はじめに
なんとこれは、筆者が大学時代のときの卒業論文です。
なぜこんなものをいまごろ公表したのか……、ひとつはこの当時、ある精神的な変化がきっかけで、いまの筆者の発想のベースが形成されたことに関係しています。
卒論がどうというより、ちょうどその変化の時期にひとつのまとまった文章を書く機会に恵まれたということが大きかったわけですが……。
いま読み返してみても、筆者の発想のベースは当時から何も変更されていないことに気づかされます。
その意味で、筆者の「原点」であり「初心」にあたる「作品」ではないかと思ったりするのです。
序章・エコロジーの「中心」は? (1)
第1節・エコロジーと自己
昨今はエコロジー(生態学)のブームである。我々は世界をひとつの壮大な循環系として捉えられるようになってきている。しかし我々の生活そのものが、その循環の中に組み込まれているという意識は薄いのではないだろうか。
つまり、我々の多くは、自然というものを都市とは切り離して考えていることだろう。アフリカの大草原や太平洋上にはエコロジーが働いていると意識できる。農村の田圃の中の微生物たちの働きにもそれを感じることは出来るだろう。しかしそれはあくまでも“ここ”とは別の世界の概念ではないだろうか。エコロジーがいくら大切なものだとしても、“極身近な問題”だとは感じにくいのではないだろうか。
序章・エコロジーの「中心」は? (2)
第2節 本論の展開〜“自然回帰”と「自然農法」
“自然回帰”とは、そもそも今日のエコロジー問題を見ていけば、必然的に導き出されるコトバだと言うことが出来るだろう。なぜなら、生態系の循環が人間的な原因によって円滑に進まなくなったところに、今日のエコロジー問題が見出せるからである。その循環の“詰まり”を元の自然な状態に戻していく、それがここで言う“自然回帰”というコトバの純粋な意味である。
本論ではまず、エコロジー問題が非常に見えやすいという利点から、「農業」を題材にしてこの“自然回帰”とは何か、ということを探っていくつもりである。そして、そこから導き出された“自然回帰”の原則を、これまで述べてきた我々自身の“環境問題”へと還元していくことで、ひとつの具体的な方向性を提示してみようと考えている。
第1章・自然農法とは何か(1)
第1節 自然農法と有機農法
そもそも“自然農法”は従来の常識を通して見ると、非常に不思議な農法である。我々は“自然回帰の農業”として、いわゆる「有機農法」と呼ばれるものを知っているわけだが、自然農法についてはほとんど知られてはいない。有機農法の一種か、その亜流のようなものだろうと思うのではないだろうか。
しかしエコロジー問題について言及する場合、序章で触れたが、有機農法(あるいは有機農業)というコトバはあまりに曖昧ではないだろうか。何に対して“有機農法”というのか、その部分の共通認識が非常に曖昧なのである。言ってしまえば、“自然回帰”のイメージさえあれば“有機農法”に分類出来てしまうのが現状であるだろう。
つまり、有機農法と呼ばれる農法も個々の内容はまちまちである。一流から五流まで、他のジャンルと同様いろいろなレベルのものがひしめいている。もちろん、商売として有機農業というレッテルを用いるケースもあることだろう。しかしそのような分子を差し引いても、必ずしも同一方向にベクトルが伸びているとは言い難いのではないだろうか。
要するに、繰り返しになるが、何に対して“有機農法”なのか。有機肥料を用いていればいいのか、農薬を使わなければいいのか、機械は用いていけないのか、それともいいのか、それらの基準は(当たり前のことだが)そのコトバを用いる農家に一任されている。あるいは公にその基準を設けるにしても、我々のイメージの範疇にあればよいという感じである。そうした我々のイメージがどこまで正確だと言えるだろうか。有機農法というコトバではそのあたりが非常に見えにくいのである。
第1章・自然農法とは何か(2)
第2節 自然農法の四大原則
まず、1「不耕起」についてである。
そもそも「百姓をするということは、田畑を鋤鍬で耕すことであると言ってもさしつかえない」(春秋社「無3・自然農法」)ものである。
鋤鍬で耕さなくとも、トラクターを使うなりして、とにかく耕さないことには農作業は始まらないことになっている。
しかしエコロジーの観点から見れば、人間がわざわざ耕さなくても、「土はみずから生き、みずから耕してくれる」(同上)はずのものであるだろう。
これは綺麗事を言っているのではなく、ただ原則について話しているのである。たしかに健康な土地では地中の微生物やミミズなどが耕起の役割を果たしているということは、よく語られている事柄でもある。しかしそれだけで耕起が勤まるとは我々は普通考えない。だったら世話はないと思うわけである。この点について、少し長くなるが、「不耕起」を実践している福岡氏のコトバを引用してみることにしよう。
第1章・自然農法とは何か(3)
2の「無肥料」についても、「不耕起」の場合と同様のことが言えるはずである。もっとも、いわゆる化学肥料の害自体についてはこれもまた、多々語られてきていることであるだろう。
つまり、「ふつう畑の土には一億匹程度の微生物、かび、バクテリア、酵母、藻類などが棲んでいる。土は死物どころか、生物の塊とも言える。これらの微生物はなんの理由もなく存在しているのではない。それぞれの理由があって生き、争闘し、共生し、そしてまた正しい流転を続けている」(「無3・自然農法」)、そのような土の上に一握りの肥料でもふりまくことが、「どんなに自然界に影響しているか」ということが語られてきているわけである。いわゆる有機農業の立場もこの化学肥料有害論に立脚したものと言うことができるだろう。
第1章・自然農法とは何か(4)
3の「無除草」についても、やはり原理は同じである。自然農法ではまず、「雑草もまた必要である」というエコロジーの立場を取るのである。
「作物と雑草を区別して見る人間の考察の第一歩が、無除草か除草かの根本的な別れ道となるのである。地中において各種各様の微生物が、相争闘し、相共棲して生存しているように、地上においても、各種、各様の草木が共存、共栄しているのが自然の姿である。自然の姿を破壊して、多くの植物が共存している中から特殊な植物を摘出して作物と名づけ、ほかのものを雑草として排除していくことが、本当に正しいことであろうか。」 (「無3・自然農法」)
そもそも除草作業は一般に、「百姓の最大の苦労の種」であり、「しなくてもすむならばこんな楽なことはない」と言われているものである(同上)。しかし自然農法の原則に立てば、そのように苦労して除いていた雑草にもまた、存在価値があったと言えるわけである。
「草は生えるべくして生えている。雑草も発生する理由があるということは、自然の中では、何かに役立っているのです。」(「自然農法・わら一本の革命」)
第1章・自然農法とは何か(5)
さて、四原則の最後は、4の「無農薬」についてである。農薬には一般に殺虫剤、殺菌剤、除草剤などがあるわけだが、こうした薬剤の散布が自然の生態系を破壊しているという事実もまた、有機農業等の立場からさかんに指摘されていることであるだろう。事実、それらが農業そのものを疲弊させるだけではなく、農作物や人体にまで悪影響があることは論を待たないことである。
こうした農薬の問題について自然農法(あるいはエコロジー)の立場から見るならば、まず第一に、「農薬を使ってまで殺さなければならないような“害虫”などどこにもいない」という考えから出発する必要があるだろう。
第1章・自然農法とは何か(6)
第3節 自然農法の実際
以上、自然農法の四大原則を見てきたわけだが、結局それがばらばらな四原則ではなくひとつの原理から導き出されているということが理解できるのではないだろうか。
そしてこれまで“自然回帰”の農業として捉えられてきた有機農業というものが、必ずしも“自然回帰”だとは言えないことについても、筆者なりの見解を述べてみた。この節では実際の自然農法の農作業を追っていくことで、それらの問題についての検証を重ねていきたいと思う。
第1章・自然農法とは何か(7)
以上で自然農法の米麦作の実際について、一通り追うことが出来たわけだが、福岡氏の“自然農園”ではその他に野菜と果樹の栽培も行われている。
野菜の栽培に関しては、やはり不耕起、無肥料、無除草、無農薬がその原則であり、加えて重要となるのは、「多種多様の植物を混生せしめるとともに、肥沃な土が自然に出来て、地中微生物の繁殖がうながされるような輪作をすること」(註13−1・傍線部は筆者)であるという。そしてこれは野菜のみの輪作というより、結局自然農園全体の輪作として機能するものであるだろう。ここでは個々の野菜の栽培方法についてはキリがないので割愛し、この輪作体系の意味について若干触れるにとどめよう。
第1章・自然農法とは何か(7)
最後に、果樹栽培についても言及しておこう。基本的にはこれまでと同様の原則に基づいているわけだが、「無除草」のところで触れた「草生栽培」の方法に加えて、ここでは栽培方法として米麦や野菜と異なる面について多少触れてみようと思う。
果樹栽培の場合、原則の数と呼び名は若干変化し、無剪定、無肥料、無農薬がその基本となる。「無剪定」という原則がここで初めて登場するわけだが、もちろん、ここでもただ剪定しなければいいという話にはならないわけである。福岡氏はただ剪定しないというだけでは、それは「放任」に過ぎないと言っている。
第1章・自然農法とは何か(8)
このように“人為”や“人智”というものを否定していく福岡氏の農法は、一瞥すると仙人まがいの厭世思想ではないかと思われやすい。しかしこれまで見てきたような自然農法の実績を踏まえるならば、そのような“人為”や“人智”は、結局、農業にとって絶対のものではなかったと言えるのではないだろうか。少なくとも、“自然回帰”の農法にとっては、それまで“人為”や“人智”で占められてきた比重を、いかに自然の働きに向けていくことが出来るか、という姿勢が肝要になってくることだろう。
もちろん根源的には、自然農法に限らず、農業とは“人為”や“人智”によって営まれているものであるだろう。それ自体は人間が生きていく上での当たり前の行いだと言えるはずである。だから逆の言い方をするなら、ここで問題となってくるのは、その“人為”や“人智”を絶対視するのではなく、本当に必要な“人為”や“人智”とは何か、という試行錯誤にあると言えることだろう。それがエコロジーの法則性を踏まえた“自然回帰”の方向性ということになってくるのではないだろうか。
第2章・“自然回帰”と現代社会(1)
第1節・自然農法の方向性
これまで自然農法について、基本となる原則と、実際に行っている栽培法の両面から見てきたわけだが、この節ではさらにそれらを補う形で、まず、自然農法の「効率」について具体的に論じてみたい。前節でも記した通り、自然農法の最大の特徴はエコロジカルな点だけではなく、「楽」なことにあると言うことが出来るだろう。
「普通行われている農業技術を一つ一つ否定していく。一つ一つ削っていって、本当にやらなきゃならないものは、どれだけか、という方向でやっていけば、百姓も楽になるだろうと、楽農、惰農を目ざしてきました。」
(註15−1・傍線部は筆者)
この「楽農」、「惰農」について、数値から検証してみようと言うわけである。
第2章・“自然回帰”と現代社会(2)
このように見ていくと、自然農法にとって一番重要となるものは、突き詰めていくなら“この世の中をどう見ているか”ということにもなってくることだろう。なにしろエコロジーという概念も、結局はひとつの物の見方に過ぎないはずである。また、これまで検討してきたエコロジーの法則の普遍性にしても、それによって他の考え方を否定できるというものではないだろう。
第2章・“自然回帰”と現代社会(3)
さて、話を自然農法に戻すが、前章で検討してきたような四原則だとか、栽培方法だとかをその通りに満たしている農法は、厳密に言えば、福岡氏の農法だけであるだろう。
しかし“自然回帰”の農法という尺度で、自然農法をも包括的に捉えていくならば、そこにはこれまでの農法の分類に代わる、ひとつの明快な位置づけが可能になってくるのではないだろうか。問題は“自然回帰”という方向性の有無や、その度合いにかかっていると言えるわけであり、福岡氏の自然農法はそれを計る上でのひとつの指標のようなものだと言えるわけである。
第2章・“自然回帰”と現代社会(4)
第2節・自然農法とエコロジーの世界観
これまで“自然回帰”というコトバをキーワードに、エコロジーや自然農法について検証してきたが、ここでは、自然農法を可能なものにしたエコロジー的な世界観について、少し整理していってみたいと思う。
福岡氏は「自然農法の結論は、始めから出ているのであるが、それが具体化されるまでの道のりは遠かった」(註10−5)と回想している。しかし、これは無理のない話だと言えるだろう。なぜなら、福岡氏が生まれるずっと以前(!)、この世の始まりからエコロジーの法則は働いていたわけであって、その法則を知ればそれでいいというわけではないからである。
第2章・“自然回帰”と現代社会(5)
ただ、福岡氏の「何もしない運動」には、問題がないというわけではない。これまでの内容を踏まえていくなら、この「何もしない運動」といういわくありげなコトバは、それほど高等な(?)理論ではなく、ずいぶんと当たり前の、それゆえに難しい問題提起だからである。
しかし福岡氏は、こうした「何もしない運動」を展開させていながら、それと平行する形で、「国民皆農論」を提唱するのである。
終章〜あとがきに代えて
エコロジーとは、この世の中には、有機的な相互関係が存在していると教えてくれる学問であるだろう。
この世の中は全て、原因と結果の重なり合いで成り立っている。そういう意味では、全てがひとつの考え方で解き明かされると考えなければ嘘になるはずである。
筆者はその“全て”ということを出発点にして本論を展開してきた。この際、エコロジーというものを全面的に信用しよう。完全に信用するか、全く信用しないかのどちらかである。全面的に信用するなら、それはひとつの計算式のように、自分がまだこの現実の中で確認していないことまで導いてくれるはずである。……