があっても、この法案に基づけば、語らなくてもすむことになる」(「週刊ダイヤモンド」より)
たしかにそうだろう。人権保護法案は、法務省の外局として設置された人権委員会が調査をし、不当な人権侵害を救済するとうたわれているが、これによって法案作成に携わった当の政治家や官僚たちが、刑罰を免れる状況も生まれうる。反対派に言わせれば、結局それが彼らの目的なのだろうと言うことになる。
しかし、その一方で、このような法案が生み出されても仕方ないくらいに、今のメディアは乱れている、有効に機能していないという指摘もできるだろう。
筆者は反対派の人たちのすべての考えを把握しているわけではないが、その「乱れたメディア」の中枢にいる彼らの中から、「では、どうしたらいいのか?」、反対する以上の「答え」が聞こえてこない状況に、まず疑問を覚えてしまう。
ハッキリ言えば、反対するくらいなら誰でもできるのである。
それどころか、一歩間違えば、自分たちの報道のいい加減さ、曖昧さを「言論の自由」の名のもとに覆い隠し、よく言われる「情報の垂れ流し」を正当化してしまうことにもなる。そもそも、真実を追及する人ほど、じつはテレビや新聞を信頼していないという現実を、彼ら自身、少なからず感じているのではないか? 情報の最先端でいるようでいて、じつは自分が「最後端」にいるのではないかという不安も。
批判する側もされる側も、何やら似た者同士に思えてしまうのである。
では、前置きはこのくらいにして、筆者の考えを以下につづってみることにしよう。
筆者は、法案に賛成も反対もしていない。いや、政治家や官僚が本当の意味で個人のプライバシーや人権、青少年の育成のためにこの法案が必要であり、取材者の権利を不当に侵害するものでないと言うのならば、「賛成」してもいい。額面通り、彼らが彼らの職責において行動し、発言しているのだと受け取ることもやぶさかでない。
要するに、そこに邪な考えがひそんでいたとしても、知ったことではないということだ。
筆者は、いずれにしても、自分の仕事を続けていく。それは、民主主義の世の中であろうが、ファシズムの世の中であろうが、中世であろうが、近代であろうが、22世紀であろうが……、変えようがないし、実際、変わりもしない。
もちろん過ちを犯したなら、キチンと認識して、謝罪することも必要だ。
それが法に触れるのだとしたら、罰せられることも仕方ない。反対派の人たちも言っているように、取材と人権侵害の境界はスレスレなのである。それは善でもあり、悪でもある。「ストーカーまがいの取材」を悪と決めつけるのも問題だが、かといって、彼らのように(無意識のうちに?)に善の側に立っているような発言も、一種のご都合主義と言えないか? ただ単に「被害を被りたくない」だけではないのか?
法で規制されていようが、なかろうが、自分が必要だと感じたら、するしかない。
それで不当に罰せられたとしても、自分のしたことに自信があれば、それ自体が問題提起の材料になる。ジャーナリストが政治家の保身を批判し、なれあいに憤りを覚えるのなら、そこでそうではない「体を張った」主張をすればいい。
こうして見ていけば、多くの人が自分たちの作った「法」によって縛られ、絡めとられている現実が浮かび上がってこないだろうか?
法はあくまでもお約束のルールであって、人の本質に関わってくる決まり事ではありえない。我々は何かをするとき、まずはじめに自分自身の良心に問う。六法全書などは読まないし、憲法やメディア規制法案を知らなくとも、あるいは制度のまったく違う国で暮らしていても、心の中で必ず自問自答しているはずである。
そこで違和感をおぼえたら、その行為に「待った」がかかるかもしれない。
それが規制の本質なのである。「そんなものは曖昧だ」「法に照らし合わせなければ、善悪は判別できない」というのなら、自分の感覚はいつまで経っても磨けない。価値観はどこまでも細分化されていき、他者との共感は芽生えない。法という理屈に対して、「反対」という理屈だけで対抗していたら、また次々と法が生まれるだろう。
いまは過去の時代にないほど、多くの人たちの意識が成熟しはじめている。
さまざまな苦難を経ることで、「不当な投獄」「過度な弾圧」はしにくい状況が生まれている。逃げ腰にならず、自分の意見を貫く姿勢さえあれば、それを支えようという人たちは必ず現われる。いま若者たちが「シラケている」などと言われているもの、裏を返せば、シラけてしまう現実が存在しているからではないか。
ただ権利、権利と主張するだけでなく、シラケた彼らが目を覚まし、注目せざるをえないような状況を作り出すことが先決だろう。反対を表明した方々は、失礼ながら、そこまでのビジョンをお持ちだろうか? あるというなら、それを伝え、認知させることこそが、いまメディアに課せられたいちばんの責任ではないだろうか?
ないというのなら、それを探し、明確にすることからはじめるべきなのである。
2002年02月15日
■本当の「したたかさ」を身につけるために。
最近つくづく感じるのは、多くの人が自分を見失っている、ということだ。
自分。自分の気持ち。もっと具体的に言うなら、自分のしたいこと、望んでいること。この肝心なことがスミに追いやられ、それがやれない、できないという現実が、当然であるかのように居座り続けている。
いろいろな事情はあるだろう。多くの人が時間がない、金がないと感じている。
加えて、大小の挫折経験を経るうちに、自分には才能がないと諦めている人も少なくはない。彼らの使う「現実」という言葉には、それなりの説得力がある。
しかし、そのような思いを抱くのなら、また逆の問いかけも必要だろう。
すなわち、では時間があったら、お金があったら、本当にやりたいことがやれているのか? 本当にそれが「やれない」ことの理由なのかと。
また、才能の有無についても、同様のことが言える。
才能があるから、やりたいことがやれるというのか? もっと単純にやりたいから、やる。才能はそのあとについてくる。やりたいことをやる、やり抜くこと自体が才能なのである。この才能は、意志と言い換えることもできるはずだ。
意志を持つ。持ち続ける。これだけのことができないとどんな現実が待っているか……、それを自分の人生で証明したところで、誰も褒めてはくれない。持つだけでいいものを持たないでは、あらゆる努力も空回りしてしまう。
筆者がこのようなことをあえて言うのも、みなしたたかさが足りないと思うからだ。
つらい状況、不自由な状況から脱するためには、自分自身を変えるしかない。それは誰もが感じている。しかし、自分には才能がない、意志がない。加えて、時間もない、金もない……。だからできない、無理だ、諦めるしかない。
こんな堂々巡りをどう克服するのか? これは誰もが突き当たるひとつの壁に他ならない。しかし、その壁が乗り越える快感や喜びをもたらすもとなのである。
したたかさといったのは、壁を乗り越える知恵を身につける、ということだ。
ずるくなれ、ごまかせということではない。
たとえば筆者の場合、現在のように物を書く仕事をするまでに、かれこれ10年ほどの年月が経っている。ハッキリ言えば、文章は誰もが書ける。うまいヘタは慣れの問題だ。しかし慣れたところで、自分の世界が確立できるわけではない。結局、自分の意志を何らかの形で表現するしかないことになる。そこでひとつの「壁」に突き当たる。
表現するには形が必要だ。形を残さねば、何の証拠も残らない。もちろん、ただ形にするだけでもダメ。プレゼンテーションも必要。
そのように考えていけば、結局、物書きは物を書くだけではだめだという発想になる。
物書きに限らず、何かを表現する際には、「人に伝える」という前提がまず問われる。伝えるには、伝える工夫が必要。ただの古ぼけた茶碗も、そこに価値を吹き込めば、億の単位のつく名品になる。価値に値する器であるかも問われるが、それだけではダメだということだ。自分を総合プロデュースする感覚が問われてくる。
思えば筆者は、若い頃から自分があまり人に理解されてないという感覚を持ってきた気がする。違和感、いやもっとダイレクトに不安と言い換えてもいい。
ちょっと変わったところがあったからかもしれないが、だからといってカラに閉じ籠ってしまってはその不安は延々と続く。それでは不自由だ。おもしろくはない。そこでヘンに開き直ってしまったら、一時期、宗教にはまってしまった若者たちと、同じ道をたどったことだろう。もちろん、それで問題は解消もされない。
どうしたら、伝えられるのか? 伝えるには、伝えるに値する価値を持たないとならない。そして、伝えるためのノウハウを持つ必要もある。
筆者は、日々暮らしながら、そんなことばかりを考え続けてきた。
才能ではないのだ。同じ時間、同じ仕事の中でも、ただこのことを心がけ、さまざまに気を配ってみる。そうすれば多くの人が、うまくいかないことを人のせい、まわりの環境のせいにするだけで、実質的な努力をしていないことにも気づかされる。
いや、私は必死に努力している。こう反論する人もいる。
しかし、伝わっていないという現実があるのなら、その現実のほうが重要なのだ。相手の頑張りを、どこかで期待していないか? 誰それがこうしてくれなかったから、うまくいかなかったのだと、そういう発想に支配されてはいないか?
結果的にうまくいく、成功する。それが重要なのだから、そのために行動する。
相手の努力を前提にしない。自分ひとりでも最低限の結果が出せるよう、どう転んでもとりあえず何とかなるよう、さりげなく状況を整えていく。それがしたたかさだ。相手が協力してくれるなら、なおOK。協力がなければマイナスになってしまうような、そんな他人次第のプランは立てない。それで動いてくれない相手を恨むのは筋違い。人をうまく使えない自分自身のやりかたに目を向け、改善するしかないだろう。
こういうやりかたを続けていけば、不器用でも次第に人に認められるようになる。
10年続けられれば、それが当然のようになって、ラクに感じるようにもなる。
不器用だから、才能がないから、却ってこうした発想が持てたのだと、「必要は発明の母」という言葉が思い浮かぶようにもなるだろう。
自分の意志さえ持っていれば、現実はあとからいくらでもついてくるものなのである。
ただそれだけのことができない。10年というと、エーッそんなに!とリアクションしてしまう。しかし、「自分を信じる」ということを実践するには、最低限、このくらいの期間は必要だ。それでようやく自分の人生の入場券が手に入る。
こうしたことを学校で教えていないのだから、誰もが迷うのはある意味当然だ。
しかし、学校のせいにしてもしかたない。「そんなヒドイ教育を受けても、おれはここまで理解することができた。自分で自分に対してここまで学んだ」、そう思えるほうが人生はよほどドラマチックである。そして、したたかでもある。
したたかさとは、自分の人生にドラマを感じることなのである。
とにかく形を残そう。形とは自分が意志を持っていたことの、証拠なのである。形を残し、それを磨くため、最大限のしたたかさを身につけよう。
2001年11月12日
■田中真紀子氏がいまだに支持されつづける理由。
筆者には不思議でならないが、政界混乱の元凶のひとり、外務大臣の田中真紀子氏がいまだにかなり高い支持率を誇っている。
たとえば就任半年後にあたる最近、フジテレビ「報道2001」が首都圏の成人男女500人を対象に行った調査では、60.6パーセントが「支持」(調査日は11/8、9)。外務省の人事やら国際会議の出席やらをめぐりあれだけ問題が噴出してるというのに、まだ過半数の人が彼女の言動に期待を寄せているわけである。
これは正確に言えば、彼女への期待というより、外務省をはじめとする日本の役人に対する不信感が根強いことの現れと言えるだろう。
しかし筆者に言わせれば、田中氏にいくら期待したところで、抜本的な外務省改革などできはしない。それは言うまでもないが、まともな感覚を持った外務省の役人ですら、彼女の言動を支持していないと思われるからである。あれだけエキセントリックな性格では、あまり深く関わりたくないと思うのが人情ではないだろうか?
つまり、彼女を支える役人がいつまで経っても現れないのは、彼女自身の資質に問題があるからであって、それ以上の理由などありはしはない。仮にそうではないというなら、すべての役人たちが利権にまみれた極悪人ということになってしまう。……こんな単純な勧善懲悪の構図を、田中氏の支持者は思い描いているのだろうか?
確かに報道されたような「利権まみれの役人」も、少なからずいるだろう。
いや、長く組織に関わっていれば、みなどこかで探られたくないハラは持っている。しかし同時に、その現状を必ずしもよしと思っているわけではない。変えていかなければという意欲も、心のどこかにひそませている。……おそらくこうした感覚が、ごく平均的な(外務省にかぎらず)役人たちの感覚ではないのか? 自分自身に照らし合わせればわかるだろうが、人の意識とはとかく単純には語れないものなのである。
……果たして田中氏が、こうした機微を感じ取れる人間であるかどうか。そのような対人関係のトレーニングを、キチンと積んできたのかどうか?
先の参院戦における群馬での応援演説などを見るにつけ、筆者の目には、氏が信用できる人間には、どう考えても映らない。
応援された候補が落選したのはべつに彼女の責任ではないという声もあるが、そんな「原因究明」などより、人が命を賭けて挑んでいる「戦い」にほとんどやっつけ仕事のように関わってしまう、あの態度が問題だろう。しかも、応援演説をいそいそと切り上げると、郷里で開かれた有名指揮者のコンサートに向かったという。結局彼女は、人の心が見えてはいない。いま役人たちにイジメを受けているなどという人がいるが、ただ単にそうした所業のしっぺ返しを食ってるだけではないだろうか?
悪を悪と呼び、それを糾弾することは簡単なことである。しかし、いくらそれが正論でも、人が動かないという現実。その原因を何かのせいにしているかぎり、人心を惑わすアジテーションばかりが繰り返される。本人は少しも成長しない。
物事はそのように単純に善悪に分けられるものでも、悪を無くせば善のみの世界になるわけでもない。それらの善悪を手玉に取れるくらいの器がなければ、状況が変わることなどありえない。……そのことを、みなもっと自覚するべきではないのか?
田中真紀子を支持する人の多くは、結局どこかで、この世の中のことを人事のように思っているのだと、筆者は思う。誰かが変えてくれる。何とかしてくれる。……問題の原因を棚上げにし、あとは「無責任」を気取っている。しかし、そういう人間は世の変動期に、混乱するだけの「烏合の衆」になってしまう。
それを「恐い」と思えるかどうか? イヤだと感じれるかどうか?
結局最後は、自分自身に降りかかってくる。なんとかなると思っていても、することをしていなければ、なんともならないのが人生なのである。
2001年09月16日
■「ブラック・ジャック」とU・ビンラディンの違い。
手塚治虫の代表作のひとつ、「ブラック・ジャック」を読んだことがあるだろうか?
ヒューマニズムの作家などと賛えられながら、どこか人間不信の臭いが漂う手塚作品の中にあって(と、筆者は彼の作品を評価するわけだが)、この「ブラック・ジャック」(以下、B・Jと略す)は別格である。初出は少年向けの連載漫画であったにも関わらず、主人公B・Jの生き様がある種のメッセージを伴って伝わってくる。そのメッセージの奥行きが、他にはない、大きな魅力を醸し出しているわけである。
知らない人のために、大まかなストーリー設定について説明していこう。
主人公B・Jは、天才的な腕前を持つ外科医師。無免許でありながら勝手に開業し、しかも法外な報酬を要求するため、医者仲間には評判が悪い。ただ、彼のオペを希望する難病患者・重傷患者が後を断たないため、最後はその腕に頼らざるを得ない。彼のことを悪く言う人間は、偏屈、金の亡者、冷酷とののしるわけだが……。
じつは彼は少年時代、母親とともに不発弾の爆発事故に巻き込まれ、ある医師の献身的な治療により一命を取り止めるという、悲劇的な体験をしていた。
極限とも言えるリハビリののち、奇蹟的に社会復帰。
しかし、その全身には無数の縫い傷、頭髪は半分が真っ白、顔は故あって黒人の子供の皮膚を移植のため、ツギハギのように色が違う……。
しかも、悲劇はそれだけではない。ともに事故に遭った最愛の母は半身不髄のまま、治療の甲斐もなく他界。事業家だった父は女を作って香港に逃げてしまい、消息不明。少年のもとには、想像を絶する絶望感だけが残されてしまう。
と、ここからが「面白い」ところだ。こうした悲劇を背負った少年B・Jは、ここで復讐と救済という、相反するふたつの人生を歩んでいくことになる。
自分の命を救ってくれた医師、本間丈太郎に対する過剰とも言える思慕の念。彼の影を追うように医学の道を目指した彼は、事あるごとに「本間先生の悪口を言う奴は俺が許さない!」と声を荒げ、天才と言われた彼の技を継承するように、外科医としての腕を上げていく。かつての自分と同じ様な重傷患者を、次々と救っていくわけである。
しかしその一方で、自分を事故に遭わせ、母を死なせた者への復讐も忘れない。
うやむやのうちに処理された事故に対し、彼は独自に真相を調べ上げ、「復讐の対象」が5人いるということを突き止める。彼らはみな事故のことなど半ば忘れ、それぞれの世界で出世を重ねていたわけだが……、B・Jはひとりひとりを緻密な計画で追いつめ、自分と同じ苦しみを体験させ、しかも最後には「武士の情け」で治療を施す。そうした逸話を記した回が、長期連載のところどころで顔を出すわけである。
B・Jの屈折した生き様の背後には、こうした復讐を遂げたところで拭うことのできない悲しみが潜んでいる。しかし、復讐をしないことには、この悲しみをよそにのうのうと生きている者たちに鉄槌を下せず、自分の気持ちも収まらない……。
彼がなぜ執拗に金を欲しがるのか、人に心を開かないのか、夏でもなぜ黒のコートを着ているのか……、こうした設定のひとつひとつがすべてそこへとつながっている。単純に彼のことを愚かと言えない何かが伝わってくるわけである。
さてここで、なぜこうした作品が人の心を捕えるのか、少々整理してみよう。
物語を読み進めていけばわかるが、彼の一連の復讐劇には、明らかに「正当性」がある。日本は確かに法治国家だが、いくら司法制度が完璧に機能していたとしても、そこには収まりきらない感情というものが必ず存在する。
とてつもない悲劇を背負ったB・J少年は、その悲劇が裁判などで解決されるものでないことを、それでは本当の復讐にならないことを、否応なく自覚した。しかし、法の裁きを拒否することは、自らもその法の枠外に置くことである。自らが責任のすべてを請け負った上で、誰にも頼らず、独力で「相手を裁く」ということである(彼が無免許医を頑なに貫くわけも、おそらくそこにあるにちがいない)。
これがテロリズムの思想であることは、言うまでもないことだろう。
しかし、B・Jは同時に天才的とも言える医師なのである。切り刻んでも惜しくはない復讐相手にですら、治療の手を施してしまう。そこにこの物語の「救い」がある。復讐と救済が表裏一体となることで、読む者に自然とカタルシスがもたらされる。B・Jの持っている本当の優しさや、にもかかわらず素直になれない、なったら自分はダメなのだという屈折した感情も、ひとつの共感を呼ぶ要素として機能しはじめるのである。
……長々とB・Jという架空の人物について書き綴ってきたが、じつはいま筆者の脳裏には、全米をゆるがした「多発テロ」の首謀者と見なされるウサマ・ビンラディン氏の顔が思い浮かんでいる。彼もまたB・Jとよく似た感情に基づいて、アメリカに対する「復讐」を施したのではないか……と思えてならないのである。
しかし、筆者は彼とB・Jの「復讐」には、根本的な大きな相違があると感じている。
B・Jは、天才的な技術によって目の前の患者を救う。そこにイデオロギーや国境、肩書きなどの分け隔てはない。先にも記した通り、復讐相手ですら、(激しい葛藤に襲われながら)救ってしまう。しかし、ラディン氏の標傍するイスラム原理主義は強固な思想ではあっても、そのようなボーダレスな広がりはない。
彼らがこの世界を相手にしていないからである。神の世界での救済を目指す。この世界にイスラムの理想を広げようという方向とは、どこかかけ離れている。
巨大な資産家であるというビンラディン氏は、その豊富な資金を活用することで、自分たちの悲劇や苦境、アメリカの非道さなどを、もっと有効な形で世界に伝えることもできたのではないか? あれだけの才覚や人望があるのなら、敵の血を流すのではなく、メディアや世論を動かすことでアメリカに「復讐」することも……。
そうした選択ができなかったのは、彼が神を相手にするだけで、本当の意味で世界を相手にしてこなかったからだと、筆者は思う。そこにB・Jのストーリーとは似て非なる、一面で同情はできても、最終的には共感することのできない溝が見えてくる。それは、現代のアラブ社会を取り巻く閉塞感そのものでもあるだろう。
医師であるB・Jは、結局人を相手にしていた。そして救っていた。
今ここに生きている人たちに目を向ける感覚さえ忘れなければ、復讐はプラスへと転化されうる。復讐そのもの(それに付随する暴力そのもの)を否定するのではなく、それを受け止める度量と、投げ返す方向性こそ重要だろう。
B・Jのメスが人助けばかりに用いられなかった理由も、そこにあるはずだ。
2001年09月14日
■「対米同時多発テロ」と日本のサムライ。
いまテレビをつけると、どのチャンネルでも、アメリカを襲った未曾有の「多発テロ」報道が繰り返されている。
現地時間で、9月11日午前9時前後(日本時間では、午後10時前後)。
アメリカの富の象徴であるニューヨークの南北二つの世界貿易センタービルに、それぞれハイジャックされた旅客機が飛び込み、両ビルは炎上。2時間も経たないうちに、タテにドーッと崩れ落ちるように瓦解。同時刻に、軍事の中枢であるワシントン近郊の国防総省(ペンタゴン)にも航空機が飛び込み、こちらも大きな被害を受けた。
被害者は総計で6千人以上にも及ぶと報道がなされているが、建国以来、アメリカの国土がここまでの大打撃を受けたのは初めてのことだろう。物理的、経済的以上に、まずアメリカ国民の精神的ダメージが想像できるわけだが……、さて、我々はこの事件をどのように受け止め、いったい何を学べばいいのだろうか?
ブッシュ大統領は、アラブ系テロ組織の犯行を言外に匂わせながら、きびしい口調で「アメリカの自由が侵害された」「正義は我々にある」「悪は裁きを受けなければならない」といった声明を矢継早に発しているが、テロを決行した側からすれば、おそらくまったく同じ感情をアメリカに対して抱いていることだろう。
どちらも正義を主張し、それが戦争へと発展することは、今回にはじまったことではない。それは人類の繰り返してきた、歴史パターンそのものである。残念ながらここまで事が起こってしまった以上、アメリカ側の報復は必ず起きる。それが「第三次世界大戦」とでも呼びうるものに発展することも、十分に考えられるはずだ。
ではなぜ、このようなことになってしまったのか?
事件の経過を見てもわかるとおり、旅客機をハイジャックしてビルに飛び込んだテロ犯は、自らの命を捨てることを前提に計画を立て、しかも高度な操縦技術によってそれを成功させている。彼らの背後に噂されているようなアラブ側の黒幕(ウサマ・ビンラディン氏)がいるとするなら、日本で起こったオウム事件とは比べ物にならない緻密さ、その組織や指導者に対する忠誠心、信念などが見え隠れするだろう。
つまり彼らの行為は狂気であっても、理性まで失っているわけではない。
こうしたテロを起こせばどのような被害が生ずるのか、アラブとアメリカの間で戦争の起こる可能性、世界経済への負の波及なども、当然のことながらリアルに想像ができていた。彼らはそうしたリスク、多くの人の命を奪うという非道さを受け止めた上で、それでもひとつの決意をもってテロを決行したと思われるのである(繰り返すがそのあたりが、サリンを蒔いたオウム信徒たちと決定的に違うところだ)。
筆者はなにも、アメリカを非難し、テロ側を支持しているというわけではない。
しかしこれだけの規模の惨事が起こったということは、言い替えるなら、そのような惨事を引き起こしても足りないほどの憎悪、敵がい心を、彼らがアメリカに対して抱いているということでもある。アメリカが彼らの誇りをそれだけ傷つけ、踏みにじってきたことも十分に想像ができてしまう。「窮鼠、猫を噛む」という言葉があるように、ブッシュ大統領の口にするような善悪の単純な図式だけでは、テロを起こした側の意識の面までは踏むこむことはとてもできない。国家どうしの連携でテロ組織を打倒できても、時を経て、第二、第三の組織が結成されるだけの話ではないか。
とくに今回の事件に関しては、強大な軍事力・経済力を振りかざしながら自己の正義を主張し続けてきたアメリカ流の「覇権主義」が、結局のところ、テロを引き起こしうるひとつの原因を作りだしていたと指摘することもできる。
事件によって失われた尊い犠牲は、アメリカ人自らが呼びこんだ結果かもしれないのである。その現実に当の彼らが目を向け、自分たちが蒔いてきたタネに気づくことができるかどうか。互いが正義を主張し続けている以上、力の優位な側が劣る側の立場や心情を理解し、敬意を払う「寛容さ」を見せない限り、弱者はさらに知恵を振り絞り、彼ら流の意地を見せつけようとするものなのである。
おそらくアメリカは(アメリカ政府は)こうした感覚の希薄なままに、従来のやり方で世界を巻き込み、相手をねじ伏せようとするだろう。強硬派のブッシュが僅差で選挙に勝利した時点でこのあたりの展開は十分に予測できたわけだが、彼らの選んだ大統領によって、彼らは彼らの未来を選ぶことになる。その結果がいかなるものか……、これから5年、10年というスパンの中で徐々に明らかになっていくはずである。
さて問題は、いまだ対岸の火事と受け止めている感のある、我々日本人である。
日本人はもともと危機管理意識の欠如した国民と言われているが、同じような災害(天災、人災を含む)に見舞われたとき、どう対すればいいのか……、日頃から不安に思い、さまざまに思いをめぐらせている人も少なからずいるはずである。
そうした人たちのために、筆者はここで、江戸時代の武士たちの話をしたいと思う。
ご存じのように江戸時代は、260年もの長期にわたって、大きな戦争のほとんど無かった時代である。同時代のヨーロッパに比べたら信じられないほど平和な時代だったわけだが、じつは武士道と呼ばれるサムライたち特有の処世術、死生観は、この時代の中で骨づけがなされ、体系化された。つまり戦争がなくなり、自分たちの存在意義が揺らぎ出したところで、それを補う発想が生み出されたわけである。
平和な時代、刀を抜く必要のほとんどない時代、……しかし、もしかしたら万が一の機会があるかもしれない。その時に武士としてふるまうことができるか?
日々の生活の中に存在意義を見い出すことのできた町人(職人や工人)や農民たちに比べ、彼らはひとたび自分らしく生きようと意図しはじめると、たえずこの「万が一」を想起せざるをえなくなる。「万が一」をシミュレーションすることで緊張感を維持し、それが凛々しさや凄みとなって姿形に現れていたわけである。
もちろん、すべての武士がそのような「立派な」生き方ができていたわけではない。
「旗本八万騎」といって江戸幕府の創設に貢献した武士たちの子孫は、平和な歳月の中でその多くが堕落したと言われ、幕末の動乱期にはほとんど役に立たなかった。しかしその一方で、身分の低かった下級武士や、武士の身分すら持たない郷士、農民などの中から、国の危機を救うサムライたちが少なからず現れている。
平和だから、危機管理能力がなくなってしまうのではない。自分自身にさまざまな思いをめぐらす想像力さえあれば、「対岸の火事」に対しても批判や批評を口にする以上の何かを学びとることができる。アメリカ人もアラブ人もおなじ目線で捉えた上で、その融合(和解)の可能性についてもリアルに想起することはできるのである。
「対岸」にいる「余裕さ」のメリットすら生かし、「万が一」に備える感覚。
サムライたちの残した想像力のDNAを、日本に生まれた我々自身が思い起こし、フルに活用させていくことで、事件に対してはじめて「人事とは思えない」という、リアルな感情が芽生えてくる。……それが、あれだけの犠牲を出した惨事を無駄にさせない、唯一の方法ではないのか? 海の向こうの話だからと言ってそこで思考停止してしまったら、その人自身がやがて「被害者」となってしまうことだろう。
2001年08月17日
■「織田信長」では、構造改革はできない。
いま政治や経済の世界を中心に、さかんに「構造改革」の必要性が説かれている。
その捉え方については、すでに他の著作の中でも幾度か触れているが、ここでは「なぜいつまで経っても、構造改革がままならないのか」、その点について再度考えてみたいと思う。
結論を言えば、今の小泉内閣が奮闘努力しても、そう易々と構造は変えられない。
なぜか? まず人が変わらなければ、システムもスタイルも何も変わりはしないからだ。しかし、多くの人は変わるといっても何をどう変えたらいいのか、その「答え」なり「ビジョン」なりをハッキリと持ってはいない。当然、そんな人たちがメディアなどでシステムの不備を指摘しても(それによって、そのシステムが改善されたとしても)、また別のところから問題が噴き出してしまうものなのである。
変わるとはどういうことなのか、それによって当の自分自身がどう変化するのか?
まず問わなければならないのは、この点に尽きている。外務省やら警察やら、そうした組織の「汚点」を突ついたとしても、それが理解できないかぎり、結局のところ、その関係者がさらし者にされて、謝るだけで終わってしまうだけだろう。
そのへんのあてどない「構造」に、そろそろ気づくべきではないのか?
とはいえ、現実問題として、やがて「構造」が「改革」されるときはやってくる。
なぜかということに関してもすでに筆者は見解を述べているが、簡単に繰り返すならば、それが自然の流れ、成り行きであるからと言うほかない。
不自然なものは、遠からず、必ず自然な方向へと戻ろうとする。その点は、大局的に見れば、人も自然も社会も、みな同じ「構造」の中にある。
だから無理に頑張ったり、あれこれ心配する必要は必ずしもない。いずれはどのような形にせよ、世の中は変化していく。そして滅びてしまう国、分裂してしまう国もあるわけだが、日本は一貫して「必要な努力」を積み重ねてきた経緯があり、不自然な原因が淘汰されていけば、むしろ抑え込まれていた力が溢れ出るようになる。
えっ、日本てそんな努力をしてきた国なの? と思った人は、もっと平明な目と耳で、もう一度世の中のことをお勉強し直したほうがいいだろう。したたかで賢い人たちは、さまざまな社会問題が噴出し、閉塞感が問われているなかでも、キチンと見る目を養っている。問題は、その不自然な「原因」の中に自分自身が含まれてしまっているのか? 改革される「構造」といっしょに、淘汰されてしまうような生き方をしているのか? 第一に深刻に問うてみなければならないのは、その点なのである。
怖がらなければならない立場の人は、もっともっと怖がったほうがいい。
ところで、こうしたカラクリのわからない人たちは、はたから見るにつけ、ある種の「暴力革命」のようなものを夢見ているところがある。
つまり、改革を断行するには、多少乱暴でも実行力のある政治家が現われ、さまざまな障害を乗り越えていかねば、とても変わるものではない。たとえるなら、戦国時代の織田信長のような人物こそ、最も必要なのだと言うことらしい。
筆者に言わせれば、ただ世の中の気が熟していないだけなのだが、みな何を焦っているのか、日本がダメになる、日本がダメになると呪文のように唱え、それを食い止めるためには劇薬を投与しなければならないと、そこかしこで説いているわけである。
そもそも筆者は、信長という人物をそういう点でまったく買ってはいない。
彼のような人格に欠陥のある、思いつきで行動するタイプの人間は、人材登用やシステムの整備に多少の合理性が見られたとしても、「だから何?」というほどのものでしかない。昨今は信長好きの人が多いので何かと反論もあるかと思うが(いずれ一冊の本にまとめるつもりなので、それを参照してもらいたい)、筆者は「結局信長が好きだという人は、田中真紀子のような政治家を支持しているのと同じではないのか? 本当に彼女が政治を変えられると思うのか?」と問いたいのである。
みな、田中真紀子というヒステリック体質で、人の心がわからない女性(としか言いようがないと思うのだが、いかがだろうか?)に対し、ただ言いたいことをズケズケ言えるというだけの理由で、無意味な期待をしすぎているのではないか?
当り前と言えば当り前のことだが、人の上に立つ人間にとって最も必要なのは、部下たちの心をつかみ、把握し、しかも心服させるだけの器量にある。そんな基本的な能力のない人間がいくら「改革の大鉈」を振るっても、必ず反発に遭う。
信長にしても、彼が配下の明智光秀に謀反を起こされたのは、光秀が「保守的」で「頭が固く」、信長の「改革」を理解できなかったからというわけでは必ずしもない。そう考えるよりも、もっと単純に、「こんな人にはとてもついていけない。自分でチャンスをつかんだほうが、よっぽど将来がある」と、思ったからではないのか? ただそれが思いがけぬ秀吉の対応力により、失敗してしまった。だからといって信長が家臣に見限られたという事実は、決して変わることはないのである。
それよりも、もっと当り前のことができる自分になろう。中途半端な人格の人間を劇薬扱いで評価するのではなく、もっとみなで納得して動いていけるだけの人間的な器量を、自分の与えられた役割の中で身につけ、発揮していく。
それができない、したくない、面倒だという人が、日頃の溜飲を下げるくらいの理由で、アジテーションの得意な人に喝采を送る。そんな無責任な体質から抜け出すことができれば(それが「構造改革」である)、そこにはもっとオーソドックスでスタンダードな、それゆえに手応えのあって刺激的な世界が待っている。残念ながら、信長はそこにはいない。彼のような人物に「頼ろう」という発想もなくなってしまう。
ちなみに筆者があの時代で最も魅かれるのは、豊臣秀吉と武田信玄である(エキセントリックという意味では、信長などより、謙信のほうがはるかに面白い)。
読者にはそのワケが見えてるだろうか? それがわかったとき、はじめて改革や変化の意味も見えてくる。我々の進むべき道も、自然と浮かび上がってくる。
改革とは、「普通になる」ということなのである。
2001年05月12日
■日本人の「アメリカ信仰」について。
先日、「ニュース・ステーション」にゲスト出演していた大橋巨泉氏が、日本のプロ野球の現状に対して、次のような発言をしていた。
「日本の野球中継(巨人戦)がいま低視聴率に喘いでいるが、もともとアメリカよりレベルが低いのだから、当然の話。メジャーではロクな実績を挙げていないカブレラ(西武)やペタジーニ(ヤクルト)があれだけホームランを打てるのが、なにより現実を物語っている。巨人だけに戦力の偏ったいまのシステムを変えないかぎり、日本のプロ野球に明日はない。しかし、それも難しいだろう。私はほとんど諦めている」
……だいたい、このような内容だったと記憶している。
大橋氏は芸能界をリタイアして以来、アメリカやオーストラリアなどを拠点にして事業を展開していると言われているが、やはり「本場はアメリカ」という意識が強いようだ。まあ、有能な国際人と言われる人のなかには、そうした感覚を持った(それゆえいまの日本にダメぶり?を感じてしまう)人は少なくないわけだが……。
しかし筆者は、「それは彼らの“頭が良すぎる”からだ。その長所が逆にアダとなって、日本という国の本質を見えなくしている」と、思っている。詳しくは、間もなく発表予定の新作「人が「脳」を超える時代」(*「脳を超えてハラで生きる」のこと)の3章あたりでも論じているが、ここでは野球の話を例に挙げながら、カンタンに触れてみることにしよう。
たとえば大橋氏は、「日本の野球のレベルは低い」と言うが、本当にそうなのか?
メジャーに挑戦した日本人を例にとれば、野茂にはじまり長谷川、佐々木……と、ピッチャーに関しては、先発、中継ぎ、抑えとすべてのタイプが実績を上げている。おそらく実力的に見て、各球団のエース級のピッチャーならば(中継ぎや抑えのエースも含め)、みなそこそこの成績は挙げられるとみておかしくないだろう。
逆に言うなら、カブレラやペタジーニがホームランを連発するのは(カブレラに至っては、今のペースでいけばあの王貞治の年間最高記録=55本を超えてしまうと言われている)、野茂をはじめ有能なピッチャーがメジャーに流出してしまっているからであって、それをもって「日本のレベルは低い」と語るのはスジが通っていない。むしろ日本球界が一定以上のレベルを有していたからこそ、メジャーであれだけ活躍ができる選手が出てきた。レベルの低下は、単純な戦力ダウンと捉えるべきではないのか?
これはバッターについても、同じことが言えるだろう。
メジャーでも活躍をつづけているイチローの存在は別格としても、彼につづく選手としては、おそらく20〜30人のバッターの名が挙げられるはずだ。たとえば、巨人の松井、高橋、ヤクルトの古田、近鉄の中村、横浜の鈴木尚典、ダイエーの松中、城島……。阪神の4番だった新庄の成績が現在2割5分台ということを踏まえれば、彼らのなかにそれ以上の成績を上げる選手がいたとしてもおかしくはない。
……これがどうして「レベルが低い」という話になるのか、筆者にはよくわからない。要は、メジャーのほうが組織の規模が大きく、その分人材が多いということでしかないと思うのだが……。
むしろ問題なのは、大橋氏も指摘しているように、現行のシステムの問題なのである。いまのプロ野球界には、本当の意味での「興行師」がいない。だから、プロ野球の未来に対して、リアルなビジョンが示せない。「ワールドカップ制覇」という究極のビジョンを持ったサッカーと比べれば、純粋にゲーム自体、プレー自体を楽しむしかない状況である。
それにもかかわらず、有能な人材が海外へ流出したら、戦力が巨人にばかり偏ったら……、面白くなくなるのは子どもの目にも明らかな話。レベル云々という観点で日米野球を比べることは、あまり本質的とは思わない。むしろそうした感覚自体、国際的というより、日本人の「舶来志向」の現れと思われるわけだが……。
たとえばイチローに関しても、日本人がもともと持っている「柔よく剛を制す」の感覚をあれだけ明瞭に体現しているにも関わらず、日本の評論家もマスコミも、あくまでメジャーというモノサシのなかで彼の評価を位置づけようとする。
イチローが200安打を記録して華々しくブレイクしていたころ、あれだけ「凄い」「革命だ」と騒ぎ立てていたにも関わらず、彼の才能がメジャーの枠のなかでは括りきれない、また別の身体感覚に根ざしたものであるということに、どれだけの人が気づいているのだろうか?(これについても、当HP「スポーツは「武道」である!」などの中ですでに発表済み *「サムライ」のこと)。
彼は日本にいたころ「夢の4割達成なるか?」と常に騒がれていたが、その夢がメジャーで達成されてしまったとしたら、アメリカの歴代バッターをさしおいて、「普通に4割の打てるバッター」になってしまったら……。
そうなったらアメリカ人は、「なぜ?」と考えざるをえなくなる。日本の武道の中で追求されてきた「柔よく剛を制す」の感覚が、その時、何らかの形でクローズアップされることにもなるだろう。アメリカンスタンダード(つまり、世界標準)に慣らされてきたとうの日本人は、その流れにどれだけ対応できるだろうか?
優秀な国際人たちが見落としている「死角」に、新しいスタンダードは隠されている。
その実態を知ることで、人間の新しい、劇的ともいえる「可能性」が見えてくるということに、我々はもっと深く気づくべきだろう。
人の意識の「革命」は、いま水面下で、着々と進行しているのである。
■密室が「悪」とはかぎらない。
いま日本では、新しい自民党の総裁=首相の選出が終わり、戦前の予想を大きく覆す形で、小泉純一郎氏がその地位についたばかり。
森氏の選出が「密室」だったことの反動からか、「国民の声をよく聞く」彼に対して、国民の多くが期待を寄せているようだ(初回の支持率が80%以上だったと聞く)。
もちろん、そうした感覚自体が「おかしい」と言いたいわけではない。
ただ、いつも思うのだが、どうしてみな物事を「善悪」で考えたがるのか? たとえば密室政治は悪、談合も悪、民主的だと善、ガラス張りも善……。こうした「基準」がほとんど何の疑いもないまま、評価の前提になっている。
しかし、最低の民主主義が存在しうるのと同様、最高の密室政治も存在しうる。
もちろん、その逆も然りである。
民主的だからよりよい政治が実現できると素朴に思っている人は、単純に森氏を悪、小泉氏を善とするだけで、それ以上の自由な発想はなかなか得られない。ただ勧善懲悪のストーリーだけが、ぐるぐると進行していくだけなのである。
たとえばみな、森氏が密室で決められたことを批判している。
しかし、彼が相応の仕事をする人物だったら、その密室での判断は「正しかった」ことになる。逆に、民主的に選挙で選ばれた青島前都知事が(もはや古い話だが)、政治家として果たして有能だったかどうか? 森氏の選出を判断ミスとするなら、あの時彼に投票した都民も、明らかに判断ミスである。
……どうだろうか? そもそも、森氏を批判していた人の多くは、あの時青島氏に投票したクチではなかったのか? そして、自分の「ミス」に対してはさして自覚もないまま忘れてしまい、「森はダメだ」「小泉なら期待が持てる」「田中真紀子を首相に」とか言っているわけである。
そもそも、そうした批判をするより、もっと批判すべきことはあるはずだろう。
たとえば、今回野中氏はなぜ出馬しなかったのか? ここ数年の政局を主導してきた黒幕?として、彼自身が「責任」を果たすべきではなかったのか? ……そうした「当たり前の」批判がほとんど出てこなかったこと自体、筆者には不思議である。
要するに、「スジを通す」とはどういうことか、わかっていない人が多いからではないか? という気がしてくる。だから、最初に目を向けるべき場所を見誤ってしまう。だいたい野中氏自身、自分の代わりに橋本氏を立てて、それで見事に破れたのだから、スジを通すどころか、計算すら間違っていたことになるわけだが……。
筆者に言わせれば、密室であろうが、永田町の論理であろうが、ただ肝心の場面で矢面に立つことさえできれば、それが政治家の姿に他ならない。
しかし、「反乱未遂」に終わった加藤紘一氏に対してあれだけ批判したマスコミも、国民も、今度は歯切れのいい?小泉氏に目を向けるばかりで、どうにもこうにも、ただステレオタイプな反応を繰り返している。けっきょく目先の現象に踊らされているだけで、いったい何が肝心なのか、何も見えていないのではないのか……。
まさに政治家は、国民の意識の反映なのだとつくづく思う。
自分自身が森氏であり野中氏であると自覚できないかぎり、政治家の質はいつまで経っても変わらない。小泉氏が首相になろうがなるまいが、自分の感度を磨いていけなければ、そうした現実の「意味」を見抜く目は養われないのである。
みんな、もっと勉強しよう。そして、まずは「自分自身」に目を向けてみる。
あらゆる「答え」は、そこに隠されている。