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<title>日常感覚</title>
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<copyright>Copyright (c) 2006, 長沼敬憲</copyright>
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<title>■「女性天皇問題」から見る「変化の兆し」(2)</title>
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<summary type="text/plain">こういう人は、豊かな暮らしさえできれば自分が「日本人」でも、「アメリカ人」でも構わないと考える。しかし、これは血のつながりで見るなら、自分の親に対して「べつにあなたが親でなくたって構わないんだよ」と言っているのと変わらない。横軸へと広げて見るならば、風土の中の人と人とのつながり、つまりは人間関係がわからない。そんな人がどんどんと増えている以上、筆者がいちいち言うまでもなく、日本は終わる。女性天皇を容認するかどうかという問題は、そうした氷山の一角にすぎないということにもなる。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
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<email>info@thunder-r.net</email>
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<dc:subject>社会</dc:subject>
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<![CDATA[<p>以前、筆者も<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/01/post_3.html"target=_blank>ブログで書いたことがある</a>が……、世の中の多くの人は「女性天皇を容認していい」と考えているようだ。<br />
去年の12月5日に配信された共同通信の記事によると、</p>

<p><font color=blue>共同通信社が3、4両日に実施した全国電話世論調査で、政府の「皇室典範有識者会議」が打ち出した女性、女系天皇について聞いたところ、女性天皇の子どもが即位する女系天皇について「認めてもよい」とする回答が71.9％を占め、従来の「男系を続けるべきだ」の16.1％を大きく上回った。</font></p>

<p>　<font color=blue>また75.3％が「女子が天皇になっても良い」と女性天皇を認め、「男子に限るべきだ」としたのは11.8％。ただ女性天皇を認めた場合の皇位継承順位は「（男女を問わず）第１子からとすべきだ」（43.3％）と「（天皇の子どもの兄弟姉妹間で）男子を先にすべきだ」（42.2％）とで意見が二分された。<br />
　小泉純一郎首相の内閣支持率は57.1％と10月末から11月初めの前回調査（60.1％）より3ポイント減ったが、依然、高水準を維持。不支持率は前回28.7％から4.5ポイント増の33.2％だった。</font></p>

<p>なかなかすごい結果が出たものだ。<br />
現状では（多くの人がイメージしていることだろうが）女性天皇と言えば、愛子さまということになる。<br />
愛子さまが天皇になってもいいという人が、75.3％。愛子さまの子供の系統がそのまま皇位を継承してもいいという人が、71.9％。<br />
まあ、簡単に言えば、多くの人にとって血統などどうでもいい、ということだろう。</p>

<p>ちなみに、小泉首相の私的な諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」（座長・吉川弘之元東大総長）は、同年11月24日、「象徴天皇制度の安定的な維持のため、皇位継承資格を女性や女系の皇族に拡大することなどを求める報告書をまとめ、首相に提出」している（11月25日産經新聞より）。<br />
ここでの見解もなかなかすごい。</p>

<p>　<font color=blue>……現行の皇室典範一条が「皇位は男系の男子が継承する」と規定していることに対し、「（男系男子で）皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難」だとした。<br />
　そのうえで、憲法が定める皇位の世襲の原則は「男子や男系であることまで求めるものではない」と主張。「重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたこと」だとして、女性・女系天皇を容認することの意義を強調している。</font></p>

<p>また、こんなことも言っている。</p>

<p>　<font color=blue>……皇室研究者や与党内から女系天皇の歴史的な正統性に疑問の声が出ている点に関しては、各種世論調査で約8割が女性天皇を容認していることなどを背景に「幅広い国民の積極的な支持が得られる制度である限り、正統性が揺らぐことはない」と結論づけた。</font></p>

<p>幅広い国民の積極的な支持……。<br />
一見もっともらしく感じられるかもしれないが、そんな支持など、まるで実体のない「気分」にすぎないものではないのか？<br />
100年、1000年というスパンで歴史を見た場合（それが天皇家の歴史時間でもある）、どこまで確実な根拠となりえるのか？<br />
諮問会議とやらで意見した人たちは、当然、このことに責任を負える立場にない。</p>

<p>筆者は天皇制の“絶対的な支持者”ではないが、こうした世論の動きを見るにつけ、「ああ、有史以来1000年、2000年と続いたこの国の歴史も終わりだな」と感じてしまう。<br />
そう、日本は終わる。<br />
愛子さまが成人し、皇位継承が現実味を帯びてくる頃に、おそらく……。</p>

<p>それが何を意味するのか？<br />
べつに楽しく人生が送れればそれでいいじゃないかと思っている人も多いだろうが、筆者が言いたいのは、ちまたの反対論者が語っているようなことと少々違う。<br />
そのことについて語る前に、最近これに関連したちょっとおもしろい記事を見かけたので、紹介しておこう。</p>

<p>その記事とは、昭和天皇の甥にあたる寛仁親王が、ことしの1月4日、毎日新聞の取材に答えたもの。<br />
昨今の「女性天皇論」について皇族の立場で（ここまで）口を開いたのは、おそらく親王が初めてではないだろうか？</p>

<p>　<font color=blue>皇室は、一部の例外を除いて権力を握ることがなかった。権力を持つところと、皇室を分けてきたのは、大和民族の知恵だと思う。国を守っていくためにそういう形になった。外国の王族の中には、パワーの論理が働いて権力を握ったりしたから、その後つぶれたケースもある。</font></p>

<p>まったくその通り。日本史の本質の一端をきちんと理解してらっしゃると思う。</p>

<p>　<font color=blue>皇室は悠久の歴史の中で常に受動態であった。突き詰めると、存在することに意義があるということだ。政治や営利にも関与できないし、ある意味「ニッチ（すきま）産業」だ。<br />
　政府や行政も、国民のためにいろんなことを展開していくが、足らざるところはある。皇族がそれを補い、光が当たっていないところに光を当てる。それぞれの皇族が、国民の要望、希望に沿っていくことが大事だ。</font></p>

<p>政府や行政の「足らざるところ」を皇室がやる。これも現行の皇族のあり方として異論がないところだろう。<br />
で、問題は「女性天皇」問題について……。</p>

<p>　<font color=blue>皇室のあり方に関する問題を有識者会議による1年、30数時間の議論で決めてしまうことに素朴な疑問を抱く。この問題は、政治を超えたものだ。多くの国民が歴史を理解したうえで大いなる論議がわき上がって、国会で、審議に審議を重ねて結論が出ればと思う。男系で継いできた歴史は、一度切ってしまえばつなげないことを分かってほしい。</font></p>

<p>　<font color=blue>皇位継承をめぐってはいくつかの危機があったが、これまで回避してきた。10親等ぐらい離れた傍系から皇女に婿入りしたり、宇多天皇のように臣籍降下したのに復活して皇太子になり、その後天皇になったケースもある。<br />
　1947年に臣籍降下した11宮家の当主にカムバックしていただいたり、養子ができるようにするなどの方法がある。できるだけの手段を講じるのが先だ。すべての手を尽くしたうえで、駄目なら仕方がない。<br />
　11宮家の復帰には、60年間一般の中で生活してきたので違和感があるというが、異様な意見だ。菊栄親睦会という昭和天皇のご親族が集まる会がある。旧宮さま、元宮さまとの付き合いは深い。<br />
　むしろ愛子さまの夫になった人が、突然「陛下」と呼ばれる方が違和感が強いのではないか。</font></p>

<p>……どうだろうか？　筆者は特に異論がない。<br />
というより、正直この程度の発想を、一流学者も国民も、なぜ持つことができないのか？　そのことのほうが疑問に思えてしまう。</p>

<p>と、ここで先の問いかけに戻るが……。<br />
筆者はなぜ、直接自分の利害とは関係ない天皇家の問題について、ここまで（熱心に？）語ろうとしているのか？</p>

<p>まずこんなふうに考えてほしい。<br />
この世界というのは、過去から未来へ連綿と続く「歴史」と、東西南北に広がる「風土」とが融合することで成り立っている。<br />
歴史を縦軸とするなら、風土は横軸。<br />
縦軸と横軸がクロスしたところに「いま・ここ」の自分という存在のポジションがある。</p>

<p>筆者は、この縦と横がクロスした世界のありようを理解できる感覚がある。<br />
言い換えるならば、世界とは観念ではなく、現実であるということ。<br />
この言い方にピンと来るだろうか？<br />
筆者は身体論というものをやっているが、そのうえでつくづく感じるのは、いま多くの人がこの「世界」を見失っているということだ。</p>

<p>世界を見失うということは、縦軸が見えないということ。そして、横軸も見えないということ。<br />
自分という存在がどのようにして成り立っているのか？<br />
それが「わかる」という感覚は、正直なところ言葉ではうまく伝えにくい。<br />
しかし、僭越ながら「わかる」人間の立場から言わせてもらうと、みな世界から引き離されている。<br />
一人ぼっちで生きている。<br />
しかも、その淋しさが見えていない……（見ようとしていない？）。</p>

<p>そう、要は天皇制が存続すればいいかどうかという問題ではないということ。<br />
好きとか嫌いに関わらず、「天皇家がなぜ尊いのか？」それが理解できないのは、縦のつながりが実感できていないから。<br />
血統によって「いのち」をつないでいくということの意味合いが理解できていないから。</p>

<p>こういう人は、先にも触れたが、豊かな暮らしさえできれば自分が「日本人」でも、「アメリカ人」でも構わないと考える。<br />
しかし、これは血のつながりで見るなら、自分の親に対して「べつにあなたが親でなくたって構わないんだよ」と言っているのと変わらない。<br />
これで本当にまともな感覚だろうか？　</p>

<p>横軸へと広げて見るならば、風土の中の人と人とのつながり、つまりは人間関係がわからない。<br />
もっと言ってしまえば、「他人が自分と同じように生きている」という現実がわからない。<br />
そう。繰り返すが「一人」なのだ。<br />
1億人いようと、60億人いようと……。<br />
そんな人がどんどんと増えている以上、筆者がいちいち言うまでもなく、日本は終わる。<br />
女性天皇を容認するかどうかという問題は、そうした氷山の一角にすぎないということにもなる。</p>

<p>さて、ここまでお読みになって暗い気持ちになった人もいるかもしれないが、筆者は必ずしも現実を悲観してはいない。<br />
確かに大部分の人は、さまざまな原因により自然の感覚を失い、「孤立化」への道を歩んでいると筆者は思う。<br />
しかし、物事には裏と表がある。</p>

<p>いま日本人の多くが（日本人に限らないとも言えるが）自然の感覚を見失ってしまったのは、なぜなのか？</p>

<p>自然の感覚……すなわち縦軸と横軸の感覚が生活の中にきちんと根づいていた時代、日本史で言えば江戸時代あたりが特に該当するだろう。<br />
最近では、江戸の頃の暮らしが再評価されている。ちょっとした江戸ブームが起こったこともあった。<br />
こうしたブームも、再評価も、悪いことではない。<br />
しかし、それは言い換えるなら、評価が落ちた時期があったということ。</p>

<p>縦軸と横軸の感覚は、制度で言うならば、封建社会のなかで花開いた。<br />
封建社会のいい面と悪い面、そのうちの悪い面のほうを改善しようという動きが、日本では明治維新をもたらし、近代化が進められた。</p>

<p>ここまで言えばわかるだろう。<br />
「生きる」ということをトータルで考えた場合、縦と横の感覚を身につけることが必要。しかし同時に、「個人」の感覚も必要であるということ。<br />
それは自分の意思で生き、自己決定し、自らの感覚で価値判断するということ。<br />
「家」があり、「国」があり、「身分」があった時代では、この感覚を自由に磨くことはできなかった。</p>

<p>最近ではよく「自己責任」という言葉が使われるが、この言葉がどこかうすっぺらく響くのは、逆に言えば、縦と横の感覚を喪失しているからではないのか？<br />
しかし、この喪失にはそれなりの必然性があった。<br />
確かに縦と横の感覚を取り戻すことは必要かもしれない。しかし、その次に問われてくるのは、「個人」という感覚であるということ。<br />
両者がコインの裏と表の関係にあることが見えてくるだろう。</p>

<p>この先、自分を見失っている人たちの「無関心」と「無理解」によって、日本という国はおそらく滅びてしまう時が来るだろう。<br />
そう、誰もその「責任」をとらないままに……。<br />
しかし、その滅びと入れ替わるように、本当の意味での「個人」が台頭してくる。<br />
日本にはこの「個人」が台頭しうる条件が、かなりのレベルで整っている。もしかしたら世界で一番整っている「場」なのかもしれない……。<br />
（なぜかについては、いろいろなところで書いてきたが……）</p>

<p>では、その「個人」になるにはどうしたらいいか？　「女性天皇」論を飛び越えて問われてくるのは、じつはそこなのである。<br />
<br><br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■約束を守ること、人をだますこと〜出口王仁三郎のエピソードから</title>
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<summary type="text/plain">もちろん王仁三郎がずっと黙っていたのは、周囲の人間が（自分の妻が）信頼できなかったからでなく、もし万が一、外部に乳飲み子のことが漏れたらどうなるのか？ ということ。もし万が一漏れたら、なにより自分が大事にしてきたものが壊れてしまう。それがあるから自分でいられるというものが、失われてしまう。目に見えないものということで、王仁三郎は「霊」の存在を説いた。しかし、霊が存在するかどうかよりも、もっと目には見えない、自分の一番かたわらにいる人さえもだまさなければ守れないものがあることも、彼は知っていた。

</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>自分ってどんな人間なのか？　もしそう自問することがあったとしたら、その答えはぼくにとってかなり単純なものだ。<br />
はた目にどう思われているかわからないが、すごくわかりやすい生き方をしていると自分では思っている。<br />
たとえばぼくはこんな話が好きだ。</p>

<p>時は戦前。当時、新興宗教の教祖として時の人であった<a href="http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpKyos/seisi.html"target=_blank>出口王仁三郎</a>のもとに、共産党の活動家、三田村四郎という人物が訪れる。<br />
戦前の共産党は非合法の政党、というより、政党という何も値しないごく少数の主義者、当局のお尋ね者……。<br />
三田村は大陸に逃亡する計画を立てていたが、妻に逃げられ、生まれたばかりの乳飲み子を抱え、先行きに難渋していた。</p>

<p>もとより大本（王仁三郎の教団）と共産党の関わりはない。思想的なつながりも、義理も何も。<br />
ただ、立場に窮した三田村が、知り合いから王仁三郎の名前を聞き、まったくつてもないままに丹波・亀岡に彼の教団を訪ねると、王仁三郎は深く理由を問いただすことなく乳飲み子を預かり、逃走資金さえ提供した。</p>

<p>もちろん、その乳飲み子が三田村の子と知れれば、身柄がどうなるかわからない。乳飲み子を熱心な信者のもとに預けた王仁三郎は、周囲の人間には平然と、“わしが失敗して産ました子や”と語っていたという。</p>

<p>もちろん、彼の妻であるすみ（２代目教主）はその噂を耳にして激怒した。しかし、王仁三郎は真意を伝えず、平身低頭ひたすら謝るばかり。以後三田村が帰国して娘と対面するまでの20年近く、その娘本人も、自分の妻も、周囲の人間もすべてだまし通した。</p>

<p>と、ここからはぼくの想像……。</p>

<p>王仁三郎って宗教に目覚めるまでの若い頃は、侠客まがいの日々を送り、女好きで、やることなすことすべて派手な目立ちたがり屋……こんな印象があるが（そして、その印象は宗教家と呼ばれるようになって以降も終始つきまとうが）、実際には、そんな遊びの世界は“卒業”してしまった人だったと思う。</p>

<p>ほら、若いころにさんざん遊んできた人が、年をとってスッと突き抜けてしまって、ものすごく軽やかに生きているみたいな……。</p>

<p>ハッキリ言って、地下活動している、明日をも知れぬ共産党員の乳飲み子をかくまういわれはどこにもないのに、そこでこざかしい理屈は考えない。<br />
自分のところに頼ってきたのだからと、ただそれだけの理由で彼を助ける。そして、自分のプライドだの何だのよりも、約束を守ることを優先した。</p>

<p>約束ってそう言うものだと、王仁三郎は教えてくれる。</p>

<p>約束は軽視され、契約だけが重視される……紙に書かなければ、判を押さなければ、信用というものが生まれない……。</p>

<p>もちろん王仁三郎がずっと黙っていたのは、周囲の人間が（自分の妻が）信頼できなかったからでなく、<font color=blue>もし万が一、外部に乳飲み子のことが漏れたらどうなるのか？</font>ということ。</p>

<p>もし万が一漏れたら、なにより自分が大事にしてきたものが壊れてしまう。それがあるから自分でいられるというものが、失われてしまう。</p>

<p>目に見えないものということで、王仁三郎は「霊」の存在を説いた。<br />
しかし、霊が存在するかどうかよりも、もっと目には見えない、自分の一番かたわらにいる人さえもだまさなければ守れないものがあることも、彼は知っていた。</p>

<p>その目に見えないものを壊さないためには、失わないためには、計算はしない。理屈は考えない。いや、考えるというなら、あとで考える。</p>

<p>レッテルを貼られることになっても構わないし、人も平然とだます。</p>

<p>王仁三郎は自分が宗教家に分類されてしまうことを嫌い、娘が学校に提出する父親の職業欄には「世界改造業者」と書いたことでも知られる。<br />
カテゴライズされないところに棲んでいる人間は、とてもおもしろい。</p>

<p>ぼく自身、世にある宗教にはまったくと言っていいほど興味がない。無神論でも有神論でもない、ゼロのところで生きている人間だから。<br />
また、右とか左とかの分類で人の価値観を分け隔てることも、いまの時代には通用しない、“古い”ことだと思っている。</p>

<p>そんなものをすべて取っ払った先に、人のすがたは見えてくる。<br />
取っ払うのに必要なのが、感覚。<br />
曖昧と言われる感覚だが、それは脳が曖昧だと思っているだけ。身体はもっとハッキリ「正しい」ことを感じたりもする。</p>

<p>ぼくもまた人をだますことを、これから先平然と行なっていきたいと思う。</p>

<p>年賀に代えて。<br />
<br></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■ロビン・ベイカー「精子戦争〜性行動の謎を解く」を読んでみた</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/12/post_50.html" />
<modified>2005-12-12T23:22:59Z</modified>
<issued>2005-12-12T14:39:50Z</issued>
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<summary type="text/plain">
自らに起こったことには、感情面も含めて、それなりに意味（必然性）があるということだ。その意味を受け取れる人は、同時に現実を受け入れることもできる。しかし、その意味が見えないままに「たまたま」という視点でとらえようとすると、この世界を動かしている法則性は蚊帳の外になる。……確実性のない世界ほど、不自由なものはない。それより、ミスも含め成功も含め、その背後に意味を見る。自分の都合を超えたところで、よりよく、より強く生きようという生物としての意思を感じてみる。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>身体論</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p>多くの人は、自分で自分の人生を決めることが“前向き”だと思っている。自分が何かを考え、実行するから、現実がつくられていくのだと。</p>

<p>でも、実際には自分で何か実行したところで、なかなか思う通りにはいかない。<br />
だから、しばしば人は自己嫌悪に陥る。自分はダメな人間だとか、人生は所詮こんなものだとか思ってしまう。<br />
あるいは人生を恨む。この世界をろくでもないものとみなしたり……。</p>

<p>結局、ポジティブになろうとすることでネガティブになってしまっている。なろうとすればするほど、ネガティブなものを引き寄せている。<br />
そんなふうに言えないだろうか？</p>

<p>と、ここで思う。</p>

<p>つまり、人は自分で自分の人生を決めている。……本当にそうなのだろうかと。</p>

<p>そうではなく、じつは逆にすべてが「決まっている」のではないか？<br />
こう言うと、人はみずからの自由意志が否定されたように感じてしまうかもしれない。一種のニヒリズム（虚無主義）のようにとらえる人もいるだろう。</p>

<p>しかし、そうした自由の捉え方そのものが、その人の自由を縛っている（その人を不自由にさせている）「錯覚」にすぎないとしたら……。</p>

<p>多くの人の陥っているであろう、この「錯覚」に気づかせてくれる本として筆者がおすすめしたいのが、アメリカの生物学者、ロビン・ベイカーの書いた<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309250874/qid=1134398574/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-2760023-9972261"target=_blank>「精子戦争〜性行動の謎を解く」</a>という一冊。</p>

<p>精子戦争。……冒頭のテーマとは一見無関係に思えるが、読者はこのフレーズにどんなイメージを抱くだろうか？　まずは作者のベイカー博士が80年代に手がけたという、非常にユニークな研究調査について紹介してみよう。</p>

<p><br />
<font color=blue>（ベイカーは）合計約百組のボランティアのカップルから、約千個の射精された精子を収集したのである。男性にはコンドームを渡してセックスやマスターベーションで出た精液を採取してもらい、女性には射精の後に膣から流れ出たフローバック（逆流）を大変な努力を強いてビーカーに集めてもらった。</font></p>

<p><font color=blue>そして、その中の精子の数を顕微鏡をのぞいて逐一数え、他の男性の精子がミックスされている時は精子はどのように違った行動をするかを観察したり、子宮内に残っている精子の数を割り出したのである。</font></p>

<p><font color=blue>……それらの調査を通じてわかったことは、射精された精液に含まれる精子の数は変化する、その変化は前回のセックスとの間隔がどのくらいあいているか、パートナーとどのくらい一緒の時間を過ごしたかに関係するという、生物学者を驚かせる革命的なものであった。</font></p>

<p><br />
こうした研究を大まじめに行なったあたり、優秀な学者に不可欠な“奇人ぶり”が発揮されていて、なかなかおかしい。<br />
ただ、ここで注目したいのは、<font color=brown>「射精された精液に含まれる精子の数は変化する」</font>というくだり。</p>

<p>何がどう注目されるのか、わかりやすく言えば……。</p>

<p>男性の体は、その時々の性行為（自慰も含む）の状況に応じて、<font color=brown>射精の際にどのくらいの数の精子を放出するかを決めている。</font><br />
それは、生物的なレベルでコントロールされていると言い換えてもよく、しかも、<font color=brown>いかに優秀な精子を取り込むかという女性の体の需要</font>と密接に関わり合っている。</p>

<p>だから、たとえば次のようなことも起こりうる。</p>

<p><br />
<font color=blue>女は自分はもう子供はいらないと本当に信じていた。妊娠を避けるため、ピルを飲んでいたし、必要なときには夫にコンドームを使わせて二重の用心をしていた。……（しかし）いわゆる性的に一番活発な一週間の間に、ピルを使うのを「忘れた」のだった。これは本当に「忘れた」のだったか？　それとも潜在意識の戦略だったのだろうか？</font></p>

<p><br />
当人はたまたま忘れてしまった、その結果、子供が生まれてしまったと考える。<br />
しかし、<font color=brown>それはあくまでも個人の主観の話。</font><br />
生物のレベルで見たら、本当に「たまたま」なのかどうかもわからない。<br />
そもそも、普段我々が何気なく使っている「たまたま」とは、どういう意味なのか？</p>

<p>要は偶然そうなったと言っているわけだが、たとえば科学の目で見た場合、偶然と呼ばれるものの法則性をカタチにできるとは思えない。<br />
それよりももっと単純に、物事には原因があって結果があるという因果律で、この世界のありようをとらえてみる。<br />
するとすべてが必然、たまたまということはない、ということになる。</p>

<p>たとえば、先の事例に出てくる「女」は、夫が出張中の間に「たまたま」用事で家に現れた会社の上司と不倫し、性的な関係を結ぶ。次いで、若い窓ふき掃除の男とも、不意な衝動に駆られて同じように関係を結んでしまう。</p>

<p>以上は、ベイカー氏が自らの調査研究から得られた「事実」を、読者にわかりやすく伝えるために創作されたエピソードの一つだが、彼自身、「このシナリオは大変陳腐であるため、注意しないと重要なポイントを見逃してしまう危険性がある」と語っている。</p>

<p>ここまでの話をふまえるならば、この陳腐で見逃してしまいやすい、でも重要なポイントとはどんなものなのか、想像がつかないだろうか？</p>

<p>そう。じつは意思と呼ばれるものは、偶然とも思えることのもっと根底にあるものだということ。<br />
生物にとっての重要事である出産に関して言うなら、それは先にもふれたように、「より優秀な個体を産み出すための最善の判断をする」ということと重なる。<br />
本人の都合とは関わりなく、である。</p>

<p><br />
<font color=blue>この女性の体が本当に決めていたことは、夫の子供はいらないということであった。<br />
……（なぜなら）女の目から見ると、夫はここ何年にもわたって体力が落ちている。夫は、最初の二人の子供をつくったときのような力を出すことができなかった。そして今また再び健康を害している。<br />
……実際、彼女の体は、三番目の子供の父親は夫よりもっと丈夫な体格をした、誰か別の人にすると決めていた。したがって、チャンスが到来すると、女性の体は自分の魅力を大いにいかそうとしたのだった。</font></p>

<p><br />
ここには不倫と呼ばれる行為の、生物的な面でも意味合いがわかりやすく書かれている。<br />
もちろん、不倫をことさらに奨励しているわけではない。ある意味、不倫したいと感じること自体、セットされたものであると言えるわけで……。</p>

<p><br />
<font color=blue>女性は、夫以外の男性とセックスするときのほうが、何の避妊法も使わない傾向がある。不倫の場合は状況的に何らかの避妊法をとるのがむずかしいのだが、いつもそうだとはかぎらない。……彼女がピルを適切なときに飲んでいたなら、妊娠することはなかったろう。しかし、彼女はピルを飲むのを忘れてしまった。</font></p>

<p><br />
繰り返すが、ここで彼女が忘れてしまったことを、「たまたま」ととらえるべきなのかどうか。<br />
この解釈の仕方ひとつで、自分がこうして生きているということの意味合いががらりと変ってしまう。</p>

<p>たとえば、多くの人は避妊さえしておけば子供は産まれない、つまり、子づくりはある程度人為的にコントロールできると素朴に思っていないだろうか？<br />
しかし、そのような理性的な行為？はしばしば「失敗」する。“できちゃった結婚”のような事態が起こる。</p>

<p>この場合、たまたまコンドームをつけなかった。それが「失敗」だった。<br />
状況だけ見れば確かにそうかもしれない。しかし、なぜたまたまつけなかったのか？<br />
それは本人がある瞬間に、つけないでもいいやと思ったからかもしれない。たまたまストックのない時に衝動に駆られたからかもしれない。<br />
しかしいずれにせよ、そんなある状況のある感情までは、人はコントロールできない。<font color=brown>そのような「気持ち」は予期せずにやってくる。</font></p>

<p>もっと視野を広げて見るならば、人は人為によって自然をコントロールできると考える。<br />
しかしそれはしばしば裏切られる。「予想もつかない事態」が起こる。<br />
そのようなとき多くの人は、自分たち人間の愚かさを呪う。<br />
しかし、愚かだからコントロールに失敗したのだろうか？　より賢くなることで、失敗は限りなくゼロにしていける。<br />
そんな「理性神話」はどこまで信用できるのだろうか？</p>

<p>……こうした問いかけに関して、先ほどの「陳腐なエピソード」からはまだまだおもしろいことが導き出せる。<br />
もう少し話をつづけよう。</p>

<p>先の女性は、体のレベルで（つまり生物のレベルで）、体力の衰えた夫の子供を産むことを望んでいなかった。<br />
本人は仕事に打ち込みたいからとか、もう二人も産んでいるのだから十分だとか、<br />
顕在意識のレベルでは思っていたかもしれない。<br />
しかし、<font color=brown>「彼女には夫の遺伝子よりよい遺伝子を提供されて妊娠できるこんな完全なチャンスを得ることは二度とないかもしれない」。</font><br />
彼女の体は、唐突にやってきた“不倫のチャンス”に対してそのように判断していた。</p>

<p><br />
<font color=blue>彼女が経験した突然で一週間も続いた性的興奮のうねりは、妊娠しやすい時期に起きたホルモンの働きのなせる術である。<br />
この時期に、女性は不倫にいつもより関心を抱くようになることはすでに述べた。……一週間の終わり近くに急に不倫に興味がなくなったことは、妊娠しやすい時期が終わったことを意味する。そしてそれは、妊娠の始まりだった。</font></p>

<p><br />
不倫をするという以上、そのとき彼女は明らかに“発情”していた。<br />
普通人はそれを「たまたま」ととらえる。しかし、生物的に見たらじつは何らかの力によって誘発されたものであるのかもしれない。<br />
何のために？　そう、<font color=brown>「夫の遺伝子よりよい遺伝子を提供されて妊娠できる」ようになるために。</font></p>

<p>おわかりだろうか？　自らに起こったことには、感情面も含めて、それなりに意味（必然性）があるということだ。<br />
その意味を受け取れる人は、同時に現実を受け入れることもできる。<br />
しかし、その意味が見えないままに「たまたま」という視点でとらえようとすると、この世界を動かしている法則性は蚊帳の外になる。</p>

<p>たまたまうまくいった。たまたま失敗した。……確実性のない世界ほど、不自由なものはない。<br />
それより、ミスも含め成功も含め、その背後に意味を見る。自分の都合を超えたところで、よりよく、より強く生きようという生物としての意思を感じてみる。</p>

<p>避妊することで妊娠をコントロールする。ミスがなければ、もちろん子供は産まれない。<br />
自分たちが産みたいと思った時に、避妊をやめる。<br />
そうなれば妊娠する確率はぐっと高まる。そして、実際に子供を産むこともできるだろう。<br />
しかし、そのように意思すること自体が、<font color=brown>「よりよい状況でよりよい遺伝子を受け入れて妊娠する」</font>という女性の体の判断に基づいたものであるとしたら？</p>

<p>場合によっては、レイプによって妊娠してしまうケースもある（むしろそのケースが統計的に高いという話を聞いたこともある）。</p>

<p>あるいは、避妊などしなくても全然子供が産まれない、いわゆる不妊症で悩んでいる夫婦もいる。</p>

<p>産まれてきた子供が何らかの障害を抱えていたり、先天的に虚弱であったりする場合もある。</p>

<p>すべてモラルの面から「悪」とされていることである。もちろん、解釈の仕方によってその「悪」が「善」に変わると言っているわけではない。<br />
そこには人の感情が介在するから、往々にして「傷」（トラウマ）も生まれる。<br />
しかし、その傷は「善意」によって解消されるものではない。</p>

<p>まず、善悪の観念にとらわれず、感情的にならず、もっとフラットな視点から物事をありのままに見るようにする。<br />
そうするとこれら「悪」とされてきたことにも、もっと違った主体的な意味や必然性と言ったものも見えてくるかもしれない。<br />
その理解によって傷が癒えたり、人間としての「強さ」を身につけられたりするケースもある。<br />
それを怖いと感じるか、「興味深く」思えるか……。</p>

<p>善悪の観念を生み出すのは脳だが、たえず生物的な意味で“よりよいもの”を志向しているのは、人の身体にほかならない。脳をも含む「全体」が見えてくると、性の意味合いももっとフレキシブルで、自由なものに変わってくる……。<br />
運命に支配されていた状態から、<font color=brown>もっと主体的に、その運命に乗って進んでいくことができるようになる。</font>（運命とは“命を運ぶ”と書くように……）</p>

<p>なお、本のタイトルにある<font color=brown>「精子戦争」</font>という概念も、こうした“よりよいもの”を志向する生物としての意思に関わっている。<br />
たとえば先ほどの女性は、夫の留守中に衝動にかられ、夫の会社の上司と窓ふきのアルバイトの男と同時進行の不倫をする。<br />
しかも、この不倫がばれないように出張から帰ってきた夫とも、避妊なしのセックスをする。そして、3番目の子供（遺伝的には夫の血を引かない第３子）を出産する。</p>

<p><br />
<font color=blue>精子と言えば、「ああ、あのオタマジャクシのような」と思うのがふつうだが、ベイカーは戦闘の兵士である精子にはそれぞれ違う種類や役割があると言って、またまた私たちを驚かす。<br />
すなわち、卵子に突入し受精する「エッグ・ゲッター」と呼ばれる少数派のエリート集団と、受精する能力はないが敵を攻撃する「キラー」、行く手を邪魔する「ブロッカー」のカミカゼ集団だ。</font></p>

<p><font color=blue>まず、何より大事なのは時間である。ライバルが自分のパートナーの子宮に精子を送り込んだと知ったら（知るのは難しいから、常にそう無意識のうちに仮定して）、いち早く自分の精子軍団も送り込むのだ。<br />
早ければ早いほどいい。しかし、それがわからないからルーティン・セックス（＊生殖目的ではない日常的なセックスのこと）をして、安全策を取っておくのである。<br />
（以上、「訳者あとがき」より）</font></p>

<p><br />
つまり、生殖面ではまったく無意味なルーティン・セックスだが、それはライバル（不倫相手？）の精子の“万が一”の侵入に備えて、自分のパートナーの卵子を守っている兵士を常備させておく手段ということになる。<br />
あるいは、上記にあるようにすでに侵入してしまった“敵”に対して「戦争」を仕掛けるという目的も……（それが「精子戦争」ということ）。</p>

<p><br />
<font color=blue>時間の他に、精子戦争に勝つ要因は、量的に圧倒することである。敵の軍団よりはるかに多い軍団を送り込めば、勝つ見込みは高い。<br />
また、キラーを増やしたり、若い精子を増やして、精液の中身の割合を調節する。<br />
（同上）</font></p>

<p><br />
戦争などと言うとぶっそうだが、ベイカー博士の言わんとしたことの意味は、これだけでも何となくわかるだろう。<br />
個人の価値観は、脳の中で作られるものだから多様で、相対的。<br />
しかし、人はそれ以前に生物であるから、根本的にはあくまで「より優秀な種を残す」ということに最善の策を講じようとする。<br />
<font color=brown>「生物としての自分」にとっては、それを実現できたときが「勝利」なのである。</font></p>

<p>もちろん、この「生物としての自分」の意思に従うのが正しいと単純に言っているわけではない。<br />
子供を産み育てる（あるいは子孫を残す）ということも、必ずしも絶対の価値観ではない。<br />
というより、そもそも（再三繰り返してきたように）、<font color=brown>その人が何をどう感じるか、そのこと自体も生物的な意思の中に組み込まれているものである</font>と言えるわけで……。</p>

<p>だから、世の中には生物的な繁栄の法則には180度反している、ホモセクシャルのような人もいる。<br />
ここで彼らの存在を間違っていると言っているわけではないし、そう言ったところで何の意味もない。</p>

<p>肝心なのは、「気づく」ということ。「見る」ということ。<br />
脳の解釈、その脳が産み出した善悪の観念にとらわれず、「よりよいものを志向する」生物としての自分の意思を感じてみる。<br />
そうすれば、ホモセクシャルとして生まれてきたこと自体にも、何らかの意味を見いだせる（必然と受け止められる）ようになるかもしれない。</p>

<p>この「よりよいものを志向する」の“よりよい”は、自分にとって都合のいいこととは必ずしもイコールではないということだ。<br />
生物の自分は、それが自分のためであると判断したなら、身体の免疫力を弱らせ、大病を患わせるような「試練」を与えたりもする。<br />
障害を持って生まれてくることをも判断するかもしれない。</p>

<p>このへんの機微がわからないかぎり、自分が脳のつくりだした牢獄の中にいるということ自体に気づくことはできないと筆者は思う。<br />
逆に言えば、それさえわかれば物事の価値観が180度逆転する。<br />
自分を肯定する、受け入れるということの意味、あるいは<font color=brown>「すべてが決まっているからこそ、人は自由である」というパラドクス</font>も見えてくる。</p>

<p>性の解放をもし説くというなら、何よりもそれは脳の自分が作り出した観念から自己を解放するということではないだろうか？<br />
<br></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■佐伯啓思「自由とは何か〜“自己責任”から“理由なき殺人”まで」を読んでみた</title>
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<modified>2005-11-24T01:54:04Z</modified>
<issued>2005-11-21T17:59:15Z</issued>
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<summary type="text/plain">自由とは、快適であるということ。……快適などと言うと、俗にいう快楽主義の一種のようにイメージするかもしれない。そしてその快楽主義は、往々にして「自分さえ気持ち良ければ」というエゴイズムとどこかで結びついている。しかし、実際に快適さを追求していくと、そんな単純なものではないことが見えてくる。……たとえば、自分だけが快適であれば（気持ち良ければ）自由なのか？　……というと、当然のことながら、そういうことはない。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>身体論</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p>筆者は、文中で「自由」という言葉を使うことが多い。<br />
といって、ものすごい難しい概念ように思っているわけではない。筆者の「自由」の定義はカンタンだ。ほぼ「快適」という言葉とイコールで捉えられるものであるからだ。</p>

<p><font color=brown>自由とは、快適であるということ。あるいは、快適と感じられるような状態。</font></p>

<p>快適などと言うと、俗にいう快楽主義の一種のようにイメージするかもしれない。<br />
そしてその快楽主義は、往々にして「自分さえ気持ち良ければ」というエゴイズムとどこかで結びついている。<br />
しかし、実際に快適さを追求していくと、そんな単純なものではないことが見えてくる。<br />
なかなか奥深い言葉であることがわかってくる。</p>

<p>たとえば、自分だけが快適であれば（気持ち良ければ）自由なのか？　……というと、当然のことながら、そういうことはない。<br />
やはり、周囲との調和が必要。<br />
しかし、周囲との調和にばかり気配りしていると、それはそれで不自由になってしまう。</p>

<p>ということは、自由＝快適であるためには、ある種のバランス感覚が必要であることが見えてくる。<br />
ではバランスとは何か？<br />
……とまあ、ひとたび「自由」を問いはじめると、突き詰めないとならない問題が次々と浮かんでくるわけである。</p>

<p>前置きが長くなってしまうので、ここでは深入りはせず、次の点のみを確認しておこう。<br />
それは、「自由」が「快適」とイコールであるという前提に立った場合、「自由」は観念から離れ、実感を伴ったものになってくるということ。<br />
快適さとは、結局のところ、身体で感じるものであるからだ。</p>

<p><font color=brown>快適さ＝自由とは、身体で感じるもの。</font></p>

<p>筆者はいま、ものすごーく当たり前のことを書いている。<br />
ただ、この当たり前がなかなか当たり前とは捉えられない現実がある。<br />
自由というものを、権利であるとか思想であるとか、アタマで捉えた概念としてイメージする人が多いことも知っている。</p>

<p>歴史を振り返ってみれば、確かに自由はそのような観念として認知されてきた。<br />
その観念をめぐって革命が起きたり、国がつくられたり、滅ぼされたり、法が生まれたり、書物が書かれたり……。<br />
もしかしたらそれが「近代」と呼ばれるものの実態だったのかもしれない。</p>

<p>しかし、そうした視点で自由の本質を理解できた人は、本当にいたのか？<br />
むしろと問えば問うほど、その本質はベールに包まれ、曖昧模糊としていったのではないか？<br />
そんなことを考えながら読んだのが、書店で偶然に見つけた佐伯啓思氏の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061497499/qid=1132596495/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8041790-5462627"target=_blank>「自由とは何か〜『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」</a>。<br />
サブタイトルがなかなか興味を惹くが、一読してみると思いのほかわかりやすく、社会思想史から見た自由の本質がひもとかれていた。</p>

<p>まず、佐伯氏は同書の冒頭で、<font color=blue>「今日、自由という詩はもはや人の心を揺さぶるような響きを持っていない」</font>と指摘した上で次のように語る。</p>

<p><br />
<font color=blue>少し前に二十人ほどの少人数の学生の講義で聞いてみたことがある。「君たちにとって自由は重要なものだと思うか」。当然、全員が「自由は大事なものだ」という。<br />
「では、現在、君たちは何かに不自由な思いをしており、自由を享受できていないと思うか」。すると、ほとんどが「別に問題はない」という。</font></p>

<p><font color=blue>そこで続けて聞いてみる。「では、現在、日本の問題は、個人の自由が侵害されている点にあるのか、それとも、自由を縛るはずの道徳規範や拘束がゆるんでしまっている点にあるのか、そのどちらが問題なのだろうか」。これに対しては、おおよそ三分の二が「道徳、規範が崩壊していることのほうが問題だ」と答えるのである。</font></p>

<p><br />
なるほど。確かにこのあたりが、自由に対する日本人の受け止め方の“現状”ではないだろうか？<br />
わかりやすく言えば、「自由が広まることで社会のタガがゆるんでしまった」という具合に、どちらかというと自由は悪いものとして捉えられている面がある。<br />
そして問題は、そのように自由の価値が低落しているにもかかわらず、</p>

<p><br />
<font color=blue>依然として自由は、少なくとも社会科学の最も重要なテーマとなっている。社会思想史、哲学、政治学、経済学を含めて、人間は自由であるべきであるし、本来、自由な存在と説いている。</font></p>

<p><br />
ということ。要するに一般の感覚と学問上の概念との間に、大きな溝ができてしまっている。<br />
一般の人にとってあまり重要でないものが、「最も重要なテーマ」として位置づけられている。</p>

<p>そんなことは今さら言うほどのことではない、と思われる人もいるかもしれない。<br />
しかし、こと自由ということに関しては、学問と現実の乖離（かいり）は、なかなか無視できない側面がある。<br />
自由とは本来、冒頭で筆者が述べたように、権利や思想である以前に個々人の体感（快適さ）と結びついたものであるからだ。</p>

<p>つまり、先の学生たちのように自由が実感できないということは、じつは生きることの楽しさを実感できていない現実にもつながってしまう。<br />
ここでいう楽しさは、「価値」や「意味」と言い換えてもいい。<br />
現代社会に致命的な問題があるとしたなら、それはそうした体感的な意味での自由を喪失してしまっていることにあるのではないか？</p>

<p>そして繰り返すが、学問で取り上げられるような、体感から離れてしまった「自由」の概念では、この喪失を救うことはできない。<br />
語れば語るほど、逆に矛盾が浮き上がってしまう。<br />
佐伯氏は、先のイラク戦争の際に起きた「人質事件」について触れることで、この矛盾をわかりやすく解きほぐしている。</p>

<p><br />
<font color=blue>ここで関心を向けたいのは、事件そのものではなく、それをめぐってなされた「自己責任」をめぐる論議である。<br />
この「自己責任」をめぐる論争は、外国のジャーナリズムによっても、いったい何を論じているのか、とからかわれたりしたものだが、確かに、今日の日本の精神状況・言論状況を象徴するものであった。</font></p>

<p><br />
ではこの「自己責任」論は、具体的に自由の問題とどうつながっているのか？</p>

<p><br />
<font color=blue>この場合には、ボランティア活動という文字通りの個人の自発的な選択、個人の自由が唱えられているが、その個人の自由な行動そのものが政府、国家によって支えられているということである。</font></p>

<p><font color=blue>国家があってはじめて自由な個人という主体があり得るという、考えてみれば当然の事実に、人質事件は改めてわれわれの眼を向けることになった。</font></p>

<p><br />
言い換えるなら、「国家」と「自由な個人」の関係は、くだんの人質事件が起こるまでは十分に認識されていなかったということ。</p>

<p><br />
<font color=blue>普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。<br />
こうして、「権力を行使する国家」に対抗する「自由な個人」という図式が出てくる。<br />
……しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力を持った国家」なのである。</font></p>

<p><br />
この側面は「なかなか見えにくい」と、氏は語る。上記のようなわかりやすい対立図式によって覆い隠されてしまっていると言い換えてもいい。<br />
ということは、どういうことか？</p>

<p><font color=blue>近代の市民社会がひとたびできてしまうと、人々は、その中でもっぱら私の利益や関心に従って活動する。「私」にしか関心を持たないのである。<br />
主権者（国家権力）が、もっぱら「公」を独占して、市民社会の秩序（法的なものを含めて）を支えることになっているのだから、市民社会は平和的なルールに従っておればよい。<br />
人々は、その中で私的利益や享楽を追求しておればよい。こういうことになる。</font><br />
<font color=blue>……しかしそうだとすれば、いったい誰が、どのような利益に従って、国家の活動にかかわろうとするのだろうか。</font></p>

<p><br />
国家の活動などと言うと逆にピンと来ないかもしれないが、冒頭で取り上げた道徳の問題と結びつければ、問題の本質は明確になる。<br />
市民社会が形成され、自由が権利として普及することで、結果として、この「公＝道徳（モラル）」が見失われた。<br />
むしろそのことを問題視する人が増えているにもかかわらず、現実面での有効な対処法が見つかっていない。</p>

<p>たとえばいくら大事だからと言って、生活委員のように「モラルの復活」を唱えたところで効力はない。<br />
わかるだろうか？　そこで語られる道徳は、個人の自由を縛る対立概念として想起されてしまうものだからだ。<br />
道徳がはびこっていけば、人々は世の中が窮屈になるとも考えている。</p>

<p>この道徳の先にあるのが、法だ。法を管理するのは国家。<br />
法の締めつけが強くなるほどに人は不自由を感じる。国家は人の自由を縛る存在であるという「悪」のイメージが植え付けられる。<br />
単純に公共心の大切さを説いても、人々の心には響いてこない（結果として現実は変わらない）のである。</p>

<p>では、それとは異なる理解の仕方は可能なのだろうか？<br />
上記の点に関しては、佐伯氏も指摘するように、個人の自由はじつはその集合体である国家の安全保障によって支えられている。<br />
これは、集団を切り離した個人など存在しない、いや、もっと言ってしまえば、人間関係を無視したところに個人の生活は成り立たない、そんな現実にもつながってくる。</p>

<p>いくら自由であると言っても、自分の行為は社会に反映される。だから、社会とのつながりを無視して（軽視して）ふるまえば、あえてイラク人質事件を例に出すまでもなく、人に迷惑がかかる。<br />
といって、人に迷惑をかけないことばかり考えていると、したいこともできなくなる。<br />
そう。大事なのはバランス感覚……。</p>

<p>筆者はバランス感覚を説いているので、国家が安全保障だけでなく、抑圧装置の側面を持っていることももちろん承知している。<br />
しかし、国家を社会と言い換えれば、単独の「自由な個人」など存在しないという、当たり前の理も見えてくる。</p>

<p>そんな観念のような「個人」像に脳を支配され、他者との関係が見えなくなってしまっているから、道徳の価値も見えなくなる。<br />
自由を縛る窮屈な決まりのようなものとしか理解できなくなる。<br />
自由そのものもアタマでとらえる観念となり、体感はできなくなる。</p>

<p>しかし、ここまで読まれれば、「自由」と「道徳」が必ずしも対立物ではないことも容易に見えてくるのではないだろうか？<br />
繰り返しになるが、自由とは観念ではなく、もっと体感的なもの。自分自身の快適さという感覚と、ダイレクトにつながったもの。</p>

<p>これを素直に追求していけば、エゴイスティックな快楽追求では本当の快適さ（自由）も得られないことが理解できる。<br />
いくら自分が快適（自由）でも、それが誰かの犠牲や苦しみの上で成り立っているものであるとしたら……。やはり、“気持ちいい”ものではない。<br />
そのように感じることで、初めて道徳と呼ばれるものが、自分自身の切実な問題として発生することになる。</p>

<p>以下、佐伯氏の著書のなかから、筆者が気になった箇所をいくつか抜粋しておこう。<br />
たとえば「功利主義でもカントでもうまくいかない」というくだり。</p>

<p><br />
<font color=blue>そこで「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに対して答えればそれは次のようになろう。「別に悪いという絶対的な理由はない。しかし、そんなことをして法に引っかかり人生を棒に振るのは損だ」というわけである。行動を決定する基準は「道徳」ではなく「利益」なのである。</font></p>

<p><font color=blue>しかし、この説明は「なぜ法を守らねばならないのか」という問いへの十全な答えにはなっていない。この種の功利主義が与えるのは、せいぜい、多くの人は、自己の利益を目的として行動しているのであり、そうである限り、多くの人は法を守っているだろう、という程度のことに過ぎない。<br />
……これでは、法を破ったほうが少なくとも当座は得だという者も現れるかもしれないし、さらに、自分は必ずしも損得で行動するわけでない、という者もいる。</font></p>

<p><br />
「しかも、功利主義にはもっとやっかいな問題がついてまわる」と、氏は言う。</p>

<p><br />
<font color=blue>功利主義の基本テーゼは、よく知られているように「最大多数の最大幸福」として定式化される。<br />
……だとすれば、ここに皆に忌み嫌われ、人々に多大な損害を与えながら生活している者がいるとしよう。功利主義からすれば、この人間を抹殺することは望ましいという結論さえ導かれかねないだろう。<br />
……実際、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニエフは、まさにこの種の問いに取り付かれたのであった。皆から蛆虫のように嫌われている高利貸しの老婆など殺してもよいではないか。</font></p>

<p><font color=blue>……この論理は、もっと最近ではたとえばアメリカによるイラク攻撃に際しても使われた。……功利主義の罠は今日でも現実なのである。そしてこの罠が待ち受けている限り、「なぜ人は殺してはならないのか」という問いから逃れることは難しい。</font></p>

<p><br />
そう。これがいまの世にはびこっている「功利主義」の実態。<br />
しかし、この問いから逃れられないかというと、筆者はそうは思わない。ここまで話したように、「体感」というものが出口のカギを握っていると感じている。<br />
この筆者の「体感」（もっと広く、身体論と言い換えてもいい）と微妙にシンクロしているのが、哲学者カントの道徳論だ。</p>

<p><br />
<font color=blue>「なぜ人を殺してはならないか」と少年に聞かれれば、われわれはたいてい、多少狼狽しながらも、「そんなことはだめに決まっている。理由も何もない」とついいってしまうだろう。実際、それ以外にいいようもない。</font></p>

<p><font color=blue>だめなものはだめだという。理由もなくだめなものが世の中にある。……実はそういったのは、十八世紀のドイツの哲学社イマヌエル・カントであった。<br />
</font></p>

<p><font color=blue>人間の日常の経験の世界においては、人間の欲望にせよ、感覚的な快楽にせよ、人間の感覚や自然の条件という自然法則に従って動いている。だが、人間の意思の世界はそうではない。人間が自分の意思を持って何かを実践しようとするとき、その限りでのみ人間は自由である。</font></p>

<p><font color=blue>では、この実践の世界、人間の意思の世界で、意思の動きを決定するものは何か。ここでは人間は自然法則に従うのではなく、道徳法則に従わないとならない。意思とは、道徳法則に従うことにほかならないのである。</font></p>

<p><br />
要するにカントは、人間を（他の動物とは異なる）理性的な存在としてとらえている。それは一面の真理かもしれないが、しかし、</p>

<p><br />
<font color=blue>ではカントの道徳法則はいったいどこから導かれているのかというと、そこには根拠はない。絶対的な命令という言い方からわかるように、もはやその根拠を問いただしても仕方がないのである。</font></p>

<p><font color=blue>カントは、一方では人間の意思の自由や自立を主張する近代主義者であるとともに、他方ではプロテスタントの信仰深いキリスト教徒でもあった。<br />
（カントの道徳論は）キリスト教という絶対的な禁止を与える宗教的権威を隠れた前提としているのであって、この権威によってようやく「だめなものはだめ」という言い方が効力を持ち得るのである。</font></p>

<p><font color=blue>だが、近代的自由はキリスト教という宗教的権威を批判した。……だから、近代的自由からすると、カントの義務論そのものが、もはや意味をなさないということになる。</font></p>

<p><br />
宗教によって支えられていた道徳。権利や思想として、その宗教を否定する形で認識された自由。<br />
そのどちらも、現代社会においてはもはや意味をなしていない。</p>

<p><br />
<font color=blue>もしも規範や道徳のほうに正当性がなくなってしまうと、そもそも自由がそのために戦うべき障害も大きな脅威でなくなってしまうだろう。すると、自由のほうもその活力を失っていってしまう。</font></p>

<p><font color=blue>こうなると、「自由」は、もはや大きな障害を持たず、それゆえ「自由」を実現するための強い緊張感もなくなってしまう。……「なぜ人を殺してはならないのか」という問いは、まさにこの「自由の意味衰弱」の中で生じたのであった。</font></p>

<p><br />
そう、もはやこれまでの（観念としての）自由には、人を救う力はない。そして、言い換えるならそれは道徳の衰弱とも表裏一体の関係にある。<br />
つまり、筆者流に言わせてもらえるなら、そうではない（体感としての）自由を得るということは、新しい道徳を創造するということ。</p>

<p>（このへんの話は、大正時代のアナーキスト<font color=brown>大杉栄</font>の「身体論」とも大きく関わってくる。興味のある人は<a href="http://thunder-r.air-nifty.com/oosugi_kenkyu/"target=_blank>こちら</a>を参照。）</p>

<p>佐伯氏の「自由」に関する社会思想史の観点からの指摘は、このあとまだまだ広範囲に展開されていく。そして同書の末尾には、氏なりに、自由に代わる価値として「義」という東洋流の概念も打ち出されている。<br />
興味深い内容なので機会があればもう少し突っ込んで取り上げたいが……。</p>

<p>ともあれ、筆者の感覚に照らし合わせるのなら、自由の問題も、当たり前のことを当たり前と認識さえできれば、呆気ないほどに解消されていく。<br />
しかし同時にハッキリと言えるのは、その当たり前のことが当たり前には解決できない現実も厳然とあるということ。<br />
そして筆者はその現実から隔離された「個人」などではなく、その解決できない社会の一員であるということ。</p>

<p>表裏一体の「自由」と「道徳」は、その当たり前の現実の中でたえず試され、磨かれるものだと、筆者は思う。<br />
そのからくりがわかっていれば、人はもっと「感じる」ことができるようになるし、自己と他者によって構成される社会の実態も見えてくるはずだ。<br />
<br></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■“経営コンサルタントの神様”船井幸雄氏はアナーキストである！？</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/11/post_49.html" />
<modified>2005-11-15T02:20:17Z</modified>
<issued>2005-11-14T15:47:34Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/nitijo-kankaku/18.315</id>
<created>2005-11-14T15:47:34Z</created>
<summary type="text/plain">
詳しい中身の検証は、興味を持った読者各人で行なってほしいが、筆者がここで強く感じることは、「このような“ぶっとんだ”“あやしい”内容を堂々と本にしている人間が、きわめて現実的な判断の要求される経営コンサルタントの世界で、多くの人に信頼され、社会的に大成功を収めた」という事実だ。10年ほど前から氏の名前を聞き知っていた筆者の印象でも、上記のような「白眼視」を受けていたように思う。しかし氏には、ある程度のバッシングがあろうと揺るがない、自分の社会的成功に対する自信があったはずだ。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>社会</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p>たまたま本屋で見かけた<a href="http://www.funaiyukio.com/"target=_blank>船井幸雄氏</a>の新著を、先日、つい衝動買いしてしまった。<br />
タイトルは<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4828412255/qid=1131983402/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-9197545-3556365"target=_blank>「にんげん」</a>。<br />
一瞬、あいだみつをの本かと思ったが、もちろん違う。笑。<br />
氏の言葉を借りるなら、</p>

<p><font color=blue>1933年生まれの私は、いま72歳です。なぜか幼少時より、常識的に言いますと、ある目的のために、学び働くことだけの人生を送ってきました。<br />
……「これでもか、これでもか」というくらい働かされ、「世の中」や「にんげん」についての根源的なことを学ばされてきました。<br />
……そのある目的とは、「世の中の構造」と「にんげんの正しいあり方」を知り、多くの人に知らせるためといってもいいと思えるのです。</font></p>

<p>ということになる。<br />
まず、氏のことをよく知らない人のために、ホームページよりその略歴を引用させていただこう。</p>

<p><font color=blue>1933年	大阪府生まれ<br />
1956年	京都大学農林経済学科卒業<br />
産業心理研究所研究員、日本マネジメント協会経営指導部長、理事を経て、<br />
1970年	(株)日本マーケティングセンターを設立<br />
1985年3月　船井総合研究所に社名変更<br />
1988年	経営コンサルタント会社として世界ではじめて株式上場。<br />
“経営指導の神様”と呼ばれコンサルティングの第1線で活躍するとともに、社長、会長を歴任。<br />
2003年3月　名誉会長に就任<br />
 同社を約300人の経営専門家を擁する日本最大級の経営コンサルタント会社に成長させた。<br />
現在、グループ30余社の総帥。<br />
2003年4月　超資本主義社会を牽引するテクノロジーの発掘・普及のため、(株)本物研究所を設立した。<br />
2005年1月　船井総合研究所・本物研究所・船井メディア・船井コミュニケーションズ・船井財産コンサルタンツ最高顧問・（株）船井本社代表取締役会長就任</font></p>

<p>これを一読すれば、顧客との信頼関係によって成り立つ経済コンサルタントの業界で、不動と言っていい成功を成し遂げた人であることがわかる。その氏が、</p>

<p><font color=blue>70歳になったのを機に、……同社（＊船井総研）の代表取締役をやめ、……経営コンサルタントも、きれいさっぱりやめました。ただ、私個人の人脈や能力は、束縛がなくなり自由になっただけ、その後、より拡充したように思います。</font></p>

<p>と語る。“経営者としての束縛がなくなったことで、自由になった”。……確かに今回の著作を読むにつけ、筆者自身、その思いを強く感じた。<br />
「単著が180冊、共著や編者まで含めると260冊以上」という氏の著作のすべてを読んだわけではないが、どんな傾向の情報発信をする人なのかはもともとわかっていた。しかし、今回の著作の内容は「かなり過激」。<br />
試しに目次から、気になるコピーをいくつか拾っていってみよう。</p>

<p><font color=blue>第１章　絶対的常識がくつがえりつつある</p>

<p><font color=blue>●人は猿から進化したのではない<br />
●死んだ動植物が見事に生き返る<br />
●煎ったピーナッツから芽が出た<br />
●人は食べなくとも生きていける</font></p>

<p><font color=blue>第2章　最近の10年、有識者は密かに「アセンション」の研究をしている</font></p>

<p><font color=blue>●世の中には不思議な能力を持った人が存在する<br />
●一流大学の出身者は創業経営者にならない<br />
●決め手は統計学と、超能力者</font></p>

<p><font color=blue>第3章　ようやくわかった大事な諸事情</font></p>

<p><font color=blue>●トランス・チャネラーの情報は参考になる<br />
●人は「生かされている」ようだ<br />
●多分、近未来、易や占星術は無用になる</font></p>

<p><font color=blue>第4章　これからこう生きよう</font></p>

<p><font color=blue>●こだわる人間ほど程度が低い<br />
●策略、刺客……選挙に見る「時流」<br />
●視力0.05が4年間で0.8になった</font></p>

<p><font color=blue>第5章　いよいよ「世の中」の分岐点（略）</font></p>

<p>……筆者特有のバランス感覚？（言い換えれば、独断と偏見）で選んでみたが、どうだろうか？<br />
文字面だけを追えば「トンデモ本」にも思われかねない、かなり「ぶっとんだ」内容であることがわかるだろう。<br />
詳しい中身の検証は、興味を持った読者各人で行なってほしいが、筆者がここで強く感じることは、</p>

<p><font color=blue>「このような“ぶっとんだ”“あやしい”内容を堂々と本にしている人間が、きわめて現実的な判断の要求される経営コンサルタントの世界で、多くの人に信頼され、社会的に大成功を収めた」</font></p>

<p>という事実だ。<br />
船井氏自身、これまでの歩みを振り返り、</p>

<p><font color=blue>20数年前、著書中で「死んでも終わりではない」と書いただけで白眼視され、10年前「超常現象はあるし、人の意識は物質に影響する」と言っただけで「オカルト人間」と呼ばれ、マスメディアからシャットアウトされ、多くの顧問先から去られた私としては、（ここ数年の世の中の変化に）ちょっとびっくりしていますが、しかしよい時代になったと思います。</font></p>

<p>などと語っている。<br />
10年ほど前から氏の名前を聞き知っていた筆者の印象でも、確かに上記のような「白眼視」を受けていたように思う。<br />
しかし氏には、ある程度のバッシングがあろうと揺るがない、自分の社会的成功に対する自信があったはずだ。<br />
素直にすごいと思うのは、その点だ。「白眼視」されるのが厭で、なるべくなら世間に迎合し、波風立てないように活動してきた（？）筆者としては、第一にその自信の強さに感心してしまう。</p>

<p>そして、そうした氏の努力もあって、確かにこの10年で、ずいぶんと言いたいことが言いやすい世の中になってきた。<br />
前述の目次から引用したコピーにしても、盲信するべきではないが、それでも「すべてありえる」というくらいの、常識の囚われない感覚が筆者にはある。<br />
しかし、こうした感性はほんらい社会の第一線で活躍するジャーナリストにこそ必要なものではないだろうか？</p>

<p>なにしろ、彼らの活躍の場とも言える映像・活字メディア（テレビや新聞、雑誌など）では、言論の自由と言いながら、大幅な自主規制が存在している。<br />
筆者もそのメディアの末端に属する一人だが、大手メディアに活動の場が広がれば広がるほど、じつは意識の自由が奪われる傾向があることを感じている。<br />
表に出せることと出せないことの境界が、日々の錯綜した仕事の中で、かなり安易な状況で決められているとでも言えばいいか。<br />
その総和として、世論が形成される……。</p>

<p><font color=blue>新聞社や出版社から給料をもらっている（それで家族を養っている）状況から脱しないかぎり、まともなジャーナリストにはなれない。</font></p>

<p>以前、<a href="http://www.gyakusetsu-j.com/"target=_blank>作家の井沢元彦氏</a>がそういった意味のことを著書の中で記していた記憶があるが、確かにその通り、自分の感性を維持し、磨いていくためには、既成のメディアはむしろ反面教師になりつつある。<br />
経験を積むために既成の媒体を活用させてもらうことはもちろん必要だが、本当の意味での「精神的な自立」を求めるなら、一度はゼロに立ち返り、「自分自身のメディア」を構築するプロセスがどうしても必要になってくる。</p>

<p>というわけで、いま筆者がささやかながらWebを中心に展開している「活動」の必然性が見えてくるわけだが、べつにこれはジャーナリスト（マスコミ関係者）だけに求められる話ではない。<br />
そのメディアから受け取った情報によって、個々の生活や人生観が左右されてしまうものだからだ。<br />
この点について、船井氏は、著書の中で<a href="http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/"target=_blank>政治評論家・森田実氏のホームページ</a>から、次のような一文を紹介している。</p>

<p><font color=blue>日本のアメリカ化を先頭に立って推進しているのが小泉内閣である。小泉内閣の3年間の間に、銀行の90％は米国の金融機関に握られてしまった。製造業の70％が米国に握られた。東京のホテルのほとんどが米国資本のものとなった。流通も、食糧も、土建業者すらも米国資本の傘下に組み入れられている。最近はマスコミがこれを応援している。それどころか、マスコミまでアメリカに握られてしまった。</p>

<p><font color=blue>最近、政官界内部で次のような噂が流れている。……「広告業は米国資本に握られたため、テレビで米国批判を行なうものは、テレビ界から排除されることになった。ほとんどの大手のコマーシャル提供の大企業は米国資本が握ったからだ」。<br />
ちょうどその頃、私はあるテレビで米国の日本支配、日本従属国化、植民地化について語ったあとは出演依頼がほとんどなくなったことを経験したので、思い当たることがあった。米国の影響力は強大である。日本人の頭脳のなかまで変えつつある。</font></p>

<p><font color=blue>今朝、友人から電話があった。<br />
「350兆円の郵政資金を手に入れるための対日工作費として、米国経済界が約5000億円を使ったという話を知っていますか。主としてマスコミ工作費のようです。大がかりな350兆円奪取作戦が展開されてきたことは明らかです。……」<br />
（以上、5／12、14発信「森田実の時代を斬る」より）</font></p>

<p>また船井氏は、別の箇所で「森田氏のホームページを見た」というある大学教授のファクスを紹介するなかで、</p>

<p><font color=blue>ウオール街は、電通に3兆円の資金を投入して、大手新聞社、テレビ局を通じて、郵政民営化法案の可決のための世論工作活動をしている</font></p>

<p>といった指摘もしている。<br />
ここで森田氏のいう米国資本は、以前、<a href="http://www.homopants.com/"target=_blank>栗本慎一郎氏</a>の新著（「パンツを脱いだサル」）について書いた稿の中でもふれたように、ユダヤ系の国際金融資本とほぼイコールであることは想像できるだろう（→<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/09/post_44.html"target=_blank>こちら</a>を参照）。<br />
筆者自身、「電通に3兆円云々」がどこまで真実かはわからないが、これまでストックしてきた種々の情報を総合するなら、</p>

<p><font color=blue>なぜ小泉首相とブッシュ大統領の関係が親密なのか？　それはただ単に両者のウマが合うからでないことは明らか。<br />
要は、小泉氏の年来の政治的悲願であった「郵政民営化」が、米国経済の“活性化”にとってもメリットがある（おいしい）ということをブッシュが（アメリカ側が）理解していたから、両者の利害が一致した＝親密になれたのではないか？</p>

<p><font color=blue>言い換えるなら、小泉氏は自らの政治的悲願実現のために、米国（ユダヤ系の金融資本）のバックアップを受けた。<br />
しかし彼には「郵政民営化は政治家である自分の、年来の公約である」という“信念”があるから、このバックアップも「悪」には映らない。<br />
逆に彼らの要求を利用しているというくらいの意識はあるだろうが、冷静に実態を見るならば、やはり利用されているのは小泉氏のほう。米国資本のほうが、かけひきの点で一枚上手ではないのか？</font></p>

<p><font color=blue>なぜなら、金づるをますます米国資本に握られてしまう可能性が高いからだ。そうなると、一般庶民はますます経済的に身動きの取れない状況に追い込まれる。<br />
しかし、小泉氏にはそうなっても、その原因が郵政民営化にあるとは認識できない。だから結局、責任も取らない。</font></p>

<p>……といったような推測も可能であると感じている。<br />
そして、これがどこまで正しいかは別として、この種の発言はテレビや新聞などではなかなかできない。つまりは、テレビや新聞（既成のメディア）を通じては情報収集もできない。<br />
この点に問題があると気づかないと、いつまでたっても物事の本質には近づけない。</p>

<p>筆者はさほど熱心に情報収集しているわけではないが、それでも森田氏がホームページで著書の一読を勧めている<a href="http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/"target=_blank>関岡英之氏のリポート</a>が、文芸春秋などに掲載されちょっとした話題になっていることは知っている。<br />
森田氏も引用しているが、その関岡氏の著書<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166603760/qid%3D1131985284/249-9197545-3556365"target=_blank>「拒否できない日本」</a>の表紙の裏には、次のような記述があるという。</p>

<p><font color=blue>建築基準法の改正や半世紀ぶりの商法大改正、公正取引委員会の規制強化、弁護士業の自由化や様々な司法改革……、これらはすべてアメリカ政府が彼らの国益のために日本政府に要求して実現させたもので、アメリカの公文書には実に率直にそう明記されている。近年の日米関係のこの不可解なメカニズムのルーツを探り、様々な分野で日本がアメリカに都合いい社会に変えられてきた経緯を、アメリカの公文書に則して明快平易に描く。</font></p>

<p>このアメリカの要求を飲んできた張本人の一人に、小泉内閣の経済顧問的な役割を任じている竹中平蔵氏（金融・経済財政政策担当大臣）がいるという。<br />
真偽はわからないが、じつは昨日、たまたまテレビをつけたら、<a href="http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/"target=_blank>テレビ朝日の「サンデープロジェクト」</a>で田原総一朗氏が、上記の「文芸春秋」の記事などを例にとりながら、ゲストの竹中氏にこのへんの話題を問いただしていた。</p>

<p>しかし、当然と言えば当然だが、竹中氏は「おもしろおかしく書いているだけ。根拠はまったくない」といった返答。<br />
それはいいとして、問いただした田原氏はどう突っ込むのか？　ンン？　思わず注目したが、何を突っ込むわけでもなく、適当に受け流して話題をスルーしてしまった。<br />
たいして重要事ではないといった口ぶりで……。</p>

<p>番組の前後をきちんと見ていたわけではないので、上記は印象論にすぎないかもしれない。<br />
しかし、これも以前に別の稿でも書いたように（→<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/09/2_1.html"target=_blank>こちら</a>を参照）、</p>

<p><font color=blue>たとえば、先の衆院選挙の期間中、造反組として新党日本に参加した小林興起氏も、記者会見などの場で、「小泉さんの郵政民営化の背後には、アメリカのバックアップがある」といった意味のことを暴露？していた。<br />
同様のことは、政見放送で共産党の志位和夫書記長も語っている（「郵政民営化は、アメリカをもうけさせるためのもの」云々）。</font></p>

<p>といった政治家の発言もあるにはあったが、メディアはほとんど取り上げなかった。<br />
少なくともテレビでは、森田氏が指摘するように、郵政民営化とアメリカとの関係をつっこんで触れることはタブーになっているような印象を受ける。</p>

<p>……船井氏の話からだいぶ脱線してしまったが、要するにこの先ボンヤリ生きていたら、小知恵を使って生きている人間に、いくらでも自分の財産（知的なものも含め）を搾取されてしまう時代がくるだろうということ。<br />
殺し合うという意味での戦争が起こるかはわからないが、いまの時代、日本史で言うところの「戦国時代」に突入したのだと理解したほうがいい。</p>

<p>「秩序」や「常識」が自分を守ってくれるタテになってくれない以上、あの時代の人間のように、個々が自主独立を目指すほかは自由に生きる道はない。<br />
というわけで、すでに10年ほど前からそんなための準備を進めている筆者は、「ますます面白い時代になってきたな」とほくそ笑んでいる次第。</p>

<p>話がいちいち錯綜してしまうが……。<br />
<a href="http://thunder-r.air-nifty.com/oosugi_kenkyu/"target=_blank>最近始めたブログ</a>のなかから、大正時代のアナーキスト（無政府主義者）、大杉栄の次の言葉を引用して、今回の稿を締めくくろう。</p>

<p><font color=blue>社会のある少数の間に、その道徳観念が全く変わってしまう時代がある。<br />
誠に危険なる時代である。<br />
かつては最も道徳的であるとせられていた事が、こんどは反対に、最も不道徳な事であるとせられて来る。<br />
従来尊敬せられ神聖視せられていた慣習だの、伝習だの、又はある一階級の利益のためにのみ造られた道徳だのが、一切放擲（ほうてき）せられてしまう。 <br />
そしていわゆる不道徳な行為をする事をもって、自分に対する及び世間に対する最高の義務であると認めるような人が出て来る。<br />
誠に危険なる人物である。<br />
けれども史家の教ふる所によれば、この危険なる時代においてこの危険なる人物によって、歴史はつねに向上の一転化をするのだという。<br />
道徳を創造するんだ。<br />
幸いにこの種の時代に生まれて、この種の人物の一人に数えられる。<br />
誠に千載の一遇である。<br />
（1913年1月<a href="http://thunder-r.air-nifty.com/oosugi_kenkyu/2005/10/post_4153.html"target=_blank>「道徳の創造」</a>より）</font></p>

<p>“経営コンサルタントの神様”船井幸雄氏もまた、筆者の目から見れば、“平成の乱世”をしたたかに生きる自主自立のアナーキストである。<br />
そのような意味におけるアナーキストとして（あるいは戦国時代のサムライとして）、筆者も「道徳」を創造し、みずからの「自主独立」を推し進めていきたいと思う。</p>

<p>気がつくと船井氏の新著から、最後は大杉栄が飛び出してしまったという話。笑。<br />
<br></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■「蝉しぐれ」に描かれる藤沢周平のハラ感覚</title>
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<modified>2005-11-08T00:06:59Z</modified>
<issued>2005-11-02T13:48:08Z</issued>
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<summary type="text/plain">
市川（染五郎）のいう「丹田」「肚」については、筆者の身体論の中でさかんに出てくる言葉である。だからというわけではないが、「蝉しぐれ」に描かれる世界像は、じつはこのハラの世界に集約できる。いや、もっとリンクさせるならば、藤沢作品そのものが日本人のハラについて描いてきたわけであり、彼が時代小説というジャンルを選択し、主に江戸時代を作品舞台にしてきたのは、江戸時代の日本に最も色濃くハラ感覚が宿っていたことを感じとっていたからだと言うこともできるだろう。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>身体論</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/416719225X/qid=1130939453/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8459790-6862644"target=_blank>小説、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00014B1SK/qid=1130939453/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8459790-6862644"target=_blank>ドラマ</a>、<a href="http://www.semishigure.jp/"target=_blank>映画</a>と、ここ数ヶ月ほどの間に藤沢周平の<font color=blue>「蝉しぐれ」</font>の世界に、様々な角度からふれる機会に恵まれた。<br />
藤沢周平の世界観がぎっしりと凝縮された、珠玉の作品として知られている。<br />
作品にふれていく過程でいくつかおもしろい発見があった。<br />
まず、映画サイトの<a href="http://www.semishigure.jp/story.html"target=_blank>「あらすじ」</a>を引用させていただきつつ、その作品世界をざっとひもといていってみよう。</p>

<p>　<font color=blue>東北の小藩「海坂藩」の下級武士である義父のもとで成長する牧文四郎は15歳。父・助左衛門を尊敬し、いつか父のようになりたいと思っていた。</font></p>

<p>　<font color=blue>そんな文四郎の生活は、隣家に住む幼なじみのふくに淡い恋心を抱きながら、小和田逸平と島崎与之助というとても仲の良い友人とともに、剣術と学問に明け暮れる日々。そんな中、与之助が学問の道に進むために江戸へ行くと言いだした。寂しさを隠しきれない文四郎と逸平。</font></p>

<p>　<font color=blue>だが文四郎にもその後すぐに大きな異変が起きた。父が捕らわれたのだ。理由は以前から殿のお世継ぎの世子を誰にするかで藩内に起こっていた争い事に父がかかわり合っていたことにあるらしい。その日から文四郎の生活は一変する。罪人の子としての辛い日々がはじまった。</font></p>

<p>このあたりが冒頭の部分。<br />
<a href="http://www.semishigure.jp/introduction.html"target=_blank>映画解説</a>のキャッチに、<font color=red>“「日本」を愛するすべての人々へ”</font>とあるが、ここでいう日本とは、具体的に言えば江戸時代の頃の“古き良き日本”のこと。<br />
藤沢はそれをいたずらに礼賛するわけではなく、かつてあった世界を当たり前に思い描いて、当たり前に書いている。</p>

<p>では、いったい何が当たり前なのか？　言い換えるなら、いまという時代の日本にはその当たり前がない。映画のキャッチコピーからはそんなメッセージも透けて見える。<br />
かつてあったのに、いまはないもの（見失われてしまったもの）。それを生き方として体現しているのが、主人公の牧文四郎ということになる。</p>

<p>もっと言ってしまえば、文四郎の背後には、他の藤沢作品の様々な主人公がだぶっている。そうも言えるだろう。<br />
ということは、藤沢周平は作品を通して現代の我々に何を伝えたかったのか？<br />
くだんの解説のなかに、その「答え」がこう記されている。</p>

<p>　<font color=blue>その答えは、藤沢氏の作品には、私たち日本人が知らず知らず忘れてしまったものを思い出させてくれる力があるからではないでしょうか。そこにあるのは地位や名誉など関係のない、平凡だけれども、慎ましく生きる人の姿と彼らが持つ美しい心。風土とともに生きる姿。読者は、作家としてぶれない一貫した作品姿勢に魅せられ、心癒されるのです。</font></p>

<p>言わんとすることはよくわかる。しかしまあ、何とも使い古された、紋切り型の言い回しだろうか……。なにやらあまりに単純化されすぎていて、退屈と言うか、かえって藤沢作品の本質が損なわれてしまっているかのように思えてしまう。</p>

<p>確かに「牧文四郎」は、理想のサムライ像、「平凡だけれども、慎ましく生きる」その意味での代表的日本人として描かれているだろう。<br />
しかし、ではそうだとして、そのメッセージを聞いた我々はどうしたらいいのか？　おのれの生き方を反省する？　日々の行いを改める？<br />
そんなふうに少し問いつめると、すべてが漠然としはじめ、「答え」が見えなくなってしまう。</p>

<p>まず、映画の「批評」からしようか。<br />
結論を先に言えば、原作の持っている世界観、藤沢周平のメッセージがうまく伝えきれていないもどかしさを筆者は感じた。<br />
確かに映像はこれでもかと美しい。思わず涙をさそうような場面もいくつかある。個々の役者の演技も悪くはない。しかし、原作の映像化につきものとも言えることだが、残念ながら、原作を超えることができたとは言いがたい。</p>

<p>なぜか？　ここまで書いてくれば気づかれるかもしれないが、映画はすべて「答え」を明かしてしまっている。藤沢が物語を通じて醸し出し、行間に描き出したものを、言葉として「平凡だけれども、慎ましく生きる……」といったようにまとめてしまっている。</p>

<p>いやそれは、サイトの（あるいはパンフレットの）解説の中だけの話ではないか。<br />
そんな反論もあるかもしれない。しかし、そうではないだろう。<br />
おそらく作り手は、映画化を決めた時点でこうした「答え」を持ってしまっていたと思う。<br />
その「答え」を伝えるために映画を作った。<br />
しかし、そうだとしたら、おもしろい作品にはならない。結論が先にあるような物語を見て、人はハラハラドキドキもしないし、胸も打たれない。<br />
筆者が映画に対して違和感を抱いた原因は、おそらくそこにあるのだと思う。</p>

<p>初めにここが感動の場面ですよ、これがすばらしいですよ、これが「日本」ですよ。<br />
そんなふうに押しつけられても、素直に乗ることはできない。<br />
プロモーションは必要だが、肝心な部分ではもっと寡黙になる必要もある。<br />
また作り手は、何らかの「結論」を持ちながらも、つねにそれを留保し、創作が予定調和に陥らない努力が必要だと思う。</p>

<p>その意味では、原作の映像化という手法は、原作にネームバリューがある場合はその恩恵に浴することもできるが、同時に制約も多いということだ。<br />
原作者である藤沢は、映像化などを前提にせず、あくまでも小説として描いている。<br />
それを映像に作り直すということは、何もないところから創作することより一見ラクに思えるかもしれないが、そんなことはない。<br />
あえて映像化に挑戦するというのなら、何か根本的な部分を「裏切る」必要がある。<br />
そうしなければ、原作を凌駕することは難しいということだ。</p>

<p>まあ、このへんは「言うは易く行なうは難し」の世界。<br />
でも、もし筆者が藤沢世界を映像化するとしたら、そんな「無謀な」ことは考えない。作品からテイストだけいただいて、物語はゼロからつくることをまず考える。<br />
話題作を生み出すという目的で映像を手がけるとしたら、このやり方はそぐわないだろうが……。</p>

<p>さて、批判めいた話はこれくらいにして、筆者がおもしろいと感じたことについて話すことにしよう。<br />
筆者は「蝉しぐれ」を通じて、確かに「日本人の理想像」といったものを受け取ることができた。<br />
その点はまちがいない。しかし同時に言えるのは、だからこそ、映画の描き方に違和感をおぼえたということ。</p>

<p>この違和感をひもとくヒントとなるのは、文春ムック<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4160086039/qid=1130939453/sr=8-3/ref=sr_8_xs_ap_i3_xgl74/250-8459790-6862644"target=_blank>「『蝉しぐれ』と藤沢周平の世界」</a>所収の市川染五郎のインタビューにある。<br />
市川は、主人公・牧文四郎の青年〜中年期を演じている作品の“主役”。インタビュアー（岸本葉子氏）と次のようなやりとりをしている。</p>

<p><font color=blue>岸本：文四郎は多感な少年時代をとても不遇ななかで過ごし、父親が反逆の罪を着せられて、その汚名を背負って生きていかなければならなかった。ずっと身を慎んで、学問と剣術に勤しんできたのだと思います。そうした感情を閉じ込めている青年というのは、演じる側としては表現が難しかったのではありませんか？</font></p>

<p><font color=blue>市川：難しかったですね。最初、監督に「何もしないでくれ」と言われたんです。</font></p>

<p><font color=blue>岸本：何もするな……演技をするな、ということですか？</font></p>

<p><font color=blue>市川：ええ。でも、役者が何もしないってとても難しいことなんです。それで役作りに取り組むにあたって心にあったのは「丹田」という言葉だったんですよ。ヘソの下あたりのね、丹田というか、肚（ハラ）というか。そこにすべてを集約してみたんです。</font></p>

<p>市川のいう「丹田」「肚」については、筆者の身体論の中でさかんに出てくる言葉である（→詳しくは<a href="http://www.thunder-r.net/shintairon/shintai-kankaku.html"target=_blank>こちら</a>を参照）。<br />
だからというわけではないが、「蝉しぐれ」に描かれる世界像は、じつはこのハラの世界に集約できる……筆者はそう感じている。<br />
いや、もっとリンクさせるなら、藤沢作品そのものが日本人のハラについて描いてきたわけであり、彼が時代小説というジャンルを選択し、主に江戸時代を作品舞台にしてきたのは、江戸時代の日本に最も色濃くハラ感覚が宿っていたことを感じとっていたからだと言うこともできるだろう。</p>

<p>藤沢周平自身、44歳で遅咲きの文壇デビューをするまでは、牧文四郎やその他作品の登場人物にオーバーラップされるような<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E5%91%A8%E5%B9%B3"target=_blank>「不遇の時代」</a>を経験している。<br />
そのなかで彼が育ててきたのが、ハラ感覚。<br />
作風が理知主義に傾いている感のある同時代の“国民作家”司馬遼太郎と比べても、この感覚の強さは際立っていた（→<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/10/post_46.html"target=_blank>こちら</a>も参照）。<br />
その意味では、「日本」を語り手として、司馬よりも藤沢のほうが向いている。<br />
しかし、だからこそ、「語ってはいけない」のである。</p>

<p>藤沢がハラ感覚を大事にしてきた作家であることを、もう少し別の角度から検証してみよう。<br />
かつての（江戸時代の）日本人は、正確に言うと、「知」「情」「意」の３つの身体感覚を大事にしていた。<br />
このうちの「意」にあたる部分がハラの感覚。<br />
これだけではわからないだろうから、もう少し解説しよう。</p>

<p>「知」とは、知性、理性といった意味で、身体の部位では「頭」が該当している。<br />
「情」は、感情、愛情。こちらは「胸」が該当。<br />
そして「意」は、意思、意欲。ここが「丹田」「肚」にあたる。</p>

<p>このため、</p>

<p><font color=blue>「知」……「頭」……上丹田<br />
「情」……「胸」……中丹田<br />
「意」……「肚」……下丹田</font></p>

<p>こういった呼び方もされていた。そして、この3つの「丹田」（三丹田）のなかでも特に重要視されていたのが、身体の中心に位置し、すべての行為の起点となる「意欲」「意思」の源、下丹田＝肚（ハラ）だったわけである。</p>

<p>このことはべつに筆者の独断でもなんでもなく、身体論の世界ではある程度スタンダードな発想。<br />
ハラ感覚（下丹田）を重視していた藤沢作品の中にも、その位置づけは少なからず反映されている。<br />
たとえば、「蝉しぐれ」の人物設定を見てみよう。</p>

<p>主人公・文四郎の無二の親友にあたるのが、文武には秀でていないが心優しいナイスガイ・小和田逸平と、剣術は苦手だが頭がよく江戸に留学して出世する島崎与之助の二人。<br />
この3人の組み合わせは、上記の「三丹田」とも見事に符合している。しかも、「主人公」は最も重要な下丹田の文四郎なのである。</p>

<p><font color=blue>「知」＝上丹田→島崎与之助<br />
「情」＝中丹田→小和田逸平<br />
「意」=下丹田→牧文四郎</font></p>

<p>藤沢が「三丹田」の概念を知っていたかはわからないし、そもそもそれを意識して人物設定したとは思えない。というよりも、半ば無意識の形でこのように日本人の身体観の「型」にはまってしまっているところにかえってリアリティがないだろうか？<br />
筆者は藤沢作品のすべてを読み尽くしたわけではないので、作品全体の分析はできない。しかし、探っていけば似たような例はいくつも見いだせるものと思う。</p>

<p>こうした点をふまえるなら、いま藤沢周平の作品が見直されている背景には、甦りつつある日本人の身体観が呼応していることが見えてくる。<br />
失われたものを懐古しているのではなく、甦りつつあるから見直されている。<br />
この違いは大きいし、後者としてとらえられることで、本当の意味での「答え」（「希望」と言い換えてもいいか）も見えてくる。<br />
いまの日本の世相の根っこにあるものを読み解く、キーポイントになってくる。</p>

<p>これらのキーポイントを行間で、物語に託して伝えてきた藤沢周平の業績は、確かにもっと評価されてしかるべきだろう。<br />
ただ、「失われた日本の良さがどうのこうの……」といったような紋切り型の表現だけでは、このあたりの構造まではキャッチできない。<br />
行間と言葉の間のギャップこそが、いまの日本人に欠けてしまっている感性なのではないだろうか？<br />
藤沢周平との出会いを通じて、そんな理解の深められた数ヶ月だった。<br />
<br></p>

<p>（追記）<br />
映画の「批判」をしたなかの「もし筆者が藤沢世界を映像化するとしたら、そんな「無謀な」ことは考えない。作品からテイストだけいただいて、物語はゼロからつくることをまず考える」というくだり。</p>

<p>まだ見てはいないが、いろいろ調べていくなかで、山田洋次監督の「たどがれ清兵衛」はその手法に近いように感じた。<br />
藤沢作品というより、山田テイストの時代劇だという声もあるけれど、ある意味こちらのほうが作品の出来としては“まっとう”なようにも思う。<br />
真田広之の清兵衛って違和感あるし（原作を読んでいると、いい意味で裏切られた気分）、近々、実際に作品を見てみたい気がする。（11.8）<br />
<br></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■佐高信「司馬遼太郎と藤沢周平」を読んでみた</title>
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<modified>2005-11-02T23:24:32Z</modified>
<issued>2005-10-28T16:34:25Z</issued>
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<summary type="text/plain">
事実、佐高氏が推奨する藤沢周平の作品を実際に読んでいくと、「ああ、この世界は司馬さんには欠けていた世界だ」と感じさせるものが確かにある。代表作の一つである「蝉しぐれ」にしても、「用心棒日月抄」にしても、登場する多くは架空の人物。「こんな人がいたかもしれない」という無名の人の生き様を創作し、結果として歴史（たとえば江戸時代）の実像をうまく浮き上がらせている。その意味では、司馬作品の欠落箇所を藤沢作品が補完している。筆者などは、そこにある種の新鮮さをおぼえたわけである。

</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>近年、<font color=blue>作家・藤沢周平</font>の足跡が何かとクローズアップされている。<br />
筆者も仕事で時代劇関係の本を作ることになり、これを機会にいくつか代表作を読んでみた。</p>

<p>そのなかでも最も印象に残ったのは、やはり<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/416719225X/250-8459790-6862644"target=_blank>「蝉しぐれ」</a>だろうか？<br />
現在、市川染五郎の主演で<a href="http://www.semishigure.jp/"target=_blank>映画</a>が公開中で、関連本もずいぶんと刊行されている。<br />
また、数年前にはNHKでも内野聖陽の主演で同作が<a href="http://www.nhk.or.jp/drama/archives/semishigure/"target=_blank>ドラマ化</a>された。こちらはつい先日、ビデオでの視聴が終わったが、原作の世界がうまく再現され、なかなか余韻の残る佳作。<br />
映画と見比べてみるのも面白いかもしれない……。</p>

<p>この作品のなかで描かれているのは、文字通り、サムライの世界だ。<br />
主人公は、江戸時代の東北の小藩の下級武士。藤沢氏の郷里である山形の鶴岡近郊（庄内平野）がオーバーラップされているという。<br />
仕事かこつけて読んだ評論家・佐高信氏の著書には、次のような記述がある。</p>

<p><font color=blue>「江戸城は誰がつくったか」という問いかけがある。太田道灌と答えると正解で、大工と左官がつくったというと笑われるが、たぶん、藤沢は笑わないだろう。大工と左官の立場に身を置いて書かれたのが藤沢の小説だった。<br />
（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334781543/qid=1130541673/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8459790-6862644"target=_blank>「司馬遼太郎と藤沢周平〜『歴史と人間』をどう読むか」</a>光文社）</font></p>

<p>上記の書名でわかるように、佐高氏は藤沢周平と司馬遼太郎を対比させながら、「左官と大工」を描く藤沢のほうにシンパシーを寄せている。<br />
“国民作家”である司馬に関しては、むしろその歴史観（司馬史観）にひそむ「虚構性」を批判したい思いがあるようだ。</p>

<p><font color=blue>端的に言えば、司馬（遼太郎）は商人であり、藤沢は農民である。そして、池波（正太郎）は職人である。職人と商人をコントラストさせることはできない。いささかならず調子のよい商人に対抗するためには、寡黙に働く農民のエネルギーをもってこなければならないのである。<br />
（同上　文中のカッコは筆者）</font></p>

<p>なかなか面白い対比ではないだろうか？<br />
佐高氏の指摘するように、実際司馬は「江戸城をつくった人」を描く際に、「太田道灌」にスポットを当てるケースが非常に多い。<br />
つまり、作品に一種の英雄主義的な側面があり、社会の底辺を支える大多数の無名の人々（大工や左官）の存在は多分に軽視されている。<br />
権力者（政治家、経営者）の腐敗を徹底的に批判するというスタンスを持つ佐高氏からすれば、司馬の「英雄主義」は、彼らの生き方に安易に迎合してしまう、「調子のよい商人」として映るのだろう。</p>

<p>ピンと来ない人のために、佐高氏が著書でも触れていた、司馬の歴史観を表す一文を紹介しておこう。</p>

<p><font color=blue>ビルから下をながめている。平素、すみなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。おなじ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある。</font></p>

<p>この俯瞰的な、「神」の視点から歴史を見下ろす行為では、いちばん底辺の庶民の生き様は見落とされてしまう面がある。<br />
言い換えるなら、藤沢周平はこの司馬が見落としてしまった底辺の世界をうまく描き出し、庶民を中心にすえた独自の歴史像を構築することに成功した。<br />
上のポジションに駆け上がっていく間には見えなかった世界が、藤沢作品には丹念に描かれていると言ってもいいかもしれない。</p>

<p>筆者は、十代の頃から司馬作品を多く読んできたこともあり、佐高氏のような嫌悪感まではむろん持っていない。<br />
というより、司馬氏にはいろいろ教えられてきた面も多いので恩を感じてもいる。そして、だからとうわけではないが、彼が「城をつくった人＝権力者」ばかりを描いてきたという指摘には、少々誤解があると思えてしまう。</p>

<p>なぜなら、司馬氏は確かに権力者を描いてきたが、通説で語られてきたような「権力者の英雄性」をそのまま礼賛してきたわけではない。<br />
むしろそうした通説を嫌悪し、通説では光の当てられてこなかった彼らの一面をシニカルに描いている面が濃厚にある。</p>

<p>たとえば、歴史のなかで英雄として祭り上げられてきた源義経（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167663112/qid=1130541737/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8459790-6862644"target=_blank>「義経」</a>）の描き方など、戦争には強いが、普段はだらしない若者という感じで、少しも英雄らしくはない。<br />
通説では脇役でしかなかった坂本龍馬や新選組を取り上げた点なども含め（しかも新選組では、副長の土方歳三が主役に据えられた）、オーソドックス（通説）へのアンチテーゼという点が、司馬史観の根底にあると言うこともできる。<br />
埋もれていた脇役を小説の主人公に据えることで歴史に多様性を与えた点が、多くの読者の琴線に触れた面であると思われるのである。</p>

<p>とはいえ、筆者は手放しで司馬史観を礼賛しているというわけでもない。<br />
事実、佐高氏が推奨する藤沢周平の作品を実際に読んでいくと、「ああ、この世界は司馬さんには欠けていた世界だ」と感じさせるものが確かにある。</p>

<p>藤沢周平の「時代小説」には、実在の人物が取り上げられることもあるが、代表作の一つである「蝉しぐれ」にしても、<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101247013/qid=1130541962/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8459790-6862644"target=_blank>「用心棒日月抄」</a>にしても、登場する多くは架空の人物。<br />
「こんな人がいたかもしれない」という無名の人の生き様を創作し、結果として歴史（たとえば江戸時代）の実像をうまく浮き上がらせている。<br />
その意味では、司馬作品の欠落箇所を藤沢作品が補完している。筆者などは、そこにある種の新鮮さをおぼえたわけである。</p>

<p>しかし、ここまで書いてきてもうお気づきかもしれないが、藤沢作品が司馬作品の欠落を補完しているというだけではない。<br />
藤沢作品の欠落を司馬作品が補完しているという言い方もできる。<br />
つまり、江戸城をつくったのは「大工や左官」であると同時に、「太田道灌」でもあるということ。<br />
当たり前の話だが、どちらが正しく、どちらが間違っているわけでもない。優秀な大工や左官がいくら集まっても、それだけでは城はつくられない。</p>

<p>佐高氏のなかにはまず、庶民の暮らしを圧迫し、私欲をむさぼっている「権力者」に対する痛烈な批判精神があり、彼らの「悪」を追求し、世の中を少しでも風通しのよいものにしていきたいという志があるように見受けられる。<br />
言ってみれば、司馬作品への批判には、体質的な嫌悪感以上に、自分自身の目的を遂行するための戦略的な要素が含まれている。<br />
そのへんを差し引かないと、今度は「大工や左官」の世界に意識が傾いてしまう。</p>

<p>その意味では、司馬作品も藤沢作品も同じように自分の感覚に取り込んでしまったほうが、よりトータルな「歴史」が見えてくる。<br />
そして、このようなトータルな感覚を身につけるには、司馬の言うような「ビルの上から俯瞰する」意識がじつは欠かせないこともわかってくる。</p>

<p>ちなみに筆者は、司馬史観の「欠落部分」を、藤沢作品的な世界とはまた違った形でイメージしてきた。<br />
たとえば、<a href="http://www.thunder-r.net/nouwokoete/top.html"target=_blank>「脳を超えてハラで生きる」</a>のなかで、司馬作品は“脇役”ばかりにスポットを当ててきたことで、結果として「日本史上でも最高レベルのハラの持ち主であった西郷隆盛については、相当に書きあぐねている」といった指摘をしている。<br />
（ハラについてわからないひとは、<a href="http://www.thunder-r.net/shintairon/shintai-kankaku.html"target=_blank>こちら</a>を参照）</p>

<p><font color=blue>西郷を描いた司馬作品としては、明治維新以後、西南戦争へと至る顛末をつづった<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167105942/qid=1130542081/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8459790-6862644"target=_blank>「翔ぶが如く」</a>という長編があるが、氏にしては珍しく歯切れの悪い作品で、まるでブラックホールのような（つまり、あまりにハラ的な）西郷の人間像に悪戦苦闘したまま終わってしまった感が強い。</font></p>

<p><font color=blue>作品そのものの読みごたえはともかく、読了したあとでも、「で、西郷って、どんな人なの？」という思いが浮かんでしまう。要するに、ハラ的な人間の大きさは、氏の知性をもってしても捉えきれなかったわけである。</font></p>

<p><font color=blue>むろん、西郷が描けないということは、その累は（？）慶喜にまで及ぶだろう。<br />
慶喜については、「最後の将軍」という短編が遺されているが、短編という扱いを見てもわかるとおり、司馬氏は慶喜をあまり買ってはいない。つまり、慶喜になどろくなハラはないと思っていた。大政奉還をなし、江戸無血開城を指示した家康以来の英傑を、才子、才に溺れる（？）の典型のように見なしていたようだ。<br />
しかし、慶喜という月が理解できないかぎり、太陽である西郷と出会うこともできない。両者は、そういう構造のなかにいる。しかも、慶喜という月は、結果として太陽に勝利し、太陽の没落を呼び込むという離れ業もやっているのである。</font></p>

<p>西郷と慶喜の「対立構造」については、<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/09/post_8.html"target=_blank>「振り返れば「神」になる」</a>のなかで“続き”を書いているが、筆者に言わせれば、主役であろうと脇役であろうと、権力者であろうと庶民であろうと、すべて「同じ人間」であるということだ。</p>

<p>「すべて同じ人間」という立場にたてば、すべての人に対して同じ平等な視点で向き合うことができる。<br />
ただ、この平等な視点は、強者に対するルサンチマン（怨恨感情）を持っているかぎり、なかなかバランス良くは磨かれていかない。<br />
しかし、このルサンチマンからひとたび脱却し、この視点を獲得してしまえば、自分が出会うものすべてから「学ぶ」ことができるようになる。<br />
だからこそ筆者は、藤沢周平作品からも、そして佐高氏からも、こうして多くのことを学び取ることができたわけである。</p>

<p>さて、藤沢周平の世界をもう少し堪能するために、映画（蝉しぐれ）のほうも見にいってみようか。<br />
主演の市川染五郎は、主役の牧文四郎を演ずるにあたって「ハラを意識してきた」と雑誌のインタビューで語っていたな……。</p>

<p>司馬作品がじつは「ハラ」をうまく描けてないという点に関しては、非常に重要な問題が内包されている。藤沢周平の真価も、もしかしたらそのなかでさらに浮かび上がってくるかもしれない。<br />
こちらはまた、稿を改めて触れてみたいと思う。<br />
<br></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■中島義道「怒る技術」を読んでみた。</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/10/post_45.html" />
<modified>2005-10-09T04:36:16Z</modified>
<issued>2005-10-09T04:01:26Z</issued>
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<summary type="text/plain">
ここで注意しておきたいのは、「怒る」ことと「キレる」ことは、まったく違うということだ。本のタイトルに「怒る技術」とあるように、「怒る」ことは半ば意図的に発散される感情表現。一方、「キレる」というのは、むしろこの「怒る技術」の身につけていない人が、自己の感情をコントロールできなくなって爆発してしまうもの。キレないためにも「怒る技術」を身につけなさい……というのが、中島氏の主張でもあるわけだ。では、中島氏は実際にどんなふうに「怒っている」のだろうか？</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>身体論</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p><font color=blue>現代日本には「怒らない人」がうじゃうじゃ生息しています。老若男女、前後左右、突如ぶん殴られても起こらないであろうような柔和な顔、顔、顔の氾濫。私はぞっとしてきます。</font></p>

<p>という一文から始まるのが、中島義道氏の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569625819/qid%3D1128830641/249-7344877-6151537"target=_blank>「怒る技術」</a>（PHP）という本。<br />
ある人から紹介されて読みはじめたのだが、なかなかおもしろかった。ていうより、もしかして同類かと思ってしまったのだが……。笑。</p>

<p>筆者はまったく存じ上げなかったが、中島氏は大学教授で哲学者。プロフィルによると、「誰もが好きなだけ哲学を学べる『無用塾』を主宰している」とのこと。</p>

<p>怒れない日本人……。まあ、よく言われていることではある。そして、その対極として、「怒る技術」を身につけている欧米人がいるという構図。<br />
中島氏もご多分に漏れず、</p>

<p><font color=blue>じつは小学校・中学校・高等学校を通じて怒らない子、いや怒ることができない子でした。……こうした状態は大学生になっても続き、何をしていいかわからず、一二年も大学にいて、そのうち二年ほどはひきこもっていました。しかし、そのときでさえ、真の意味で怒ることはなかったのです。</font></p>

<p>という典型的な日本人だったようだ。それが33歳の時のウイーンでの留学経験を通じて、「怒り」の重要性に開眼する。</p>

<p><font color=blue>ウイーンでは、私は怒らなければ生きていけなかった。ウイーンは前世紀のヨーロッパの悪いところがすべてそろったところで、……能率は悪く、官吏はいばっていて、しかも無能。カフカの世界そのものであった。</font></p>

<p><font color=blue>こうした状況に投げ込まれて、私費留学生としての私は、自分が生きていくために、ほんとうは怒っていなくても、怒っているようにふるまわなければならなかった。相手を執拗に責めることによって、自分の正しさを浮き立たせなければ、生きていけなかったのです。こうして、気がつくと、私はウイーンでは四六時中烈火のごとく怒っていました。</font></p>

<p>とまあ、このあたりの話はある意味で「よく聞く話」であると思う。<br />
問題は何かを体験することではなく、体験を通して何を理解したか、何かどう変わったのかということ。中島氏の場合、この留学経験によって自分の中に眠っていた「何か」が完全に動きはじめてしまったようだ。<br />
氏の常人離れした、「怒る人生」がスタートすることになる……。</p>

<p>ここで注意しておきたいのは、「怒る」ことと「キレる」ことは、まったく違うということだ。<br />
本のタイトルに「怒る技術」とあるように、「怒る」ことは半ば意図的に発散される感情表現。<br />
一方、「キレる」というのは、むしろこの「怒る技術」の身につけていない人が、自己の感情をコントロールできなくなって爆発してしまうもの。<br />
キレないためにも「怒る技術」を身につけなさい……というのが、中島氏の主張でもあるわけだ。</p>

<p>では、中島氏は実際にどんなふうに「怒っている」のだろうか？　著書からこの「怒りの達人」のなかなかスゴイエピソードを紹介してみよう。<br />
話はいきなり窃盗話からスタートする。</p>

<p><font color=blue>（私は）これまで法に触れる窃盗を二度ほどしました。一度は、電通大（＊氏の勤務している大学）近くの天神通りにある酒場のスピーカーがあまりにうるさいので、それを奪い取って、「返してくださいよ！　返せよ！」という訴えをものともせず、民家の庭に投げ捨てたのでした。翌日学長から電話がかかってきて、調布警察が動き出したということ。結局、私は三万円ほどの金を払いましたが、いまだに全然悪いと思っていません。</font></p>

<p>と、ここだけ切り取ってしまうと相当に誤解を与えそうだが（笑）、興味深いのは「もう一つ」のエピソード。達人の域に達している……。</p>

<p><font color=blue>もう一つは、ウイーンで洋服屋からベルトを盗み出したのです。ヨーロッパ諸国では旅行者がその旅行中買った物はしかるべき手続きをすれば免税になります。品物によって違いますが、およそ定価の一割のカネが返ってくるので無視できない。</font></p>

<p><font color=blue>（ただ）オーストリアに住所のない旅行者でないと駄目なので、そして外見は誰が旅行者か見分けがつかないので、旅行者は常に自分のほうから用紙を請求しなければ、店の者は何もしてくれません。</font></p>

<p><font color=blue>さて、ある日のこと、いい歳をしてそしてガラにもなく、Fugo Bossの黒いスーツを買いました。だが、……用紙を請求することをつい忘れてしまい、翌日ああそうだと思い出して店に赴き請求したのです。<br />
が、若い大男の店長は開口一番「買ったときでなければ駄目だ」と言う。そんな原則知っているのです。でも、何度もここウイーンでは数時間後に思い出して要求しても、翌日行っても、数日後行っても用紙に記入してくれました。そう言っても、どうしても駄目という返事。</font></p>

<p>ここで氏は、数日前に用紙を発行してくれた近くの店にこの店長を連れて行って確認させたり、税関に電話したり、様々な処置を講じる。しかし、「（彼らは）原則を言うだけですから、やはり店長のほうにつく」。</p>

<p><font color=blue>頭に来た！　ウイーンではいつもこうなのです。十回原則を破りながら大丈夫だと安心した後、十一回目に突然「原則がこうだから駄目だ！」と来るのです。……（私は）さあどうしよう、と思案していました。</font></p>

<p>ここで中島氏の「怒りの虫」が動き始める。</p>

<p><font color=blue>店長は、そのまま「どうぞ、ゆっくり考えてください」と引っ込んでしまう。ふと見渡すと店内にはだれもいない。まるっきり私ひとりなのです。<br />
……そのとき、私の目はしらずしらずのうちにあのスーツの一割分の物はないかなあと物色しているのです。<br />
……あれっ、すぐ手元にたくさんのベルトがぶら下がっている。私はその一本をスーイと抜いて……、「きょうのところはこれで帰ります。まだ納得できないので、うちでゆっくり考えてみます」と言い残してその店を去りました。</font></p>

<p>もちろん、氏にどんな言い分があろうとこれは「泥棒」である。笑。<br />
そのことは、氏も自覚はしている。ちょっと長くなるが、さらに続けよう。</p>

<p><font color=blue>ですが、ホテルに帰っても釈然としない。だいたい、そんなベルトなどほしくない。……そこで、翌朝早く私は店に電話して、店長に「きのう、あなたがあまりにも頑固なのでベルトを一本盗みました」と言いました。</font></p>

<p><font color=blue>……えっ、それは泥棒だ！<br />
……知ってますよ。でも、普通泥棒が盗んだと電話しますか！　私はただあなたの態度があまりにも不遜なので、懲らしめようと思ってやっただけだ。私がスーツを買ったときの店員と話したいのですが。<br />
……彼女は休んでいる。そちらの住所も名前も知っています。返しなさい。<br />
……わかりました。じゃあ、私が条件を出します。今回、私はたいそう不愉快な思いしましたが、あの女店員は任務を怠り責任があったと思います。そして、あなたは店長なんですから、あなたにも責任がある。そこで、もしあなたが自分の落ち度を認めるなら、ベルトを返してあげましょう。でなければ、返しません。</font></p>

<p>中島氏は、「ヨーロッパ人がいちばん厭がることを、この機会にぜひとも実験してみたかった」と言います。それは言うまでもなく、「自分の非を認めさせること」。</p>

<p><font color=blue>しばらくの沈黙の後、店長が「少しは悪かったと思う」と言いましたので、私は心の中で拍手喝采する。すると今度は彼が条件を出しました。</font></p>

<p><font color=blue>……あと三〇分以内に戻しに来ないなら、パトカーでホテルに行ってあなたを逮捕する。<br />
……ああ、わかりました。</font></p>

<p><font color=blue>直後にホテルを出、飛行場に向かうタクシーを途中で停めさせて、私はぼっとつっ立っている彼の両手にざくりとベルトを落とし、そのまま唖然として私を見送る彼をあとに、ふたたびタクシーに飛び乗ったのでした。</font></p>

<p>どうだろうか？　これが氏の言うところの「怒る」ということなのである。<br />
怒りにまかせておのれを失ってしまうわけでなく、案外と冷静。状況を見て、「これを機会にヨーロッパ人を謝罪させる実験」をしようとすら考える。<br />
しかも、こう言う。</p>

<p><font color=blue>私の行為はけっして考え抜かれているわけではありません。むしろ、私の身体が自然にこう動いていくのです。私は泣き寝入りだけはしたくない。相手に何らかの仕返しをしたくてたまらない。そして、具体的な仕方で自分の怒りを相手に伝えたくてたまらない。ほんとうに下品なことです。</font></p>

<p>本人は下品であると謙遜？しているが、ここで大事なのは「具体的な仕方で自分の怒りを相手に伝えたくてたまらない」という箇所。<br />
「怒る技術」をうたってはいるが、じつはコミュニケーションの本質について語っていることがわかる。<br />
当たり前のことだが、コミュニケーションとは自分の意図や意志を相手に伝えるということ。そのためには、技術が必要であるということ。</p>

<p>ここまで長々と書いてしまって恐縮だが、じつは筆者はあまり怒らない。人前で声を荒げることは滅多にないし、自分が悪いと思っていなくても謝ることが結構ある。<br />
「人あたり」という点では中島氏とは対極にある気もするが、根っこでは氏と同じことを感じ、同じことをやってきたと、この本を読んでつくづく感じた。<br />
（ていうことは、筆者も達人？　いや、変人？　まあ、いいか。笑）。</p>

<p>コミュニケーション論は、筆者も<a href="http://www.thunder-r.net/kotoba/top.html"target=_blank>「言葉を喋れない君のために」</a>というコラムの中でまとめているところだが、先に話したように、それは「伝える」ということ。<br />
決して難しいことではない。</p>

<p>自分が心で思っていることは、ただ思っているというだけでは相手にはわからない。<br />
日々人と接していると、こんな当たり前のことがわからずに意味なく怒っている人がずいぶんいる。<br />
もちろん、その怒りは中島氏のようなレベル？の怒りではない。<br />
自己表現がうまくできないから、ただ単に不満が鬱積して、何かの拍子に爆発する（キレる）。</p>

<p>伝える努力を怠って、トラブルが起きててから、「自分はこう思っていた」と切々と主張しはじめる人が結構いるが、そういう人は他人不在なんだと思う。<br />
ちゃんと他人が自分と同じように存在していることがわかっていれば、言葉は出てくる。うまくいかない時は言葉が伝わらなかったのだと納得もできる。</p>

<p>中島流の「怒る技術」を参考にしつつ、ただ彼の「怒る」マネをしても、何も始まらない。<br />
「怒る」ことが重要なのではない。「怒る」ことも感情表現の一つ。喜怒哀楽、どんな形でもいい自分の感情をカタチにすること。</p>

<p>元気な人は元気なカタチにする。おとなしい人はおとなしく、クールな人はクールに。<br />
おとなしい人が元気になる必要はない。<br />
中島氏は「怒る」という感情を通して、このカタチを見つけられた人。そのカラクリが理解できれば、誰でもその人なりのコミュニケーションの本質も見えてくると思う。</p>

<p>中島氏に出会えたおかげで、「たまには怒ってみようかな？」と思ったこの頃。<br />
教えてくれた人、ありがとう。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■栗本慎一郎の新刊「パンツを脱いだサル」を読んだ</title>
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<modified>2005-10-08T07:16:45Z</modified>
<issued>2005-09-21T15:07:26Z</issued>
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<summary type="text/plain">
結果として見るならば、ヒトは不利な生存状況に追い込まれ、身体的にも退化を強いられることで、脳を特異に発達させることができた。それは「自意識」が芽生えたことを意味する。言い換えるなら、自らを客観視し、世界を知的に把握することのできる機能を手に入れた。それは「悪い」ことでもあるが、同時に「いい」ことでもある。つまりはただの自己肯定では、栗本氏の指摘する「負の側面」が見えてこない。しかし、「負」が本質であるとまで言ってしまうと、それはそれでバランスを失ってしまう……。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>身体論</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p><a href="http://www.homopants.com/"target=_blank>栗本慎一郎氏</a>といえば、あまり知らない人は「昔テレビに出ていた人」「政治家？」という印象かもしれないが、本業は学者。<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC"target=_blank>カール・ポランニー</a>の創始した経済人類学という、非常に広範囲にヒトと社会のありようを考察する学問の、いわば日本の第一人者だ。</p>

<p>で、今回紹介する<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4768468985/qid%3D1127315598/249-6433981-1977131"target=_blank>「パンツを脱いだサル」</a>は、80年代に氏の名前を一躍世間に知らしめた<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4768468993/qid=1127315652/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/249-6433981-1977131"target=_blank>「パンツをはいたサル」</a>（81年）、その続編の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/433406034X/qid=1127315853/sr=1-59/ref=sr_1_2_59/249-6433981-1977131"target=_blank>「パンツを捨てるサル」</a>（88年）につづく、“パンサル”シリーズの完結編。<br />
6年前(99年）に脳梗塞を患い、“奇跡の復活”を果たした氏にとって、このシリーズの「完結」は、経済人類学者としての自己確認的な意味合いもあったかもしれない。<br />
前2作を過去に読んできた一人として興味深く拝読したが、とりあえずざっくりとした作品解説をした上で「感想」を……。</p>

<p>この本のテーマは、サブタイトルにあるように<font color=blue>「ヒトは、どうして生きていくのか」</font>というもの。<br />
この「どうして」は、「どのようにして」という意味合いだろうが、「どうして＝なぜ」という意味もあえて掛けているようにも受け取れる。<br />
最終章のタイトルが、<font color=blue>「ヒトはどうすれば生きていけるか、あるいは生きていく価値があるのか」</font>となっているからだ。</p>

<p>どちらにせよなかなか重く深いテーマだが、身体論・生命論研究の先駆者とも言える氏は、この完結編でどのような「答え」を出しているのだろう？</p>

<p>この本の構成を大ざっぱにまとめると、</p>

<p><font color=blue>1、サルからヒトへの進化についての「真相」<br />
2、近代の金融資本を操ってきた「ユダヤ人」の実態<br />
3、そのユダヤ人に利用された「政治陰謀としてのビートルズ」</font></p>

<p>といった具合になる。<br />
このすべてについて触れるとかなりのボリュームになってしまいそうなので、ここでは1の話題を中心に話を進めることにしよう。</p>

<p>まず氏は、「サルからヒトへの進化」という枠組みそのものを疑問視する。<br />
一般には、下記の「サバンナ説」が通説として、多くの学者に支持されているわけだが……。</p>

<p><font color=blue>我々の祖先は当初アフリカ大陸の森林地帯に暮らしていたが、気候の急激な変化が起こって森林地帯にサバンナかが進行した。<br />
そこで、一部の類人猿のなかからは、木から降りて、サバンナでの暮らしを選び取るものが現れた。サバンナで生きていくためには、果物や木の葉など、それまでと同じような食生活をしているわけにはいかない。<br />
狩りをする必要に迫られた彼らは、獲物を見つけるために直立し、両手に武器を持って二足歩行することを学び、道具を工夫することで脳が発達し、大きくなった。体毛を失ったのは、木の上よりも厳しい暑さをしのぐためである……。</font></p>

<p>氏は、「この説は、一見、なかなかの説得力がある。……実際、NHKなどのテレビ番組でも、いまだにこの説に基づいた『人類の進化史』的な番組をよく放映しているし、イギリスの有名なデイビット・アッテンボロー卿の制作した自然番組は完全にそうだ」などと言いながら、</p>

<p><font color=blue>しかしこの説にも、やはりおかしな点がいろいろある。</font></p>

<p>と言う。<br />
何がどうおかしいのか？　詳しくは本書を参照していただくとして、ここではエッセンスの部分をいくつか抜粋してみよう。</p>

<p><font color=blue>たとえば、ヒトの大きな特徴とされている直立二足歩行だが、これはどう見ても四足歩行より欠陥が多い。進化などでは全然ない。</font></p>

<p><font color=blue>サルだって必要なときには二足歩行ができるし、たまには両手で物を掴んだり、簡単な道具を使うこともできる。しかし、何かに追われて逃げるときや速く走りたいときなど、自らの生存にかかわるような場合には、必ず四足を使う。</font></p>

<p><font color=blue>ヒトには（バランスを取るための）長い首も尻尾もない。……それに、二足歩行だと、転ぶ危険性も大きくなる。脳が大きくなったのだから、なおさら不安定である。……ところがヒトは、なぜかケガから身を守る体毛すら捨てて「裸のサル」になってしまっている。これをいったい、どう説明するのか？</font></p>

<p>つまり、先に触れたように、「進化」という前提そのものを疑ったほうがいいというのが、栗本氏の一貫したスタンス。<br />
では、氏はどんな説を支持しているのか？　これも長くなりそうなので、極力要点をかいつまんでまとめてみる。</p>

<p>サルからヒトへの「進化」の舞台となったのは、アフリカ大陸とアラビア半島との間、いまでいう紅海の一帯。もともとこの大陸と半島は地続きだったが、</p>

<p><font color=blue>中新世が終わろうとする670〜530万年前に、……天変地異が起こった。</font></p>

<p>この結果、</p>

<p><font color=blue>（我々の祖先にあたる類人猿の住んでいた）ダナキル地塁は、アフリカ・プレートからもアラビア・プレートからも切り離され、……孤島となって紅海上に取り残されてしまった。</font></p>

<p><font color=blue>彼らが体験したのは、何万年にもわたる地鳴りと、頻発地震、火山の噴火である。……我々の祖先は、おそらく今日の我々よりもはるかに鋭敏な感覚を備えていたはずであるから、そのような自然界の前代未聞の異変に対して、恐れおののいたに違いない。</font></p>

<p><font color=blue>近隣の森林に住んでいた仲間のラマピテクスたちは、みな内陸部へと逃げていったが、我々の祖先は何らかの理由で逃げ遅れ、島となったこの地に取り残されてしまった。<br />
　……彼らは、海水が森林の根元をじわじわと浸していくなか、水を避けて島の森林地帯へ逃げて行った。</font></p>

<p><font color=blue>天変地異は気候も変動させる。大気は冷え、地表の乾燥が進み、……ダナキル地塁を覆っていた豊かな森林のほとんどが枯れてしまった。……我々の祖先は住処を失い、食糧も乏しくなり、さらには、エサを求めてさまよう大型肉食動物たちの餌食となる危険性も増大したのである。</font></p>

<p>栗本氏は、島に取り残されたサルたちは「いまや断固として浅い海の周辺で生きていくことを選択した」、という。</p>

<p><font color=blue>食糧を求め、浅瀬を動き回ったり、ときには海の中に入って魚を狙ったり、海辺近くの陸地で休んだりを繰り返したであろう。……このような動作の反復が、より合理的な移動方法としての直立二足歩行を促したことは十分に考えられる。</font></p>

<p>以上が、非常に大ざっぱであるが栗本氏の支持する「ヒトはいかにしてヒトになったか」の仮説であるわけだが……。<br />
この説がやがて「サバンナ説」を押しのけ、「種の起原」の定説になる日が来るかどうか、筆者にはよくわからない。<br />
　<br />
ちなみに「サバンナ説」については、筆者も当ウェブで連載中の歴史エッセイ<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2005/08/1_2.html"target=_blank>「夢の王国」</a>のなかで「進化のモデル」として引用させていただいている。<br />
まあ、筆者の場合、「ヒトとはどんな存在なのか？」を考える素材として「サバンナ説」を取り上げただけなので、栗本氏の指摘が正しければ、氏の支持する説を素材にして同じ「結論」を導くこともできる。</p>

<p>問題は、栗本氏が上記の新説を通して何を言いたかったのかということ。<br />
繰り返しになるが、氏は、ヒトの直立歩行への「進化」を非常に「中途半端」で、「進化と呼べるようなものではない」と位置づける。<br />
これに関してもいくつもの例を挙げているが、ここでは氏自らも体験した脳梗塞（血栓症）の話題とからめた箇所を抜粋してみよう。</p>

<p><font color=blue>やがて水が引いたあと、彼らは陸上に戻ることを選んだのだが、陸上で直立歩行をすることになったヒトは、……必然的に高血圧の危険を抱え込むことになった。<br />
水中では二足歩行していても水圧によって体重が支えられ、下肢まで下がってきた血を押し返す力があったため、浅瀬であっても高血圧の問題は起きなかったのである。</font></p>

<p><font color=blue>ヒトがそのまま水生生活を続けていれば、高血圧も血栓症も起きなかったであろう。血栓症の問題も、水中で生きるための進化をしたあとで再び陸上で生活することになったために、出血の危険性が生じて生まれたものである。<br />
つまり、水の中という環境に適応した「進化」は、陸上に戻れば環境への不適応、「退化」となったのだ。</font></p>

<p>このあたりの記述に至ると、氏の言いたいことの本質がハッキリ見えてくる。<br />
つまり、通常言われている「サルからヒトへの進化」は、じつは限られた条件下で適応を強いられた結果生じた、“非常に欠陥の多い体質変化”ようなものにすぎなかったということだろう。</p>

<p>この中途半端な、欠陥の多いヒトへの体質変化が、過ちの多い、他の生物や地球環境に無用な負荷をかける、人類の歴史を生み出すもとになった。<br />
要するに栗本氏の人間観は、「性悪説」に属していると言えるのかもしれない。</p>

<p><font color=blue>……この当時の記憶は深層の記憶となって、我々人類に残された。そして折に触れて、我々の精神を支配することとなる。<br />
それが生み出す情動に、ヒトは知識や理性では抵抗できない。それを昇華しようと言ったのはゴーダマ・ブッダ（釈迦）だったが、それは簡単なことではない。</font></p>

<p>ということはどういうことか？</p>

<p><font color=blue>身体の不備を補う「道具」と言語から始まり、民族、宗教、国家という「制度」はみな、ヒトが生きるための「パンツ」であった。組織、攻撃、拡大、建設を快感とすることも同じである。それを統合するのが、救済思想だった。</font></p>

<p><font color=blue>だが、市場社会という大制度を選び取ったことから、最終的には貨幣がその最上位にきてすべてを支配するようになった。……鈍感な我々が気づいていなかっただけで、敏感な者は早くから気づきそれを悪用すらしていた可能性があるが、18世紀後半以上の世界はすでにそういうことになっていた可能性（危険性？）がある。</font></p>

<p>この最後の箇所の指摘が、2のユダヤ人の話につながっていく。</p>

<p>これ以上詳しく触れていくときりがないので、そろそろ筆者の「感想」を言わせていただくと、正直な話、「栗本氏の指摘はするどく、まっとうなものではあるが、それがすべてではないな」という感じだろうか。<br />
氏の発想はやはり「性悪説」であり、人間の存在を「悪」ととらえる点で、キリスト教の原罪説と変わらない面があるからだ。</p>

<p>手前味噌で申し訳ないが、筆者は前述の「夢の王国」のなかで、「性善説も性悪説も、どちらも正しく、どちらも間違っている」と書いたことがある。<br />
どちらも正しく、どちらも間違っている。<br />
つまり、どちらに偏ってしまってもバランスが失われるということ。</p>

<p>別の言い方をすれば、サルからヒトへの「進化」が氏の提示したような形で生じたものであるにしても、それは「偶然」に起こったものなのだろうか、ということ。</p>

<p>「偶然」というのは一種の言葉遊びのようなもので、物事には必ず理由、意図と呼ぶべきものがあると、筆者は思っている。<br />
つまり、結果として見るならば、ヒトは不利な生存状況に追い込まれ、身体的にも退化を強いられることで、脳を特異に発達させることができた。<br />
特異に……と書いたが、それは「自意識」が芽生えたことを意味する。<br />
自らを客観視し、世界を知的に把握することのできる機能を、ヒトは「退化」することで手に入れることができたわけである。</p>

<p>それは「悪い」ことでもあるが、同時に「いい」ことでもある。<br />
繰り返すが、どちらに傾いてしまってもいけない。<br />
ただの自己肯定では、栗本氏の指摘する「負の側面」が見えてこない。しかし、「負」が本質であるとまで言ってしまうと、それはそれでバランスを失ってしまう……。</p>

<p>では、このバランスとは何だろうか？</p>

<p>それは、いまこうして世界を認識して、感じている中心に自分自身がいるということだ。<br />
世界がまずあって、そこに人類（あるいは自分）が生まれたわけではない。それが一番の錯覚……というのが筆者の感覚。</p>

<p>一見すると逆が真実であるように思える。しかし、そうではない。<br />
なぜか？　このように延々と語られている世界もまた、自分が存在しなければ「ない」のと同じであるからだ。<br />
「自分が存在しなくなった世界」「自分の存在していない世界」<br />
そんなものは、実際には「ない」ものだし、そういうものを想像することじたい、「自分」を前提にしている証拠でもある。</p>

<p>ということはどういうことか？</p>

<p>自分自身を「よい」と肯定できていれば、「これから先の世界はどうあるべきか？」など、「関係ない」ものになるということ。<br />
世界はどうあるべきか？　どうするべきか？<br />
つまり、「ヒトはどうすれば生きていけるか、あるいは生きていく価値があるか」<br />
……栗本氏も同書のなかで様々な提言をされているが、この点に関しては「答え」などというものはない。ないものを見つけようとするから、ひたすらに苦悩が生まれてしまう。それこそが悪しき脳のなせる業……。ちがうだろうか？</p>

<p>「関係ない」などというと「冷たい」「無関心」「自己中心」などと思われるかもしれないが、案外そういうものではない。<br />
たとえば筆者が「冷たいかどうか」は、またべつの問題ということ。笑。<br />
筆者から見れば、自分の手の及ばない範囲にあるものまで自己責任の範疇に加えてしまう感覚は、「脳の過剰な働き」にすぎないと思う。</p>

<p>これも手前味噌だが、筆者は過去に<a href="http://www.thunder-r.net/nouwokoete/top.html"target=_blank>「脳を超えてハラで生きる」</a>なんていうタイトルの本も書いている。<br />
ヒトは確かに欠陥が多く、「完成された存在」などではないが、だからといって「間違っている」のか？　そう見なしてしまうことは、脳の発想でしかないのではないか？<br />
その脳を超えてしまえば、違うものが見えてくる……。</p>

<p><font color=blue>それを昇華しようと言ったのはゴーダマ・ブッダ（釈迦）だったが、それは簡単なことではない。</font></p>

<p>そりゃあ、「人類全体」を見れば、簡単なことではないかもしれない。なにしろ身近な人の生き方ですら変えることは難しいし、そもそも変える必要などあるのだろうか？（変えようとするから、物事がややこしくなる）。<br />
この本来「ない」はずのものを人類レベルにまで広げてしまったら、問題は異様に複雑で難しいものになる。まあ、絶望的な気分になるのは仕方ない話だ。</p>

<p>しかし、筆者はそうはとらえない。本当に自分のことだけを考えるようにすれば、案外とあっさり突破口が見えてくると思っている。<br />
まあ、こんなことを言うと、栗本氏の発想の根本を否定してしまっているような具合になってしまうが、そんなことにこの話の論点があるわけではない。</p>

<p>なにしろ、筆者は氏から多くのことを学ばせていただいた。<br />
ただ、氏よりも後に生まれてきた人間として、よりバージョンアップした生命論、身体論を提示することが「恩返し」だという、勝手な思いをささやかだが持っている。そのため、少々辛口の「感想」を書かせていただいたというだけの話……。</p>

<p>今回の「完結編」も含め、“パンサル”シリーズも、ヒトという存在を理解する上で必読の書のひとつであるというのが、正直な感想。<br />
筆者は彼の著書を何度も読み返して、いまの身体論の土台をつくっている。<br />
これらの本を読んだからこそ、筆者は「このように」感じることができたわけである。</p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■9.11・衆議院総選挙の「その後」を予想する・2</title>
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<modified>2005-09-15T07:20:57Z</modified>
<issued>2005-09-14T13:58:44Z</issued>
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<created>2005-09-14T13:58:44Z</created>
<summary type="text/plain">
さて、次期首相となる人物は、こんな筆者でも指摘できている程度の国際情勢をきちんと認識できているかどうかが問われてくる。いま「政治的判断」として郵政民営化に賛成でも、すべてがなし崩しのまま「改革」を進めてしまえば、栗本（慎一郎）氏の危惧が進行する可能性もある。少なくとも状況の「あやうさ」が自覚できていれば、小泉流とはちがう器量が必要であることはわかるはずだが、果たして……。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>社会</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p>先日、<a href="http://www.tbs.co.jp/asazuba/"target=_blank>朝の「みのもんた」の番組</a>を見ていたら、早くも衆院選後の「ポスト小泉」のことが話題になっていた。<br />
ネットでちらちらと覗いてみたが、現時点で自民党の次期総裁候補（つまりは次期首相候補）になっているのは、福田康夫、麻生太郎、谷垣禎一、安倍晋三氏あたりのようだ。</p>

<p>9月13日の「産經新聞」によると、</p>

<p><font color=blue>首相は最近、テレビ番組でそれぞれの人物評を語っている。<br />
「（安倍氏は）国民の声をとらえて、応援に来てくれと多くの人が引きも切らない」<br />
「（麻生氏は）郵政、地方分権、さまざまな経験を積んで支えてくれた。十分、指導者としてやっていける人だ」<br />
「（福田氏は）私の官房長官として支えてくれて、バランス感覚も豊か」<br />
「（谷垣氏は）まじめで穏やか。しっかりと全体的に務めている」<br />
これからは“意中の人”は判別できない。</font></p>

<p>なのだそうだ。<br />
小泉氏の総裁任期が切れるのは、来年の9月。じつはまだ1年ほどの時間がある。<br />
意外と長い気がするが、次期首相の「器」の見極め期間になると考えればちょうどいいのかもしれない。今回は、外交問題に焦点をあてた前回の話をふまえて、今後の政局の推移を筆者なりにシミュレーションしてみよう。</p>

<p>まず、前回も話したように、小泉自民党の圧勝は従来の「親米路線」が継続・強化されたことを意味している。当然、次期総裁となる人物も、この路線を継承することが考えるの自然。おそらくそのうえで、ハード路線かソフト路線かという選択になるのだろう。<br />
「みのもんた」の番組でも、毎日新聞編集委員の岸井成格氏が、靖国参拝問題も含めたアジア（中国・韓国）外交を懸念したうえで、</p>

<p><font color=blue>「強硬派（ハード路線）の安倍さんでは摩擦が生じるので、（ソフト路線の）福田さんあたりを推す可能性もある」</font></p>

<p>といった意味のことを言っていた。<br />
十分考えられることではあるが、ここまで筆者が指摘してきたように、小泉首相の親米路線と靖国参拝は外交問題としてリンクしている側面がある（詳しくは、<a href="http://www.tanakanews.com/f0524japan.htm"target=_blank>国際情勢解説者・田中宇氏のコラム</a>が参考になる）。</p>

<p>つまり、日本が中国ではなくアメリカとの関係を重視している「意思表明」として、小泉氏は中国（あるいは韓国）が硬化せざるをえない靖国参拝を強行している面があるのではないかということ。<br />
となると、対中強硬派で知られる安倍氏が小泉政権を継承したほうが、外交レベルの混乱はないことにもなる。</p>

<p>一番いけないのは、アメリカにも配慮、アジアにも配慮という中途半端な、その意味での「国際協調路線」だということは、前回も書いた。<br />
そういう“二股”は、どちらの国とも「深い関係」になれない。<br />
独立国としての気概云々の問題と、現実的な外交問題は必ずしも結びつかない。安倍氏以外の誰が総裁になるにしても、中国や韓国になんらかの譲歩がないかぎり（アメリカも納得するような「大義名分」が生まれないかぎり）アジアの国際関係が改善されることは難しいのではないだろうか？</p>

<p>言い換えるなら、次期総理は「個人の信念として」靖国には参拝しないかもしれない。<br />
しかし、それに代わる「何か」によって中国に対して「NO」の意思表示を突きつける可能性があるということだ。<br />
中国は、経済躍進の側面ばかりが伝えられるが、冷静に見れば、12億人の規模で戦後の日本のたどった道を後追いしている側面がある。<br />
ということは、どういうことか？　すでに兆候が現れているが、公害問題、エネルギー問題、そしてバブル崩壊などの危機を内包しているということ。</p>

<p>成長しているものは、ひとつの摂理としてやがて停滞もするし、後退もする。<br />
しかし、それがあれだけの規模で展開されると、国そのものが内部崩壊、分裂する危険性もある。<br />
現に中国は、過去の歴史において、大帝国の出現の後に必ずと言っていいほど長期の分裂時代を経験している。<br />
歴史時間で見れば「すぐ」という話にはならないだろうが、賃金が安いといったレベルで中国進出している企業は、先々相当なリスクを負うことも想定しておくべきではないだろうか？</p>

<p>というわけで、前回も書いたように、同じ「アジアの一員だから」と必要以上に中国に肩入れすることは、政治的判断としても非常にあやういと筆者は思う。<br />
そして、中国に対してですらそうなのだから、アメリカとの関係悪化を覚悟してまで、対韓関係を改善させようというエネルギーは、いまの日本の政治家には希薄かもしれない。<br />
情勢が変われば別かもしれないが、いま韓国は反日だけでなく、反米も大きな世論になっているからだ（世論はある程度、国の主導のもとと考えられる）。</p>

<p>では、以上のアジア情勢をふまえたとしても、従来のようにアメリカとの関係を重視していれば、それで日本は安泰だろうか？<br />
じつはそうとも言えないことも、多くの人が指摘しているし、気づいてもいる。<br />
だから、この先の舵取りは誰がやっても難しい。相当なバランス感覚が要求される。首相になる人物の、リーダーとしての「器」が問われる大きな判断材料にもなってくるとも言えるわけだ。</p>

<p>まず第一に、よく指摘されていることだが、アメリカの国力は落ちてきている。<br />
世界の警察、世界一の軍事大国としてふるまうだけの気概、エネルギーは、この先どんどんと低落していくように思われる。<br />
要は、金がない。だから、たとえばいまの中国のようなイケイケの感覚をアメリカが持ち合わせているとは思えない。<br />
逆に、「自分たちだけがなぜ頑張らなければいけないんだ」という感情も、アメリカの為政者の中には当然芽生えていることになる。</p>

<p>となると、日本にもさらなる軍備（あるいは海外派兵）を要請すべきだという話になってくる。<br />
これはひとつの「圧力」として今後さらに現実味を帯びてくるはずだし、ご存じのように、これには憲法改正問題もからんでくる。<br />
日本の為政者の本音としては、軍事化は金がかかるし、実戦はアメリカにやってもらったほうがいいと、当然考えると思う。<br />
それが親米路線の最大のメリット（うま味）でもあるからだ。<br />
だから逆にアメリカが作った「平和憲法」をタテに、次期首相も海外派兵などをめぐって、アメリカと陰に陽にかけひきを続けることになると思う。</p>

<p>小泉氏は、このかけひきのなかでイラク戦争に自衛隊を派遣する決断をしたが、実際の戦闘には参加させていない。<br />
これは彼の力量と言えば力量だ。<br />
「平和」という意味では派兵しないほうがいいに決まっているが、アメリカの要求をつっぱねて（派兵を拒み）関係が悪化したら、逆に自前で国防をせざるをえなくなる。<br />
「平和」を求めながら、かえって「軍国主義化」が進んでしまう可能性もある。<br />
アメリカとの関係も改善し（アジアとの関係も重視し）、軍国化もやらないなどという共産党や社民党の主張は、この点において机上の空論に近い。</p>

<p>ただ、小泉氏の親米路線には、こうした外交・軍事問題に対処しえたとしても、よりグローバルな国際金融の問題をめぐって、非常にあやうい側面もひそんでいる。<br />
ここでは、かつて自民党の代議士として小泉氏のブレーンも務めたことがあるという、経済人類学者・栗本慎一郎氏の発言を紹介しよう。<br />
彼は、新刊<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4768468985/qid%3D1126750270/249-3355610-1456301"target=_blank>「パンツを脱いだサル」</a>（現代書館）のなかで、</p>

<p><font color=blue>日本でグローバルスタンダードという言葉がさかんに使われるようになったのは1998年ごろからのことで、2000年にはお題目としてさらに強化され、そして小泉政権に至ってまことに露骨な錦の御旗となった。</font></p>

<p>と語る。グローバル・スタンダードと言うと、ずいぶん響きのいい言葉だが、そこには裏がある。<br />
栗本氏の言葉にさらに耳を傾けよう。</p>

<p><font color=blue>繰り返すが、「グローバル・スタンダードにのっとれ」という主張は、「グローバル資本に乗っ取られろ」というのがその本意である。ただし、このグローバル・スタンダード化の陰にはユダヤ資金資本（＊）があるぞということは、すでにかなりの人が気づいているようで、もはや「陰」という言葉を使う必要がないくらい、明白なこととして指摘されていたりする。<br />
（＊経済人類学の用語。俗にいう「ユダヤ金融資本」のこと）</font></p>

<p>以上の点をふまえて、栗本氏は「ある意味で、それは小泉政権の陰影でもあるのだが、その背後にユダヤ資本があるということを忘れてはいけない」と結んでいる。</p>

<p>この種の話は、政治家の間でもある程度「常識」として認識されているようだ。<br />
たとえば、先の衆院選挙の期間中、造反組として新党日本に参加した小林興起氏も、記者会見などの場で、「小泉さんの郵政民営化の背後には、アメリカのバックアップがある」といった意味のことを暴露？していた。<br />
同様のことは、政見放送で共産党の志位和夫書記長も語っている（「郵政民営化は、アメリカをもうけさせるためのもの」云々）。</p>

<p>ここでいうアメリカのバックアップとは、すなわちアメリカの金融を牛耳っているユダヤ系財閥のバックアップを指している、</p>

<p>たとえば、ライブドアの堀江貴文氏が、なぜ小泉改革に突如「全面賛成」し、亀井氏への“刺客”として立候補したのか……。<br />
くだんの「フジテレビ乗っ取り」を振り返ればわかるが、彼もまた、ユダヤ系の金融資本（メディアでは外資という表現が使われているが）から相当額の融資（バックアップ）を受けていることとの関係がここに浮かび上がってくる。</p>

<p>彼は、「グローバル・スタンダードの申し子」のような側面があり、発言などを聞くかぎり、日本という国の内実が外国資本に乗っ取られようが「自分のやりたいことがやれればそれでいい」「みんなが幸せであれば関係ない」と考えている節がある。</p>

<p>また、小泉氏の郵政民営化にしても、彼の年来の持論であることは確かかもしれないが、アメリカ＝ユダヤ資本の利害と一致したからこそ、小泉政権の親米路線とシンクロするようにして推進された面があると筆者は思う。</p>

<p>要は、堀江氏や小泉氏が推進したがっているグローバル化がこの先どんな状況を生むのか、想像できるだけの感性が最低限必要であるということだ。<br />
先の栗本氏に言わせると、</p>

<p><font color=blue>小泉（とその背後）が権力の座に座り続けたなら、進めようとする「改革」の方向は予測できるだろう。郵政民営化が郵便のあれこれなどと関係なくて、200兆円になんなんとする郵便貯金の崩壊（市場への放出）を狙ったものであるように、最後は日銀の民営化（つまり米国の連邦準備制度化）までも行って、国際資金資本が牛耳りやすくする舞台を作ろうとするに決まっている。これは要するに、ユダヤ国際資金資本のために日本を使いやすくする「改革」にほかならない。</font></p>

<p>となる。この指摘を「いま流行の陰謀史観のたぐいか」というのは簡単だが、問題は氏が指摘しているように、小泉氏はこうした構造が「ありうる」ということをまったく自覚しないままに「改革」を推進していたであろう点だ。</p>

<p><font color=blue>最初から（小泉氏の）議論が単純すぎることが気になっていた。だから、いろいろ経済について教え、優秀な経済学者に「ご進講」もさせた。でも彼は、賛成や反対をするというよりもまったく反応できなかった。「（問題が何か）わかってないんじゃないの？」というのがある有名な学者の採点だった。</font></p>

<p>さて、次期首相となる人物は、こんな筆者でも指摘できている程度の国際情勢をきちんと認識できているかどうかが問われてくる。<br />
いま「政治的判断」として郵政民営化に賛成でも、すべてがなし崩しのまま「改革」を進めてしまえば、栗本氏の危惧が進行する可能性もある。</p>

<p>筆者が偉そうに言うことではないが、政治家としての「器量」の有無は、こうした複雑怪奇な情勢を受け止めたうえでの、絶妙なバランス感覚にあると思う。<br />
このバランス感覚をどこまで発揮できるか？<br />
少なくとも状況の「あやうさ」が自覚できていれば、小泉流とはちがう器量が必要であることはわかるはずだが、果たして……。</p>

<p>以上、メディアの伝えることとはやや異なる焦点で、今後も政局を見守っていきたいと思う。</p>

<p>＊栗本氏の新刊については、また機会を改めて「感想」を書きます。</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■超才？　明石散人「視えずの魚」を読んでみた</title>
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<modified>2005-09-10T06:53:26Z</modified>
<issued>2005-09-10T00:15:37Z</issued>
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<summary type="text/plain">
正直なところ小説（読み物）としては練りが足りないというか、「いまいち」だが、随所に明石ワールドはちりばめられている。そして強く思うのは、「いまいち」であろうがどうであろうが、こうして本になり最後まで読む人間がいる現実があるということ。それを知っていて、確信犯的に「思いのままに」書いたのがこの処女小説なのだと考えると、明石氏の「気配」も見えやすくなるかもしれない。あるいは、作品が表に出ること、人に評価されることの妙が見えてくる……。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>歴史</dc:subject>
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<![CDATA[<p>このサイトの中でも何度か取り上げたことのある明石散人氏の著作を、最近2冊ほど新たに読んでみた。<br />
歴史が好きな人の間では、知る人ぞ知る存在。筆者が<a href="http://www.thunder-r.net/kamininaru/archives/2004/09/post_6.html"target=_blank>「信長が本当に天才なのか？」という疑問</a>をハッキリ抱くようになったのも、思えば明石氏の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062630494/qid=1126312332/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-7223047-3043564"target=_blank>「二人の天魔王」</a>（講談社）を読んだのがきっかけだったろうか？　同書は、信長は決して独創的な人間ではなく、一時代前に「天魔王」と恐れられた足利６代将軍・義教をモデルにしていたという「仮説」が、豊富な資料解読によって浮かび上がってくる、非常にインパクトの強い1冊である。</p>

<p>その明石氏の処女小説が、今回読んだ<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-7223047-3043564"target=_blank>「視えずの魚」</a>（講談社）。<br />
まず、裏表紙のキャッチコピーがすごい。</p>

<p><font color=blue>「偶然の集積は瞬間的に奇跡として時間の先端に現象する」！　推理・歴史・官能・美学・哲学……。天下の超才・明石散人のすべてを鏤（ちりば）めた絢爛たる処女小説にして、絶無の神品。「全宇宙の外側の景色」から視た時間の先端の奇怪にして精緻きわまるコラージュ。<br />
これを読まずして明石散人は語れない！</font></p>

<p>本当にもう、あおりにあおってます。笑。<br />
とりあえず、このキャッチの冒頭にある「偶然の集積は〜」について本文でふれている箇所を、抜粋してみます（Web上でわかりやすく見せるため、一部段落などを変えて表記しています）。</p>

<p><br />
<font color=blue>時間の先端は自己の中に一つしか所有できない。未来から視れば、現在所有する自己の時間の先端は他の時間の先端と対立軸に存在することは明確だからだ。<br />
自己以外の時間の先端は未来時間が過去の景色を視る時にしか成立しない。いつも左へ曲がる道をふと右に曲がったところで、全てで辻褄は合い、何も変わらないのである。<br />
一方で、未来から視れば左の景色と右の景色の違いは明確なのだ。『どうしてあの時に限って右へ……』、世の中の現象はこれが同時多発的に起きている。だから奇妙なのだ。</font></p>

<p>なにやらわかりにくいと思うので、勝手に解説してみます。</p>

<p>時間の先端は自己の中に一つしか所有できない。<br />
<font color=red>（人は「いま」という一つの時間の中でしか生きられない、ということですね）。</font></p>

<p>自己以外の時間の先端は未来時間が過去の景色を視る時にしか成立しない。<br />
<font color=red>（でも、過去を振り返ったとき、じつは無数の選択肢があったことに気づく。これは「いま」という時間に当てはめてみると、じつは選択していない時間が同時に、並列的に存在しているという言い方になる）。</font></p>

<p>いつも左へ曲がる道をふと右に曲がったところで、全てで辻褄は合い、何も変わらないのである。<br />
<font color=red>（「いま」は一つしか選べないので、ふと別の選択をしたところで、その選択したものがその人にとっての「いま」になる。この原理は絶対に変えられない）。</font></p>

<p>一方で、未来から視れば左の景色と右の景色の違いは明確なのだ。『どうしてあの時に限って右へ……』、世の中の現象はこれが同時多発的に起きている。<br />
<font color=red>（「いま」が「過去」になったとき、人ははじめて自分の選択しなかった時間の存在を知ることができる。ふと選択したことの「ふと」の不思議さを感じたりする）。</font></p>

<p>だから奇妙なのだ。<br />
<font color=red>（そう。ただ、奇妙というのは不可解という意味ではない。不可解と思うのは、この仕組みが見えていないから。「ふと」の不思議さを感じたとき、人は奇妙という感覚を抱くことができる。そこに人生の玄妙さがある……）</font></p>

<p>ちょっとわかりにくいかな……。<br />
これだけではなにやら難しいことばっかり書いてあるように思われそうなので（半ばそうなのだが）、別のページから関連してそうな箇所を抜粋。</p>

<p><font color=blue>「いつだったか……、しのぶちゃん、人が何か確認する時って五つの要素があるんだけど知ってる？って。<br />
私は目で視えること。耳で聞くこと。体のどこかで触れること。それから何となくわかると言ったような直感。それに予言、と答えたら、笑いながら三つ目までは正しいけど、あとの二つは駄目だと言うの。<br />
私がどうしてって聞くと、あとの二つは同じものだ。それから直感に対する解釈も間違っている、と言ったわ。直感を支えるのは、何となくなんていうあやふやなものではなく確実な経験なんですって」</font></p>

<p><font color=blue>「あとの二つを何と言ったんです。明石さんの思考パターンを探る上で重要なキーワードになるかもしれません。是非とも知りたいですね」</font></p>

<p><font color=blue>「四つ目は記憶に基づく直感。五つ目は気配だというの」</font></p>

<p><font color=blue>「明石さんらしいな。直感はあやふやなものではなく、記憶に基づく帰納的推論というわけか。そしてその先に気配がある。なるほど一理あるな。それで先ほどしのぶさんは、記憶に基づく直感では気配の人明石散人は捕まらないと」</font></p>

<p><font color=blue>「そう言えば香月さんは、明石さんから気配の解釈を聞いたんですよね。何て言ったんでしょうか」</font></p>

<p><font color=blue>「それがね、大宇宙の外側の景色を視ることだって言うの。センセイには見えるんですって」</font></p>

<p>最後の“大宇宙の外側の景色”というのは、じつは筆者もわりと似た言葉を昔から使っているので興味深く感じた。<br />
で、以下は筆者の解釈だが……。</p>

<p>まず「宇宙」という言葉で、物理的（天文学的）な宇宙を思い浮かべてしまうと、とたんに抽象的な、雲をつかむような話になってしまう。<br />
人の意識の「広さ」は宇宙の「広さ」に重なる。<br />
だから、自分にとって一番身近な？「心」という言葉に置き換えてみる。</p>

<p>すると「大宇宙の外側」とは、「心の外」ということになる。<br />
「心」は生み出されたものだから、生み出した本体＝自己は、当然のことながら、「心の外」にある。<br />
つまり、心はこの世界のすべてではない、ということ。<br />
ということは、我々が認識している宇宙もまた、すべてではないということになる……。</p>

<p>あるいは、筆者の書いた2冊目の本のテーマをふまえるなら、それは<a href="http://www.thunder-r.net/nouwokoete/top.html"target=_blank>「脳を超える」</a>ということ。<br />
そこにもっと大事な本質がある。<br />
そういう感覚がつかめると「気配」の意味も見えてくる……。<br />
これもちょっと難しいかな？</p>

<p>あと、次のくだりもおもしろかった。ちょっと長めだがそのまま抜粋する。</p>

<p><font color=blue>遠矢に名前を呼ばれた麗奈は顔が少し青ざめている。さっきは自分の感情の赴くままに発言してしまったが、その後の状況を目の当たりにして自分の犯した失態に気づいたのだ。</font></p>

<p><font color=blue>今までの麗奈は自分の発言は自分で責任を取ればそれで良かった。周りも許したし、事実、何事も言いっぱなしで済んだのである。ところが、今の麗奈は失態の責任を自分ではどうにも取りようがない。</font></p>

<p><font color=blue>麗奈は男が遅れてきたことや傍若無人な態度に腹が立って思わず口走ったが、少し考えれば判ることなのだ。男は遅れてきても自分は許されるという前提で遅れてきている。男はどんな振る舞いをしようとそれも許されるという自分の枠組みを知っている。麗奈はそれを単なる傍若無人と見誤ったのだ。</font></p>

<p><font color=blue>麗奈の不安は更に大きくなっていく。遠矢企画は大手代理店のC・Jから全ての仕事を切られてしまう可能性さえある。</font></p>

<p><font color=blue>麗奈は「狼の群れにいる羊を恐れよ」という祖父の言葉を思い出していた。凶暴な狼は羊を捕らえて喰らう。にも拘らず、この恐ろしい狼の群れに一頭の羊が平然としている。何故、羊は狼を恐れない。何故、狼は羊を襲わない。答えは簡単である。実はこの羊は羊の皮を被った虎なのだ。狼はそれを知っている。だからそっとしておく。</font></p>

<p>このあとに続けて、「とにかく人は見てくれだけで人を判断しがちである。自分の拙い目筋で他人の力を推し量ろうとせず、最初はその人の周りを視るのだ」という。<br />
そして、「もし仮に世間様が認知している実力者が、一見大したことのない人に気を使っていれば、実はその人は見かけよりずっと力を持っている」と続ける。<br />
人生の機微を知っている人の考察だな、と思う。</p>

<p>正直なところ小説（読み物）としては練りが足りないというか、「いまいち」だが、以上のように随所に明石ワールドはちりばめられている。<br />
そして強く思うのは、「いまいち」であろうがどうであろうが、こうして本になり最後まで読む人間がいる現実があるということ。<br />
それを知っていて、確信犯的に「思いのままに」書いたのがこの処女小説なのだと考えると、明石氏の「気配」も見えやすくなるかもしれない。<br />
あるいは、作品が表に出ること、人に評価されることの妙が見えてくる……。</p>

<p>このあとに読んだ篠田監督との対談本（<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198921644/ref=pd_ecc_rvi_f/249-7223047-3043564"target=_blank>「日本史鑑定〜天皇と日本文化」</a>徳間文庫）については、別の機会にふれてみたいと思う。</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■9.11・衆議院総選挙の「その後」を予想する</title>
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<modified>2005-09-04T01:11:07Z</modified>
<issued>2005-09-02T23:54:48Z</issued>
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<created>2005-09-02T23:54:48Z</created>
<summary type="text/plain">
アジア寄りになればなるほど、アメリカとの距離は生まれる。ということは、野党の一部が忌避している軍隊を自前で編成して、国防に備える必要も出てくる。このへんのバランスは非常に難しい。ならばいっそのこと、深く考えずにアメリカにべったりくっついたほうが確実だという、小泉流の発想が生まれる。複雑なものより単純なもののほうがパワーが生まれる。野党はこのパワーを崩せないでいるし、こうした構造そのものが見えていないのではないかという節もある。</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>社会</dc:subject>
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<![CDATA[<p>前回に引き続き、間近に迫った衆議院選挙の話題を。<br />
「郵政民営化」を最大の焦点にすえる小泉自民党（および公明党）に対して、焦点はそれだけではないと反論する、岡田民主党をはじめとする野党。</p>

<p>筆者は、政策の中身を重視する「まじめで」「理論的な」岡田民主党では、良くも悪くも論点を単純化させ、構造を見えやすく国民に示した「頭のいい」小泉自民党に、なかなか勝つのは難しいといった趣旨のことを前回書いた。</p>

<p>「まじめ」な岡田氏から見れば、小泉総理は「いい加減」に映る。その印象は国民もある程度は共有しているけれども、「まじめ」な人間というのは、前任者がよほどの汚職でもやらないかぎりは表舞台には立てない面がある。</p>

<p>たとえば、古くは江戸時代、「賄賂政治」で知られた田沼意次のあとに「改革」を掲げて登場した松平定信。<br />
また、昭和で言えば、「ロッキード事件」で退陣した田中角栄のあとに内閣を組織した三木武夫。<br />
彼らの人物的な評価は別に、「クリーン」「清貧」というのは、庶民受けはするが、政治家としてのパワーは落ちる面がある。まして、今回の小泉自民党は、汚職問題が取りざたされているわけでもない。</p>

<p>余談だが、歴史的な評価を見ると、松平よりも彼に失脚させられた田沼のほうが、積極的な経済政策を推し進めた“改革派”として、近年再評価を受けている。<br />
また、同じ意味で「クリーン」な三木よりも、「犯罪者」である田中のほうが、後世の評価は高くなる可能性がある。<br />
歴史は、個人の好き嫌いで論じられるものではないからだ。</p>

<p>要は、「器」というものが、善悪を超えて歴史のありようを左右するということ。<br />
このへんのことは前回それなりに書いてきたので、今回はもう少し別の視野から「総選挙後」の争点について絞り込んでみよう。</p>

<p>小泉氏は、よく知られているように徹底的な「親米路線」をとってきた。<br />
これに対して岡田氏は、もっと幅広い国際協調のようなものを主張するかもしれないが、それを安易に押し進めるとかえっていばらの道にも進みかねない。<br />
現状の世界を見つめた場合、日本の有力なパートナーになりえる「器」を持っているのはアメリカしかいないからだ。<br />
筆者は別に親米派ではないが、小泉氏の外交路線は、その点の認識において非常に「リアリスティック」であると言うこともできる。</p>

<p>筆者が何度か取り上げたことのある<a href="http://www.tanakanews.com/f0524japan.htm"target=_blank>国際情勢解説者・田中宇氏の分析</a>によると、小泉氏が中国や韓国の批判も顧みず靖国参拝をやめないのは、歴史認識の問題というより、彼らと手を組まないことの、つまり「日本はアメリカとの関係を大事にしていますよ」ということの「意思表示」に他ならないという（言うまでもなく、アメリカに対しての意思表示にもなる）。</p>

<p>確かに、東アジアの協調を口にするのは簡単だ。そのほうがリベラルで、理性的な印象を与えるかもしれない。<br />
しかし、戦後60年にわたって築いてきたアメリカとの関係はなかなか強固だ。<br />
対米追従などと言われるが、アメリカと講和条約をした吉田茂などは、剛腹にも、アメリカは“お番犬様”、つまりは膨大な軍事費を肩代わりして日本の平和を保証してくれた“ありがたい存在”と位置づけていた面もある。<br />
良し悪しは別にして、持ちつ持たれつでやってきた“腐れ縁”的な関係なのである。</p>

<p>もちろんアメリカも、日本が軍事的に自分たちを「利用」して、経済繁栄してきた事実はさすがに認識しているだろう。<br />
“冷戦”もとうに終結したいま、いつまでもガードマンでい続ける必要はない。この先は憲法改正させて、これまでのような過剰な軍事的肩代わりを解消させようと、当然意図しているはずだ。<br />
日本の中にも対米追従をやめて、「普通の国」として自立しようと考える政治家は少なくない。そのため、憲法改正の議論も盛んになってきている。</p>

<p>アメリカとの関係を見直すということは、当然、軍事の問題とも密接に関わり合う。<br />
憲法9条をそのままにして、しかもアジアとの協調を図るという共産党や社民党の主張は、現実的にはかなりの理想論に見える。<br />
アジア寄りになればなるほど、アメリカとの距離は生まれる。ということは、彼らの忌避している軍隊を自前で編成して、国防に備える必要も出てくる。</p>

<p>このへんのバランスは非常に難しい。ならばいっそのこと、深く考えずにアメリカにべったりくっついたほうが確実だという、小泉流の発想が生まれる。<br />
複雑なものより単純なもののほうがパワーが生まれる。<br />
野党はこのパワーを崩せないでいるし、こうした構造そのものが見えていないのではないかという節もある。<br />
実際、どうなのだろう？　テレビを見ていても、こうした質問を誰もしないので、なかなか問題が浮き彫りにならない気がするが……。</p>

<p>いずれにせよ、国がどのような政策を選択しようが、日本はどこかの国と手を組み、協調していく必要はある。<br />
しかし、アメリカから東アジアの協調路線に鞍替えするのは、繰り返しになるが、現状ではあまりに冒険であると筆者は思う。<br />
覚悟しての冒険なら乗ることもできるが、その覚悟が見えてこない。<br />
アメリカともアジアともうまくやっていきますという程度の言い方では、観念論をかざしているようにしか映らない。<br />
（単純化の小泉氏に勝つには、別の意味での単純化が必要だが、彼らは「物事はそんなに単純ではない」という当たり前のことしか、結局口にしていない。道理と戦略というものを混同していないだろうか？）</p>

<p>前述の田中氏によれば、中国も韓国も、本音レベルでは日本との協調を望んでいるという。<br />
昨今の歴史問題に目をくらまされている感があるが、地理的にも近く、経済力のある日本ともっと親密な関係になれたほうがいいと思うのは、（少なくとも為政者レベルに立てば）きわめて現実的な感情であるとも言える。<br />
ただ、日本に従属するわけにはいかないし、イニシアチブを握られたくないという思いがあるから、ストレートに話が進まないというだけの話。</p>

<p>加えて、肝心の日本は（日本の政治家は）、そこまで中国や韓国を信頼はできない（そこまでの器量はない）と思っている。<br />
そして、それもまた現実的な判断であると筆者も思う。<br />
いくら経済発展しているといっても、現在の中国は不確定要素の多すぎる。アメリカにももちろん問題は多いが、国としての安定度、信頼度を考えたら、正直、同じ土俵に乗せて両国を比較するには無理があるように思える。</p>

<p>たとえば今回の総選挙で民主党が躍進して、単独政権が生まれたとしよう（現実的には考えられるのは、躍進あたりまでだろうが）。<br />
「岡田政権」は、小泉氏の親米路線（対米追従）を批判してきた以上、アメリカとは距離を置き、その分アジア寄りの外交を展開することが求められる。<br />
具体的には、靖国参拝をやめ、中国や韓国のメンツを立てることで、両国との緊張関係も緩和されていく可能性はある。<br />
しかし、中韓と協調し、東アジア（あるいはアジア）に経済の主軸を置くということは、繰り返しになるが、「アメリカにも、アジアにも」ということではない。</p>

<p>言ってみれば、いままでつきあってきた彼女はそのままで、新しい彼女ともつきあうというようなもので、へたをすれば、両者から見捨てられる可能性もある。<br />
少なくとも、アジアとの協調を考えるのなら、アメリカを敵に回す可能性をも想定しておく必要がある。<br />
となれば、先にふれたように、憲法改正もいま以上に現実味を帯びてきて、憲法9条を改正しなければならない状況も出てくるかもしれない。</p>

<p>というわけで、岡田民主党に変わるということは、我々が思っている以上に劇的な変化を伴うということだ。<br />
当たり前の話だがよほどのリーダーシップがなければ、アメリカとの友好関係がいたずらに崩れ、中国や韓国に政治的に利用され……、おそらく小泉自民党以上の「失策」をやらかす可能性が十分にある。<br />
繰り返すが、大事なのは政策の中身ではないということだ。理論が先行している感のある民主党は、その意味でまだ国民に信頼されていない。<br />
いわば、そこが最大のアキレス腱になっている。</p>

<p>逆に言うならば、民主党が理論先行型なのは、野党に政権奪取の経験がほとんどないからでもある。<br />
国政に対して実務経験がなければ、頭でっかちになるのも仕方ない。<br />
その意味では、民主党に政権政党としての経験を積んでもらうことも、日本としては必要な選択と言えるかもしれない。<br />
そうさせてもいいかなと思わせる要素が少しでもあれば、それが追い風になるわけだが……。</p>

<p>日本は確かに「戦後以来の大きな曲がり角」に来ていると、筆者も思う。<br />
この曲がり角は、世界的な曲がり角にもリンクしているし、おそらくすべての人が大きな「変化」の渦に巻き込まれるだろう。<br />
いま求められているのは、ありきたりの言い方になってしまうが、自分自身の「本質を見る目」を養うこと。</p>

<p>そのためには、目の前に展開されている現象を題材にするのも悪くない。<br />
今回の総選挙をそうした視点で捉えることができれば、「誰が（どこが）勝つか」以上に興味深いことが見えてくる。<br />
おそらくメディアは投票率を関心度に結びつけて報道するだろうが、「投票するかどうか」も含めて、自分の目を使って真剣に判断したほうが自分自身のためになる。</p>

<p>小泉自民党が勝った場合、ポスト小泉は、現状では安倍晋三氏あたりだろうか？<br />
誰がなるにせよ（岡田氏も含めて）、おそらくアメリカとアジアの間での微妙な舵取りが強いられるだろう。<br />
そのなかで自身の「器」を磨けるような政治家が現れるかどうか？　そのあたりが今後の興味の焦点になってくるかもしれない。</p>]]>
</content>
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<title>■9.11・衆議院総選挙を早くも予想する。</title>
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<modified>2005-09-02T23:55:26Z</modified>
<issued>2005-08-14T10:56:20Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/nitijo-kankaku/18.195</id>
<created>2005-08-14T10:56:20Z</created>
<summary type="text/plain">
人は人を、そんな細部ではなく、もっと大まかな「雰囲気」で判断する。それを曖昧だ、いい加減だと言ってしまったら、世の中は見えなくなる。もちろん、人も理解できない。なぜならその雰囲気のことを、人は「器」と呼んでいるからだ。民主党の岡田さんは、話を聞いていると、正しい政策をわかりやすく説けば、国民は理解してくれると思っている節が感じられる。でも、国民が求めているのは、「正しい政策」ではない。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>社会</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p>郵政民営化法案の否決に伴う、衆議院総選挙が近くなってきました。ぼくにはいろいろ面白いものが見えているけど……、まあ今回は、<font color=red>普通に考えたら小泉さんの勝ちだと思う。</font></p>

<p>郵政民営化が本当に必要な改革なのか、国民の多くはよくわかっていない。<br />
その点の不備を民主党や、自民の反対勢力は突いているわけだけど、<font color=blue>それって正論以上のものではない</font>わけで、では彼らが代わりに政権を取って<font color=red>「本当の改革」</font>がやれるかというと……、やれるかもしれないが、何の保証もない。</p>

<p>そうなると、8割り方話の進んでいる小泉自民党のほうが、<font color=red>「何かが変わるだろう」という期待感</font>を抱かせる。<br />
繰り返すが、それが正しいのか正しくないのか、そういう話ではない。そんなジャッジはじつは国民にはできない。<br />
<font color=blue>大事なのは、理屈ではなく、感覚なのである。</font><br />
偉そうに言えば、政治家はなによりそれを理解しないと駄目だと思う。</p>

<p>たとえば、こんなふうな意味でだ。<br />
ぼくは編集者の仕事をしているから、「いい雑誌」を作ることはできる。そのセンスでもって人や世の中を見渡して、何が「いい」か自分なりの評価も出せる。しかし、<font color=red>その評価は理論的というより、感覚的なものだ。</font>もっとわかりやすく言えば、専門的なものではない。それをしたいなら、もっと本腰を入れて、とりあえず政治評論家か政治ジャーナリストあたりになるしかないだろう。</p>

<p>つまり、郵政民営化が正しいかどうかの判断を、<font color=blue>「部外者」</font>のぼくがしはじめたらおかしなことになるということ。<br />
人は人を、そんな細部ではなく、<font color=red>もっと大まかな「雰囲気」で判断する。</font>それを曖昧だ、いい加減だと言ってしまったら、世の中は見えなくなる。もちろん、人も理解できない。<br />
<font color=blue>なぜならその雰囲気のことを、人は「器」と呼んでいるからだ。</font></p>

<p>民主党の岡田さんは、話を聞いていると、正しい政策をわかりやすく説けば、国民は理解してくれると思っている節が感じられる。<br />
<font color=red>でも、国民が求めているのは、「正しい政策」ではない。</font>人としての安心感、信頼感を抱かせるだけの<font color=blue>「器の大きさ」</font>である。なまじ頭のいい人は、そんな器なんていう目の見えないものは信じない。まやかしだと思ってしまう。</p>

<p>現に岡田さんは<font color=red>小泉さんの人気をまやかしだ</font>と思っているだろう。<br />
しかし、小泉さんが曲がりなりに4年間も首相でいられたのは、<font color=blue>現状の日本で彼を上回る「器」を持った人間が現れなかったからだ。</font><br />
それを政策で勝とうとしても駄目だ。<br />
正論をいくら訴えようが、それだけでは負ける。</p>

<p>歴史を俯瞰すれば、小泉さんを凌駕するくらいの「器」を持った人物は、いくらでもいただろう。<br />
しかしいまは、<font color=red>「器なんていう曖昧なものは信頼できない。大事なのはデータだ。科学的な分析だ」</font>と、まだまだそんな価値観がまかり通っている。<br />
器を持った人間が表舞台に現れにくい時代が続いている。</p>

<p>というわけで今回の選挙、それなりに接戦になっても、ちょっと民主党が勝つとは、ぼくには思えない。<br />
あるいは仮に小泉さんが負けても、彼は自分の主張を貫いての敗北なので、<font color=red>器はあまり傷つかない。</font>政治的に浮かぶ瀬はいくらでもある。<br />
この点では頭のいい人だな、と思う。<br />
同じYKKの一人、<font color=blue>数年前に「反乱」に失敗した加藤紘一氏</font>とはそこが違う。</p>

<p>数年前の加藤が失脚して、今回の小泉が生き残って……、その意味では、<font color=red>日本も少しずつ「前進」している</font>と言えるかもしれない。<br />
「器」を持った人間、つまりは本来の<font color=blue>政治家らしい政治家</font>の現れやすい土壌は、少しずつ整いつつあるということ。<br />
今回、選挙に勝利して、郵政民営化が実現したとしても、小泉さんは政権に一区切りつけるだろうから、<font color=blue>問題はポスト小泉。</font>どちらかというと、焦点はそこになるような気がしてくる。</p>

<p>我こそはと思っている政治家がいたら、やはり<font color=red>「国民が最も期待しているものは何か？」感じ取るセンス</font>こそ大事にしてほしい。<br />
繰り返すが、政策ではない……。政策は官僚やブレーンが考えるものだ。優秀な人間を選ぶという目も、「器」の領域に属している。<br />
ここを勘違いしていたら、ポストがめぐってきてもおそらく長期政権は築けない。<br />
その意味では、<font color=blue>仮に民主党が勝利しても、多分現状ではうまくいかない（理屈どおりにいかない）だろう。</font><br />
まあ、うまくいかないという現実を我々の前に示すことで新たな変化が促せる側面もあるので、それはそれで意味があるわけだけど。</p>

<p>というわけで、今回の選挙。<br />
それなりに状況を観察して、ぼくなりに物を見る目を養う糧にさせてもらいます。笑。</p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■“お墓参り”に行きそびれてる一日本人の見た靖国神社問題</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/06/a.html" />
<modified>2005-07-01T02:50:01Z</modified>
<issued>2005-06-07T15:50:16Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/nitijo-kankaku/18.155</id>
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<summary type="text/plain">
　しかし、本当に向き合うというのなら、竹村健一氏の言うように、日本の文化的な特性をきちんと理解し、それをはっきりと伝えることが筋。そうも書いた。その点を曖昧にしたまま、実質的には何の意味もない分祀を行ったところで、それは“本気の行為”ではない。少なくとも、中国人にも韓国人にも本気さは伝わらない。だからまたしばらくしたら、「反省心が足りない。謝罪しろ」と言ってくるはずだ。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>社会</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　先日、テレビを見ていたら<a href="http://www.fujitv.co.jp/b_hp/2001/"target=_blank>「報道2001」</a>という朝の政治討論番組で、<font color=red>靖国神社の「A級戦犯合祀」問題</font>を取り上げていた。<br />
　要は、戦争被害を受けた中国や韓国の国民感情を考え、「A級戦犯」は別の神社に分祀したらどうか、無宗教の追悼施設を別に建てたらどうかといった“代案”が、与野党問わず、一部の政治家などから提案されている。それについてゲストがそれぞれの考えを発言していたわけだが……。</p>

<p>　筆者は番組を見ながら、以前、仲のいい友人が<font color=blue>「面倒なトラブルが起こるくらいなら、首相が参拝をやめるなり、分祀するなりすればいいじゃないか」</font>と言っていたのを思い出した。<br />
　経済問題とか、もっと現実的に大事なことがあるんじゃないか、それが妨げられるなら、べつにこだわる必要もないのではないかといった論調だったと思う。</p>

<p>　参拝をやめるということは、要するに、<font color=red>仏教で言えば先祖のお墓参りをやめる</font>ということ。<br />
　そう言えば自分自身、もうかなり長い間、お墓参りをしていない。<br />
　もちろん、ほめられたことではない。なんとか機会を作って、お線香の一つでもあげないとマズいのではとたまに思ったりもする。<br />
　これと同じに考えれば、靖国神社には戦争で亡くなった霊が（加害者・被害者の隔てなく）祀られているわけだから、一国の首相が参拝に訪れるのは当然。<br />
　むしろ参拝しないほうが不義理ということになる。<br />
　これは思想の問題を云々する以前の話だと思うのだが、いかがだろうか？<br />
　<br />
　反論がありそうなので、分祀の問題と併せて、さらに次のように考えてみよう。<br />
　たとえば、筆者の家は父親が分家だったので、両親は一生懸命働いて、もうずいぶん昔に檀家の寺にお墓をつくった。そこに父方の祖父母ら身内のお骨が納められている。もしこのお墓を急にどこかに移せと言われたらどうだろう？</p>

<p>　これだけではあまりピンと来ないかもしれないので、（あまりいい例えではないが）この墓に身内の“犯罪者”が眠っているとイメージしてほしい。<br />
　それを隣のお墓の所有者が突き止めて、<font color=blue>「犯罪者の隣では自分の先祖は成仏できない。どこかに移してほしい」</font>と訴えてきたら、すんなりハイと言えるだろうか？<br />
　隣の墓の親族が不愉快な気持ちになるのもわからないでもない。しかし、仮にその故人がそう思われても仕方のない犯罪を冒していたとしても、もはや“仏”になっている。現実問題、どこへ移せばいいのかという話にもなる。<br />
　むしろ、血のつながった自分たちが守ってあげなければかわいそうだ、成仏できないと考えるのは、普通にまっとうな感覚。これはあちこちで指摘されていることではあるが、日本人としては、ごくごく自然な宗教感情ということになるだろう。</p>

<p>　ちなみに、いまどこへ移せばいいのかという話が出たが、神道の場合、お墓に死者の骨を納める仏教とちがって、姿形の見えない霊を祀っている。<br />
　番組の中で竹村氏も言っていたが、<font color=red>分祀と言っても、靖国神社から別の場所へ「A級戦犯の霊」を移動させられるわけではない。</font>本体の霊（本霊）は、靖国に残る。分祀された霊は、あくまで分霊（わけみたま）なのである。<br />
　形だけ分祀を行っても、本質的に見れば何の意味もないということだ。それよりも、こうした日本の文化の特性を他国の人間にももっと理解してもらうべきだ。それを伝える努力が必要だといったことを、竹村氏は主張していた。</p>

<p>　確かにそれが正論であり、筋が通っていると、筆者も思う。<br />
　しかし同時に、<font color=blue>そんな日本の文化がどうだとか、おそらく中国や韓国の政治家も、一般庶民も関心はないのだろう</font>とも思ってしまった。<br />
　中韓の政治家は、もともと国内政治の不満のはけ口を“反日教育”“反日報道”という形で、いわば一つの政略として日本に向けさせている側面があるようだ。<br />
　よく指摘されるように、仮に小泉首相が参拝をやめても、あるいは「A級戦犯」の分祀や無宗教の追悼施設の建設が実現したとしても、正直、それで彼らの反日政策がなくなるとは思えない。自国民の被害感情すらも政治の道具に使って国際関係で優位に立とうという、一面でシビアな政治感覚がそこに見いだせるからだ。　</p>

<p>　では、どうしたらいいのか？　筆者が見た番組のように「出口なき靖国問題」とでも形容するしかないことなのか？<br />
　ここで、先ほどの筆者の友人の話を思い出してほしい。彼がなぜ、“事なかれ主義”と言ってもいいような発言をしたかというと、要は、彼の中には<font color=blue>「お墓参りなんてどっちでもいいじゃないか」</font>という感覚があるからだろう。<br />
　こう言うだけでは怒られそうなので、もう少し勝手に代弁すると、<font color=blue>「お墓参りをしないことをいいとは思っていない。ただ、そんな休みはなかなか取れない。仕事を優先しなければ生活だってできなくなる。だから仕方ないじゃないか」</font>ということになるのかもしれない。<br />
　筆者自身、お墓参りに行かない（行けない）のは同じような理由だと言える。その意味では、とても非難できる立場にはない。</p>

<p>　しかし、これを国の問題と結びつけてみたらどうだろうか？<br />
　「A級戦犯」の分祀や無宗教の慰霊施設の建立を主張する人は、「お墓参り」よりも大事なもの、もっと優先すべきものがあるということになる。<br />
　そう言われて、<font color=blue>「侵略戦争の被害を受けた中国や韓国の人たちの被害感情を和らげることが優先だ」</font>と答えるならば、それは竹村氏ではないが、<font color=red>「日本人なんだからもっと日本の文化についても理解したら？」</font>という話になってくる。<br />
　お墓に眠るのが“犯罪者”であるというなら、なおさらちゃんと供養してあげなければならない。隣のお墓の所有者にもまずその点を話し、理解してもらう必要がある。<br />
　<font color=red>そもそも、どこかへ移すだの、無宗教だの、ホント祟りが怖くないのだろうか？</font>　自分が霊だったらないがしろにされたと思う。だからきっと主張した人間に祟るだろう（霊が存在するかどうかの問題ではなく、気持ちの問題について言っている）。</p>

<p>　あるいはこれとは別に、筆者の友人もそうなのかもしれないが、中国との経済関係を重視している人たちもいる。彼ら（政治家や財界人）は、一つの政治的な譲歩として、分祀や慰霊施設を考えているということだろう。<br />
　これは、<font color=blue>「会社が忙しいからお墓参りに行けない」という人の発想と、ほぼ同じ意味合い</font>に捉えることができる。<br />
　しかし、その事情はよくわかるにしても、正当化まではできないはずだ。<br />
　いくら経済的な問題（生活がかかっている）とはいえ、「お墓参り」をしないのが不義理であることは一種の社会常識。それを自覚した上で、本当にそうした主張しているのかという話になってくるからだ（結局、普段の筆者と同じように、「お墓参り」のことなんてすっかり忘れているのではないだろうか？）</p>

<p>　さて、被害者への配慮、経済問題優先、このどちらにも「自覚」の欠けている点があることが見えてきた。<br />
　しかし筆者は、ここまで書いてきたことは問題の核心ではない、日中関係、日韓関係がこじれているのはもっと別の理由があるのではないか、と感じている。<br />
　先ほど分祀や慰霊施設の建設を、一種の「事なかれ主義」であると筆者は書いた。<br />
　もちろん、そんなことはない、きちんと中国や韓国との関係に向き合った上での結論だと反論する人がいることも知っている。<br />
　しかし、本当に向き合うというのなら、繰り返すが、竹村氏の言うように日本の文化的な特性をきちんと理解し、それをはっきりと伝えることが筋。そうも書いた。<br />
　その点を曖昧にしたまま、実質的には何の意味もない分祀を行ったところで、それは“本気の行為”ではない。<font color=blue>少なくとも、中国人にも韓国人にも本気さは伝わらない。だからまたしばらくしたら、「反省心が足りない。謝罪しろ」と言ってくるはずだ。</font><br />
　（追悼施設にしても、無宗教という以上、結局のところタテマエ的なモニュメントにしかならない。なにしろ霊そのものは靖国神社に留まっている。百年経って残っているのは果たしてどちらなのかと、どうして発想できないのだろう？）。</p>

<p>　話しが少しそれてしまったが、では、日中・日韓関係が本気の産物でないとすると、今の日本にとって（日本の政治家にとって）本気になれるものとは何だろうか？<br />
　察しのいい人はすぐ気づいたかもしれないが、それは<font color=blue>アメリカとの関係</font>である。<br />
　先のゴールデンウイークの休暇中に、日本の主要な政治家のほとんどがアメリカに「挨拶回り」に行ったことを覚えているだろうか？<br />
　中国に行った政治家はわずか、韓国に至っては誰か行ったのかもしれないが、ニュースにすら報道されなかったと記憶している。<br />
　<font color=red>経済面などを見れば、確かに中国は日本にとって重要な国だ。韓国の存在も無視はできまい。しかし、本命ではないのだ。</red><br />
　言い換えるなら、アメリカとの良好な関係が維持していけさえすれば日本は安泰だ、何とかなるといった認識が大勢を占めている。</font></p>

<p>　この点について、<a href="http://www.tanakanews.com/"target=_blank>国際情勢解説者・田中宇氏</a>がネット上で発表しているコラムの中で次のように語っている。<br />
　筆者が示唆を得た箇所を、いくつか引用させていただこう。</p>

<p>　<font color=blue>中国や韓国は「日本は再び覇権をとりたいだろうから、ドイツ式に、日本政府が過去の反省を堅持することを条件にしよう」と考えている。「アジア共同体」の中国語訳を「東亜共栄圏」にしている新聞社もある。ところが、日本の側は「もう永久にアメリカの傘下で生きていくのだから覇権など要らない。大東亜共栄圏にも関心はない。過去の反省も、もう60年やったのだから、このぐらいでいいはずだ」と考えている。 </font></p>

<p>　<font color=blue>日本政府にとっては、アメリカとの関係が最重要であり、アメリカの世界支配が永久に続くことが望ましい。アメリカの支配力が弱まると、その傘下にある日本の力も相対的に弱くなってしまう。中国や韓国からの「アメリカに頼らないアジア共同体を作りましょう」という誘いに乗ることなど、とんでもない話である。小泉首相が靖国神社に参拝するのは、中韓からの誘いを断るための方策である。</font> <br />
（以上、<a href="http://www.tanakanews.com/f0524japan.htm"target=_blank>「短かった日中対話の春」</a>より）</p>

<p>　どうだろうか？　これを対米追従で情けない、アメリカの傘下に入っているも同然と嘆く人もいるかもしれないが、必ずしもそうとは言えない。なぜか？<br />
　筆者は、この世界を東洋と西洋に分けた場合、<font color=red>東洋の最先端に日本があり、西洋の最先端にアメリカがある、</font>と書いたことがある。<br />
　近代以降の世界において、この両国は急速に発展を遂げ、古い文明圏（中国やヨーロッパ）から脱却し、ついには全面戦争まで体験した。<br />
　戦後は戦勝国と敗戦国という立場にありながら密接な同盟を結び、コインの裏表のような関係で西側諸国のイニシアチブを取ってきた。<br />
　大ざっぱに言えば<font color=red>西側の軍事はアメリカ、そして経済は日米で担ってきた</font>（その意味では、アメリカ側の負担のほうが大きかったことがわかる。日本は、「対米追従」などと言われながら、政治的にはずいぶんうまく立ち回ってきたとも言える。この点については、後日、堤尭氏の<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797671114/250-7866726-7306604"target=_blank>「昭和の三傑」</a>などを下敷きにひもといてみたいと思う）。<br />
　その後、東西冷戦が終わり、西側諸国という概念も形骸化したが、小泉首相とブッシュ大統領の関係を見るまでもなく、いまだ強固な日米関係は続いている。</p>

<p>　田中氏は、様々な国際情勢を分析しながら、<font color=blue>「アメリカは衰退期に向かっているが、日本の政治家は、小泉首相も含めそれに気づいていない」</font>といった趣旨の発言をしている。衰退は言い過ぎだという人も、イラクへの強引な宣戦やその後の統治の泥沼化などを見るにつけ、<font color=blue>アメリカの国際的な影響力の低下</font>を感じ取っているのではないだろうか。<br />
　しかし、それでもなお、政治家たちが対米関係を重視するのは（あるいは、アメリカの衰退に気づかない、気づいていたとしても、つい目をつむってしまうのは）、それくらい関係が深いということだ。<br />
　批判するのは簡単だが、戦後の政治の流れそのものを断ち切るくらいの強い覚悟がなければ、「対米追従」（それを一面で利用した経済力強化）の姿勢は変わらない。</p>

<p>　言い換えるならば、<font color=red>中国問題、韓国問題に本気で向き合うには、いま、アメリカに注ぎ込んでいるエネルギーの多くを東アジアに転換しなければならない。</font><br />
　田中氏は、中国や韓国の政治家たちも、本音のレベルではそれを望んでいる、と分析する。筆者が見る限りでも、経済的な結びつきがここまで形成された以上、自国のメンツを損なわない形で友好関係が結べたほうが得策だと、そのくらいのことは国のトップとして考えているだろうなと思う。日本が本気で関係を切り結ばないから、国民感情を利用し、“反日”という別のカードを切っているということになる。　</p>

<p>　長くなってきたので、ここで一つ結論めいたことを書いてこの稿を締めくくることにしよう。<br />
　こじれにこじれている日中関係、日韓関係の背後には、日本とアメリカの戦後以来の蜜月的な同盟関係があると書いた。<br />
　ということは、日米関係を見直さない限り、中韓との関係も変わらない。<br />
　では、日米関係を見直すとはどういうことか？　ここには<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/05/post_34.html"target=_blank>憲法改正問題</a>もつながってくる。憲法を変え、自衛隊の位置づけを明確にし、日本が軍事的に自立ない限り、アメリカとの同盟関係を崩すことは難しいからだ。中韓は「日本の軍国主義化」を非難すると思うかもしれないが、深読みするなら、それすらも彼らの戦略かもしれないということもある。<br />
　（日本が世界の他の国々と同様、当たり前に軍隊の存在する「普通の国」になるべきなのか？　という点についてはまた稿を改めて論じることにしよう）。</p>

<p>　いずれにせよ、こじれた中韓関係も、日本の政策の根幹が変わればあっさりと解消されてしまう可能性があるということ（政治的な意味でだが）。<br />
　<font color=red>ただ、それを可能にするには、大前提として、それを可能にするだけの強力なリーダーシップを持った政治家が、日本に現れる必要がある。</font><br />
　つまりは、そんな政治家が現れるかどうかということに、ここまでの問題はすべて集約されていく面がある。<br />
　筆者はいまの日本の社会状況を考えれば、それもありうると考えている。そのことについても、<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/05/post_35.html"target=_blank>以前</a>ふれたことがある。<br />
　<font color=blue>変化は、多くの人の気づかないところで、水面下で進行している。結局のところ、それをどれくらい感じ取れるかが、世の中を見る大きな基準になってくる。</font><br />
　<br />
　感じ取るには自分自身の感覚を養うしかないと、最後の最後は、いつもの身体論に結論が落ち着くことになりそうだ。</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>■「サムシンググレート」と「最先端科学」の話</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/05/post_36.html" />
<modified>2005-08-03T10:41:41Z</modified>
<issued>2005-05-29T04:02:56Z</issued>
<id>tag:www.thunder-r.net,2005:/nitijo-kankaku/18.147</id>
<created>2005-05-29T04:02:56Z</created>
<summary type="text/plain">
　科学というものが知性の集積によって成り立つものであるならば、やはりそれは感情器官によって成り立つ宗教とは分けて捉えなければならない。「融合」や「接点」はもちろんあるだろうが、どちらもその管轄するエリアを理解しなければ、本来の働きを失ってしまう。村上氏のような「神」をも視野に入れた科学者が表に現れてきたことで、科学もますますバランス感覚が問われるようになってきたということだろう。
</summary>
<author>
<name>長沼敬憲</name>
<url>http://www.thunder-r.net</url>
<email>info@thunder-r.net</email>
</author>
<dc:subject>身体論</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/">

<![CDATA[<p>　立花隆氏のコラムにふれた<a href="http://www.thunder-r.net/nitijo-kankaku/archives/2005/05/post_35.html"target=_blank>前回</a>、過去に「軍事的成功」と「経済的成功」を体験した日本人は、もうこれらの成功にはあまり関心がない、<font color=red>これからは「本物志向の時代」に突入している、</font>と書いた。<br />
　言葉的には使い古されているので、筆者の使っているニュアンスは該当のページで確かめてほしいが、本物志向と言えば、やはり真っ先に浮かぶのが“経営コンサルタントの神様”、<a href="http://www.funaiyukio.com/"target=_blank>船井幸雄氏</a>だ。<br />
　氏は本物の定義を、</p>

<p>　<font color=blue>1、付き合うものを害さない<br />
　2、付き合うものを良くする＝蘇生化させ、調和させる<br />
　3、高品質で安全、そして安心できる<br />
　4、経済的である</font></p>

<p>　としている（「本物時代の到来」ビジネス社）。<br />
　そして、上記のような意味での「本物」が、日本でも次々と登場しはじめていると、実例を挙げながら様々な著書で紹介している。</p>

<p>　前回のコラムを書きながら、自分自身、あれこれ言葉を思い浮かべたのだが、「軍国主義」と「経済大国」の次の時代ということで言えば「本物志向」だな、であるなら、やはり船井氏のいう「本物」の定義でさしつかえないな、妥当だなと結論。<br />
　まあ、「本物」の話についてはいずれの機会に書くとして、じつは船井氏の話題を出したのは、今回取り上げるテーマとも少なからずシンクロしてくるからだ。</p>

<p>　今回のテーマは、先日図書館で借りた<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198611564/250-6549093-8458641"target=_blank>「脳＋心＋遺伝子VSサムシンググレート」</a>という本の、いわば読書感想。<br />
　これは、<font color=red>養老孟司（解剖学）、村上和雄（遺伝子研究）、茂木健一郎（脳科学）</font>といった、一級レベルの科学者によるシンポジウムの内容が、比較的平易な内容でまとめられたもの。<br />
　本のタイトルにある<font color=blue>“サムシンググレート”</font>という言葉は、上記の村上氏の命名したものだが、経済コンサルタントである船井氏も「この世界とは何か？」を定義する時によく用いている。<br />
　言ってみれば、<font color=blue>船井氏→サムシンググレート→村上氏</font>という流れで、この本にたどりついたわけである。<br />
　まずは村上氏の発言から、サムシンググレートについて語ってもらおう。</p>

<p>　<font color=blue>大腸菌につきましては一九九七年、すべての遺伝子暗号が解読できました。ということは、どんな部品を作るということもわかっているわけですし、どんなエネルギーが必要かということもわかっているということです。</font></p>

<p>　にもかかわらず、「大腸菌様がいったいなんで生きておられるのか、基本的なことがわからない。だから作れないわけです」と、氏は言う。</p>

<p>　<font color=blue>四つの化学の文字（＊）で生物すべての設計図が書かれている。ヒトの場合はだいたい三〇億ペアといわれています。……三〇億ペアの情報というのは、ふつうの文字でいうと大百科事典が一〇〇〇冊分くらいの量になります。その情報が……一グラムの二〇〇億分の一という大きさのところに書いてあります。（この大きさは）一粒のお米を世界の人口全部に割り与えたくらい小さなところなのです。つまりお米一つのの六〇億分の一のところに書いてあるということであります。</font><br />
　＊＝A（アデニン）・T（チミン）・C（シトシン）・G（グアニン）の４つの塩基配列のこと。なお、文中のカッコは筆者。以下も。</p>

<p>　なるほど、この例え方はわかりやすい。すごい話だ。さらに続けると、</p>

<p>　<font color=blue>しかも……一分一秒休みなく働いているのです。……わたしどもが働かせているのではなくて、これまた自然に働いているわけです。</font></p>

<p>　<font color=blue>最近は……遺伝子も間違うんだということがわかってまいりました。遺伝子が間違いますと、多くの場合は直し屋がすぐに出てまいりまして、それを直していきます。……あの狭い狭い空間に遺伝子の暗号を書き込んで、それを間違いなく、間違いがあっても直しながら働いている力とか働きというものを、どう考えたらいいのか。もし偶然にできたとしたら、これはどうなっているのか。</font></p>

<p>　この問いかけに対して、村上氏は「進化論で有名な」<font color=red>木村資生氏</font>（故人）の「カビ一匹生まれる確率は一億円の宝くじが一〇〇万回連続で当たるようなこと」という言葉を引用して、「これはありえない」、カビ一匹でそうなのだから、何十兆という細胞からできている人間はどうなのか？　とさらに問いかける。</p>

<p>　<font color=blue>おそらくこれは遺伝子が支配していると思われます。そうすると、その遺伝子を支配しているものは何か、ということになりますが、これがよくわからないのであります。</font></p>

<p>　引用が長くなってしまったが、村上氏はこうした前提に立ち、「わたしはそういうものはよくわからないのですが、“サムシンググレート”と呼んでおります」「今の現代科学・現代医学では理解できないサムシング」「しかしそれはたいへんグレートでたいへん偉大なもの。そういうものがあっても不思議ではないと思うようになりました」と語っている。</p>

<p>　要は、神とも呼びうる偉大な何か（サムシンググレート）に対して、世界的にも実績のある最先端の遺伝子学者が言及しはじめているわけである。<br />
　<br />
　さて、この村上氏に対して、解剖学の第一人者であのベストセラー<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106100037/250-6549093-8458641"target=_blank>「バカの壁」</a>の著者でもある養老孟司氏は、どう答えているか。両者のやりとりが興味深い。</p>

<p>　<font color=blue>村上　……確かに人間の脳がそういうものを作ったというふうに見られるとも思いますけど、そういうすばらしい脳をつくったのが、ただ単に偶然の積み重ねだけで説明できるのかどうか。……<br />
　養老　わたしはそんな大それた質問はしないという立場なのですが。……今の質問をもっと端的にわたしが捉えた形で言うと、そういうものがある（サムシンググレートが存在する）と思うかという質問ではないですか。実在するか否かは、やはり根本的にわれわれの脳が持っている重要な性質で、何が実在であるか、何が真実であるかを、あるいは何が興味の対象であるかをわれわれの脳が決めています。……</font></p>

<p>　ややわかりにくい言い方かもしれないが、養老氏はこれをふまえて、自分が一番興味があるのは「昆虫」で、仕事で長い間携わってきたのは「人間の死体をいじること」であると続ける。</p>

<p>　<font color=blue>この二つともごくふつうの方にははっきり言って、存在していません。つまり……、死体を考えて自分の行動が変わる、虫がいるから自分の行動が変わる、という人はいない。(しかし自分はそれをを）じっと見て、何をしているんだろうなと考えて、それで感情移入して見ています。だからそれは、すでに世の中の見方が違うわけです。それで神様がいる人も当然いるだろうと思いますし、そういう意味で言えば、わたしはそういうものがいるとか、いないとかについて考えない立場です。</font></p>

<p>　またしても引用が長くなってしまったが、おわかりだろうか？<br />
　養老氏は、いわゆる唯脳論の立場から、「サムシンググレート（神様？）に関心を持つ」ということ自体も、その人の脳によって規定されている、そして自分はそのようには規定されていないから、そこに興味は持たないといったことを語っているのだと思う。<br />
　要するに、どちらが正しいという「答え」を言っているのではなく、村上氏とは、視点そのものが違っているということだ。もちろん、違っているというだけで、村上氏が間違っているとは言っていない。ただ、問わないと言っている。<br />
　誤解のないように付け加えるならば、どちらが正しいという「答え」もない代わりに、「答えがない」ということが「答え」ということでもない、ということだ。<br />
　なにやら禅問答みたいだが、筆者の感想を言えば、まず、非常にバランス感覚の取れた本だなと感じた（書籍化を前提に行ったシンポジウムが内容のベースになっているようなので、人選そのもののバランスが良かったということになる）</p>

<p>　これは、両論併記しているからバランスがいいと言っているわけではない。<br />
　意見を幅広く紹介したところで、それだけでバランスがとれるものではないからだ。その点を勘違いしている人が多いのではないだろうか？<br />
　たとえば筆者自身は、村上氏が指摘するような「サムシンググレート」をこの世界の生成発展の源として想定してもさしつかえはないと感じている。<br />
　しかし、「サムシンググレート」がほぼ宗教のいう「神」と同義ということになると、ひとつの危険な側面があることも留意する必要が当然出てくる。たとえば、同じ話の流れの中で、茂木氏が養老氏に向かって次のように問うた。</p>

<p>　<font color=blue>日本の科学というのは、真理でさえ人間間の相対的なコミュニケーションの結果で生まれてくるものだと考える節がある。近代科学の爆発的な発展は功罪半ばするにしても、やはり「サムシンググレート」と言うにせよ、何と言うにせよ、絶対的な真理とか、絶対者を想定することなしに近代科学の発展はなかったと思うのですけど。</font></p>

<p>　つまり、いまの日本の科学は（科学だけに限らないかもしれないが）、基準になるものが失われている。すべての価値が相対化され、探求の核が失われたことで、発展が止まったという、科学の行き詰まりを危惧する指摘だろう。<br />
　これもまた非常に微妙な指摘で、養老氏の発言とは、コインの裏表のような側面がある。<br />
　すなわち、こちらが強調されすぎてしまうと、<font color=blue>今度は科学の世界に「サムシンググレート」という神が降り立ってしまう。</font>養老氏はそれをもちゃんと相対化すべきだと言っているし、茂木氏はその相対化が科学の行き詰まりをもたらすのではと危惧する。</p>

<p>　繰り返すが、非常にバランス感覚のすぐれた本だ。受け取り方によっては、それこそこの問題に「答え」なんてないという相対主義に陥る人もいるかもしれないが、<font color=blue>相対主義とバランス感覚は決定的に異なる</font>ことにも気づく必要がある。<br />
　この本の構成者<a href="http://kaoru.to/"target=_blank>（竹内薫氏）</a>は、その点を理解しているのではないかと思う。<br />
　バランス感覚と呼ばれるものは、やじろべえでも思い浮かべればわかるが、中心に支点というものが必ずある。だから左右に揺れることも、逆に揺れずにバランスが取れていることも、わかる。</p>

<p>　筆者の見たところでは、養老氏もこのバランスは持っていて、その感覚から言葉を発しているのだと思う。それが氏にとっての「立場」ということであって、<font color=blue>“神の領域に踏み込まない保守的な学者”といった評価には、必ずしもつながらない。</font><br />
　もちろんその一方で、村上氏のような「立場」の学者の口からハッキリと「サムシンググレートを想定せざるを得ない」という発言が出たのは、<font color=blue>科学のあり方が変わろうとしている一つのシンボル</font>であるとも筆者は思う。ただし、取り扱い注意なのだが。<br />
　科学というものが知性の集積によって成り立つものであるならば、やはりそれは感情器官によって成り立つ宗教とは分けて捉えなければならない。<br />
　「融合」すべき「接点」はもちろんあるだろうが、それぞれがその管轄するエリアを理解しなければ、本来の働きを失ってしまう。<br />
　<font color=red>村上氏のような「神」をも視野に入れた科学者が表に現れてきたことで、科学もますますバランス感覚が問われるようになってきたということだろう。</font></p>

<p>　<font color=blue>一つの考えを安易に真理であると信じ込むのでもなく、かといって相対主義にも陥らない視点＝バランス感覚が求められているということ。</font><br />
　機会があれば、この微妙な感覚を要する問題に有効な回答を提出した<font color=red>「現象学」</font>という現代哲学についても触れる必要があるだろう。<br />
　現象学の基本が理解できれば、今回の科学者のトークの機微というものも、もっとはっきりとつかみとれるようになるはずだ。</p>]]>
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