心理学者のユングの唱えた「共時性」(シンクロニシティイ)という言葉が、最近では、比較的多くの場面で用いられているようだ。
ここではあまり深入りしないが、ごく大雑把に言ってしまえば、世界はひとつ、ということである。日本は開国したことで世界とつながったかのように説かれているが、実際にはヨーロッパも中国も、日本もアメリカも……、あらゆる国、あらゆる地域の歴史は、直接関わり合うことはなくとも、互いがその存在を知らなくとも、すべて連動しあって展開されていた、もともとつながり合っていたと言えるわけである。
ただ、そうした視点を踏まえた上でも、やはり近代以降(日本で言えば、明治以降)の展開は、歴史の中の大きな節目であったことは疑いないだろう。
この時期から世界は、目に見えてわかる形で「共時性」を体験するようになった。情報の網の目が、未踏の高山や未開の民族の集落に至るまで、ほとんどくまなく張りめぐらされ、いまでは、あらゆる事象の関係性が誰の目にも鮮明に映りはじめている。我々は、すべてを知りうる「神」の立場を手に入れようとしているのである。
もちろん、こうした未曾有とも言える情勢の中で、日本もまた大きく変わりつつある。
本書では、それを武道とスポーツとの対比の中で見つめてきたわけだが、それらが概念自体、大きく異なっていることが理解できただろうか? 日本(武道)は、世界(スポーツ)を取り込むことによって、いま、あたらしい何かに生まれ変わろうとしている。しかし、逆に世界が日本を取り込もうとしているかというと……。
日本人は、おそらく自らも自覚していないほどの決意と努力によって、江戸時代に結実した「日本人」以上の「日本人」となる、その課題を乗り越えようとしている。他者に変化を強要し、おのれの伝統は守りつづけるという、ヨーロッパお決まりの自己保存本能は、これから先、彼らの進化を妨げる要因ともなってくるだろう。
一方、このような日本人の変化は、筆者の分析では、1970年(昭和45年)前後を境に、ひとつの転機を迎えたように思われる。
じつは、筆者もこの時期(昭和44年)に生まれた人間だが、非常に象徴的なことに、筆者の生年は、アポロ11号が月面着陸した年と重なっている。つまり、「進歩」を信じた人類の、その地球をも飛び出さんというばかりの飛躍がピークを迎え、同時にそれがその後の「下降」への分岐点となっていた。世相史の語るところのオイルショックやバブルの崩壊などは、下降期を象徴する事象であったと言えるわけである。
また、校内暴力、家庭内暴力にはじまり、いじめや宗教がらみの陰湿な事件が、これでもかというほどに巻き起こりはじめたのも、周知のことだろう。これは日本のアメリカ化(西欧化の最終形態とも言える)のひとつの結果に他ならないわけだが、すでに近代化の時点で種が蒔かれてしまっている以上、今後もこうした事件は続いていく。つまり戦後とは、良くも悪くも、蒔いた種が発芽し、花開いた時期である。その種の尽きるときまで、もうしばらくは混乱が繰り返されると言うしかない。
ただ、我々はすべてがコインの裏表であるということも、同時に知っている。
より正確に言うと、物事は「球体」を見るような感覚で捉えると、すべてを見ることができるようになる。すなわち、ボールを手にとって見つめてみればわかるように、肉眼で捉えているのは正面のみである。しかし、ボールをボールとして認識するためには、肉眼では捉えられない裏や側面など、あらゆる角度を想像する能力が必要である。そして人は、ごくふつうに、ボールをそのようにして認識している。
つまり、我々は一瞬にして、すべてを感知できる能力を持っている。それは鍛えたり、養ったりする以前に、人が人であるかぎり、そのような能力でもって、この世界を見つめている証である。ただ、それを自覚できるかどうかが、問題なのである。
そして、そうした視点から70年以降の世相を見ていくと、「最悪」な事件の裏に、「最高」とも言える現象があらわれはじめていることがわかる。一言であらわすなら、「天才」がごくふつうに登場しはじめたのもこの時期以降であり、そのシンボリックな存在として、イチローや中田英寿らが存在するわけである。
この70年前後を境とした世代交代は、あまりに劇的で、かなり変化もハッキリしているので、もうすこしわかりやすく説明してみたいと思う。
たとえばサッカー界では、70年以前に生まれたヒーローとして、カズ(三浦知良)や中山雅史、あるいはラモス瑠偉、呂比須ワグナーらがいる。彼らと、70年以後のヒーローである中田や中村俊輔、小野伸二らを比べれば、違いは一目瞭然だろう。
あるいは、プロ野球界で言えば、桑田真澄や清原和博らと、イチロー、松井秀喜、高橋由伸らを比べることで、おなじ違いが見えてくる。桑田や清原はカズたちより多少年若いが、精神的な分類としては、明らかに「旧世代」に属しているわけである。
さらに格闘技・プロレス界で言うと、前田日明、高田延彦、船木誠勝らの世代と、桜庭和志、あるいは修斗という格闘技団体の桜井速人、宇野薫らも、やはり違う。船木と桜庭は年代は同じだが(ともに、分岐となる44年の生まれである)、16歳でデビューした船木と23歳でデビューした桜庭とでは、世代が分かれてしまっている。一般になじみのうすい桜井や宇野も、前時代には見られないタイプである。
また、もうひとつ触れておくなら、戦後の動乱期に不世出の天才歌手、美空ひばりがあらわれ、昭和の終焉とともに世を去っていったように、新時代の到来を告げる、まさにミレニアムの手前というタイミングで、宇多田ヒカルが現われている。彼女もまた時代の申し子であり、新世代の面々とおなじ感覚を有しているわけである。
こうした新旧の世代の違いは、ズバリ「根性」の質の違いと言っていいだろう。
カズや中山、桑田、清原、前田、高田……、彼らに共通するのは燃えるような激しい意思と、怒り、執念、おそらくその原型は、あの劇画「巨人の星」にある。しかし、中田やイチロー、桜庭らの「根性」は、それよりひとつ「進化」している。本書で再三用いてきた「柔よく剛を制する」という語を体現するような、ある種の脱力感を見ることができる。「根性」がないわけでなく、それに「脱力」が加わっているのである。
この脱力感は、コインの裏表ということで言えば、現代社会特有の、覇気を喪失した若者たちの似て非なるそれ(無力感)と、根を同じにしているものでもある。戦後になって社会の規制が大幅にほどかれ、言論や表現の自由が実現したことにより、自らの可能性を飛躍させる自由人と、反対に自己喪失・自己崩壊の道へと進む若者と、両極端の道が開かれた。その区切りとなったのが、70年前後という時期だったわけである。
そういう意味では、いまの日本社会には、いつ犯罪をしでかしてもおかしくない若者たちが潜在している一方で、中田やイチローらに代表される、シッカリとした自意識を持った、新時代・脱力型の若者が、あちこちに潜在していることを示しているだろう(アメリカの構造と多少似ているが、アメリカは「脱力」という段階を経ていない)。
ただ、彼らの多くは、まだその実力を発揮できるポジションにはいない。スポーツや芸能の世界では、実力さえあれば10代のころから脚光を浴びることになるが、ごく一般の社会人であれば、まだまだ「平社員」の立場にある。こころある者は、おそらく自らの実力を磨きながら、淡々とした気持ちで日常を送っているはずだ。いたずらに自己主張して、まわりの調和を乱すことを、彼らはよしとはしないのである。
つまり、新時代の若者の特徴は、「根性」を全面に押し出す、ある意味で不器用な旧世代と異なり(その象徴が、団塊の世代であったとも言える)、余計なイデオロギーや価値観の影響が少ないため、力がスッと抜けており、人間関係も比較的うまく、上司のウケなども決して悪くはない。だからストライキなどはもう流行らないし、むしろ年配者たちと協調し、やりたいことをやっていこうというしたたかさがある。
こうした彼らが、実社会の中で責任ある地位に就くのは、おそらく30後半から40を過ぎてからだろう。いまが25歳として、早くて10年後、西暦で言えば2010年のころから花が開きはじめる。スーツを着た中田やイチローが、会社の中で淡々と、かつ効果的に、「キラーパス」や「振り子打法」をキメているのが、このころである(時代の加速度を考えれば、もう少し低年齢化する可能性もあるだろうが)。
つまり、スポーツや芸能は時代を映し出す鏡ではあるが、実社会との間には、時間的なズレが存在する。あるいは、その世代の若者が世の中を直接動かすような経済人、政治家になるためには、さらなる時差が必要になる。早くて40代、ふつうに見積もると50代、60代が、国の要人たちの活躍期である。その実力があったとしても、政治や経済の世界ならば、20代は、まだまだ「下働き」できるかどうかの年齢なのである。
おそらく2010年という節目で考えれば、ちょうど政治・経済の実権を握っているのは、団塊の世代の人々が中心であるだろう。世代的に狭間にいる筆者は、新時代の若者たちと団塊の世代とを、ちょうどおなじ視線で見ることのできる立場にあるが、おなじ日本人なのにこうも気質が違うのかと感じることがしばしばある。
言葉は悪いが、団塊の世代には頭の固い人が比較的多く見受けられ、台頭してくる新世代に対して、少なからず抵抗を示すものと思われる。つまり、そこで一悶着ありうるわけだが、団塊以降の世代は、カズや中山らの中田に対する態度を見てもわかるとおり、あたらしい才能を受け入れる感性が芽生えている。彼らの世代が、若い世代を抜擢していくことで、日本のシステムは内側から変容していくことになるだろう。世にいう「構造改革」は、この頃になってようやく実現化してくるはずである。
そして、こうした世代交代を経ていく過程で、さまざまな混乱があり、後退しているとも思える事象もあるだろうが、やがてその混乱が終息していった先の日本には、アメリカに代わる巨大で新しい「ハード大国」が生まれている可能性がある。アメリカと日本は、これもコインの裏表の関係にあり、ヨーロッパの先端にアメリカが、アジアの先端に日本がいると考えればいい。そして、アメリカ型の文明社会が終わるとき、その欠点を乗り越えた日本型の文明が注目を集めるようになる。
つまり、オールオアナッシングの「アメリカンドリーム」から、勝ち負けを肯定した上で、すべてを生かし切ろうとする「ジャパニーズドリーム」が、この世界の行き詰まりを打開するニュー・サクセス・ストーリーとして、次第に市場を獲得することになるだろう。もちろん、それに対する抵抗や反発もかなり具現化してくるが、最後は日本流の「和の精神」が、その曖昧さを克服した形でうまく活用されるはずである。
たとえば、その先駆的な一例として、すでに社会的な認知が進みつつある、立ち技系総合格闘技「K-1」の成功を挙げることができるだろう。
「K-1」の生みの親である、正道会館の石井和義館長の手法は、明らかに「ジャパニーズドリーム」を体現している。つまり、彼の中には「K-1」で金儲けをしようなどという「ハラ黒い」発想はどこにもない。もちろんビジネスとしての成功は大前提であるはずだが、それは「K-1」というスポーツを世界中に広めるための手段であり、極論してしまえば、彼はお金などどうでもいいと思っているはずである。
戦っている選手たちからすれば、ドン・キング型のプロモーターに対しては対戦相手以上の警戒感を持たざるをえないが、石井館長のようなタイプには、おそらく一選手と興行主という関係以上の信頼感を抱くだろう。契約でがんがらじめのアメリカ社会が、不自由な訴訟大国となって久しいと言われるが、「K-1」では契約以前の信頼関係によって、石井氏と選手、そしてファンとが結びついている。関わっている者すべてが、心地よい体験を得られる状況にあるのだから、これは特筆すべき成功だろう。
もはや21世紀には、あの偉大なモハメド・アリは生まれえないが、アリのように負のモチベーションを持たなくとも、おのれの能力を最大限に引き出しうる、武道の達人にも似た「英雄」たちが、次々と現われるはずだ。差別と戦う、不幸な生い立ちをバネにする、自分をイジメていた奴らを見返す……、ことこれからの日本では、こうしたモチベーションとは異なる、もっと自然なモチベーションによって、人はおのれの人生を選択するようになる。中田、イチロー、桜庭のように、ふつうに生まれてふつうに育った若者たちが、ふつうにトップになる時代が来ているのである。
おそらく政治は、そうした変化の現象のいちばん後尾において、象徴となる人物が満を持して輩出されることによって、変わるべくして変わることになるだろう。いまはその時期にはない。見えないところで、「準備」がなされているはずだが……。
スポーツに欠けているものを、もっとも色濃く受け継いでいるのが、武道である。
スポーツ自体が悪いのではなく、スポーツがスポーツ以上のものに進化するために必要な発想、必要な身体観が、武道という体系の中に眠っている。誇るべき伝統を持っているヨーロッパ人も、その末裔たるアメリカ人も、DNAに染みついた「弱肉強食」の感覚を自覚し、克服しないかぎり、20世紀型の「戦争の代替としてのスポーツ」は、現実の戦争とともに果てしなく続くことになる。しかし、もはや決定的な戦争が許されない状況の中で、そのやり方は限界に来ているといえるだろう。
この点、日本史の生んだひとつの作品である武道は、日本史の展開と同様、外部の価値観と混じり合うことによって、新しい何かを作りだす運命を持っている。柔道の国際化はその先駆的な一展開であったが、これから目覚めた人たちが多く現われてくることによって、武道を主体とした融合化も、ますます見られるようになってくる。自己認識力の欠けた当の日本人が気づかぬうちに、融合は水面下で進んでいくだろう。日本の未来は、多くの人が思っている以上に、「可能性」に満ちているのである。
……スポーツは武道である。その答えは、すでにもう出されている。あとはハラをすえ、力を抜き、世界をありのままに見つめよう。そして、自分たちが、いまこの時代に生きていることの意味を噛みしめ、自らも融合の只中に飛び込んでいく。それができるだけの実力を、あなたもわたしも、すでに持っているのである。