2005年12月12日
■ロビン・ベイカー「精子戦争〜性行動の謎を解く」を読んでみた
多くの人は、自分で自分の人生を決めることが“前向き”だと思っている。自分が何かを考え、実行するから、現実がつくられていくのだと。
でも、実際には自分で何か実行したところで、なかなか思う通りにはいかない。
だから、しばしば人は自己嫌悪に陥る。自分はダメな人間だとか、人生は所詮こんなものだとか思ってしまう。
あるいは人生を恨む。この世界をろくでもないものとみなしたり……。
結局、ポジティブになろうとすることでネガティブになってしまっている。なろうとすればするほど、ネガティブなものを引き寄せている。
そんなふうに言えないだろうか?
と、ここで思う。
つまり、人は自分で自分の人生を決めている。……本当にそうなのだろうかと。
そうではなく、じつは逆にすべてが「決まっている」のではないか?
こう言うと、人はみずからの自由意志が否定されたように感じてしまうかもしれない。一種のニヒリズム(虚無主義)のようにとらえる人もいるだろう。
しかし、そうした自由の捉え方そのものが、その人の自由を縛っている(その人を不自由にさせている)「錯覚」にすぎないとしたら……。
多くの人の陥っているであろう、この「錯覚」に気づかせてくれる本として筆者がおすすめしたいのが、アメリカの生物学者、ロビン・ベイカーの書いた「精子戦争〜性行動の謎を解く」という一冊。
精子戦争。……冒頭のテーマとは一見無関係に思えるが、読者はこのフレーズにどんなイメージを抱くだろうか? まずは作者のベイカー博士が80年代に手がけたという、非常にユニークな研究調査について紹介してみよう。
(ベイカーは)合計約百組のボランティアのカップルから、約千個の射精された精子を収集したのである。男性にはコンドームを渡してセックスやマスターベーションで出た精液を採取してもらい、女性には射精の後に膣から流れ出たフローバック(逆流)を大変な努力を強いてビーカーに集めてもらった。
そして、その中の精子の数を顕微鏡をのぞいて逐一数え、他の男性の精子がミックスされている時は精子はどのように違った行動をするかを観察したり、子宮内に残っている精子の数を割り出したのである。
……それらの調査を通じてわかったことは、射精された精液に含まれる精子の数は変化する、その変化は前回のセックスとの間隔がどのくらいあいているか、パートナーとどのくらい一緒の時間を過ごしたかに関係するという、生物学者を驚かせる革命的なものであった。
こうした研究を大まじめに行なったあたり、優秀な学者に不可欠な“奇人ぶり”が発揮されていて、なかなかおかしい。
ただ、ここで注目したいのは、「射精された精液に含まれる精子の数は変化する」というくだり。
何がどう注目されるのか、わかりやすく言えば……。
男性の体は、その時々の性行為(自慰も含む)の状況に応じて、射精の際にどのくらいの数の精子を放出するかを決めている。
それは、生物的なレベルでコントロールされていると言い換えてもよく、しかも、いかに優秀な精子を取り込むかという女性の体の需要と密接に関わり合っている。
だから、たとえば次のようなことも起こりうる。
女は自分はもう子供はいらないと本当に信じていた。妊娠を避けるため、ピルを飲んでいたし、必要なときには夫にコンドームを使わせて二重の用心をしていた。……(しかし)いわゆる性的に一番活発な一週間の間に、ピルを使うのを「忘れた」のだった。これは本当に「忘れた」のだったか? それとも潜在意識の戦略だったのだろうか?
当人はたまたま忘れてしまった、その結果、子供が生まれてしまったと考える。
しかし、それはあくまでも個人の主観の話。
生物のレベルで見たら、本当に「たまたま」なのかどうかもわからない。
そもそも、普段我々が何気なく使っている「たまたま」とは、どういう意味なのか?
要は偶然そうなったと言っているわけだが、たとえば科学の目で見た場合、偶然と呼ばれるものの法則性をカタチにできるとは思えない。
それよりももっと単純に、物事には原因があって結果があるという因果律で、この世界のありようをとらえてみる。
するとすべてが必然、たまたまということはない、ということになる。
たとえば、先の事例に出てくる「女」は、夫が出張中の間に「たまたま」用事で家に現れた会社の上司と不倫し、性的な関係を結ぶ。次いで、若い窓ふき掃除の男とも、不意な衝動に駆られて同じように関係を結んでしまう。
以上は、ベイカー氏が自らの調査研究から得られた「事実」を、読者にわかりやすく伝えるために創作されたエピソードの一つだが、彼自身、「このシナリオは大変陳腐であるため、注意しないと重要なポイントを見逃してしまう危険性がある」と語っている。
ここまでの話をふまえるならば、この陳腐で見逃してしまいやすい、でも重要なポイントとはどんなものなのか、想像がつかないだろうか?
そう。じつは意思と呼ばれるものは、偶然とも思えることのもっと根底にあるものだということ。
生物にとっての重要事である出産に関して言うなら、それは先にもふれたように、「より優秀な個体を産み出すための最善の判断をする」ということと重なる。
本人の都合とは関わりなく、である。
この女性の体が本当に決めていたことは、夫の子供はいらないということであった。
……(なぜなら)女の目から見ると、夫はここ何年にもわたって体力が落ちている。夫は、最初の二人の子供をつくったときのような力を出すことができなかった。そして今また再び健康を害している。
……実際、彼女の体は、三番目の子供の父親は夫よりもっと丈夫な体格をした、誰か別の人にすると決めていた。したがって、チャンスが到来すると、女性の体は自分の魅力を大いにいかそうとしたのだった。
ここには不倫と呼ばれる行為の、生物的な面でも意味合いがわかりやすく書かれている。
もちろん、不倫をことさらに奨励しているわけではない。ある意味、不倫したいと感じること自体、セットされたものであると言えるわけで……。
女性は、夫以外の男性とセックスするときのほうが、何の避妊法も使わない傾向がある。不倫の場合は状況的に何らかの避妊法をとるのがむずかしいのだが、いつもそうだとはかぎらない。……彼女がピルを適切なときに飲んでいたなら、妊娠することはなかったろう。しかし、彼女はピルを飲むのを忘れてしまった。
繰り返すが、ここで彼女が忘れてしまったことを、「たまたま」ととらえるべきなのかどうか。
この解釈の仕方ひとつで、自分がこうして生きているということの意味合いががらりと変ってしまう。
たとえば、多くの人は避妊さえしておけば子供は産まれない、つまり、子づくりはある程度人為的にコントロールできると素朴に思っていないだろうか?
しかし、そのような理性的な行為?はしばしば「失敗」する。“できちゃった結婚”のような事態が起こる。
この場合、たまたまコンドームをつけなかった。それが「失敗」だった。
状況だけ見れば確かにそうかもしれない。しかし、なぜたまたまつけなかったのか?
それは本人がある瞬間に、つけないでもいいやと思ったからかもしれない。たまたまストックのない時に衝動に駆られたからかもしれない。
しかしいずれにせよ、そんなある状況のある感情までは、人はコントロールできない。そのような「気持ち」は予期せずにやってくる。
もっと視野を広げて見るならば、人は人為によって自然をコントロールできると考える。
しかしそれはしばしば裏切られる。「予想もつかない事態」が起こる。
そのようなとき多くの人は、自分たち人間の愚かさを呪う。
しかし、愚かだからコントロールに失敗したのだろうか? より賢くなることで、失敗は限りなくゼロにしていける。
そんな「理性神話」はどこまで信用できるのだろうか?
……こうした問いかけに関して、先ほどの「陳腐なエピソード」からはまだまだおもしろいことが導き出せる。
もう少し話をつづけよう。
先の女性は、体のレベルで(つまり生物のレベルで)、体力の衰えた夫の子供を産むことを望んでいなかった。
本人は仕事に打ち込みたいからとか、もう二人も産んでいるのだから十分だとか、
顕在意識のレベルでは思っていたかもしれない。
しかし、「彼女には夫の遺伝子よりよい遺伝子を提供されて妊娠できるこんな完全なチャンスを得ることは二度とないかもしれない」。
彼女の体は、唐突にやってきた“不倫のチャンス”に対してそのように判断していた。
彼女が経験した突然で一週間も続いた性的興奮のうねりは、妊娠しやすい時期に起きたホルモンの働きのなせる術である。
この時期に、女性は不倫にいつもより関心を抱くようになることはすでに述べた。……一週間の終わり近くに急に不倫に興味がなくなったことは、妊娠しやすい時期が終わったことを意味する。そしてそれは、妊娠の始まりだった。
不倫をするという以上、そのとき彼女は明らかに“発情”していた。
普通人はそれを「たまたま」ととらえる。しかし、生物的に見たらじつは何らかの力によって誘発されたものであるのかもしれない。
何のために? そう、「夫の遺伝子よりよい遺伝子を提供されて妊娠できる」ようになるために。
おわかりだろうか? 自らに起こったことには、感情面も含めて、それなりに意味(必然性)があるということだ。
その意味を受け取れる人は、同時に現実を受け入れることもできる。
しかし、その意味が見えないままに「たまたま」という視点でとらえようとすると、この世界を動かしている法則性は蚊帳の外になる。
たまたまうまくいった。たまたま失敗した。……確実性のない世界ほど、不自由なものはない。
それより、ミスも含め成功も含め、その背後に意味を見る。自分の都合を超えたところで、よりよく、より強く生きようという生物としての意思を感じてみる。
避妊することで妊娠をコントロールする。ミスがなければ、もちろん子供は産まれない。
自分たちが産みたいと思った時に、避妊をやめる。
そうなれば妊娠する確率はぐっと高まる。そして、実際に子供を産むこともできるだろう。
しかし、そのように意思すること自体が、「よりよい状況でよりよい遺伝子を受け入れて妊娠する」という女性の体の判断に基づいたものであるとしたら?
場合によっては、レイプによって妊娠してしまうケースもある(むしろそのケースが統計的に高いという話を聞いたこともある)。
あるいは、避妊などしなくても全然子供が産まれない、いわゆる不妊症で悩んでいる夫婦もいる。
産まれてきた子供が何らかの障害を抱えていたり、先天的に虚弱であったりする場合もある。
すべてモラルの面から「悪」とされていることである。もちろん、解釈の仕方によってその「悪」が「善」に変わると言っているわけではない。
そこには人の感情が介在するから、往々にして「傷」(トラウマ)も生まれる。
しかし、その傷は「善意」によって解消されるものではない。
まず、善悪の観念にとらわれず、感情的にならず、もっとフラットな視点から物事をありのままに見るようにする。
そうするとこれら「悪」とされてきたことにも、もっと違った主体的な意味や必然性と言ったものも見えてくるかもしれない。
その理解によって傷が癒えたり、人間としての「強さ」を身につけられたりするケースもある。
それを怖いと感じるか、「興味深く」思えるか……。
善悪の観念を生み出すのは脳だが、たえず生物的な意味で“よりよいもの”を志向しているのは、人の身体にほかならない。脳をも含む「全体」が見えてくると、性の意味合いももっとフレキシブルで、自由なものに変わってくる……。
運命に支配されていた状態から、もっと主体的に、その運命に乗って進んでいくことができるようになる。(運命とは“命を運ぶ”と書くように……)
なお、本のタイトルにある「精子戦争」という概念も、こうした“よりよいもの”を志向する生物としての意思に関わっている。
たとえば先ほどの女性は、夫の留守中に衝動にかられ、夫の会社の上司と窓ふきのアルバイトの男と同時進行の不倫をする。
しかも、この不倫がばれないように出張から帰ってきた夫とも、避妊なしのセックスをする。そして、3番目の子供(遺伝的には夫の血を引かない第3子)を出産する。
精子と言えば、「ああ、あのオタマジャクシのような」と思うのがふつうだが、ベイカーは戦闘の兵士である精子にはそれぞれ違う種類や役割があると言って、またまた私たちを驚かす。
すなわち、卵子に突入し受精する「エッグ・ゲッター」と呼ばれる少数派のエリート集団と、受精する能力はないが敵を攻撃する「キラー」、行く手を邪魔する「ブロッカー」のカミカゼ集団だ。
まず、何より大事なのは時間である。ライバルが自分のパートナーの子宮に精子を送り込んだと知ったら(知るのは難しいから、常にそう無意識のうちに仮定して)、いち早く自分の精子軍団も送り込むのだ。
早ければ早いほどいい。しかし、それがわからないからルーティン・セックス(*生殖目的ではない日常的なセックスのこと)をして、安全策を取っておくのである。
(以上、「訳者あとがき」より)
つまり、生殖面ではまったく無意味なルーティン・セックスだが、それはライバル(不倫相手?)の精子の“万が一”の侵入に備えて、自分のパートナーの卵子を守っている兵士を常備させておく手段ということになる。
あるいは、上記にあるようにすでに侵入してしまった“敵”に対して「戦争」を仕掛けるという目的も……(それが「精子戦争」ということ)。
時間の他に、精子戦争に勝つ要因は、量的に圧倒することである。敵の軍団よりはるかに多い軍団を送り込めば、勝つ見込みは高い。
また、キラーを増やしたり、若い精子を増やして、精液の中身の割合を調節する。
(同上)
戦争などと言うとぶっそうだが、ベイカー博士の言わんとしたことの意味は、これだけでも何となくわかるだろう。
個人の価値観は、脳の中で作られるものだから多様で、相対的。
しかし、人はそれ以前に生物であるから、根本的にはあくまで「より優秀な種を残す」ということに最善の策を講じようとする。
「生物としての自分」にとっては、それを実現できたときが「勝利」なのである。
もちろん、この「生物としての自分」の意思に従うのが正しいと単純に言っているわけではない。
子供を産み育てる(あるいは子孫を残す)ということも、必ずしも絶対の価値観ではない。
というより、そもそも(再三繰り返してきたように)、その人が何をどう感じるか、そのこと自体も生物的な意思の中に組み込まれているものであると言えるわけで……。
だから、世の中には生物的な繁栄の法則には180度反している、ホモセクシャルのような人もいる。
ここで彼らの存在を間違っていると言っているわけではないし、そう言ったところで何の意味もない。
肝心なのは、「気づく」ということ。「見る」ということ。
脳の解釈、その脳が産み出した善悪の観念にとらわれず、「よりよいものを志向する」生物としての自分の意思を感じてみる。
そうすれば、ホモセクシャルとして生まれてきたこと自体にも、何らかの意味を見いだせる(必然と受け止められる)ようになるかもしれない。
この「よりよいものを志向する」の“よりよい”は、自分にとって都合のいいこととは必ずしもイコールではないということだ。
生物の自分は、それが自分のためであると判断したなら、身体の免疫力を弱らせ、大病を患わせるような「試練」を与えたりもする。
障害を持って生まれてくることをも判断するかもしれない。
このへんの機微がわからないかぎり、自分が脳のつくりだした牢獄の中にいるということ自体に気づくことはできないと筆者は思う。
逆に言えば、それさえわかれば物事の価値観が180度逆転する。
自分を肯定する、受け入れるということの意味、あるいは「すべてが決まっているからこそ、人は自由である」というパラドクスも見えてくる。
性の解放をもし説くというなら、何よりもそれは脳の自分が作り出した観念から自己を解放するということではないだろうか?
2005年11月22日
■佐伯啓思「自由とは何か〜“自己責任”から“理由なき殺人”まで」を読んでみた
筆者は、文中で「自由」という言葉を使うことが多い。
といって、ものすごい難しい概念ように思っているわけではない。筆者の「自由」の定義はカンタンだ。ほぼ「快適」という言葉とイコールで捉えられるものであるからだ。
自由とは、快適であるということ。あるいは、快適と感じられるような状態。
快適などと言うと、俗にいう快楽主義の一種のようにイメージするかもしれない。
そしてその快楽主義は、往々にして「自分さえ気持ち良ければ」というエゴイズムとどこかで結びついている。
しかし、実際に快適さを追求していくと、そんな単純なものではないことが見えてくる。
なかなか奥深い言葉であることがわかってくる。
たとえば、自分だけが快適であれば(気持ち良ければ)自由なのか? ……というと、当然のことながら、そういうことはない。
やはり、周囲との調和が必要。
しかし、周囲との調和にばかり気配りしていると、それはそれで不自由になってしまう。
ということは、自由=快適であるためには、ある種のバランス感覚が必要であることが見えてくる。
ではバランスとは何か?
……とまあ、ひとたび「自由」を問いはじめると、突き詰めないとならない問題が次々と浮かんでくるわけである。
前置きが長くなってしまうので、ここでは深入りはせず、次の点のみを確認しておこう。
それは、「自由」が「快適」とイコールであるという前提に立った場合、「自由」は観念から離れ、実感を伴ったものになってくるということ。
快適さとは、結局のところ、身体で感じるものであるからだ。
快適さ=自由とは、身体で感じるもの。
筆者はいま、ものすごーく当たり前のことを書いている。
ただ、この当たり前がなかなか当たり前とは捉えられない現実がある。
自由というものを、権利であるとか思想であるとか、アタマで捉えた概念としてイメージする人が多いことも知っている。
歴史を振り返ってみれば、確かに自由はそのような観念として認知されてきた。
その観念をめぐって革命が起きたり、国がつくられたり、滅ぼされたり、法が生まれたり、書物が書かれたり……。
もしかしたらそれが「近代」と呼ばれるものの実態だったのかもしれない。
しかし、そうした視点で自由の本質を理解できた人は、本当にいたのか?
むしろと問えば問うほど、その本質はベールに包まれ、曖昧模糊としていったのではないか?
そんなことを考えながら読んだのが、書店で偶然に見つけた佐伯啓思氏の「自由とは何か〜『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」。
サブタイトルがなかなか興味を惹くが、一読してみると思いのほかわかりやすく、社会思想史から見た自由の本質がひもとかれていた。
まず、佐伯氏は同書の冒頭で、「今日、自由という詩はもはや人の心を揺さぶるような響きを持っていない」と指摘した上で次のように語る。
少し前に二十人ほどの少人数の学生の講義で聞いてみたことがある。「君たちにとって自由は重要なものだと思うか」。当然、全員が「自由は大事なものだ」という。
「では、現在、君たちは何かに不自由な思いをしており、自由を享受できていないと思うか」。すると、ほとんどが「別に問題はない」という。
そこで続けて聞いてみる。「では、現在、日本の問題は、個人の自由が侵害されている点にあるのか、それとも、自由を縛るはずの道徳規範や拘束がゆるんでしまっている点にあるのか、そのどちらが問題なのだろうか」。これに対しては、おおよそ三分の二が「道徳、規範が崩壊していることのほうが問題だ」と答えるのである。
なるほど。確かにこのあたりが、自由に対する日本人の受け止め方の“現状”ではないだろうか?
わかりやすく言えば、「自由が広まることで社会のタガがゆるんでしまった」という具合に、どちらかというと自由は悪いものとして捉えられている面がある。
そして問題は、そのように自由の価値が低落しているにもかかわらず、
依然として自由は、少なくとも社会科学の最も重要なテーマとなっている。社会思想史、哲学、政治学、経済学を含めて、人間は自由であるべきであるし、本来、自由な存在と説いている。
ということ。要するに一般の感覚と学問上の概念との間に、大きな溝ができてしまっている。
一般の人にとってあまり重要でないものが、「最も重要なテーマ」として位置づけられている。
そんなことは今さら言うほどのことではない、と思われる人もいるかもしれない。
しかし、こと自由ということに関しては、学問と現実の乖離(かいり)は、なかなか無視できない側面がある。
自由とは本来、冒頭で筆者が述べたように、権利や思想である以前に個々人の体感(快適さ)と結びついたものであるからだ。
つまり、先の学生たちのように自由が実感できないということは、じつは生きることの楽しさを実感できていない現実にもつながってしまう。
ここでいう楽しさは、「価値」や「意味」と言い換えてもいい。
現代社会に致命的な問題があるとしたなら、それはそうした体感的な意味での自由を喪失してしまっていることにあるのではないか?
そして繰り返すが、学問で取り上げられるような、体感から離れてしまった「自由」の概念では、この喪失を救うことはできない。
語れば語るほど、逆に矛盾が浮き上がってしまう。
佐伯氏は、先のイラク戦争の際に起きた「人質事件」について触れることで、この矛盾をわかりやすく解きほぐしている。
ここで関心を向けたいのは、事件そのものではなく、それをめぐってなされた「自己責任」をめぐる論議である。
この「自己責任」をめぐる論争は、外国のジャーナリズムによっても、いったい何を論じているのか、とからかわれたりしたものだが、確かに、今日の日本の精神状況・言論状況を象徴するものであった。
ではこの「自己責任」論は、具体的に自由の問題とどうつながっているのか?
この場合には、ボランティア活動という文字通りの個人の自発的な選択、個人の自由が唱えられているが、その個人の自由な行動そのものが政府、国家によって支えられているということである。
国家があってはじめて自由な個人という主体があり得るという、考えてみれば当然の事実に、人質事件は改めてわれわれの眼を向けることになった。
言い換えるなら、「国家」と「自由な個人」の関係は、くだんの人質事件が起こるまでは十分に認識されていなかったということ。
普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。
こうして、「権力を行使する国家」に対抗する「自由な個人」という図式が出てくる。
……しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力を持った国家」なのである。
この側面は「なかなか見えにくい」と、氏は語る。上記のようなわかりやすい対立図式によって覆い隠されてしまっていると言い換えてもいい。
ということは、どういうことか?
近代の市民社会がひとたびできてしまうと、人々は、その中でもっぱら私の利益や関心に従って活動する。「私」にしか関心を持たないのである。
主権者(国家権力)が、もっぱら「公」を独占して、市民社会の秩序(法的なものを含めて)を支えることになっているのだから、市民社会は平和的なルールに従っておればよい。
人々は、その中で私的利益や享楽を追求しておればよい。こういうことになる。
……しかしそうだとすれば、いったい誰が、どのような利益に従って、国家の活動にかかわろうとするのだろうか。
国家の活動などと言うと逆にピンと来ないかもしれないが、冒頭で取り上げた道徳の問題と結びつければ、問題の本質は明確になる。
市民社会が形成され、自由が権利として普及することで、結果として、この「公=道徳(モラル)」が見失われた。
むしろそのことを問題視する人が増えているにもかかわらず、現実面での有効な対処法が見つかっていない。
たとえばいくら大事だからと言って、生活委員のように「モラルの復活」を唱えたところで効力はない。
わかるだろうか? そこで語られる道徳は、個人の自由を縛る対立概念として想起されてしまうものだからだ。
道徳がはびこっていけば、人々は世の中が窮屈になるとも考えている。
この道徳の先にあるのが、法だ。法を管理するのは国家。
法の締めつけが強くなるほどに人は不自由を感じる。国家は人の自由を縛る存在であるという「悪」のイメージが植え付けられる。
単純に公共心の大切さを説いても、人々の心には響いてこない(結果として現実は変わらない)のである。
では、それとは異なる理解の仕方は可能なのだろうか?
上記の点に関しては、佐伯氏も指摘するように、個人の自由はじつはその集合体である国家の安全保障によって支えられている。
これは、集団を切り離した個人など存在しない、いや、もっと言ってしまえば、人間関係を無視したところに個人の生活は成り立たない、そんな現実にもつながってくる。
いくら自由であると言っても、自分の行為は社会に反映される。だから、社会とのつながりを無視して(軽視して)ふるまえば、あえてイラク人質事件を例に出すまでもなく、人に迷惑がかかる。
といって、人に迷惑をかけないことばかり考えていると、したいこともできなくなる。
そう。大事なのはバランス感覚……。
筆者はバランス感覚を説いているので、国家が安全保障だけでなく、抑圧装置の側面を持っていることももちろん承知している。
しかし、国家を社会と言い換えれば、単独の「自由な個人」など存在しないという、当たり前の理も見えてくる。
そんな観念のような「個人」像に脳を支配され、他者との関係が見えなくなってしまっているから、道徳の価値も見えなくなる。
自由を縛る窮屈な決まりのようなものとしか理解できなくなる。
自由そのものもアタマでとらえる観念となり、体感はできなくなる。
しかし、ここまで読まれれば、「自由」と「道徳」が必ずしも対立物ではないことも容易に見えてくるのではないだろうか?
繰り返しになるが、自由とは観念ではなく、もっと体感的なもの。自分自身の快適さという感覚と、ダイレクトにつながったもの。
これを素直に追求していけば、エゴイスティックな快楽追求では本当の快適さ(自由)も得られないことが理解できる。
いくら自分が快適(自由)でも、それが誰かの犠牲や苦しみの上で成り立っているものであるとしたら……。やはり、“気持ちいい”ものではない。
そのように感じることで、初めて道徳と呼ばれるものが、自分自身の切実な問題として発生することになる。
以下、佐伯氏の著書のなかから、筆者が気になった箇所をいくつか抜粋しておこう。
たとえば「功利主義でもカントでもうまくいかない」というくだり。
そこで「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに対して答えればそれは次のようになろう。「別に悪いという絶対的な理由はない。しかし、そんなことをして法に引っかかり人生を棒に振るのは損だ」というわけである。行動を決定する基準は「道徳」ではなく「利益」なのである。
しかし、この説明は「なぜ法を守らねばならないのか」という問いへの十全な答えにはなっていない。この種の功利主義が与えるのは、せいぜい、多くの人は、自己の利益を目的として行動しているのであり、そうである限り、多くの人は法を守っているだろう、という程度のことに過ぎない。
……これでは、法を破ったほうが少なくとも当座は得だという者も現れるかもしれないし、さらに、自分は必ずしも損得で行動するわけでない、という者もいる。
「しかも、功利主義にはもっとやっかいな問題がついてまわる」と、氏は言う。
功利主義の基本テーゼは、よく知られているように「最大多数の最大幸福」として定式化される。
……だとすれば、ここに皆に忌み嫌われ、人々に多大な損害を与えながら生活している者がいるとしよう。功利主義からすれば、この人間を抹殺することは望ましいという結論さえ導かれかねないだろう。
……実際、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニエフは、まさにこの種の問いに取り付かれたのであった。皆から蛆虫のように嫌われている高利貸しの老婆など殺してもよいではないか。
……この論理は、もっと最近ではたとえばアメリカによるイラク攻撃に際しても使われた。……功利主義の罠は今日でも現実なのである。そしてこの罠が待ち受けている限り、「なぜ人は殺してはならないのか」という問いから逃れることは難しい。
そう。これがいまの世にはびこっている「功利主義」の実態。
しかし、この問いから逃れられないかというと、筆者はそうは思わない。ここまで話したように、「体感」というものが出口のカギを握っていると感じている。
この筆者の「体感」(もっと広く、身体論と言い換えてもいい)と微妙にシンクロしているのが、哲学者カントの道徳論だ。
「なぜ人を殺してはならないか」と少年に聞かれれば、われわれはたいてい、多少狼狽しながらも、「そんなことはだめに決まっている。理由も何もない」とついいってしまうだろう。実際、それ以外にいいようもない。
だめなものはだめだという。理由もなくだめなものが世の中にある。……実はそういったのは、十八世紀のドイツの哲学社イマヌエル・カントであった。
人間の日常の経験の世界においては、人間の欲望にせよ、感覚的な快楽にせよ、人間の感覚や自然の条件という自然法則に従って動いている。だが、人間の意思の世界はそうではない。人間が自分の意思を持って何かを実践しようとするとき、その限りでのみ人間は自由である。
では、この実践の世界、人間の意思の世界で、意思の動きを決定するものは何か。ここでは人間は自然法則に従うのではなく、道徳法則に従わないとならない。意思とは、道徳法則に従うことにほかならないのである。
要するにカントは、人間を(他の動物とは異なる)理性的な存在としてとらえている。それは一面の真理かもしれないが、しかし、
ではカントの道徳法則はいったいどこから導かれているのかというと、そこには根拠はない。絶対的な命令という言い方からわかるように、もはやその根拠を問いただしても仕方がないのである。
カントは、一方では人間の意思の自由や自立を主張する近代主義者であるとともに、他方ではプロテスタントの信仰深いキリスト教徒でもあった。
(カントの道徳論は)キリスト教という絶対的な禁止を与える宗教的権威を隠れた前提としているのであって、この権威によってようやく「だめなものはだめ」という言い方が効力を持ち得るのである。
だが、近代的自由はキリスト教という宗教的権威を批判した。……だから、近代的自由からすると、カントの義務論そのものが、もはや意味をなさないということになる。
宗教によって支えられていた道徳。権利や思想として、その宗教を否定する形で認識された自由。
そのどちらも、現代社会においてはもはや意味をなしていない。
もしも規範や道徳のほうに正当性がなくなってしまうと、そもそも自由がそのために戦うべき障害も大きな脅威でなくなってしまうだろう。すると、自由のほうもその活力を失っていってしまう。
こうなると、「自由」は、もはや大きな障害を持たず、それゆえ「自由」を実現するための強い緊張感もなくなってしまう。……「なぜ人を殺してはならないのか」という問いは、まさにこの「自由の意味衰弱」の中で生じたのであった。
そう、もはやこれまでの(観念としての)自由には、人を救う力はない。そして、言い換えるならそれは道徳の衰弱とも表裏一体の関係にある。
つまり、筆者流に言わせてもらえるなら、そうではない(体感としての)自由を得るということは、新しい道徳を創造するということ。
(このへんの話は、大正時代のアナーキスト大杉栄の「身体論」とも大きく関わってくる。興味のある人はこちらを参照。)
佐伯氏の「自由」に関する社会思想史の観点からの指摘は、このあとまだまだ広範囲に展開されていく。そして同書の末尾には、氏なりに、自由に代わる価値として「義」という東洋流の概念も打ち出されている。
興味深い内容なので機会があればもう少し突っ込んで取り上げたいが……。
ともあれ、筆者の感覚に照らし合わせるのなら、自由の問題も、当たり前のことを当たり前と認識さえできれば、呆気ないほどに解消されていく。
しかし同時にハッキリと言えるのは、その当たり前のことが当たり前には解決できない現実も厳然とあるということ。
そして筆者はその現実から隔離された「個人」などではなく、その解決できない社会の一員であるということ。
表裏一体の「自由」と「道徳」は、その当たり前の現実の中でたえず試され、磨かれるものだと、筆者は思う。
そのからくりがわかっていれば、人はもっと「感じる」ことができるようになるし、自己と他者によって構成される社会の実態も見えてくるはずだ。
2005年11月02日
■「蝉しぐれ」に描かれる藤沢周平のハラ感覚
小説、ドラマ、映画と、ここ数ヶ月ほどの間に藤沢周平の「蝉しぐれ」の世界に、様々な角度からふれる機会に恵まれた。
藤沢周平の世界観がぎっしりと凝縮された、珠玉の作品として知られている。
作品にふれていく過程でいくつかおもしろい発見があった。
まず、映画サイトの「あらすじ」を引用させていただきつつ、その作品世界をざっとひもといていってみよう。
東北の小藩「海坂藩」の下級武士である義父のもとで成長する牧文四郎は15歳。父・助左衛門を尊敬し、いつか父のようになりたいと思っていた。
そんな文四郎の生活は、隣家に住む幼なじみのふくに淡い恋心を抱きながら、小和田逸平と島崎与之助というとても仲の良い友人とともに、剣術と学問に明け暮れる日々。そんな中、与之助が学問の道に進むために江戸へ行くと言いだした。寂しさを隠しきれない文四郎と逸平。
だが文四郎にもその後すぐに大きな異変が起きた。父が捕らわれたのだ。理由は以前から殿のお世継ぎの世子を誰にするかで藩内に起こっていた争い事に父がかかわり合っていたことにあるらしい。その日から文四郎の生活は一変する。罪人の子としての辛い日々がはじまった。
このあたりが冒頭の部分。
映画解説のキャッチに、“「日本」を愛するすべての人々へ”とあるが、ここでいう日本とは、具体的に言えば江戸時代の頃の“古き良き日本”のこと。
藤沢はそれをいたずらに礼賛するわけではなく、かつてあった世界を当たり前に思い描いて、当たり前に書いている。
では、いったい何が当たり前なのか? 言い換えるなら、いまという時代の日本にはその当たり前がない。映画のキャッチコピーからはそんなメッセージも透けて見える。
かつてあったのに、いまはないもの(見失われてしまったもの)。それを生き方として体現しているのが、主人公の牧文四郎ということになる。
もっと言ってしまえば、文四郎の背後には、他の藤沢作品の様々な主人公がだぶっている。そうも言えるだろう。
ということは、藤沢周平は作品を通して現代の我々に何を伝えたかったのか?
くだんの解説のなかに、その「答え」がこう記されている。
その答えは、藤沢氏の作品には、私たち日本人が知らず知らず忘れてしまったものを思い出させてくれる力があるからではないでしょうか。そこにあるのは地位や名誉など関係のない、平凡だけれども、慎ましく生きる人の姿と彼らが持つ美しい心。風土とともに生きる姿。読者は、作家としてぶれない一貫した作品姿勢に魅せられ、心癒されるのです。
言わんとすることはよくわかる。しかしまあ、何とも使い古された、紋切り型の言い回しだろうか……。なにやらあまりに単純化されすぎていて、退屈と言うか、かえって藤沢作品の本質が損なわれてしまっているかのように思えてしまう。
確かに「牧文四郎」は、理想のサムライ像、「平凡だけれども、慎ましく生きる」その意味での代表的日本人として描かれているだろう。
しかし、ではそうだとして、そのメッセージを聞いた我々はどうしたらいいのか? おのれの生き方を反省する? 日々の行いを改める?
そんなふうに少し問いつめると、すべてが漠然としはじめ、「答え」が見えなくなってしまう。
まず、映画の「批評」からしようか。
結論を先に言えば、原作の持っている世界観、藤沢周平のメッセージがうまく伝えきれていないもどかしさを筆者は感じた。
確かに映像はこれでもかと美しい。思わず涙をさそうような場面もいくつかある。個々の役者の演技も悪くはない。しかし、原作の映像化につきものとも言えることだが、残念ながら、原作を超えることができたとは言いがたい。
なぜか? ここまで書いてくれば気づかれるかもしれないが、映画はすべて「答え」を明かしてしまっている。藤沢が物語を通じて醸し出し、行間に描き出したものを、言葉として「平凡だけれども、慎ましく生きる……」といったようにまとめてしまっている。
いやそれは、サイトの(あるいはパンフレットの)解説の中だけの話ではないか。
そんな反論もあるかもしれない。しかし、そうではないだろう。
おそらく作り手は、映画化を決めた時点でこうした「答え」を持ってしまっていたと思う。
その「答え」を伝えるために映画を作った。
しかし、そうだとしたら、おもしろい作品にはならない。結論が先にあるような物語を見て、人はハラハラドキドキもしないし、胸も打たれない。
筆者が映画に対して違和感を抱いた原因は、おそらくそこにあるのだと思う。
初めにここが感動の場面ですよ、これがすばらしいですよ、これが「日本」ですよ。
そんなふうに押しつけられても、素直に乗ることはできない。
プロモーションは必要だが、肝心な部分ではもっと寡黙になる必要もある。
また作り手は、何らかの「結論」を持ちながらも、つねにそれを留保し、創作が予定調和に陥らない努力が必要だと思う。
その意味では、原作の映像化という手法は、原作にネームバリューがある場合はその恩恵に浴することもできるが、同時に制約も多いということだ。
原作者である藤沢は、映像化などを前提にせず、あくまでも小説として描いている。
それを映像に作り直すということは、何もないところから創作することより一見ラクに思えるかもしれないが、そんなことはない。
あえて映像化に挑戦するというのなら、何か根本的な部分を「裏切る」必要がある。
そうしなければ、原作を凌駕することは難しいということだ。
まあ、このへんは「言うは易く行なうは難し」の世界。
でも、もし筆者が藤沢世界を映像化するとしたら、そんな「無謀な」ことは考えない。作品からテイストだけいただいて、物語はゼロからつくることをまず考える。
話題作を生み出すという目的で映像を手がけるとしたら、このやり方はそぐわないだろうが……。
さて、批判めいた話はこれくらいにして、筆者がおもしろいと感じたことについて話すことにしよう。
筆者は「蝉しぐれ」を通じて、確かに「日本人の理想像」といったものを受け取ることができた。
その点はまちがいない。しかし同時に言えるのは、だからこそ、映画の描き方に違和感をおぼえたということ。
この違和感をひもとくヒントとなるのは、文春ムック「『蝉しぐれ』と藤沢周平の世界」所収の市川染五郎のインタビューにある。
市川は、主人公・牧文四郎の青年〜中年期を演じている作品の“主役”。インタビュアー(岸本葉子氏)と次のようなやりとりをしている。
岸本:文四郎は多感な少年時代をとても不遇ななかで過ごし、父親が反逆の罪を着せられて、その汚名を背負って生きていかなければならなかった。ずっと身を慎んで、学問と剣術に勤しんできたのだと思います。そうした感情を閉じ込めている青年というのは、演じる側としては表現が難しかったのではありませんか?
市川:難しかったですね。最初、監督に「何もしないでくれ」と言われたんです。
岸本:何もするな……演技をするな、ということですか?
市川:ええ。でも、役者が何もしないってとても難しいことなんです。それで役作りに取り組むにあたって心にあったのは「丹田」という言葉だったんですよ。ヘソの下あたりのね、丹田というか、肚(ハラ)というか。そこにすべてを集約してみたんです。
市川のいう「丹田」「肚」については、筆者の身体論の中でさかんに出てくる言葉である(→詳しくはこちらを参照)。
だからというわけではないが、「蝉しぐれ」に描かれる世界像は、じつはこのハラの世界に集約できる……筆者はそう感じている。
いや、もっとリンクさせるなら、藤沢作品そのものが日本人のハラについて描いてきたわけであり、彼が時代小説というジャンルを選択し、主に江戸時代を作品舞台にしてきたのは、江戸時代の日本に最も色濃くハラ感覚が宿っていたことを感じとっていたからだと言うこともできるだろう。
藤沢周平自身、44歳で遅咲きの文壇デビューをするまでは、牧文四郎やその他作品の登場人物にオーバーラップされるような「不遇の時代」を経験している。
そのなかで彼が育ててきたのが、ハラ感覚。
作風が理知主義に傾いている感のある同時代の“国民作家”司馬遼太郎と比べても、この感覚の強さは際立っていた(→こちらも参照)。
その意味では、「日本」を語り手として、司馬よりも藤沢のほうが向いている。
しかし、だからこそ、「語ってはいけない」のである。
藤沢がハラ感覚を大事にしてきた作家であることを、もう少し別の角度から検証してみよう。
かつての(江戸時代の)日本人は、正確に言うと、「知」「情」「意」の3つの身体感覚を大事にしていた。
このうちの「意」にあたる部分がハラの感覚。
これだけではわからないだろうから、もう少し解説しよう。
「知」とは、知性、理性といった意味で、身体の部位では「頭」が該当している。
「情」は、感情、愛情。こちらは「胸」が該当。
そして「意」は、意思、意欲。ここが「丹田」「肚」にあたる。
このため、
「知」……「頭」……上丹田
「情」……「胸」……中丹田
「意」……「肚」……下丹田
こういった呼び方もされていた。そして、この3つの「丹田」(三丹田)のなかでも特に重要視されていたのが、身体の中心に位置し、すべての行為の起点となる「意欲」「意思」の源、下丹田=肚(ハラ)だったわけである。
このことはべつに筆者の独断でもなんでもなく、身体論の世界ではある程度スタンダードな発想。
ハラ感覚(下丹田)を重視していた藤沢作品の中にも、その位置づけは少なからず反映されている。
たとえば、「蝉しぐれ」の人物設定を見てみよう。
主人公・文四郎の無二の親友にあたるのが、文武には秀でていないが心優しいナイスガイ・小和田逸平と、剣術は苦手だが頭がよく江戸に留学して出世する島崎与之助の二人。
この3人の組み合わせは、上記の「三丹田」とも見事に符合している。しかも、「主人公」は最も重要な下丹田の文四郎なのである。
「知」=上丹田→島崎与之助
「情」=中丹田→小和田逸平
「意」=下丹田→牧文四郎
藤沢が「三丹田」の概念を知っていたかはわからないし、そもそもそれを意識して人物設定したとは思えない。というよりも、半ば無意識の形でこのように日本人の身体観の「型」にはまってしまっているところにかえってリアリティがないだろうか?
筆者は藤沢作品のすべてを読み尽くしたわけではないので、作品全体の分析はできない。しかし、探っていけば似たような例はいくつも見いだせるものと思う。
こうした点をふまえるなら、いま藤沢周平の作品が見直されている背景には、甦りつつある日本人の身体観が呼応していることが見えてくる。
失われたものを懐古しているのではなく、甦りつつあるから見直されている。
この違いは大きいし、後者としてとらえられることで、本当の意味での「答え」(「希望」と言い換えてもいいか)も見えてくる。
いまの日本の世相の根っこにあるものを読み解く、キーポイントになってくる。
これらのキーポイントを行間で、物語に託して伝えてきた藤沢周平の業績は、確かにもっと評価されてしかるべきだろう。
ただ、「失われた日本の良さがどうのこうの……」といったような紋切り型の表現だけでは、このあたりの構造まではキャッチできない。
行間と言葉の間のギャップこそが、いまの日本人に欠けてしまっている感性なのではないだろうか?
藤沢周平との出会いを通じて、そんな理解の深められた数ヶ月だった。
(追記)
映画の「批判」をしたなかの「もし筆者が藤沢世界を映像化するとしたら、そんな「無謀な」ことは考えない。作品からテイストだけいただいて、物語はゼロからつくることをまず考える」というくだり。
まだ見てはいないが、いろいろ調べていくなかで、山田洋次監督の「たどがれ清兵衛」はその手法に近いように感じた。
藤沢作品というより、山田テイストの時代劇だという声もあるけれど、ある意味こちらのほうが作品の出来としては“まっとう”なようにも思う。
真田広之の清兵衛って違和感あるし(原作を読んでいると、いい意味で裏切られた気分)、近々、実際に作品を見てみたい気がする。(11.8)
2005年10月09日
■中島義道「怒る技術」を読んでみた。
現代日本には「怒らない人」がうじゃうじゃ生息しています。老若男女、前後左右、突如ぶん殴られても起こらないであろうような柔和な顔、顔、顔の氾濫。私はぞっとしてきます。
という一文から始まるのが、中島義道氏の「怒る技術」(PHP)という本。
ある人から紹介されて読みはじめたのだが、なかなかおもしろかった。ていうより、もしかして同類かと思ってしまったのだが……。笑。
筆者はまったく存じ上げなかったが、中島氏は大学教授で哲学者。プロフィルによると、「誰もが好きなだけ哲学を学べる『無用塾』を主宰している」とのこと。
怒れない日本人……。まあ、よく言われていることではある。そして、その対極として、「怒る技術」を身につけている欧米人がいるという構図。
中島氏もご多分に漏れず、
じつは小学校・中学校・高等学校を通じて怒らない子、いや怒ることができない子でした。……こうした状態は大学生になっても続き、何をしていいかわからず、一二年も大学にいて、そのうち二年ほどはひきこもっていました。しかし、そのときでさえ、真の意味で怒ることはなかったのです。
という典型的な日本人だったようだ。それが33歳の時のウイーンでの留学経験を通じて、「怒り」の重要性に開眼する。
ウイーンでは、私は怒らなければ生きていけなかった。ウイーンは前世紀のヨーロッパの悪いところがすべてそろったところで、……能率は悪く、官吏はいばっていて、しかも無能。カフカの世界そのものであった。
こうした状況に投げ込まれて、私費留学生としての私は、自分が生きていくために、ほんとうは怒っていなくても、怒っているようにふるまわなければならなかった。相手を執拗に責めることによって、自分の正しさを浮き立たせなければ、生きていけなかったのです。こうして、気がつくと、私はウイーンでは四六時中烈火のごとく怒っていました。
とまあ、このあたりの話はある意味で「よく聞く話」であると思う。
問題は何かを体験することではなく、体験を通して何を理解したか、何かどう変わったのかということ。中島氏の場合、この留学経験によって自分の中に眠っていた「何か」が完全に動きはじめてしまったようだ。
氏の常人離れした、「怒る人生」がスタートすることになる……。
ここで注意しておきたいのは、「怒る」ことと「キレる」ことは、まったく違うということだ。
本のタイトルに「怒る技術」とあるように、「怒る」ことは半ば意図的に発散される感情表現。
一方、「キレる」というのは、むしろこの「怒る技術」の身につけていない人が、自己の感情をコントロールできなくなって爆発してしまうもの。
キレないためにも「怒る技術」を身につけなさい……というのが、中島氏の主張でもあるわけだ。
では、中島氏は実際にどんなふうに「怒っている」のだろうか? 著書からこの「怒りの達人」のなかなかスゴイエピソードを紹介してみよう。
話はいきなり窃盗話からスタートする。
(私は)これまで法に触れる窃盗を二度ほどしました。一度は、電通大(*氏の勤務している大学)近くの天神通りにある酒場のスピーカーがあまりにうるさいので、それを奪い取って、「返してくださいよ! 返せよ!」という訴えをものともせず、民家の庭に投げ捨てたのでした。翌日学長から電話がかかってきて、調布警察が動き出したということ。結局、私は三万円ほどの金を払いましたが、いまだに全然悪いと思っていません。
と、ここだけ切り取ってしまうと相当に誤解を与えそうだが(笑)、興味深いのは「もう一つ」のエピソード。達人の域に達している……。
もう一つは、ウイーンで洋服屋からベルトを盗み出したのです。ヨーロッパ諸国では旅行者がその旅行中買った物はしかるべき手続きをすれば免税になります。品物によって違いますが、およそ定価の一割のカネが返ってくるので無視できない。
(ただ)オーストリアに住所のない旅行者でないと駄目なので、そして外見は誰が旅行者か見分けがつかないので、旅行者は常に自分のほうから用紙を請求しなければ、店の者は何もしてくれません。
さて、ある日のこと、いい歳をしてそしてガラにもなく、Fugo Bossの黒いスーツを買いました。だが、……用紙を請求することをつい忘れてしまい、翌日ああそうだと思い出して店に赴き請求したのです。
が、若い大男の店長は開口一番「買ったときでなければ駄目だ」と言う。そんな原則知っているのです。でも、何度もここウイーンでは数時間後に思い出して要求しても、翌日行っても、数日後行っても用紙に記入してくれました。そう言っても、どうしても駄目という返事。
ここで氏は、数日前に用紙を発行してくれた近くの店にこの店長を連れて行って確認させたり、税関に電話したり、様々な処置を講じる。しかし、「(彼らは)原則を言うだけですから、やはり店長のほうにつく」。
頭に来た! ウイーンではいつもこうなのです。十回原則を破りながら大丈夫だと安心した後、十一回目に突然「原則がこうだから駄目だ!」と来るのです。……(私は)さあどうしよう、と思案していました。
ここで中島氏の「怒りの虫」が動き始める。
店長は、そのまま「どうぞ、ゆっくり考えてください」と引っ込んでしまう。ふと見渡すと店内にはだれもいない。まるっきり私ひとりなのです。
……そのとき、私の目はしらずしらずのうちにあのスーツの一割分の物はないかなあと物色しているのです。
……あれっ、すぐ手元にたくさんのベルトがぶら下がっている。私はその一本をスーイと抜いて……、「きょうのところはこれで帰ります。まだ納得できないので、うちでゆっくり考えてみます」と言い残してその店を去りました。
もちろん、氏にどんな言い分があろうとこれは「泥棒」である。笑。
そのことは、氏も自覚はしている。ちょっと長くなるが、さらに続けよう。
ですが、ホテルに帰っても釈然としない。だいたい、そんなベルトなどほしくない。……そこで、翌朝早く私は店に電話して、店長に「きのう、あなたがあまりにも頑固なのでベルトを一本盗みました」と言いました。
……えっ、それは泥棒だ!
……知ってますよ。でも、普通泥棒が盗んだと電話しますか! 私はただあなたの態度があまりにも不遜なので、懲らしめようと思ってやっただけだ。私がスーツを買ったときの店員と話したいのですが。
……彼女は休んでいる。そちらの住所も名前も知っています。返しなさい。
……わかりました。じゃあ、私が条件を出します。今回、私はたいそう不愉快な思いしましたが、あの女店員は任務を怠り責任があったと思います。そして、あなたは店長なんですから、あなたにも責任がある。そこで、もしあなたが自分の落ち度を認めるなら、ベルトを返してあげましょう。でなければ、返しません。
中島氏は、「ヨーロッパ人がいちばん厭がることを、この機会にぜひとも実験してみたかった」と言います。それは言うまでもなく、「自分の非を認めさせること」。
しばらくの沈黙の後、店長が「少しは悪かったと思う」と言いましたので、私は心の中で拍手喝采する。すると今度は彼が条件を出しました。
……あと三〇分以内に戻しに来ないなら、パトカーでホテルに行ってあなたを逮捕する。
……ああ、わかりました。
直後にホテルを出、飛行場に向かうタクシーを途中で停めさせて、私はぼっとつっ立っている彼の両手にざくりとベルトを落とし、そのまま唖然として私を見送る彼をあとに、ふたたびタクシーに飛び乗ったのでした。
どうだろうか? これが氏の言うところの「怒る」ということなのである。
怒りにまかせておのれを失ってしまうわけでなく、案外と冷静。状況を見て、「これを機会にヨーロッパ人を謝罪させる実験」をしようとすら考える。
しかも、こう言う。
私の行為はけっして考え抜かれているわけではありません。むしろ、私の身体が自然にこう動いていくのです。私は泣き寝入りだけはしたくない。相手に何らかの仕返しをしたくてたまらない。そして、具体的な仕方で自分の怒りを相手に伝えたくてたまらない。ほんとうに下品なことです。
本人は下品であると謙遜?しているが、ここで大事なのは「具体的な仕方で自分の怒りを相手に伝えたくてたまらない」という箇所。
「怒る技術」をうたってはいるが、じつはコミュニケーションの本質について語っていることがわかる。
当たり前のことだが、コミュニケーションとは自分の意図や意志を相手に伝えるということ。そのためには、技術が必要であるということ。
ここまで長々と書いてしまって恐縮だが、じつは筆者はあまり怒らない。人前で声を荒げることは滅多にないし、自分が悪いと思っていなくても謝ることが結構ある。
「人あたり」という点では中島氏とは対極にある気もするが、根っこでは氏と同じことを感じ、同じことをやってきたと、この本を読んでつくづく感じた。
(ていうことは、筆者も達人? いや、変人? まあ、いいか。笑)。
コミュニケーション論は、筆者も「言葉を喋れない君のために」というコラムの中でまとめているところだが、先に話したように、それは「伝える」ということ。
決して難しいことではない。
自分が心で思っていることは、ただ思っているというだけでは相手にはわからない。
日々人と接していると、こんな当たり前のことがわからずに意味なく怒っている人がずいぶんいる。
もちろん、その怒りは中島氏のようなレベル?の怒りではない。
自己表現がうまくできないから、ただ単に不満が鬱積して、何かの拍子に爆発する(キレる)。
伝える努力を怠って、トラブルが起きててから、「自分はこう思っていた」と切々と主張しはじめる人が結構いるが、そういう人は他人不在なんだと思う。
ちゃんと他人が自分と同じように存在していることがわかっていれば、言葉は出てくる。うまくいかない時は言葉が伝わらなかったのだと納得もできる。
中島流の「怒る技術」を参考にしつつ、ただ彼の「怒る」マネをしても、何も始まらない。
「怒る」ことが重要なのではない。「怒る」ことも感情表現の一つ。喜怒哀楽、どんな形でもいい自分の感情をカタチにすること。
元気な人は元気なカタチにする。おとなしい人はおとなしく、クールな人はクールに。
おとなしい人が元気になる必要はない。
中島氏は「怒る」という感情を通して、このカタチを見つけられた人。そのカラクリが理解できれば、誰でもその人なりのコミュニケーションの本質も見えてくると思う。
中島氏に出会えたおかげで、「たまには怒ってみようかな?」と思ったこの頃。
教えてくれた人、ありがとう。
2005年09月22日
■栗本慎一郎の新刊「パンツを脱いだサル」を読んだ
栗本慎一郎氏といえば、あまり知らない人は「昔テレビに出ていた人」「政治家?」という印象かもしれないが、本業は学者。
カール・ポランニーの創始した経済人類学という、非常に広範囲にヒトと社会のありようを考察する学問の、いわば日本の第一人者だ。
で、今回紹介する「パンツを脱いだサル」は、80年代に氏の名前を一躍世間に知らしめた「パンツをはいたサル」(81年)、その続編の「パンツを捨てるサル」(88年)につづく、“パンサル”シリーズの完結編。
6年前(99年)に脳梗塞を患い、“奇跡の復活”を果たした氏にとって、このシリーズの「完結」は、経済人類学者としての自己確認的な意味合いもあったかもしれない。
前2作を過去に読んできた一人として興味深く拝読したが、とりあえずざっくりとした作品解説をした上で「感想」を……。
この本のテーマは、サブタイトルにあるように「ヒトは、どうして生きていくのか」というもの。
この「どうして」は、「どのようにして」という意味合いだろうが、「どうして=なぜ」という意味もあえて掛けているようにも受け取れる。
最終章のタイトルが、「ヒトはどうすれば生きていけるか、あるいは生きていく価値があるのか」となっているからだ。
どちらにせよなかなか重く深いテーマだが、身体論・生命論研究の先駆者とも言える氏は、この完結編でどのような「答え」を出しているのだろう?
この本の構成を大ざっぱにまとめると、
1、サルからヒトへの進化についての「真相」
2、近代の金融資本を操ってきた「ユダヤ人」の実態
3、そのユダヤ人に利用された「政治陰謀としてのビートルズ」
といった具合になる。
このすべてについて触れるとかなりのボリュームになってしまいそうなので、ここでは1の話題を中心に話を進めることにしよう。
まず氏は、「サルからヒトへの進化」という枠組みそのものを疑問視する。
一般には、下記の「サバンナ説」が通説として、多くの学者に支持されているわけだが……。
我々の祖先は当初アフリカ大陸の森林地帯に暮らしていたが、気候の急激な変化が起こって森林地帯にサバンナかが進行した。
そこで、一部の類人猿のなかからは、木から降りて、サバンナでの暮らしを選び取るものが現れた。サバンナで生きていくためには、果物や木の葉など、それまでと同じような食生活をしているわけにはいかない。
狩りをする必要に迫られた彼らは、獲物を見つけるために直立し、両手に武器を持って二足歩行することを学び、道具を工夫することで脳が発達し、大きくなった。体毛を失ったのは、木の上よりも厳しい暑さをしのぐためである……。
氏は、「この説は、一見、なかなかの説得力がある。……実際、NHKなどのテレビ番組でも、いまだにこの説に基づいた『人類の進化史』的な番組をよく放映しているし、イギリスの有名なデイビット・アッテンボロー卿の制作した自然番組は完全にそうだ」などと言いながら、
しかしこの説にも、やはりおかしな点がいろいろある。
と言う。
何がどうおかしいのか? 詳しくは本書を参照していただくとして、ここではエッセンスの部分をいくつか抜粋してみよう。
たとえば、ヒトの大きな特徴とされている直立二足歩行だが、これはどう見ても四足歩行より欠陥が多い。進化などでは全然ない。
サルだって必要なときには二足歩行ができるし、たまには両手で物を掴んだり、簡単な道具を使うこともできる。しかし、何かに追われて逃げるときや速く走りたいときなど、自らの生存にかかわるような場合には、必ず四足を使う。
ヒトには(バランスを取るための)長い首も尻尾もない。……それに、二足歩行だと、転ぶ危険性も大きくなる。脳が大きくなったのだから、なおさら不安定である。……ところがヒトは、なぜかケガから身を守る体毛すら捨てて「裸のサル」になってしまっている。これをいったい、どう説明するのか?
つまり、先に触れたように、「進化」という前提そのものを疑ったほうがいいというのが、栗本氏の一貫したスタンス。
では、氏はどんな説を支持しているのか? これも長くなりそうなので、極力要点をかいつまんでまとめてみる。
サルからヒトへの「進化」の舞台となったのは、アフリカ大陸とアラビア半島との間、いまでいう紅海の一帯。もともとこの大陸と半島は地続きだったが、
中新世が終わろうとする670〜530万年前に、……天変地異が起こった。
この結果、
(我々の祖先にあたる類人猿の住んでいた)ダナキル地塁は、アフリカ・プレートからもアラビア・プレートからも切り離され、……孤島となって紅海上に取り残されてしまった。
彼らが体験したのは、何万年にもわたる地鳴りと、頻発地震、火山の噴火である。……我々の祖先は、おそらく今日の我々よりもはるかに鋭敏な感覚を備えていたはずであるから、そのような自然界の前代未聞の異変に対して、恐れおののいたに違いない。
近隣の森林に住んでいた仲間のラマピテクスたちは、みな内陸部へと逃げていったが、我々の祖先は何らかの理由で逃げ遅れ、島となったこの地に取り残されてしまった。
……彼らは、海水が森林の根元をじわじわと浸していくなか、水を避けて島の森林地帯へ逃げて行った。
天変地異は気候も変動させる。大気は冷え、地表の乾燥が進み、……ダナキル地塁を覆っていた豊かな森林のほとんどが枯れてしまった。……我々の祖先は住処を失い、食糧も乏しくなり、さらには、エサを求めてさまよう大型肉食動物たちの餌食となる危険性も増大したのである。
栗本氏は、島に取り残されたサルたちは「いまや断固として浅い海の周辺で生きていくことを選択した」、という。
食糧を求め、浅瀬を動き回ったり、ときには海の中に入って魚を狙ったり、海辺近くの陸地で休んだりを繰り返したであろう。……このような動作の反復が、より合理的な移動方法としての直立二足歩行を促したことは十分に考えられる。
以上が、非常に大ざっぱであるが栗本氏の支持する「ヒトはいかにしてヒトになったか」の仮説であるわけだが……。
この説がやがて「サバンナ説」を押しのけ、「種の起原」の定説になる日が来るかどうか、筆者にはよくわからない。
ちなみに「サバンナ説」については、筆者も当ウェブで連載中の歴史エッセイ「夢の王国」のなかで「進化のモデル」として引用させていただいている。
まあ、筆者の場合、「ヒトとはどんな存在なのか?」を考える素材として「サバンナ説」を取り上げただけなので、栗本氏の指摘が正しければ、氏の支持する説を素材にして同じ「結論」を導くこともできる。
問題は、栗本氏が上記の新説を通して何を言いたかったのかということ。
繰り返しになるが、氏は、ヒトの直立歩行への「進化」を非常に「中途半端」で、「進化と呼べるようなものではない」と位置づける。
これに関してもいくつもの例を挙げているが、ここでは氏自らも体験した脳梗塞(血栓症)の話題とからめた箇所を抜粋してみよう。
やがて水が引いたあと、彼らは陸上に戻ることを選んだのだが、陸上で直立歩行をすることになったヒトは、……必然的に高血圧の危険を抱え込むことになった。
水中では二足歩行していても水圧によって体重が支えられ、下肢まで下がってきた血を押し返す力があったため、浅瀬であっても高血圧の問題は起きなかったのである。
ヒトがそのまま水生生活を続けていれば、高血圧も血栓症も起きなかったであろう。血栓症の問題も、水中で生きるための進化をしたあとで再び陸上で生活することになったために、出血の危険性が生じて生まれたものである。
つまり、水の中という環境に適応した「進化」は、陸上に戻れば環境への不適応、「退化」となったのだ。
このあたりの記述に至ると、氏の言いたいことの本質がハッキリ見えてくる。
つまり、通常言われている「サルからヒトへの進化」は、じつは限られた条件下で適応を強いられた結果生じた、“非常に欠陥の多い体質変化”ようなものにすぎなかったということだろう。
この中途半端な、欠陥の多いヒトへの体質変化が、過ちの多い、他の生物や地球環境に無用な負荷をかける、人類の歴史を生み出すもとになった。
要するに栗本氏の人間観は、「性悪説」に属していると言えるのかもしれない。
……この当時の記憶は深層の記憶となって、我々人類に残された。そして折に触れて、我々の精神を支配することとなる。
それが生み出す情動に、ヒトは知識や理性では抵抗できない。それを昇華しようと言ったのはゴーダマ・ブッダ(釈迦)だったが、それは簡単なことではない。
ということはどういうことか?
身体の不備を補う「道具」と言語から始まり、民族、宗教、国家という「制度」はみな、ヒトが生きるための「パンツ」であった。組織、攻撃、拡大、建設を快感とすることも同じである。それを統合するのが、救済思想だった。
だが、市場社会という大制度を選び取ったことから、最終的には貨幣がその最上位にきてすべてを支配するようになった。……鈍感な我々が気づいていなかっただけで、敏感な者は早くから気づきそれを悪用すらしていた可能性があるが、18世紀後半以上の世界はすでにそういうことになっていた可能性(危険性?)がある。
この最後の箇所の指摘が、2のユダヤ人の話につながっていく。
これ以上詳しく触れていくときりがないので、そろそろ筆者の「感想」を言わせていただくと、正直な話、「栗本氏の指摘はするどく、まっとうなものではあるが、それがすべてではないな」という感じだろうか。
氏の発想はやはり「性悪説」であり、人間の存在を「悪」ととらえる点で、キリスト教の原罪説と変わらない面があるからだ。
手前味噌で申し訳ないが、筆者は前述の「夢の王国」のなかで、「性善説も性悪説も、どちらも正しく、どちらも間違っている」と書いたことがある。
どちらも正しく、どちらも間違っている。
つまり、どちらに偏ってしまってもバランスが失われるということ。
別の言い方をすれば、サルからヒトへの「進化」が氏の提示したような形で生じたものであるにしても、それは「偶然」に起こったものなのだろうか、ということ。
「偶然」というのは一種の言葉遊びのようなもので、物事には必ず理由、意図と呼ぶべきものがあると、筆者は思っている。
つまり、結果として見るならば、ヒトは不利な生存状況に追い込まれ、身体的にも退化を強いられることで、脳を特異に発達させることができた。
特異に……と書いたが、それは「自意識」が芽生えたことを意味する。
自らを客観視し、世界を知的に把握することのできる機能を、ヒトは「退化」することで手に入れることができたわけである。
それは「悪い」ことでもあるが、同時に「いい」ことでもある。
繰り返すが、どちらに傾いてしまってもいけない。
ただの自己肯定では、栗本氏の指摘する「負の側面」が見えてこない。しかし、「負」が本質であるとまで言ってしまうと、それはそれでバランスを失ってしまう……。
では、このバランスとは何だろうか?
それは、いまこうして世界を認識して、感じている中心に自分自身がいるということだ。
世界がまずあって、そこに人類(あるいは自分)が生まれたわけではない。それが一番の錯覚……というのが筆者の感覚。
一見すると逆が真実であるように思える。しかし、そうではない。
なぜか? このように延々と語られている世界もまた、自分が存在しなければ「ない」のと同じであるからだ。
「自分が存在しなくなった世界」「自分の存在していない世界」
そんなものは、実際には「ない」ものだし、そういうものを想像することじたい、「自分」を前提にしている証拠でもある。
ということはどういうことか?
自分自身を「よい」と肯定できていれば、「これから先の世界はどうあるべきか?」など、「関係ない」ものになるということ。
世界はどうあるべきか? どうするべきか?
つまり、「ヒトはどうすれば生きていけるか、あるいは生きていく価値があるか」
……栗本氏も同書のなかで様々な提言をされているが、この点に関しては「答え」などというものはない。ないものを見つけようとするから、ひたすらに苦悩が生まれてしまう。それこそが悪しき脳のなせる業……。ちがうだろうか?
「関係ない」などというと「冷たい」「無関心」「自己中心」などと思われるかもしれないが、案外そういうものではない。
たとえば筆者が「冷たいかどうか」は、またべつの問題ということ。笑。
筆者から見れば、自分の手の及ばない範囲にあるものまで自己責任の範疇に加えてしまう感覚は、「脳の過剰な働き」にすぎないと思う。
これも手前味噌だが、筆者は過去に「脳を超えてハラで生きる」なんていうタイトルの本も書いている。
ヒトは確かに欠陥が多く、「完成された存在」などではないが、だからといって「間違っている」のか? そう見なしてしまうことは、脳の発想でしかないのではないか?
その脳を超えてしまえば、違うものが見えてくる……。
それを昇華しようと言ったのはゴーダマ・ブッダ(釈迦)だったが、それは簡単なことではない。
そりゃあ、「人類全体」を見れば、簡単なことではないかもしれない。なにしろ身近な人の生き方ですら変えることは難しいし、そもそも変える必要などあるのだろうか?(変えようとするから、物事がややこしくなる)。
この本来「ない」はずのものを人類レベルにまで広げてしまったら、問題は異様に複雑で難しいものになる。まあ、絶望的な気分になるのは仕方ない話だ。
しかし、筆者はそうはとらえない。本当に自分のことだけを考えるようにすれば、案外とあっさり突破口が見えてくると思っている。
まあ、こんなことを言うと、栗本氏の発想の根本を否定してしまっているような具合になってしまうが、そんなことにこの話の論点があるわけではない。
なにしろ、筆者は氏から多くのことを学ばせていただいた。
ただ、氏よりも後に生まれてきた人間として、よりバージョンアップした生命論、身体論を提示することが「恩返し」だという、勝手な思いをささやかだが持っている。そのため、少々辛口の「感想」を書かせていただいたというだけの話……。
今回の「完結編」も含め、“パンサル”シリーズも、ヒトという存在を理解する上で必読の書のひとつであるというのが、正直な感想。
筆者は彼の著書を何度も読み返して、いまの身体論の土台をつくっている。
これらの本を読んだからこそ、筆者は「このように」感じることができたわけである。
2005年05月29日
■「サムシンググレート」と「最先端科学」の話
立花隆氏のコラムにふれた前回、過去に「軍事的成功」と「経済的成功」を体験した日本人は、もうこれらの成功にはあまり関心がない、これからは「本物志向の時代」に突入している、と書いた。
言葉的には使い古されているので、筆者の使っているニュアンスは該当のページで確かめてほしいが、本物志向と言えば、やはり真っ先に浮かぶのが“経営コンサルタントの神様”、船井幸雄氏だ。
氏は本物の定義を、
1、付き合うものを害さない
2、付き合うものを良くする=蘇生化させ、調和させる
3、高品質で安全、そして安心できる
4、経済的である
としている(「本物時代の到来」ビジネス社)。
そして、上記のような意味での「本物」が、日本でも次々と登場しはじめていると、実例を挙げながら様々な著書で紹介している。
前回のコラムを書きながら、自分自身、あれこれ言葉を思い浮かべたのだが、「軍国主義」と「経済大国」の次の時代ということで言えば「本物志向」だな、であるなら、やはり船井氏のいう「本物」の定義でさしつかえないな、妥当だなと結論。
まあ、「本物」の話についてはいずれの機会に書くとして、じつは船井氏の話題を出したのは、今回取り上げるテーマとも少なからずシンクロしてくるからだ。
今回のテーマは、先日図書館で借りた「脳+心+遺伝子VSサムシンググレート」という本の、いわば読書感想。
これは、養老孟司(解剖学)、村上和雄(遺伝子研究)、茂木健一郎(脳科学)といった、一級レベルの科学者によるシンポジウムの内容が、比較的平易な内容でまとめられたもの。
本のタイトルにある“サムシンググレート”という言葉は、上記の村上氏の命名したものだが、経済コンサルタントである船井氏も「この世界とは何か?」を定義する時によく用いている。
言ってみれば、船井氏→サムシンググレート→村上氏という流れで、この本にたどりついたわけである。
まずは村上氏の発言から、サムシンググレートについて語ってもらおう。
大腸菌につきましては一九九七年、すべての遺伝子暗号が解読できました。ということは、どんな部品を作るということもわかっているわけですし、どんなエネルギーが必要かということもわかっているということです。
にもかかわらず、「大腸菌様がいったいなんで生きておられるのか、基本的なことがわからない。だから作れないわけです」と、氏は言う。
四つの化学の文字(*)で生物すべての設計図が書かれている。ヒトの場合はだいたい三〇億ペアといわれています。……三〇億ペアの情報というのは、ふつうの文字でいうと大百科事典が一〇〇〇冊分くらいの量になります。その情報が……一グラムの二〇〇億分の一という大きさのところに書いてあります。(この大きさは)一粒のお米を世界の人口全部に割り与えたくらい小さなところなのです。つまりお米一つのの六〇億分の一のところに書いてあるということであります。
*=A(アデニン)・T(チミン)・C(シトシン)・G(グアニン)の4つの塩基配列のこと。なお、文中のカッコは筆者。以下も。
なるほど、この例え方はわかりやすい。すごい話だ。さらに続けると、
しかも……一分一秒休みなく働いているのです。……わたしどもが働かせているのではなくて、これまた自然に働いているわけです。
最近は……遺伝子も間違うんだということがわかってまいりました。遺伝子が間違いますと、多くの場合は直し屋がすぐに出てまいりまして、それを直していきます。……あの狭い狭い空間に遺伝子の暗号を書き込んで、それを間違いなく、間違いがあっても直しながら働いている力とか働きというものを、どう考えたらいいのか。もし偶然にできたとしたら、これはどうなっているのか。
この問いかけに対して、村上氏は「進化論で有名な」木村資生氏(故人)の「カビ一匹生まれる確率は一億円の宝くじが一〇〇万回連続で当たるようなこと」という言葉を引用して、「これはありえない」、カビ一匹でそうなのだから、何十兆という細胞からできている人間はどうなのか? とさらに問いかける。
おそらくこれは遺伝子が支配していると思われます。そうすると、その遺伝子を支配しているものは何か、ということになりますが、これがよくわからないのであります。
引用が長くなってしまったが、村上氏はこうした前提に立ち、「わたしはそういうものはよくわからないのですが、“サムシンググレート”と呼んでおります」「今の現代科学・現代医学では理解できないサムシング」「しかしそれはたいへんグレートでたいへん偉大なもの。そういうものがあっても不思議ではないと思うようになりました」と語っている。
要は、神とも呼びうる偉大な何か(サムシンググレート)に対して、世界的にも実績のある最先端の遺伝子学者が言及しはじめているわけである。
さて、この村上氏に対して、解剖学の第一人者であのベストセラー「バカの壁」の著者でもある養老孟司氏は、どう答えているか。両者のやりとりが興味深い。
村上 ……確かに人間の脳がそういうものを作ったというふうに見られるとも思いますけど、そういうすばらしい脳をつくったのが、ただ単に偶然の積み重ねだけで説明できるのかどうか。……
養老 わたしはそんな大それた質問はしないという立場なのですが。……今の質問をもっと端的にわたしが捉えた形で言うと、そういうものがある(サムシンググレートが存在する)と思うかという質問ではないですか。実在するか否かは、やはり根本的にわれわれの脳が持っている重要な性質で、何が実在であるか、何が真実であるかを、あるいは何が興味の対象であるかをわれわれの脳が決めています。……
ややわかりにくい言い方かもしれないが、養老氏はこれをふまえて、自分が一番興味があるのは「昆虫」で、仕事で長い間携わってきたのは「人間の死体をいじること」であると続ける。
この二つともごくふつうの方にははっきり言って、存在していません。つまり……、死体を考えて自分の行動が変わる、虫がいるから自分の行動が変わる、という人はいない。(しかし自分はそれをを)じっと見て、何をしているんだろうなと考えて、それで感情移入して見ています。だからそれは、すでに世の中の見方が違うわけです。それで神様がいる人も当然いるだろうと思いますし、そういう意味で言えば、わたしはそういうものがいるとか、いないとかについて考えない立場です。
またしても引用が長くなってしまったが、おわかりだろうか?
養老氏は、いわゆる唯脳論の立場から、「サムシンググレート(神様?)に関心を持つ」ということ自体も、その人の脳によって規定されている、そして自分はそのようには規定されていないから、そこに興味は持たないといったことを語っているのだと思う。
要するに、どちらが正しいという「答え」を言っているのではなく、村上氏とは、視点そのものが違っているということだ。もちろん、違っているというだけで、村上氏が間違っているとは言っていない。ただ、問わないと言っている。
誤解のないように付け加えるならば、どちらが正しいという「答え」もない代わりに、「答えがない」ということが「答え」ということでもない、ということだ。
なにやら禅問答みたいだが、筆者の感想を言えば、まず、非常にバランス感覚の取れた本だなと感じた(書籍化を前提に行ったシンポジウムが内容のベースになっているようなので、人選そのもののバランスが良かったということになる)
これは、両論併記しているからバランスがいいと言っているわけではない。
意見を幅広く紹介したところで、それだけでバランスがとれるものではないからだ。その点を勘違いしている人が多いのではないだろうか?
たとえば筆者自身は、村上氏が指摘するような「サムシンググレート」をこの世界の生成発展の源として想定してもさしつかえはないと感じている。
しかし、「サムシンググレート」がほぼ宗教のいう「神」と同義ということになると、ひとつの危険な側面があることも留意する必要が当然出てくる。たとえば、同じ話の流れの中で、茂木氏が養老氏に向かって次のように問うた。
日本の科学というのは、真理でさえ人間間の相対的なコミュニケーションの結果で生まれてくるものだと考える節がある。近代科学の爆発的な発展は功罪半ばするにしても、やはり「サムシンググレート」と言うにせよ、何と言うにせよ、絶対的な真理とか、絶対者を想定することなしに近代科学の発展はなかったと思うのですけど。
つまり、いまの日本の科学は(科学だけに限らないかもしれないが)、基準になるものが失われている。すべての価値が相対化され、探求の核が失われたことで、発展が止まったという、科学の行き詰まりを危惧する指摘だろう。
これもまた非常に微妙な指摘で、養老氏の発言とは、コインの裏表のような側面がある。
すなわち、こちらが強調されすぎてしまうと、今度は科学の世界に「サムシンググレート」という神が降り立ってしまう。養老氏はそれをもちゃんと相対化すべきだと言っているし、茂木氏はその相対化が科学の行き詰まりをもたらすのではと危惧する。
繰り返すが、非常にバランス感覚のすぐれた本だ。受け取り方によっては、それこそこの問題に「答え」なんてないという相対主義に陥る人もいるかもしれないが、相対主義とバランス感覚は決定的に異なることにも気づく必要がある。
この本の構成者(竹内薫氏)は、その点を理解しているのではないかと思う。
バランス感覚と呼ばれるものは、やじろべえでも思い浮かべればわかるが、中心に支点というものが必ずある。だから左右に揺れることも、逆に揺れずにバランスが取れていることも、わかる。
筆者の見たところでは、養老氏もこのバランスは持っていて、その感覚から言葉を発しているのだと思う。それが氏にとっての「立場」ということであって、“神の領域に踏み込まない保守的な学者”といった評価には、必ずしもつながらない。
もちろんその一方で、村上氏のような「立場」の学者の口からハッキリと「サムシンググレートを想定せざるを得ない」という発言が出たのは、科学のあり方が変わろうとしている一つのシンボルであるとも筆者は思う。ただし、取り扱い注意なのだが。
科学というものが知性の集積によって成り立つものであるならば、やはりそれは感情器官によって成り立つ宗教とは分けて捉えなければならない。
「融合」すべき「接点」はもちろんあるだろうが、それぞれがその管轄するエリアを理解しなければ、本来の働きを失ってしまう。
村上氏のような「神」をも視野に入れた科学者が表に現れてきたことで、科学もますますバランス感覚が問われるようになってきたということだろう。
一つの考えを安易に真理であると信じ込むのでもなく、かといって相対主義にも陥らない視点=バランス感覚が求められているということ。
機会があれば、この微妙な感覚を要する問題に有効な回答を提出した「現象学」という現代哲学についても触れる必要があるだろう。
現象学の基本が理解できれば、今回の科学者のトークの機微というものも、もっとはっきりとつかみとれるようになるはずだ。
2005年05月22日
■高岡英夫「身体意識を鍛える」を読んでみた(下)
前回に引き続き、高岡英夫氏の唱える「身体意識」についての話。
人の身体は、物質として捉えられる肉体だけでなく、目には見えない意識が合わさることで、初めて活動が可能になる。
当たり前といえば当たり前なのだが、たとえばスポーツの世界を見ても、目に見える肉体の器官ばかりを鍛え、肝心の意識の重要性となると、メンタルトレーニングのような「自己暗示」的なものしか思い浮かばない人が、いまだ少なくない。
しかし、意識というのは、そのように頭で「思う」ことで生み出されるものばかりではない。「思う」、つまりは脳が働く以前から形成されている、生物を生物たらしめている固有の感覚と考えたらいい。
筆者の言葉で表すなら、それは脳によって作り出されるものではないということ。
また、神経の働きと関与はしていても、そのものではない。
なぜなら意識には広がりがあるからだ。肉体という枠を飛び越えて、自然にもつながっているし、他者との交流の媒介にもなる。
高岡氏はそうした意識の働きを、前回も書いたように下記の「7つの身体意識」として分類している。
センター 下丹田 中丹田 リバース ベスト 裏転子 レーザー
たとえばセンターとは、「全身を天地方向に貫いている一直線状の意識」で、正中線、軸、体軸など、スポーツや芸道の世界でも、伝統的に様々な呼び名がある。このセンターが形成されることで、
「膝や腰が曲がったり、力んで立つことがなくなり、頭のてっぺんをヒモで引っ張られるように、ラクに立つことができるのです」
また、肉体面だけでなく、
「センターは精神面でも大きな影響を与えます。イチローやウッズを見てください。……あれだけのプレッシャーの中でも、淡々として動揺しません。そして、非常にシャープな受け答えをし、行動には芯が一本通っています」
これは一例だが、7つの身体意識を養うことで、このような心身両面での快適さ、機動性、安定性といったものが養えるというわけである。
と、ここまでは、前回のいわば復習。
筆者自身、高岡氏の著書などを通して、自分自身の身体の精妙な働きの一端をより具体的に感知することができたと感じている。本格的に学んでいけば、氏が言うような意味での、人生の達人になることも可能なのかもしれない。
それはとても素晴らしいことだろう。革命的と言ってもいいかもしれないし、人の無限の可能性が、文字通り、開かれていくに違いない。
しかし、筆者の想起する“人生の達人”とは、イメージが少々違っていることも事実だ。今回は、この点について触れておくことにしよう。
7つの身体意識……実際にはもっと無数の身体意識が定義づけられているようだが、このように人の「身体」を総合的に鍛え、高めていくことには、現実問題、一つの落とし穴があると、筆者は思っている。
たとえば、部分の総和が全体にはならないという言葉があるが、テストでいつも50点くらいしか取れない人から見れば、100点を取れる人も、95点の人も、90点の人も、多少の程度の違いはあっても「雲の上の人」であるだろう。
しかし、現実には99点と100点の間には、踏み越えられない決定的な壁が存在する。
数字の持っている価値、概念が違うと言い換えてもいい。
一つ一つの身体意識を磨いて、50点の状態を60点、70点……と上げていく。これはすばらしいことだ。しかし、そうやって点数を積み重ねていった上で、最後に100点の状態があるのかというと、そういうものではない。
50点しか取れない人は、高い点数の人と比べて、自分のことを凡人と思っているのかもしれないが、50点だから凡人ということではない。
彼らは、点数を積み重ねていった一番トップのところに100点という価値というものを置いている。そして、この100点がイコール達人の定義と重なっている。そうではないだろうか?
じつはそうした発想をしていることが、凡人の証し、と言うこともできる。
言い換えるなら、100点というものの定義を変えてしまえば、その瞬間に、あなたは50点のままで「達人」にることができる。
50点であるという状態が、すでにそのままで何の問題もなく100点なのだということ。
しかし、能力を少しずつ身につけていくことで、その分自由になれる、達人になれると思っている人は(これもまた間違いではないのだが)、なかなかこの理屈がわからない。
たとえば才能がある人ならば、おそらく高岡氏と出会わなくとも、7つの(あるいはそれ以上の)身体意識を身につけていき、常人にはもう追いつけないような高いレベルに達してしまうこともありえるだろう。
繰り返すが、50点レベルの人間から見れば、もう90点であろうが、99点であろうが、「ほとんど100点と言っていいレベル=達人」に見えてしまう。
しかし、どれほどの素晴らしい才能に恵まれていようが、このやり方では99点から上はない。100点にたどり着くには、文字通りの発想の転換をし、まったく違うアプローチが求められてくる。
ここが人生の面白いところだ。身体意識が(いわゆる一般の人が想起する)達人のように優れていなくても、100点が理解できている人もいる。
自分は何点でもいい、何者にもなりたくない、このままでいい。
このように言うと、向上心もやる気もない、適当に生きているだけの人間、と思う人もいるかもしれない。
しかし、こういう自分になることで、人は余計な力が抜け、逆に自分の好きなことを自分のペースでやれるようになる。世間はそういう人間のことを能力がある、才能があると言ったりもする。
高岡氏自身、そういう人なのかもしれないし、彼のメソッドを学んでいる人の中にも、この感覚を身につけられた人はいるかもしれない。
しかし、それは7つの身体意識を身につけた結果得られたものなのかというと、果たしてそうだろうか?
筆者自身、7つの身体意識などおそらくロクに身についてはいないが、いまの「中途半端な自分」にとても満足している。変わりたい、変わっていきたいという自分の中の感情も含め、全部コミで「別にいい」と思える自分がいる。
この先というものは別にないし、その意味では目標と呼べるものは何もない。
こうした筆者の感覚からすると、大事なのはこの感覚が得られるかどうかであって、身体意識を鍛えることは二の次、ということにもなる。
あるいは身体意識を磨いていくことで、結果としてこの感覚が得られると考えている人もいるかもしれない。
もちろん、そうしたケースもあるだろう。しかしそれはある種、偶発的な結果論であって、最初の段階で設定された目的ではなかったはずだ。
なぜなら、高岡氏の著書によると、大事な要素が最低限絞っても、7つもある。「100点を得る」ということが目的であったとしたら、どうしても焦点はぼけてしまう。
人が何かを学んだり、鍛えたりするのには、様々な動機がある。
だから、こんな考え方をせずに、素直な気持ちで身体意識を磨いていけば、もちろんより快適な、自由度の高い人生は送れるはずだし、繰り返すが、それは素晴らしいことだ。高岡氏の活動にしても、もっと世間に認知されたらいいと思う。
しかし、まったく違うアプローチで自分の身体と向き合ってきた筆者には、また違った世界が見えているということだ。
簡単に言ってしまえば、大事なことはただ一つだけでいいということ。
守らなければならないことも、磨かなければならないことも、すべては一つ。それも身体に染みついてしまえば、特に磨いたりする必要もない。
もちろん、人生を生きていいく上では、7つの身体意識ではないが、身につけなければならない(身につけたほうがいい)能力というものはいくらでもある。
一つが身についたから、頭が良くなるわけでも、成功するわけでも、お金持ちになるわけでも、そして、幸せになるわけでもない。
その意味においては人生はまったく甘くはないし、学ぶということにおいては真摯な気持ち、謙虚な気持ちがなければ、どこかで行き詰まってしまう。
しかし、行き詰まろうが、不幸になろうが(あるいは逆にうまくいこうが、幸せになろうが)、「そんなことは関係ない」と思える感覚。
筆者の中では、この感覚が人にとって最も価値のあるものだという認識がある。
だから、この認識をベースにした身体論というものを(物を書くという仕事をしている手前?)わかりやすく伝えようとあれこれ画策している。
筆者に言わせれば、人が心底望んでいるものは、そんなに大それたものではないということだ。
他のところでも繰り返していることだが、生物のレベルですでに初めから持っている、生物である自分をそのまま受け入れている感覚、とでも言えばいいだろうか。
理屈抜きに、当たり前に、疑問も覚えずに自分を受け入れている感覚。
この感覚が欠落したままでは、じつのところを何を得ても何かが足りないと不安にかられる自分がなくならないはずだ。
何かを得ても何かが足りない。これ自体はまあ、当たり前のことなのだが、当たり前のことほど受け入れられない、気づけない。不安になる……。
では、この当たり前のことを意識的に学んだり、身につけていくことはできるのか? つまり、筆者は自分の身につけた感覚を、体系だって人に伝えたり、教えたりすることは可能か? 社会が人と人のコミュニケーションで成り立っている以上、実際のところ、いまの筆者にとって大事なことはこっちのほうだ。
次回は、「身体を通してただ一つのことだけを伝えている」という点で、すでに一つのメソッドを作り上げているMRTの内海康満氏について触れてみたいと思う。
筆者が大事にしている「しっぽ」の概念も、もとはと言えば内海氏の「仙骨が身体の中心にある」という理論から影響を受けてのものだ。
高岡氏の提唱する身体意識の概念に慣れてしまっている人からすれば、それとはまったく定義の違う世界観、身体観のあることに驚かされるかもしれない。
身体もまた多様性の上で成り立っている、その意味で精妙不思議な「宇宙」なのである。
2003年06月05日
■新型肺炎「SARS」発生から見えてくるもの。
今年に入り、中国や香港、台湾など東アジアを中心に、新型肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)が猛威を奮っている。
6月4日現在で感染者は約8400人、そのうち死者は770人。最近では感染者の増加がやや沈静化したとの報道もあるが、それは多分に国レベルの封じ込め策が好を奏したため。ワクチン(特効薬)が開発されたからでも、人の身体に免疫ができたからでもない。だから「1人の患者が大量感染につながる」懸念は依然続いている。
今回は、この免疫ということに関して、少々シビアな話をしていこう。
ここで言う免疫とは、自分自身で病気を払いのける力のこと。だから医療機関なども、感染しそうな場所になるべく行かないことや清潔にすることに加え、しっかりした食生活や睡眠などでこの力(免疫力)を高めることを呼びかけている。
しかし、いくら栄養のある食事を取ろうが、十分睡眠を取ろうが、だから免疫力が高まるのかというと、そうとも言えるものではないという事実がある。
体質という言葉があるように、ロクに食事など取らなくとも丈夫な人もいる。
タバコを毎日吸ってもガンにならない人。1日2〜3時間の睡眠だけで大量の仕事をこなし、しかも長生きな人。酒を浴びるほど飲んでも却って元気な人。
いや、もっと言ってしまおう。ある意味当り前のことではあるが、感染者の多い中国でも台湾でも、じつは全員がSARSにかかっているわけではない。かからない人はかからない。逆にかかる人は、どんなに気をつけていてもかかってしまう。
SARSに限らず、そもそも病気の本質はそういうものであると理解できなければ、ただ単に、自分や自分の家族などに災厄が降りかかるかどうかという心配だけの話になってしまう。注意すれば何とかなる、確率が減るというだけでは、(一見正論に聞こえるが)じつは本質からどんどんと遠ざかってしまうのである。
もっともこんな言い方をすると、「要するに無力感に陥っているのか? 諦めているのか?」と、運命主義者?の烙印が貼られてしまうかもしれない。
しかし筆者は、そのような無力感を語っているわけではない。体質とは文字通り「体の質」であり、肉体自体の性能より、むしろそれに付随する感覚(身体感覚)を磨かないと意味がないと、これまでの著作のなかでも繰り返し述べてきた。
たとえば、いくら大柄でも身体感覚が劣っていれば、「鈍い」と言われる。痩せていても身軽ではない人。筋骨隆々でももろい人など、いくらでもいる。
みな体質を変えるというと、体重や筋肉の量を増減させるなど、目に見える肉体ばかり操ろうとするが、それで感覚=体質が変わるという保証はない。この当り前すぎる事実が理解できないから、健康のためと称してジョギングを始めたりする。カロリー計算をしたり、フィットネスジムに通ったり努力の量ばかり増そうとする。
しかし現実には、そうした努力を積み重ねても、病気になる人はなる。
たとえば、ガンにかかる人というのは、ガンにかかってしまうような(体の細胞の一部がガン化してしまうような)生活パターンを身に宿している。
そのパターンに気づき、それ自体を変えようという意識のないままいたずらに鍛えても、気休めや自己満足にすぎない。見た目の変化だけで変わったつもりになっていたとしても、どこかに別の負担がかかっている場合が多いのである。だから、また別の形で症状が現われる。一つの病気が治っても別の病気に襲われる。
まだピンと来ない人もいるだろうから、こんな譬えをしてみよう。
たとえば現代教育では長所を伸ばすことが大事と言われているが、多くの人はそう言いながら、実際には「苦手なことから逃げてる」のではないだろうか?
つまり、ただ嫌なことを避けている。得意なことを伸ばすのではなく、得意なことしかできない人間に(それすらも中途半端な人間に?)、結局のところなってしまっている。それではいくら改善策を打ち出そうが、事態は何も変わらない。
嫌なことを避けてばかりいれば、やがては不自由になってしまう。
病気にしても、その症状になるのはなるだけの理由があるからであり、先にも話したように、そこにはその人の負の生活パターンが多分に反映されている。
あなたは自分のことを口うるさく注意する人を、煙たく思うだろうか?
そう思うのは仕方ないにしても、もし遠ざけてしまったら、自分の回りはイエスマンばかりになってしまう。それでは、負のパターンからは抜け出せない。ラクかもしれないが、いざと言うとき身動きが取れず、却って大きな災厄に見舞われてしまう。
ワクチンが開発されればSARSが収まると思っている人は、(事実、収まるかもしれないが)、それを生み出した原因には目が向かないまま、同じ生活パターンを繰り返すことになる。だからやがてまた症状は現われ、そのワクチンは効かなくなる。
医学が発達していなかった昔は、一度疫病が広がると人口の半分くらいがあっという間に失われた。生物学的に見れば、そのように淘汰が行われた。
しかし現代では、死ぬべき人も死ねず、克服されない負のパターンはひたすら蓄積されていき、どんどんと身体(社会)の内面に潜在していく。
おわかりだろうか? 一見すると治ったようでも、何も治っていないのである。
SARSが蔓延することよりも、SARSがいまの状態のまま沈静化するほうが却って怖いと、筆者は思っている。そしてその現実は、確実に進展している。
生物は環境の変化に対し必ず何らかの病気にかかり、それを克服できない個体や種は滅び、できたものがこうして進化を許されてきた。要するにそれこそが免疫力であり、それは命懸けの戦いとセットになって生み出される。
そう考えれば、その時々の身体の症状に振り回され、治った・治らないで一喜一憂する自分とはいったい何者なのか、という現実も見えてくるだろう。
そこから一歩離れ、いまの病気が現われた背景を自分自身の癖と重ね合せてみる。自分の質を変えていくには何が必要か、そのことを第一に問うてみる。
生きる力を身につけていくには、ご都合主義ではいけないのである。
漫然と生活していて、病気にかかったら医者に何とかしてもらおうと発想する人は、カルト宗教にはまる信者を笑えない。病気の対策などというものより、自分自身が生きる、生き抜くというシビアな現実に立って、それに直面するということ。
表面的に帳尻を合わせることに、解決という言葉を安易に使わないことだ(もう少し踏み込んだ話は、いずれ本に著わすつもりでいる)。
筆者には予感がある。科学や医学が発達することで、生活も身体も表面上は大いに改善され、快適さがもたらされたが、それは生きる上で発生する負の要素を内側に押し込み続けることで維持されている性質のものに他ならない。
本当には何も解決されていないまま、人間の作り上げてきた地球スケールのシステムの中でひたすら負が蓄積されている。これが噴き出したとき、果たしてどれほどの人が「病気」を克服できるだろうか? 「免疫」を作り出せるだろうか?
言い換えるなら、この危機をも乗り超えられるような「免疫」は、人にどれほどの進化をもたらすのか、……正直、想像を絶してしまう。そうした生物的な変革がさほど遠くない未来に展開される可能性を、否定できる人はどれほどいるだろうか?
筆者の展開する身体論は、突き詰めればそんな状況すら想定した「質」を持っている。カギを握っているのは「しっぽ」であると、ここで予告しておこう。
2003年05月02日
■「履きやすい靴」と「履きにくい靴」。
今回は(いつもそうかもしれないが?)発想の転換の話をしよう。
筆者の住まいにほど近い、東京・中野の商店街の一角に、おそらく日本中探してもこれ以上ないという、最高の履き心地の靴を製造・販売している職人の店がある。
武術家の甲野善紀氏がその著作のなかで推薦していた「マシモシューズ」のことだが、筆者自身、処女作「サムライ」を執筆する過程で興味を覚え、話だけでも聞いてみようと店を訪れたところ、店主(間下庄一氏)の感覚のするどさに驚かされ、その場で決断して4万円もしたシューズを買ってしまった経緯がある。
ドイツなどから靴を取り寄せ、それをベースに客の足に合ったものに加工し提供しているというが(筆者の買った靴よりもっと安価なものもある)、筆者の足を触った氏は、開口一番、「君、肉をあまり食べないだろう」と一言。その他にも、短時間のうちに筆者の身体の癖をいくつか見抜かれ、アドバイスもいただき、この人の作る靴ならという気にさせられたのだから本当に筋金が入っている。
実際筆者は、その靴を買う前後から、歩くということに関心を深めつつあったわけだが(いまそれも含めハラやしっぽを活用した歩き方、生き方の本を出版する準備を進めている)、マシモシューズは村崎流(*村崎は当時のペンネーム)のウオーキング術を確立させる過程においても、この上ないサポーター、援護射撃をしてくれたわけである。
筆者の提唱するウオーキングは、それほど難易度の高いものではない。
ただ、現代人の多くが錆びつかせ、喪失させてしまっている「足腰」の感覚を養うために、あるいは元気や活力を呼び戻すために(これらは相関関係にある。つまり、いま日本人に元気がないのは、足腰の衰えと大いに関係がある)、「こうした歩き方があるんですよ」といういくつかのチェックポイントを伝えている。具体的には、この歩き方を身につけることで、次の効果が挙げられるだろう。
一、長時間歩いても筋肉痛にならない(だから、歩くのが楽しくなる)。
二、歩くほどに細胞が活性化し、元気になれる。
三、歩くことで自分の体調管理ができるようになる。
詳しくはいずれ出版する本のなかで紹介していくつもりだが、こうした効果をより確実にモノにするためには、当然のことながら履いている靴の質も問われてくる。
そもそも筆者のウオーキングを習う以前に、外反母趾やら膝痛、腰痛やら靴にまつわる持病を抱えている人も少なくないだろう。そうした人はまず、靴も含め自分にとって心地の良いモノを身につける、そうした習慣を養う必要がある。
逆に言えば、見てくれや流行にばかり目を向けてきたツケ、あるいは自分の身体そのものに無関心だったツケが、症状という形となって現われたことに気づかなければ、いくら歩き方を学んでも本質は何も変わらない。間下氏の靴は、そんな問題を抱えた人に真っ先にオススメしたい靴であると言えるわけである。
と、ここで発想の転換の話である。
筆者は氏の靴を履くことで、確かに先に挙げたような効果が体感できた。取材で4〜5時間歩き詰めになっても全然疲れないのだから、昔の自分が知ったらビックリするはずだが、しかしあるとき、ふと次のような疑問も湧いた。
では筆者の身体感覚は、結局、靴次第なのか?
靴を替えたら失われてしまう程度のものなのか?
こうした疑問を感じるようになった前後、その思いとシンクロするように、自分の信頼するある人から「自分がラクなのもいいが、あなたの立場上、人にどう見られるかももっと意識すべきではないのか?」という指摘をいただいた。
つまり、人に凄い、格好いい(女性の場合は奇麗)と思われるには、ときに身体的な苦痛をも受け入れて、痩せ我慢しなければならない時がある。
思えば筆者は、就職していた時代も(雑誌編集の仕事をしていたこともあり)、スーツをほとんど着たことがなかった。夏の暑いさかりに上下のスーツを着用するサラリーマンの風習は異常であるとさえ思い、どこかで軽蔑していたものだ。
しかし、いまは必ずしもそうは思わない。そうした負担が相手への礼儀にもなりえるということが、今さらながらわかってきたからである。
とはいえ、痩せ我慢して格好つけて、それでいつもフラフラになっていても仕方ないだろう。肝心の仕事に障りがあったら元も子もない。
……そんなことをあれこれ思っていた最中、筆者に助言してくれた先の人の勧めで、自分の価値観とは異なる「見た目重視」の靴の購入をすることとなった。
しかし履いてみて、まるで鎖にでもつながれたような……といったら大げさに聞こえるかもしれないが、あまりの窮屈さにビックリ。この靴で本当に毎日過ごさねばならないのだろうかと、買った当初は暗澹とした気分に陥ってしまった(逆に言えば、一般の人はそれくらい不自由な靴を当り前と思って履いているわけである)。
もちろん、自分自身の身体感覚を試す(加えて、その質をさらに向上させる)ためにも、これは必要であると理解はした上での投資である。
しかし、痛い。あまりに痛い。1時間も歩き続けると、腰から太腿、足先にかけて痺れ始め、帰宅後もそれは無くならない。痛みを引きずったまま、次の日も歩く。痺れはさらに悪化。腰も痛くなってくる。次第に歩くこと自体が億劫になってきた。「改革には痛みが伴う」とはどこかの国の首相の言葉だが、自分の日々の活動がいかに間下氏の靴に助けられていたかを実感せざるをえない状況に陥ってしまった。
とはいえ、本当に鎖につながれているわけではなく、また、これまで少なからず足腰を鍛え、人に話ができるくらいの身体感覚は得てきたのだから、市販されている普通のメーカーの靴にこうも悩まされるのはおかしな話だという思いもあった。
対応力と言い換えてもいい。自分にとって自由で快適なスタイルを確立していくことで、逆に不快で不自由なものに対応できなくなってしまったら、その対応力の面で常人以下になってしまうのだとしたら、やはりそれも不自由ではないのか?
逆に言えば、この履きにくい靴を履きこなせようになれば(メーカーは明かさないが本当に信じられないくらいの履きにくさ!)、どんな靴でも対応できる。再び氏の靴を履く機会があれば、今まで以上に快適で自由なウオーキングが可能なはず。
筆者が履きにくい靴に苦しみながら、それでも事態を楽観視していたのは、身体そのものに疲労感が蓄積されたわけではなかったこと。足に関しても、確かに痛みやコリは覚えたが、靴ずれのような症状は一切なかったこと。
要するに自分の身につけてきた歩き方自体は、さほど問題がないようだ。
それは実感できた。加えて足の痛みを子細に観察していくと、両脚全体が痛くなるわけではなく、痛みの出やすい箇所が幾つかあることが発見できた。要するにそこが自分のウイークポイントであり、しかもその箇所が左右異なっているということは、両脚のバランスがまだまだ確立されていないということを意味している。
靴を購入してまだ2週間ほど。ようやく80%くらいには足も痛みも回復し、履きにくかろうが、履きやすい靴のときとさして変わらない感覚で歩けるようになってきた。
というより、結果として足の感覚が従来より強化され、全体のバランス自体、ずいぶん高まったことが感じられる。快適な環境が知らず知らずのうちに自分の身体を甘やかせていたという現実にも、否応なく気づかされているところだ。
さて、この一文を読んで、結局、間下氏の靴を買ったほうがいいのか悪いのか、わからなくなった人もいることだろう。
しかしわからないという人なら、間違いなく買ったほうがいい。そして、まずは何が快適か、心地よいか、その基準を身体に刻み込んで欲しい。もちろん、靴の買い換えはその一手段であり、買えばすべてが解決されるわけではない。
もっと根本的に言うなら、やはり身体感覚を磨くということ。
それはただ肉体的な気持ち良さを求めたり、逆に肉体を酷使して鍛え上げても、必ずしも身につくものではない。そうではなく、まず身体の構造を理解し、その中心にあるハラにまで意識の重心を降ろす。脳が自分の中心であるという頭でっかちの現実から抜け出す。虚弱体質の人はハラの位置に、高速で回転するコマを思い描く。
まずはこうした基礎を作らなければ、ほぼ例外なく年齢とともに身体は衰えていく。成人病やその他様々な病気にかかる確率もどんどん増していく。
筆者はいま、自分の培った元気を土台にして、自分自身がもっと自在に活動できる能力を身につけようとしている。自分自身の「構造改革」を断行し、成果を挙げていくことで、誰もが共有できる価値観を世に提示できたらと思っている。
一見すると些細なことのようだが、靴ひとつ取り替えるだけでも、その背後には筆者なりの目的意識があるということ。試しみが存在するということ。
些細なことができなければ、先へ進めない現実が確かに存在するのである。
2002年11月05日
■「直観」の本質は、「第二印象」にあり。
筆者は、これまで様々な作品の中で触れてきたように、直観(インスピレーション)を脳から発するものとして捉えてはいない。
動物でいう「しっぽ」でまずキャッチし、その上で神経を伝って脳に送られ、認識されるものとして理解している。しっぽは退化してしまったと考えられているが、脳にばかり意識が偏ってしまっているから、しっぽからの情報がキャッチできない。生き抜くために本来最も重要な直観が曖昧模糊と化してしまっているのである。
筆者から見れば、みな頭を使って損得の計算ばかりしている。
もちろん不要とまでは言わないが、計算の合うことばかり(自分の頭で理解できることばかり)経験したところで、自分の気持ちは見えなくなり、発想も硬直化する。そして、やがてはどこかで行き詰まってしまう。本当の「得」を得たいと思うのなら、当り前の話だが、損と思われることでもやらねばならないことがある。その判断の基準となるのが、直観=しっぽの感覚に他ならないわけである。
最近、こうした点に関連し、多くの人が日々陥っているあるパターンに、これまで以上にハッキリと気づけるようになった。
しっぽの重要性については、現在出版化に向けて準備を進めている「君には“しっぽ”は生えている!」(*未発表)の中ですでに詳しく綴っているが、今回は応用編として、その罠とも言えるパターンについて話を進めていきたいと思う。
しっぽが使えない人というのは、じつはその分様々な「思い込み」に支配されている。
たとえば、「直観とはパッとひらめき、本質を理解することだ」と漠然と信じている人は多いだろう。しかしこれは、半分正解で半分は誤解である。
なぜなら人は、しっぽだけでなく、当然、脳も使っている。他の動物に比べれば情報処理の仕方が非常に「高度」であり、しっぽと脳は相互に関係し合うことで、人に様々な判断、選択をもたらしている。そうした構造である以上、誤解もまた必然なのである。
誤解も必然という視点に立てば、「パッとひらめくものが直観だ」という捉え方もまた、脳が生み出したひとつの固定観念にすぎないことが見えてくる。そしてその固定観念が、逆に自分の直観を感知できない原因になっているのである。
何のことなのかピンと来ない人も多いと思われるので、いくつか例を挙げていこう。
たとえば読者は、面識のない人と電話で話したとき、漠然と誰かの顔を思い浮かべていないだろうか? 声音や口調、肩書きなどから、自分の経験の中で似通った顔の人を想像する。もちろんそれは思い込みに過ぎない。実際に会ってみれば、その想像とは当然のことながら違っている。一致するケースなどほとんどありえない。
これは電話に限らず、実際、面前で会っている人に対しても同じ感覚が働く。
自分の作り上げた過去のイメージで、とりあえずのレッテルを貼っている。かなり気をつけていても、そのレッテルは幾重にも貼られている。つまり第一印象を直観だと思い込んでしまったら、このレッテル貼りがむしろ強化されてしまう。
中にはこうしたレッテル貼りから脱して、物事を「ありのまま」に認識することも可能だと説く人もいるかもしれない。しかし、「レッテルの全部剥がされた状態」というものを前提にしてしまえば、それもまた観念にすぎなくなる。堂々巡りになってしまう。
ありのままというのは、レッテルを貼って人を見ている状態も含め、すべてが自分のしていることだと、文字通りありのままに感じる感覚に他ならない。簡単に言えば、自分のレッテル貼り=誤解に気づく必要はあるにせよ、そうした行為自体は日々ありうることとして、当り前のように受け入れる、ということだ。
ところが、第一印象を直観の本質であると「誤解」している人は、第一印象に裏切られても、もっと直観を磨いて、今度は裏切られないようにしようと発想してしまう。そしてまた裏切られる。そのうち、「第一印象など当てにならない」と言いはじめて(それは当たっているわけだが)、直観そのものも軽視するようになってしまう。
繰り返すが、我々は脳だけを使っているわけでもなく、また、しっぽだけを使っているわけでもない。本当にしっぽが使えている人は、脳の働きもまた理解し、脳が生み出す思い込みもまた「想像力の産物」として有効活用している。
自分が誰に対してどんなイメージを抱く傾向にあるのか、その反応のパターンも感知できれば、第一印象には踊らされない。逆に、「自分の感じ方」を通して自分の性格や個性を把握するだけの余裕も持つことができる。相手にレッテルを貼っている自分にただ気づくだけでなく、そうした「偏見に満ちた自分」を受け入れ、ありのまま、無条件に認める感覚とでも言えばいいだろうか? じつはそうした素直さを養うことで、脳の呪縛もほどかれ、結果、直観が働きやすくなっていくのである。
要は、安易に物事を信じ込まないということだ。信じ込むことを直観だと思わない。
むしろ、第一印象などより、「第二印象」を重視する。イヤな奴だ、苦手な奴だと思っても、その感覚に惑わされず、ぐっと踏み留まってみる。じつはその踏み留まろうという行為のほうが、直観に基づいている。脳の作り出したパターンに反することは不快なことだが、その不快さを感じたとき、直観の本質が見えてくる。
多くの人が直観を置き去りにし(しっぽを錆びつかせ)、単純な好き嫌いに惑わされ、支配されている現実が見えてこないだろうか?
スグに反応してしまう(決めつけてしまう)ことで、みな自分の本心を見失ってしまっている。そして勝手に不安がっている。そんな「心の曇った」状態で世界を見渡しても、本当にしびれるような刺激などどこにも転がっていない。刺激が欲しいというのなら、まずはたくさんの「第二印象」を拾い集めるべきなのである。
2002年09月07日
■見落とされている「右脳開発」の落とし穴
「右脳開発」を勧める本を、最近ではあちこちで見かけるようになってきた。
要するに、学校教育などに象徴される理論重視の発想が見直され、もっと感性豊かな、想像力あふれる人間が求められているということだろう。
よく知られているように、同じ脳でも右半分(右脳)は感覚的に、左半分(左脳)は論理的に、物事を認識・把握していると言われている。タイプ論で言えば、長嶋茂雄は右脳人間、王貞治は左脳人間の象徴のように思われている。
しかし、左脳人間である(?)王氏が、単に理論ばかり重視する「頭でっかち」の人物だとしたら、そもそもプロ野球選手としてあれだけの記録は残せなかったはずである。いわゆる左脳タイプであったとしても、社会で活躍する人はいくらでもいる。逆に右脳人間がみな、長嶋氏のように成功できるとも限らないだろう。
要するに筆者は、「右脳開発」などと称されるものを、あまり信用していない。従来の発想の範疇にある、きわめて一面的な能力開発にすぎないと思っている。
まず、考えてみてほしい。左脳偏重がよくないから、右脳開発。それはただ単に、左に偏っていたものが、右に傾いただけの話ではないか? もちろん偏っていること自体アンバランスであるから、ゆり戻しは必要である。しかし、右を重視するあまり右脳偏重になってしまったら、それもまたアンバランスなのである。
バランスとは、じつは頭(脳)でコントロールできるものではない。
綱渡りをする芸人が「頭でっかち」だったら、恐怖に支配されるばかりで、決して名人になれはしない。彼らは身体でバランスを取っている。そしてその身体の中心は脳のような上部にはなく、構造上、もっと下にあるはずである。
筆者が武道で言うところのハラ(肚)を重視しているのは、それが肉体上の重心に位置し、行為の起点になっているからだ。人はハラという中心を得ることではじめて、右にも左にも偏らないバランス感覚の妙味を理解する。逆に言えば、ハラがわからないかぎり、自分が偏っていることすら、なかなか実感はできないのである。
筆者は、こうした視点に立って、この5月「サムライ〜世界の常識を覆す日本人アスリートの身体感覚」(幻冬舎)という本を発表した。そしてこの9月には、続編にあたる「脳を超えてハラで生きる」(地湧社)の出版が決まっている。
これらの著作を世に出すことでハラという概念がより多くの人に認知され、当り前の「用語」として定着していけば……と思っているわけだが、社会全体が脳ばかりを重視している以上、まだまだいくつもの障壁は存在する。
たとえば、右脳タイプと呼ばれる人は、たしかにすぐれた感性は持っているかもしれないし、性格的にも俗に言う「ボケキャラ」として周囲の人に愛されているかもしれない。彼らは窮屈で、肩肘はった生き方を嫌い、自由を愛している。
しかし悪く言えば、無責任で、ここ一番の決断力に欠けてもいるだろう。何が何でもこれをやり遂げるんだという意思も、どこか希薄な面がある。
もちろん、左脳タイプの人間がいいかというと、彼らは責任感はあるかもしれないが、それは理屈のなかで作られた、社会に押し付けられたものである場合が多い。会社人間と呼ばれる人のなかには、筆者が知るかぎりでも、本当の意味での決断力に欠けた、「決まり」や「前例」から抜け出せない人がたくさんいる。
もうおわかりだろう。右であろうが左であろうが、脳だけを開発しようとしているかぎり、一番肝心な意思決定の能力は養えないのである。
つまり、ハラが座らない。だからどれだけ才能があろうと、愛すべきキャラクターであろうと、本当に人に信頼される存在にはなれはしない。それどころか、ここ一番の時弱さが露呈してしまい、現実逃避や事なかれ主義に陥るか、才能を発揮する以前に行動ができないか……、いずれにしても「使えない」のである。
ハラという場には、肉体でいうと前方に生殖器が、後方には仙骨と尾骨がある。
詳しくは前述の著書を参照してほしいが、生殖器は人の生命力(バイタリティー)の源泉であり、「元気」や「やる気」を生み出すもとになっている。そして仙骨という骨は、文字通り身体の中心にあり、尾骨という動物でいうところのしっぽがキャッチした情報を、全身に送る発信元のような役割を担っている。
どちらにしても、我々が生物の時代から受け継いできた、最もコアな能力である。
脳が発達する過程で忘れられていった、数十億年にも及ぶ生物としての「生きよう」「進もう」「やろう」という、どうしようもなく強烈な意思。右脳をいくら開発しても、この意思までにはさかのぼれない。ということは、残念ながら中途半端なのである。身体を置いてきぼりにしているという点で、左脳偏重と変わらない。
ハラを磨いていけば、右脳のようにふわふわと「感じる」だけでなく、自分の直観がもっとダイレクトに、瞬時にキャッチできるようになる。
その直観は、左脳より右脳のほうが感知しやすいものであるため、なかにはハラ感覚を右脳感覚と混同している人もいるかもしれないが、その大きな違いは、これまで述べたとおり、意思の有無に関わっている。凡百のクリエイターから抜け出すためには、この意思を磨くすべを身につけるべきであり、それこそが何にも代え難い、人がまず身につけるべき「価値」なのである。才能などなくともこれさえあれば、自分らしく生きていける。普通に生きていくなかで、クリエイトする感覚がわかってくる。
本当に確実なものを手にしたいのなら、右や左にブレないことだ。つねにどちらかに揺れ動く自分自身の脳の働きに、まず気づくべきだろう。
2002年03月31日
■鬼束ちひろと小池栄子の共通項。
ここ数年、ダメだダメだと言われ続けている日本だが、本当にダメなのか? 深刻に首をひねるほどに、突破口の見つからない状態なのだろうか?
じつは突破口など作ろうとせずとも、自然に開かれていくものだと、筆者は思う。
ただその経過を感じ取れない人が、勝手に慌てふためいて、あちこち扉を探したり、こじあけようとして、「うまくいかない、うまくいかない」と途方に暮れている。「どうすれば再生できるんでしょうか?」「いま何が必要なんでしょうか?」と連発し、かえって問題をこじらせ、見えにくくしているのである。
しかし、普段生活している中で何気なく情報に接するだけでも、「あ、いま水面化でかなり変わりつつあるな、相当大規模に変わるな」という前兆は、十分に感じ取れる。あるいは人に関して言うならば、ダメだダメだと語る人たちの気づかないところで、いま確実に、「ハラの座った」人たちが現われはじめている。
彼らは、どことなくどっしりとして、態度がふにゃふにゃしていない。見かけは優しそうでも、その奥にどこか「怖さ」がひそんでいる。
たとえば、ごく身近なところで、芸能界に焦点を当ててみることにしよう。
芸能界には、スターと呼ばれる人たちがいる。彼らは時代の映し鏡のような存在であり、いくら個性的であろうと必ずどこかで「いま」と重なり合っている。
筆者が思うのは、特にここ10年ほどはハートの温かい、どこかフワーっとした波長の人たちが体勢を占めていたということ。見ていて心地よくはなるが、ズシンと響いてくる重さがない。言い換えるなら、お手軽で、スターなのにどこか近づきやすい。しかもそれが問題視されるわけでもなく、逆にウリにもなっている。
こうした傾向は、決して悪いことではない。
音楽で言えば、カラオケが爆発的に普及することで、みな歌が上手くなり、プロとアマの差がひところよりずいぶんと曖昧になってしまった。
しかし、キチンと音楽を学ぼうとしている人にとっては、恵まれた環境でもある。
たとえば、そうした時代の象徴とも言える宇多田ヒカルは、歌うだけでなく、自分で作詞・作曲する能力を持っている。ほんの一サイクル前のスター・安室奈美絵が、それらを小室哲也のプロデュースに任せ切っていたことを思えば、格段の違いだろう。ほんのここ数年のうちに、「自分のことはすべて自分でしたい」という実利主義の風潮が、日本にジワジワと押し寄せてきている状況が感じ取れるのである。
今の時代のシンボルとしては、まず浜崎あゆみのほうを思い浮かべる人が多いかもしれないが、実利主義というスタンスで言えば、作詞のみ手がける浜崎より、オールラウンドな宇多田のほうが今の時代の世相とはるかに重なり合っている。
言うなれば、モーニング娘。のような「身近な」なアイドルがブラウン管をにぎわす影で、潜在的には、宇多田のような「職人」タイプのアーチストを生み出す土壌が少しずつ生み出されている。それがここ数年の日本の音楽界の傾向と言うことができる。身近さ、手軽さがもてはやされ、ブームを作り出す一方で、それだけでは飽き足らない人々の欲求も、相対的にレベルを高めているわけである。
とはいえ筆者は、宇多田の曲に「ズシンと響いてくる重さ」を必ずしも感じているわけではない。その意味では、まだまだ過渡的な存在。広く日本の音楽界を見渡せば、もっと「ハラの座った」歌手も、少なからず存在している。
たとえばハラ的ということで真っ先に思い浮かぶのは、やはり中島みゆきだろう。
誰もが知っている大物歌手でありながら、ほとんど表舞台に現われない。言い換えるなら、彼女が表舞台に立たない(立つ気になれない)状況こそが、良きにつけ悪しきにつけ、戦後の日本の現実だった。たとえば、彼女の歌を「暗い」と表現する人は多い。しかし、その暗さこそ、「ズシンと響いてくる重さ」の実態である。多くの人は、そうした重さを暗いと感じ、意識の表面から遠ざけてきたわけだが……、じつはいま、少しずつ払拭されようとしている。読者には、その状況が見えているだろうか?
中島ほどの存在感はまだないが、筆者が注目しているのは、鬼束ちひろである。
彼女の曲調は、ここ数年のヒット曲の傾向とは異なり、どこか中島とも重なり合う、妙な重さ、力強さが感じられる。しかもそれが個性であるとリスナーに認識され、出す曲は必ずと言っていいほどヒットチャートをにぎわせている。
デビュー曲の「月光」などは、いきなり英語で「I'm God Child.(私は神の子)」と歌うのだから、大したものだ。「ミュージック・ステーション」に初出演したときなど、明らかに周囲から浮き上がっていた。しかし筆者に言わせれば、今後はむしろ、彼女のようなタイプの歌手の比率がどんどんと増してくる。
あるいは、歌手ではないが、「巨乳アイドル」の小池栄子も、これからの時代を感じさせるような、妙にハラ的な存在感を醸し出しているだろう。
テレビのインタビューで「私は癒し系じゃない、それで言うなら“肝っ玉母さん”系かな」と語っていたのを聞いたことがあるが、肝っ玉(ハラ)を売り物にするようなアイドルなど、10年前ならとっつきにくいだけで、おそらく通用しなかったはずである。「巨乳」ばかりがピックアップされているが、じつはそれ以上に、彼女から漂ってくるあの妙に異質なムードこそが、ファンの心を捉えている。これまで軽視されてきたハラ感覚が、一般の若者の感性をもくすぐりはじめているのである。
鬼束ちひろのどっしりとした重たい歌声、そして、小池栄子の肝っ玉。
これまで筆者は、ハラという身体感覚について語るとき、スポーツや格闘技を引き合いに出すことが多かったが、程度の差こそあれ、どのジャンルでも似たような傾向は導き出せる。その多くはこれまでの時代の空気に溶け込んでいるため、注意しなければ見分けがつきにくいが、身近にもそのような若者は現われはじめている。
言うなれば、暗さが深さと置き換えられ、アイドルより職人がリスペクトされる時代。
この当り前と言ってもいい感覚が、日本のスタンダードになる。芸能界というお馴染みのジャンルを眺めるだけでも、そんな状況が見えてくるのである。
2001年10月16日
■「たばこ屋のおばあちゃん」の身体感覚。
この世界には、信じられないくらいの才能を持っている人がいる。
歴史をたどれば、モーツアルトやナポレオンなどの名前が、まず思い浮かぶだろう。日本にも、彼らのようなずば抜けた天才こそ少ないが(その理由は後述する)、きらびやかな才能を身にまとい、時代の寵児になった人は枚挙にいとまがない。
たとえば最近では、メジャーで活躍するイチローなど、その最たる例だろう。先のベルリン・マラソンを圧倒的なタイムで制した高橋尚子もそう。ほかにも、サッカーの中田英寿や格闘技の桜庭和志など、これまで筆者が作品の中で取り上げてきた一流アスリートたちは、みな常人には真似できない、特有の才能を持っている。
多くの人は、とても自分には真似できない。彼らは特別だ。そう言って諦めるか、ハナから無関係だと思うか、そのどちらかと言えるわけだが……。
しかし、物事には必ずコツや原理というものがある。筆者は、それらが発揮できている状態を、身体感覚という言葉を通して理解しているが、その仕組みさえわかっていれば、異質な才能を取り込むことも決して不可能なことではない。才能とは、いちいち誰かに気がねなどせず、マイペースで追及していけるものなのである。
身体感覚というとまだ抽象的すぎるきらいがあるので、もう少し明確に定義してみよう。
この方面の研究の第一人者である、武道家・高岡英夫氏によると、才能とはつまるところ、軸(センター)と呼ばれる身体感覚のことであると言うことになるが、じつは筆者自身、最近ではその意味がかなりハッキリと理解できるようになっている。
つまり、「彼の才能は天与のものだ」といった称賛の言葉があるように、「才能がある」ということは、天にも達するほどの軸感覚をその人物が身につけているということを指している。身体の軸がシッカリしているから、余計な力みが生まれない。その軸の動きに沿って、自在に力が発揮できるようになる。非力に見えるイチローがメジャー1年目で歴史に残る活躍を残せたことなど、その好例とも言えるわけである。
とはいえ、才能を得るということは、そうしたプラスばかりだろうか?
なぜなら、物事にはつねに表と裏がある。古来からさかんに語られてきたように、才能ばかりが溢れていても、幸福がもたらされるとは限らない。この一面の真実に気づくことができねば、そこには「悲劇の天才」が生まれてしまう。
先に挙げた日本人アスリートたちにそうした悲劇性が感じられないのは、彼らが軸以外の、「人を幸せにする身体感覚」をも少なからず持っているからだと、筆者は思う。反面、モーツアルトやナポレオン、あるいはマイク・タイソンのようなボクサーには、ある種の悲劇性がつきまとっている。この違いは何だと思われるだろうか?
この世の中には、才能など求めなくとも、心底幸せに、のどかに生きられる人がいる。
筆者はこういう人を「たばこ屋のおばあちゃんのような生き方」と呼んでいるが、この生き方のできる人は、一日中なすことなく、お店の一角にポツンと座っているだけでも、一流アスリートの「勝利の瞬間」に引けをとらない幸福感を味わっている。彼らが一歩間違えば、何かに追われ続けるような苦悩に苛まれているのに対し、決して逃避しているわけでもない、ごく普通の自由が堪能できているわけである。
じつはこのおばあちゃんの持っている感覚こそ、ハラと呼ばれる身体感覚の、最大の特徴とも言うべきものなのである。
俗に「ハラが座る」ということは、身体の中心(重心)に意識が集まり、全体にドッシリとした安定感が得られる状態である。もちろんこの安定感は、スポーツなどでも必要とされているものではあるが、基本的には普段の生活の中にこそ欠かせない、そこでの自分を豊かに、楽にさせるものである。なぜなら、心身が安定するということが、人にとっての幸福感そのものであり、軸的な才能がまったくなかったとしても、人はそれとは質の異なる、不動の自由を得ることができるからだ。
「たばこ屋のおばあちゃん」は、人生の中でこの感覚だけを学び、身につけ、それをおのれの財産として、余生を楽しんでいる人なのである。
じつは東洋では、軸的な感覚(才能)は疎んじられ、もっとハラ的な、一見無能のようにも思われる感覚を、人徳として尊ぶ風土を作り上げてきた。
たとえば、幕末の日本を転換させた第一人者である西郷隆盛などは、見る人が見れば無能にしか見えない、しかし彼が中心にいたことでまわりが動き、時代が旋回していったという、いわばハラ的な人物の典型のような存在である。
彼は、軸的な才能よりも、ハラから醸し出される信義や誠意を重んじ、それが国家を作り上げている基礎になると信じた。軸的な感覚からすれば観念論のように聞こえるが、それが理解できる人間が彼を押し上げ、幕末の表舞台に立たせた。後年の西南戦争は、欧米の軸的スタンダードを選択した政府軍が、西郷に象徴される日本の伝統的なハラ感覚に決別を告げた瞬間だったということもできるだろう。
こうして見ていけば、多くの人にとってまず手にしなければならない感覚とは、ハラ感覚に他ならないと感じられるのではないだろうか?
才能を追い求める発想は、時として人を不幸にし、不自由にする。
「物事には基本が必要だ」とはよく言われているが、その基本とは、「たばこ屋のおばあちゃんの身体感覚=ハラ」を身につけられるか否かに懸かっている。その人に意欲や野心があるなら、その上で「才能」を求めたらいい(たとえば、小学校ではハラを、中学・高校で軸を磨いていくというカリキュラムを作れたら、従来の成績の良し・悪しに左右されない、「自分なりの生き方」を築き上げることもできるだろう)。
べつに才能がなくても構わないのである。それを克服しよう、克服しなければダメだと思い悩む前に、まず今こうして生きている、ありのままの自分を認めてみる。「今のままでいい」という感覚を身につける。頭の中であれこれ悩んでいたことがスーッとハラまで落ちていった時、人は自己肯定という感覚を手に入れるのである。
その意味でハラとは、才能の身体感覚ではなく、自己肯定の身体感覚と言ってもいい。
イチロー、中田、桜庭、高橋尚子……。
彼らは、「たばこ屋のおばあちゃん」の感覚を少なからず持った一流アスリートたちなのである。いま彼らに限らず、スポーツ以外のさまざまな分野でも、淡々とした、どこかのどかなおばあちゃんたちの活躍がはじまっている。
こうした現実に、あなた自身、そろそろ気づくべきではないだろうか?
2001年09月28日
■「3つの声」を聞き分ける方法。
人は誰もが、「3つの声」を持っている。
これらの声を聞き分けられないと、人間関係もずいぶん複雑なものとなってしまう。人の心を見抜けないだけでなく、自分の気持ちですら、往々にして見失ってしまうことになる。今回はこのことに関して、カンタンに触れてみることにしよう。
そもそも声というのは、「感じる」ものである。
まず感じて、そこで得られた感覚をことばに変換することで、「あの人はいい人だ」「シッカリしている」「信用できない」……といった思いが生まれる。それが相手に対する印象として、人間関係に大きく影響を及ぼしている。
しかし、この「感じる」ことが、多くの場合、曖昧なものになっている。
言い換えるなら、声を聞き分ける能力を、みな十分に活用できていない。人間関係がもつれ、無用な軋轢が生じてしまうのも、多くはそこに起因している。声には3種類あるということが、なかなか実感できてないと思われるのである。
では、この3つの声とは、いったいどんな声なのだろうか?
1つ目と2つ目の声は、誰もが普通に聞き分けられているものであるはずだ。
建て前と本音、と呼んでみてもいい。人はまず1つ目の声、すなわち「建て前」や「あいさつ言葉」などで、多くの人と接している。はじめはなかなか本音を見せないというのも、1つ目の声で応対していることを表わしている。すべての人といちいち本音で対していたらとても身が持たないと、みな感じているからだ。
しかし、通りいっぺんの関係から徐々に距離が縮まってくるにつれ、人は自然と相手の本音、つまり2つ目の声を知りたいと思うようになる。
仕事でも、恋愛でも、友人関係でも、すべてはそのような方向に進んでいく。そしてそれが、人にとってごく自然な欲求でもある。この声が聞けないままに関係をつづけていくことは、窮屈この上ないと誰もが感じている。しかし同時に、この2つ目の声を求めていく過程で、少なからず軋轢が生じることも事実だろう。
本音がぶつかりあうのだから、仕方がない。
それがイヤだと言う人もいるわけだが、そう言っているかぎり、1つ目の声ばかりが自分の身の回りに溢れてしまう。あるいは、ごく一部の相手にのみ2つ目の声を用いる場合も多いわけだが、その関係が自然なものであるかぎり、結局その中でも軋轢は生まれるだろう。誤解や不信も生じる。しかし同時に、わかりあえる感情も生まれる。それらすべてを肯定できないことには、いつか神経症になってしまう。
とはいえ、この軋轢そのものからもっと自由になれないものか? 人間関係から逃げてしまうのではなく、それらの現実を肯定した上でもっと自由に受け止められないものなのか? すべて納得した上で、関係を構築できないのか?
……じつはそのような欲求に対して答えてくれるのが、第3の声、なのである。
この声をどう定義したらいいのか……、たとえば人は、本音をぶつけ合えればわかりあえると思っている。しかし、ぶつけ合うほどにもつれ合うこともしばしばある。もしかしたら、このほうが多いのかもしれない。それで、「人間関係に疲れた」などと口にするようになるわけだが、果たしてこれは仕方ないことなのか?
筆者に言わせれば、じつはこうした本音は、本音であって本音ではない。
本音などと簡単に言うが、自分の本音がわかっていない場合もしばしばある。その意味では、相手との間に軋轢が生じてしまうのも、当然のことと言えるはずだ。そう、「当然」なのである。ならば、まずそれを認めてしまう。
つまり、少々こんがらがった言い方になってしまうが、「本当の本音」とは、我々がそうだと思っている「本音」のひとつ奥にひそんでいる場合が多い。
これがすなわち、第3の声である。
そして、相手の「本音」が必ずしも本音ではない(つまり、第3の声ではない)ことが見えてくれば、誰が何を言ったというレベルで反応することが馬鹿らしくもなってくる。それよりも、その声の奥にひそんだ声を感じ取ろうと努力しはじめる。逆に言えば、自分の感じ取ったものを「信じよう」という発想が生まれてくる。
自分の感じ取ったもの、これは直観と呼ばれるものに他ならない。
第3の声とは、直観と言い換えてもいい。この直観さえ自分のものにすることができれば、軋轢そのものが自分の直観を試す場へと、180度変わってしまう。
コツは、本音のぶつかり合う状況から、意識を一歩離す習慣をつけることだ。
むろん、ぶつかり合いそのものを避けるという意味ではない。相手の本音に振り回されず(相手が自分をどう思ってるか、好かれてるか嫌われてるか、あれこれ思い悩むのではなく)、むしろその時の自分の気持ちに意識を向けてみる。自分が何にこだわっているか、それにこだわっていて自由なのか、こだわる必要があることなのか……、自分の気持ちをほぐしていくつもりで、そうした作業を繰り返してみる。自転車をおぼえるように、水泳を習うように、ひとつの「練習」としてそれを続けていく。
本音と建て前の二元論を超えた時、人は軋轢を乗り越える力を得るのである。
それは皆が思っているほど難しいことではないことを伝えたいと思い、筆を取ったわけだが……、果たしてどう感じられただろうか?
少なくとも筆者はそれを、呼吸のように繰り返している。
だから、軋轢が生じたとしても、それはそれとして受け止められる。ただの災難としか受け止められないよりも、はるかにラクではないだろうか?
2001年07月04日
■地べたに座り込む若者と、「燃え尽き症候群」
今日、仕事を終えて帰宅する間に、路上に座っている若者を何人も見た。
ひとりは駅のホームで電車を待っている間、「あちー」とか言いながらホームの隅でひとりあぐらをかいていた。あとひとりは、なんと信号待ちの横断歩道の前で。たしかに今日は記録的な猛暑だそうで、多分35度はあったのだろう。仕事先でも「クーラー入れても涼しくならないなー」とか、みんなぼやいていた。
しかし筆者的には、「もう夏なんだから暑いのは当り前だろ? 夏に雪でも降ったら驚くけどねー」という感じ。じゃあおまえは暑くて平気なのかと言われそうだが、「そんなに地べたに座り込むほどだろうか?」と思ってしまう。
ハッキリ言うと、みんな身体が弱くなっている。というより、強いとか弱いという定義づけが、根本的にズレている。その結果の先にダラダラとした若者たちの姿がある。
どういうことかというと、多くの人は強くなろうとする場合、たいてい筋肉をつけようとする。あるいはたくさん栄養を取ってスタミナを得ることが、強さのもとだと漠然と思っている。皮膚を硬くし、大きくなろうとしているわけである。
しかしいくら筋肉をつけても、スタミナがついても、根本の「身体感覚」が養われてないかぎり、それを活用することもできない。身体感覚は直接的な数値としては表われないから、みなどうしても即物的に、目に見てわかる形を求めたがるわけだが、それはテストの点が良くなれば頭も良くなるという発想とまったく同じなのである。
では身体感覚とは何かという話になるわけだが、これについては当HPで連載中の「人が「脳」を超える時代」(*「脳を超えてハラで生きる」のこと)などで詳しく触れているので、ここでは深く問わない。
ただ、地べたにダラダラ座っている若者がなぜシャンとできないのか……、これについては「身体の重心が不安定だからだ」、ということに尽きる。要するに、自分の身体を支える起点を欠いてしまっている。武道の言葉でいうと、ハラがない。だから心身ともに不安定で、ヘタをすると犯罪行為にすら走ってしまうという現実がある。
このハラができてくると、余計な力を使わないで済むようになる。
逆に言えば、自分が普段いかに余計なところに力を使っていたか……、それがハッキリとわかるようになってくる。会社に例えて言うならば、仕事をしないでもいい「部署」が、意味もなく働いている状態。もちろん自分の仕事も「かけもち」で。……どうだろうか? このように言えばそれがいかに「不自由」か、ひどく効率の悪いやり方をしているか、幾分でも理解できるのではないか?
若者たちはダラけているようで、本当にはダラけることができていないのである。
これと関連して、もうひとつ面白い話をしていこう。
彼らのことを否定的にとらえる「大人」は少なくないが、今の時代、じつはそういう大人たちが認める若者たちの中にも、まったく同じ傾向が存在している。
よく言われている、「燃え尽き症候群」の話である。
じつはダラダラした若者たちを目にした少し前、筆者はニュースで、水泳の田島寧子選手が引退したということを知った。先のシドニー五輪で銀メダルを獲得し、「めっちゃ、悔しいですぅ。金がよかったですぅ」というコメントで一躍有名になった、性格の明るい、そのへんはダラダラした若者たちとは好対象のスポーツ選手である。引退後は、かねてから目標にしていた、タレント(女優?)の仕事をはじめるという。
しかし筆者に言わせると、シドニーで「燃え尽きてしまった」彼女もまた、すばらしい身体能力に恵まれ、きびしいトレーニングに打ち込みながら、「肝心の身体感覚=ハラは十分に養えなかったんだな」ということになる。
本人にはちょっと厳しい言い方になるかもしれないが、もう少し詳しく話そう。
スポーツ選手のなかには、若い時期のある瞬間、とてつもなく自分の能力が開花する人がいる。もちろん、その開花の時期と試合などのタイミングが重なれば相応の結果もついてくるから、注目はされる。しかし、問題はそのあとだろう。
ある意味、彼らは素質だけで活躍していた選手、ということになる。
言い換えるなら、その自分の素質を根本で支える「土台」は持っていない。ただ無意識ながら、その土台をベースにした「型」ができていた(そもそも、それを素質というわけだが)。だから何かの瞬間にその「型」を見失ってしまえば、あっという間に「凡人」に戻ってしまうことにもなる。そうなれば、あとはプレッシャーとの戦い、重圧との戦い、……もちろんその中から本当の「型」を身につける選手も出てくるわけだが、それはごく一握り、限られた者だけのたどる道と言えるわけである。
と、以上のことをふまえると、田島選手がどうと言うより、一時の頑張りではない、ずっと頑張れる、淡々とやりつづけられる感覚を、多くの人がどうして身につけられないのか……、ということになってくるのではないか?
じつはその「淡々とやりつづけられる感覚」は、多くがハラの感覚に起因している。
現代のハラのない若者。その一方が、地べたで「あちー、あちー」と言いながら座り込み、なすことを知らないまま時をすごす。またもう一方は、完全燃焼の青春を送りながら、あとの続かない「燃え尽き症候群」に陥ってしまう。
筆者が本の中で幾度も取り上げているイチローや中田といったプレーヤーは、その「限界」を突き抜けることのできた、「ずっと同じことを淡々と続けられる」若者に他ならない。ただ、彼らを生み出した土壌のなかから、地べたに座り込む若者も、燃え尽きてしまう若者も、玉石混交の形で輩出されているのである。そういう土壌があるからこそ、そこから生まれえる最高の逸材が世に現われ出たと言ってもいい。
そのことに気づいたとき、いまの時代の価値というものが見えてくる。田島選手にしても、もっと明確な形で今後の人生の「目標」を見つけられるはずだろう。
けっきょく、水泳を続けるにしても、タレント(あるいは女優)になるにしても、同じことが要求されるのである。彼らを教える指導者もまた、「ただ頑張れ」と励ますのではなく、「続けていける」感覚こそ身につけさせるべきだろう。
それさえあれば、どこで何をやっていても、同じ自分でいられる。
自信とは実績を得る以前に、おのれの中にこそ見い出せうるものなのである。
2001年06月18日
■あらためて「武道」の可能性、について
ここ1年ほど、「スポーツは「武道」である!」(*「サムライ」のこと)という本を書くことで、知っているようで知られていない武道の世界の構造が、ずいぶん把握できるようになった。
いま世の中にはスポーツ情報が溢れ返っているが、そうではない視点に立つことで、まったく違った可能性が見えてくる。……もともと筆者の中にはそんな予感があったわけだが、書き上げてみて「やはり」という思いを強くしたのである。
本当に、みんなスポーツの視点に知らないうちに慣らされすぎている。
自分たちの可能性や潜在能力を、自分たちで閉ざしてしまい、たとえば本の中でも書いているように、「柔道の選手が柔道を習うのをやめて、レスリングの世界で勝とうとしているような状況」に陥っている。まったく他人の土俵に上がりながら、レスリングの強豪たちに対して「凄い、凄い、日本人では全然歯が立たない」「やはり本場の実力者たちは違う」、などと言っているわけである。
ほとんどの人がこうしたおかしなワナにはまってしまっていると言えるわけだが、ではこれを取り外してしまったら、どんな世界が見えてくるのか?
たとえば、筆者の本の中でも幾度か登場したことのある運動科学者・高岡英夫氏の近著の中から、興味深い記述を引用させていただこう。
[高岡] ……今日ここまで来た極真(空手)の歴史、それを僕は非常に尊いと思っているわけ。さらに(世界大会の決勝で戦った)数見(肇)とか(フランシスコ・)フィリオという選手を素晴しいと思っているのね。……だけれども、事実として世界のメジャースポーツはもうずうっと先に行っている。極真でもマイケル・ジョーダン級の空手家が今後絶対に出て来て欲しいと思うよ。その水準の選手と比べたら、今の数見選手やフィリオ選手レベルでは簡単にKOされてしまう。
[質問者] 空手家でまだ存在していなくても、バスケットボール選手では現に存在しているわけですよね。
[高岡] そう、さらにスキーヤーでもいるわけ。
[質問者] 武道の歴史を見ても、当然そのレベルの人はいたんですよね。
[高岡] いたよね。鹿島神流の国井善弥先生にしてもアルベルト・トンバを超えていたよね。ということは今の極真の選手より上ということですよ。いわんやお亡くなりになった大東流の佐川幸義先生はマイケル・ジョーダン以上ですからね。ルールが違うから試合はできないだろうけど、現にそれだけの人が存在し得たわけですよ。そうやって考えれば、まだまだこんなものではいけない。
〜「高岡英夫の超人のメカニズム」(ぴいぷる社)より抜粋。※カッコは筆者。
どうだろうか? 極真空手のトップ選手である数見やフィリオを「素晴しい」と認めながら、まったく畑違いのスポーツ選手であるトンバ(スキー)やジョーダン(バスケット)のほうが「レベルが上」と評している。どのような根拠のもとにそう言っているのかは氏の著作を当たってほしいが、ふしぎと説得力のある着想ではないだろうか?
特にそう感じたのが、世界中のあらゆるプロスポーツの中でも最高級のレベルを有するというNBAのマイケル・ジョーダンをもってしても(氏は他著のなかで“神人”という最大級の評価を与えているわけだが)、さらにその能力を凌駕する武道家(武術家)が、つい数年前まで日本に存在していたということである。
それが、大東流合気武術の継承者として知られた、故・佐川幸義氏(1902〜98)である。筆者自身、武道系のいくつかの文献を当たっていく過程で、この佐川氏の名を幾度か目にしてきたが、「どうやら相当に凄い人だったらしい」(つまり、高岡氏の発言も全然言いすぎではない)という感想を持つに至っている。
たとえば、最近読む機会のあった本(木村達雄・著「透明な力 不世出の武術家 佐川幸義」講談社・刊)の中からいくつかエピソードを拾ってみると……、
「何十年と鍛えたわれわれ弟子たちを何人でも一緒に本気でかからせ、しかも一瞬のうちに吹っ飛ばしてしまう。……現在92歳を越えていらっしゃるのですが、その技の切れ、威力は衰えることを知らず、まさに驚異的です」
「たとえば剣道家にしたって、柔道家にしたって、またレスリングにしろ相撲にしろ、子供の頃から一生懸命打ち込めば良い結果が得られるという可能性は感じるわけですよ。ところが佐川先生を見ると、可能性が途中からプツーンと切れている感じがするわけですよ。お弟子さんたちにそう言うと、皆その通りだと言います」(作家・津本陽氏の言)
「まず驚くべきことは、お弟子さん達(私も含めて)が、本気で先生にかかっていくことである。87歳の先生にである。他の武道・スポーツでは考えられないことである。……先生が行われる大東流は極めて実戦的であり、常に先生は本気でかかってきて本気で抵抗する相手に対して技をかけられるのである。……先生が相手にされる先輩達は先生にとっては赤児の手を捻るようなものであるが、他の世界ではちょっとやそっとではお目にかかれないほどの猛者達である」(神戸学院大助教授・前林清和氏の言)
といった、一見すると「本当?」というような内容に満ちている。
こうした話を聞いて、読者はどのような感想を抱くだろうか? スポーツの世界では、40に近くなればもう引退のちらつく年齢であり、いくら偉大な実績を積み上げてきた選手でも年を取ってしまえば、そのプレーを再現することはできなくなる。しかし、80、90になってさらに増したという佐川氏の「強さ」は、明らかに対極をなしている。これを嘘だ、マヤカシだと決めつけてしまうのは簡単だが、そのような人たちは人間の持っている「可能性」を同時に握りつぶしてしまっているのではないか?
……と、ここで突然、ある天才プロレスラーのことを話題にしたいと思う。
筆者は、現在のプロレス界において「強さ」の双璧をなしているレスラーとして、新日本プロレスの武藤敬司とノアの三沢光晴の名をまず挙げるが、こと「天才」という形容に関しては、武藤が頭ひとつ飛び抜けているのではと思っている。
彼の場合、抜群の跳躍力、そしてアメリカでも成功したという華やかなスター性がまず目につくわけだが、それでいて勝負にも強い。そしてタフ。つまり、華やかさの陰に隠れがちだが、じつは彼というレスラーの最大の強みは、「腰の重さ」にある。言い換えるなら、「ハラができている」。彼のプクッとお尻の突き出た立ち姿や、天然とも言える性格の柔らかさは、そうした力の本質を物語っているわけである。
とはいえ、プロレスもスポーツ界の原理の中で興行を成り立たせている。
いや、年間の試合数、受け身を取ることで成り立つファイトスタイルなどを考慮すれば、他のプロスポーツ以上に消耗度が激しいと言えるかもしれない。天才・武藤にしても、必殺技・ムーンサルトプレスを長年使い続けてきたため、両ヒザがもうガクガクの状態。30代後半といういちばん円熟味の増した時期に、引退の二文字を意識せざるを得ない現実なのである。ここにプロレスにとどまらず、プロスポーツ界の構造的な「限界」がかいま見れるのではないか? 武藤はたしかに天才だが、その天才を生かす場として、プロレスという場は「小さすぎた」かもしれないのである。
「生涯スポーツ」などという言葉があるが、プロスポーツ選手の発揮するクオリティーがそのまま生涯にわたって追及できるような場が設定できたら……。と、ここに半ばスポーツ化した武道界の、大きな「可能性」が浮かび上がってくる。
40、50はまだ子供、70になってもまだまだ「強さ」を増すことのできる世界。
人の意識がほどかれていくこれからの過程で、今のような形態のプロスポーツがどこまで続くか? あるいはこのような問いかけこそが、自らの既成概念を打ち破る契機となるかもしれない。少なくともスポーツを論じる人たちは、自分たちの物の見方がやがて通用しなくなる時代に、いまから備えるべきではないだろうか?
本当の意味での主体性とは、「これはありえない」ということまで想起することから芽生えてくる。「ありえない」ことが「ありえる」ようになってきたこれまでの歴史と同様の展開が、これから50年、100年のスパンのなかで繰り広げられていく。我々はその大きな転換期に生まれた当事者であり、パイオニアなのである。